恋と愛

 新任教師には初任者研修の一環として授業を診られる機会がある。

 この日、光莉のそれは自分のクラスで行われ、教室後方には管理職や同じ英語科の教師が授業参観の保護者さながら横一列に並んでいる。

 教頭からは普段通りに行ってくださいと言われたが、額面通りに受け取ってはならない。

 普段通り教育者たる授業を行ってください、が正解だ。

 光莉は、生徒には不自然と思われない程度に、普段よりは教育者っぽく授業を行うことに決めていた。

「この英文を……里美さとみ、日本語に訳してもらえる?」

 スクリーンに投影した英文を指して生徒を指名。

 今は生徒にさん付けをする時代だが、そんなことは知ったことではない、と光莉らしく、だがいつもより丁寧に振る舞う。

 もともと教科担当クラスではあったので、むしろ授業の方が慣れているし、人に見られることは前の職業柄慣れている。

 だが、今日は多少のやりにくさを感じている。

 理由その1.澄が参観……というより凝視、というよりガン見してくる。

 この時間、彼女は自分の授業がなく、光莉の一挙手一投足に目を凝らしている。

 今朝の学年主任と澄の会話はこんな感じだ。

「いやぁ、国語の先生なのに狭間先生の授業を診るなんて、水元先生は教師の鏡だ」

「そんなそんな。私自身学べることもありますので一石二鳥です」

「うんうん。指導係を頼んで本当に良かった。これからも彼のことを頼むよ」

「はい! 一生そばに……ハッ!? 一生懸命頑張ります!」

 本音ダダ漏れだ。

 少しでも彼を見ていたいという願望からすれば、一石二鳥ではなく公私混同なのでは。

 まぁ、彼女がいるのは不自然ではない、もう一人に比べれば。

 理由その2.美吹というこの場ににつかわしくない人物がいる。

 ふらっと立ち寄った風に入室すると、人気者の美吹が和やかな顔をして訪れたことに生徒からは黄色い声が上がり、その表情が残虐クルーエルに満ちた笑みにしか映らない光莉の心には黄色信号が灯った。

 当てられた生徒はうーんと唸りながらも答える。

「この文の和訳は……そういうわけで、その瞬間、彼女は心にあるもやもやとしたものが恋心だと気づいたのです。やがてそれは恋愛関係、そして結婚へと発展します……かな」

「複雑な文構造だけど、よくできたな」

 全員で拍手をすると、野球部でキャッチャーを務め、チームでもクラスでもムードメーカーの里美は、貴族気取りで惜しみなく手を振る。

「英語は得意じゃないんだけど、なんとなくできた!」

「よーし、みんなわからないことがあったら里美に聞け。ただし英語以外な」 

 称賛の拍手が笑いの拍手へと変わる。

「はーい。里美センセー」

「なんだい、なえクン?」

 すると、里美の横に座る香苗という生徒がここぞとばかしに尋ねる。

 彼女はピッチャーであり、二人は相性抜群のバッテリーである。

「じゃあ、私のもやもやした恋心はどうすればいい? もう諦めた方がいいのかなぁ」

「あーそれね。う~ん……」

 里美は授業そっちのけで唸っている。

「香苗」

 毅然とした態度でピシャリと制する光莉。そう。今は授業診断中なのだ。

「なに、ひーくん?」

「やめておけ」

「あぁ、ごめんなさい。今は授業中でしたね」

「いや、そんなのはどうでもいい」

「どうでもいいんだ!? じゃあ、自分の想いは自分で決めた方がいい的な?」

「違う。悩んだら誰かに頼るのはありだ。だが落ち着け」

「?」

「里美だぞ? くれるアドバイスもなんとなくだからな」

 教室中がドッと沸く。

 キャッキャヒーヒーと笑いに包まれる中、美吹が香苗に忍び寄り彼女の耳元に何か囁く。

 香苗は目をパチクリさせて美吹とサムズアップし合う。

「はい! ひーくん、質問!」

「ん? なんだ香苗?」

「その英文についてなんだけど」

 光莉は本題に戻れて安堵する。

 多くの教師が視察に来ているのだ。

 規律の塊である教頭などさっきから眉をピクピクと震わせている。

(うわやっべえ! ついいつものノリで喋っちまった! すぐに汚名返上しないと。この英文からの質問だと関係詞か英文の構造。あるいは、分詞を用いての言い換えか?)

 と予測するが、当てというのは外れるもの。


「恋と愛の違いって、なに?」


「「「「うおー!」」」」「聞きたい聞きたい!」「「光莉! 光莉!」」

 懐に渾身のストレートを投げるような問いに、今日一番の歓喜が上がる。

 光莉は生徒に合わせて笑ったが、

(そっちかよ!)

 心の中でツッコミを入れる。

(で、どうする? 昔バイト先で聞いた話だ、と例を連ねて誤魔化すか。え~っと……

 ある客は恋を選んで店通いを止め、ある客は恋に溺れてなけなしの金を貢ぎ続けた。

 ある客は愛を選んで帰郷するも、その隣の客は愛に溺れて国籍までも奪われた。

……って、どれもヘビーすぎるだろ! 今宵こよいの相手……いや、太陽が燦燦と照らすこんひる、答えを求めているのは、水をも弾く肌をした純粋無垢な少女たちだぞ)

「う~ん……」

(ここまで注目されたら軽率な発言が偏った恋愛観を抱くきっかけになってしまうかも。……よし。解なしが正解。ここはスルーだ。適当にあしらって次の英文に移ろう)

 それでいいよね? と、澄に同意を求める視線を向けたが、それがいけなかった。

 澄は前のめりになっている。

 心が体にも表れ、スキージャンプの選手ばりに前傾している。

 発言の一字一句を逃すまいと、なんなら生徒を差し置いて一番目を輝かせている。

 今度は美吹を見るが、好奇に満ちた目を向け「早くしろ」と顎をクイッとさせる。

(お前だろ香苗に仕向けたのは! ったくもう……。まぁ、いっか。教科書に載っていないことを伝えるのも教師オレの役目! ……教頭に呼び出されるだろうなぁ)

 光莉は内心深い溜息を吐きながら、教科書をパンと閉じて教卓に置いた。

「答えは本当に人それぞれさ。絶対的な正解はない。ただ、俺的には――」

(教室が静まるのは期待されているから。いや、違う。そんなの思い上がりだ。笑いに変えて授業時間を減らしたいだけ。他人の人生などその程度の関心だ)

 目を閉じて気持ちを静める。だが、すぐ心に火を灯す。

(それでもいい。なんの捻りもない素の気持ちを伝えよう。その方が自分自身スッキリするし、誰かの心の琴線に触れることもある。それと、一つ確かめられることもある)

 さらに注目を引くために、おもむろにネクタイを外し、教室にいる全生徒を見た。


「恋はしてしまうもので、愛はしていくものだ」


 光莉として恋愛をし、影斗として夜の世界を生きて導いた持論を確言する。

 珍しく真顔で語ったせいだろう。狭い教室はどよめきと歓喜に溢れた。

 盛況のあまり、生徒たちは光莉の言葉を反芻したり、各々の恋話を始めたりする。

 無反応でなくて良かったとひとまず安心するが、このままだと中途半端に伝わってしまう。

 辿り着いた言葉の真意を他者の想像に任せたくはなかった。 

「ちょっといいか。なぜ俺がそう思うのか、補足をさせてくれ」

 すると、意外なことに指揮者がタクを上げたみたいに一瞬で声が止んだ。

「それには論証するのが一番。里美」

「はい!」 

 いつ呼ばれても部活仕込みの機敏さで起立する里美。

「今、付き合っている人はい――」

「ません!」

 かぶせるほどの即答にみんなが笑う。

 里美の反応、話に付き合ってくれる人柄の良さ、また彼女の恋心も想定内。

 光莉はゆっくりと里美に近づき、瞳を覗き込む。

「じゃあ、好きな人は?」

「ふぇ!?」

 心を裸にされるように見つめられた里美は、たちまち顔を紅潮させる。

「いいかみんな。これが恋だ。しちゃっているのだから」

「「「「おおーっ!」」」」

「里美。もう少し話を聞かせてもらっていいか?」

「は、はひい」

 影斗モードになっている光莉を前に、すっかり可憐な乙女になってしまった。

「その人のどういうところが好きなんだ?」

「ええっと……イケメンだし、優しいし」

「えぇー」「ないわー」

「お前らこそセンスないし! まぁ、凡人にはわかんないかなぁ、崇高なるこの気持ち」

 里美は近隣の苦情に猛反発。両手まで広げて上から目線だ。

「それはどんな気持ちなんだ?」

「そばにいられるとめっちゃドキドキするんです。ここら辺が熱くなるというか」

「「「「ひゅーひゅー」」」」

 左胸に手を当てて顔を赤めている里美に全員が注目する。

 いや、例外が一名。

 里美の言葉に、ここら辺? それともここら辺? 左胸にあるらしきその場所を、聴診器を当てるように両手で探す某指導係、もとい大人乙女がいた。

「里美ぃ、どのくらい好きなん、その人のこと?」

 離れた席から野次っぽく尋ねる生徒に対して、里美はピンと人差し指を立てる。

「世界で一番、私が彼のことを好き!」

 ドコドコドコドコ! 

 生徒たちが地響きのように机を叩く。

 今は授業中、それも教師がごまんといるのだが。

「さっさと告っちゃえば?」「そーだそーだ」

「いや、できないし!」

「どうして?」「チキかよ」

「言うほど簡単じゃないから! タイミングって大事だし。それに、ほら……失敗したらどうしようとか考えると。今のままの方が幸せかもしれないし」

「じゃあ、私、っちゃおっかなー」

「ッ! ざけんな!」

 収拾がつかなくなり始めたところで、光莉はパンパンと手を叩く。

「情熱や嫉妬も恋。しちゃうものなんだ。サンキュー里美。君の恋に幸あれ!」

 光莉が大仰に両手を仰ぐと拍手が湧き、里美は照れながら着席する。

「じゃあ次。この中で恋人との付き合いが一番長いのは?」

 生徒たちはキョロキョロざわざわするが、すぐに一人の生徒に視線が集中する。「私なの?」と自分を指さしながら、彼女は構わないけどといった風に起立した。

由香ゆか

「はーい」

「みんながお前を見ているが、恋人と付き合ってどのくらい経つんだ?」

「えっとぉ……五年?」

「マジ!?」「小六から?」「犯罪?」「セーフっしょ」「あとは若い者に任せて的な」

 わいわいがやがやと井戸端会議を始める生徒たち。

「ぶしつけな質問で悪いんだが、うまくいかないときもあったか?」

「全然あります。口喧嘩も別れ話もしょっちゅう。ぶっちゃけ殴り合ったこともあるし」

「すっげえ」「ドラマみたいだ」「やべえ、ここに女優がいる!」「あるいは異世界人か」

 感嘆をそのまま口にする。生徒たちは言いたい放題だ。 

「じゃあ、どうやって乗り越えて来たんだ?」

「色々です。冷静に話し合ったり感情をぶつけ合ったり。距離を置いたことも。まぁ好きで争うわけじゃないし、そういうときは余裕もないし。けど、仲直りした後って快感♡」

「うおー!」「フェロモン半端ねえ!」「やべえ、ここに神がいる!」「女神エロス降臨!」

 腰をくねらせて決めポーズする由香に、生徒とその他一名が女神にひれ伏した。

「由香の恋は幾つもの困難を乗り越えてきた。これを愛だと思わないか?」

「「「「たしかに!」」」」

「サンキュー、由香。俺も学ばせてもらったよ。末永くお幸せに!」

 里美と同様、今度は由香が拍手に包まれて着席する。

「二人には男性への恋愛感情を話してもらったけど、対象は人に限らない。例えば、ペットを飼っている人は、飼いたいと思ったときは恋、飼い始めてからの意志は愛。宝物や趣味だってそう。興味を抱いたとき、好きだけど苦労するとき、恋愛に通ずるものがある」

 まだ人に恋愛をしたことがなくイメージが湧かなかった生徒数名が、真剣な眼差しでうんうんと頷く。光莉は持論を述べながらも、そんな生徒一人一人の様子を見逃さない。

「対象が誰であっても何であっても、何度も失敗するさ、恋も愛も。だけど、いやだからこそ、恋愛したらちゃんと自分と、そして同じくらい相手と向き合って欲しい」

「「「「おおー!」」」」

(指導計画からは逸脱してしまったが、ま、いいか。教師の反応は賛否両論だけど)

「さて、と。授業に戻るとす――」

「ひーくん、マジ感動した! ところで、金言の根拠はどんな実体験からきたの?」

 すかさずハイテンションで尋ねる別の生徒。

 直前に白衣を着た悪魔が悪知恵を吹き込んでいたのを光莉は目にしているが、またも余計なことをと舌を鳴らす。

 憶測が飛び交いギャーギャーと収拾がつかなくなる……と思いきや、

「シーッ。授業中は静かにしないと」「今日の授業の一番のポイント来るよ!」

 と静粛が保たれる。

(な、なんだこのチームワークは!?)

 これには光莉も呆気にとられてしまう。

「それは――」

 一致団結してその先を待つ生徒たちと約一名。

「それは、えっと――」

 キーンコーンカーンコーン♪

 終業のチャイムは、光莉には救いのゴングに聞こえたらしい。

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