第5話 久しぶりのイロハ
がたん——私の意識が戻ったのは、お尻に衝撃が走ったからだった。
鈍い痛みが背中からお尻へと伝わり、奥歯を噛みしめる。
何が起こったのか。目を開けると、見慣れた白い床が見えた。
そこにすらりとした細い足がまるで天使の梯子のようにまっすぐ立っていた。
白くて細い足。私はこの足の持ち主を良く知っている。
「立夏、大丈夫?」
慌てたような声が頭上から降ってくる。
見上げる前に私の前にイロハがしゃがみ込み、心配そうにこちらをのぞき込む。
色素の薄い茶色い瞳と目が遭った。緩やかなカーブを描く眉毛は心配そうに八の字になっている。
大きなウェーブを描くブリーチされた髪の毛は綺麗にセットされていて、収録の準備は万全だろう。
「っう~……大丈夫」
私は反射的にそう言った。
イロハの前で転ぶなんて恥ずかしい。それを誤魔化すように、お尻を軽く擦りながら立ち上がる。地味に痛い。
イロハの手を取りゆっくりと立ち上がる。お尻以外痛い所はなかった。
「珍しいね、立夏が転ぶなんて」
ぽんぽんと服の汚れを払ってくれる。
年下の彼女にお世話されることに少しの恥ずかしさと、嬉しさがこみ上げる。
私はイロハの言葉に少しだけ唇を突き出した。
「転んだというか、突き飛ばされたから」
「え?」
イロハの表情が一瞬、固まる。
そう私は突き飛ばされたのだ。イロハを襲ったかもしれない男を追いかけてホームから突き落とされた。
と、目の前で丸い瞳をさらに大きくさせたイロハが真剣な顔でこちらを見つめていた。
大抵、明るくノリの良い彼女が珍しい。
そう思ってから気づく——イロハがここにいることに。
「え? イロハ……?」
声が震える。
当たり前だったから、気づかなかった。そう思えるほど、私とイロハは朝ドラからずっと一緒の時間を過ごしていた。
ほぼ毎日、一緒に仕事をしていたし、たまの休みも一緒に過ごしていたから。
でもこの空間は、もう私の下からなくなってしまったはずのものだった。
私は呆然とイロハの姿を足元から頭のてっぺんまで何度も確認した。
「イロハだよ。本当に大丈夫? 仕事多くなってきて、疲れてるんじゃない?」
イロハはいつも通りの笑顔を見せながら、心配そうに私の顔を覗き込んでくる。
そして、私の額や頬、さらには肩や腰まで怪我がないか慎重に確認する母親のようにペタペタと触れた。それは彼女が昔から私を気遣うときにする癖だ。
少し温かい手のひら。 柔らかい指先。
その触れ方が妙に懐かしく、胸の内に温かさが広がってーー容量を溢れたように一気に苦くなる
(本当に……イロハがいる……?)
私は電車に引かれてあの世に来てしまったのか。
都合の良い夢を見ているのか。それとも——様々な可能性に頭がパンクしそうになる。
夢じゃないのか?
でも、この感触も、温度も、間違いなくイロハのもので、私がそれを間違えるわけがない。
夢でもいい、そう思い始める自分を押しとどめて、イロハに尋ねた。
「……ああ、うん……えっと、今日何日だっけ?」
イロハに手を握られ、彼女の手の暖かさと柔らかさが伝わってくる。
感触があるし、痛みもある。どうやら夢ではないのだけれど、なら、これはなに?
今がいつなのか、わからない。
今がいつで、事件の前なのか、恋人になってからなのか、知りたくて仕方がなかった。
「今日は六月二十八だよ。昨日、誕生日お祝いしたじゃん」
昨日が誕生日――六月二十八日は私の誕生日だ。
映画の主演も決まり、イロハに盛大にお祝いをしてもらった。
すごく喜んでくれて特別な時間を過ごせたのだけれど。今の私にとってはあの事件が起こる少し前という方が大切だった。
「あー、うん。そうだったね」
私は曖昧に頷くしかできない。ばくん、ばくんと心臓の鼓動が強くなり、手を繋いでいるイロハにまで伝わるのではないかと思った。
理由なんてわからない。なんでこんな状況なのかもわからない。だけど一つだけ確信した。
イロハが生きている時間に私は戻っている。
(そんなこと、ありえる?)
そういうドラマも流行った。死んで人生をやり直す内容だ。
見る分には楽しかったけれど、自分がその状況になるなんて微塵も思っていない。
なぜ? どうして? 頭の中を疑問詞ばかりがめぐっている。
でも、正直に言えば、そんなことはどうでもよかった。
今、この目の前にイロハがいる。生きて、呼吸をして、いつもみたいに柔らかく笑って、私を心配してくれている。
それだけで。感情が涙に代わり、勝手に溢れてきていた。
「ちょ、ちょ、ちょっと、立夏、泣かないでぇ。どうしたの? 忙しすぎて疲れた? でも大丈夫、イロハはいつでも立夏の味方だよ」
イロハが慌てたように手をバタバタさせながら、手を繋いでいない方の手で私の涙を拭ってくれる。だけど、とめどなく流れ続ける涙は、彼女の指先をぐっしょり濡らしても止まらなかった。
衣装で拭くわけにもいかず、ハンカチを取りに行こうとするイロハの手を私は引っ張った。
「ごめん。少しだけ、ぎゅってさせて」
「うん、いいよ。好きなだけどうぞ」
イロハは私の言葉に何の疑問も抱かず、ただ両腕を広げた。
私はその温もりに飛び込むように抱きしめる。少しだけ、私より低い背。首元に顔を埋めるように 押し当てた。
ふわりとキャンディーのような甘い匂いが広がる。
肌の下に熱い血が流れている。
その感触に、少しずつ、実感が私の身体を満たし始める。
(生きてる、イロハ)
甘い香りは私が送ったシャンプーの匂い。
心配になるほど細い体なのに、ちゃんと柔らかくて温かい。ああそうだ、彼女はスタイルも抜群で、少し悔しいくらいだった。
柔らかい髪が顔にかかり、くすぐったい。
抱きしめるたびに、彼女がここにいることを実感する。
「落ち着いた?」
イロハが優しく背中をポンポンと叩いてくる。優しい声音に私はますます泣きそうになるのを堪えた。
イロハの身体を話し、目元を手首で拭う。きっとメイクはし直さなきゃならない。
「ありがとう。ごめん、突然泣いちゃって」
イロハは静かに首を横に振ると、にっこりと唇を綺麗な弧の形にする。
だけど、私の肩を擦る手はまだ心配を伝えて来ていた。
「びっくりしたよ~。立夏が泣くなんて、食べすぎてお腹が痛いのかと思った」
「流石にそこまで馬鹿食いしてないわよ」
「だよねぇ。あの後も何か食べてたら、びっくりだわ」
食べるのが苦手な彼女と、食べるのが大好きな私。
昨日の誕生日は私にあわせた量だったから、イロハはひいひい言いながら食べていた。
ちょっと手伝ってあげたのは言うまでもない。
さすがに、あの後に何かを食べる余裕はないし、家に帰ってすぐ寝たのは彼女も知っていることなのに。
私は唇を尖らせた。イロハはいつもの調子で明るく笑いながら冗談を言う。
それが心地よくて、私は久しぶりに心の底から頬を緩めた。
「で、お腹が痛くないならどうしたの?」
「あー……」
目を細めるイロハ。真剣な表情の彼女は、思ったよりハンサムだとイロハは自覚しているのだろうか。
今更ながら恋人の顔の良さを実感しつつ、私は少しだけ表情を引き締める。
どうする? 今言うべきか?
だけど、今、聞かないともう二度と聞けないかもしれない。
私は腹を決めた。
「ねぇ、イロハ。ストーカーされている覚えはない?」
イロハにしてみれば、突然の方向転換。聞かれたイロハがぽかんと口を開く。
「急にどうしたの?」
「うん、ちょっと気になることがあって」
イロハが困惑したまま、私をじっと見つめる。
その表情すらも懐かしくて、そして、もう何一つ見逃したくなくて、私はイロハから視線を外せずにいた。
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