第2話 タイムマシンとロボット開発問題

 そんなK市に湖畔にできたのが、

「山岸研究所」

 というところであった。

 そもそも、この研究所は、別の場所にあった。

 昭和の時代までは、昔の、

「サナトリウム」

 を利用していた。

 この山岸研究所というところは、H大学に所属している理学系の学部の、

「一機関」

 ということであった。

 元々は、戦前の頃には、

「物理学関係」

 の研究をしていたのだが、そこから、戦後のこんらを乗り越えた後は、

「心理学の研究」

 というものをしていた。

 これは、

「戦前の研究というのが、兵器であったり、人体実験に近いようなことをしていて、それを占領軍に悟らせないようにするため、あえて、証拠隠滅というものを、大々的に行わなかった」

 ということである。

 逆にいえば、

「証拠隠滅を図る方が、露呈する可能性が高い」

 というほど、資料も実験に携わる人も少なかったということで、

「無理に隠さない方がいいかも知れない」

 となったのだ。

 実際に、最初から資料は暗号化されていて、

「その資料を隠滅するということは、帰って目立つ」

 と考えられたのだ。

 だから、隠滅するよりも、

「新しい研究への転用」

 とする方が、

「うまくカモフラージュできる」

 と考えた。

 しかも、

「そのカモフラージュが、今後の研究所の在り方」

 ということにかかわってくるということで、

「歯車がうまくかみ合っている」

 と考えられた。

「では、どういう研究に特化すればいいのか?」

 ということで考えられた中で、

「精神医学などというのは、どうだろう?」

 ということであった。

「兵器開発」

 ということに特化した戦前の研究の中で、当時は、

「普通ならありえない」

 と言われた研究も行っていた。

 それが、

「ロボット開発」

 というものであり、その中でも、

「人工知能」

 というものを考えていたのであった。

 人工知能というものが、世紀末である今の時代になってくると、

「戦後20年くらいにいわれていた、近未来ということであれば、ちょうど、半世紀先くらいになると、新しい世界ができている」

 という、

「未来予想図」

 というものがあった。

 その時には、

「車は空を飛んでいる」

「タイムマシンや、ロボットも開発されている」

 というものであった。

 ただ、

「ロボット開発」

 であったり、

「タイムマシン」

 というものに関しては、長年の大きな問題があることから、

「一筋縄にはいかない」

 ということであった。

 もっと言えば。

「車が空を飛んでいる」

 ということは、そこまで問題視されてはいないが、よくよく考えてみると、

「それだけでも、問題が山積している」

 と言ってもいい。

「まったく道がないところを、まるで道のように取り扱うのだから、今でいう、道路子通報を考えた中で、いかに、空中の道路を運用するか?」

 ということだけでも大変なのだ。

 それだけでも、

「何十年もの計画が必要だ」

 ということなのに、

「ロボット開発」

「タイムマシン」

 などという大きな問題があるということを考えると、

「半世紀ごときでできるはずがない」

 と思えるだろう。

 確かに、今の時代というのは、

「ある種の一点に関していえば、その開発には、特記するに値する発展がある」

 ということであろう。

 例えば、

「コンピュータ関係においては、その発展性は相当なものである」

 と言ってもいい。

「昭和の頃までは、パソコンなるものもなく、大型コンピュータを、専門の人間が操ることしかできなかったではないか」

 今の時代であれば、

「会社の社員の机の上に一台あるのが当たり前」

 と呼ばれる時代になっている。

 しかも、昔は、プリンターに文字が印字されるというわけではなく、

「点字」

 のような、紙テープが出てくることで、その穴の開き方で、何が書いてあるのかということを暗号解読しなければいけない時代だった。

 電話にしても、黒電話のようなものがあるだけで、有線電話だった。

 今のように、携帯電話が普及して、

「どこからでも電話が掛けれる」

 という時代になるというのは、半世紀前では、それこそ、

「未来予想図」

 というものの中の、

「一つの形だ」

 といえるだろう。

 パソコンにしても、携帯電話にしても、

「科学の発展に、妨げがなかった」

 ということになるのであろうか?

 そういう意味では、

「タイムマシン」

 あるいは、

「ロボット開発」

 というのは、

「科学の発展だけではなく、何か他に大きな問題をはらんでいる」

 ということになるのであろう。

 タイムマシンの問題としては、一番大きな問題は、

「タイムパラドックス」

 という問題である。

 いわゆる、

「過去を変えてしまうと、未来が変わってしまう」

 ということであった。

 しかも、過去において、未来を変えるということは、それを元に戻そうとするならば、

「未来を変えたその瞬間に戻らないといけない」

 ということになる。

「少しでも変わってから時間が経ってしまうと、変わった時点からの未来にしかならない」

 ということである。

 もう一つの問題は、

「その瞬間がいつなのかということを分からないということは、その検証もできないのではないか?」

 ということであった。

 つまり、

「未来が変わったのかどうかということは、過去に行ってから、現在、つまり、過去から見ての未来に戻った時、変わってしまった」

 と感じることで分かるというものであった。

 変わった瞬間から、まるで末広がりのように広がった、無限の可能性の中の、

「別の可能性が開けた」

 ということだからである。

 だが、それは、

「過去に行った人間が、過去を変えたことで未来が変わった」

 ということになるわけだが、もし、過去に戻った人間が、何らかの理由で、

「未来」

 つまりは、

「住んでいた時代」

 に戻れなかったとすれば、

「未来が変わってしまった」

 ということを誰が分かるというのだろう。

 つまり、

「過去が変わってしまった」

 ということで、

「未来が変わった」

 としても、

「それが本当に悪いことだ」

 といえるのだろうか?

 過去に戻って、そこから時系列で未来に向かっているということであれば、それは、

「その人だけが、過去に戻った」

 ということであり、その人にとっては、

「過去に戻った」

 というのが

「一つのイベントだ」

 というだけのことで、

「過去にいても、それは未来でしかない」

 といえるのではないだろうか?

 ただ、その場合には、

「もう一人の自分」

 というのが、

「同一次元の同一時間に存在している」

 ということで、いわゆる、

「ドッペルゲンガー」

 というものの存在をいかに理解するか?

 ということではないかと思うのだった。

 だが、それも、あくまでも、

「タイムパラドックス」

 というものは問題だ

 ということになるからであり、

「タイムパラドックスというものが問題ない」

 と考えるのであれば、

「ドッペルゲンガーの存在というのも、ありではないか?」

 といえるであろう。

 ただ、そうなると、

「ドッペルゲンガーというものを見ると、近い将来死んでしまう」

 という都市伝説があるわけで、その理由として考えられる一つが、

「タイムパラドックスが起こるからだ」

 と言われている。

 つまり、

「タイムパラドックス」

 というものは、

「ドッペルゲンガーというものの存在を裏付けるためには必要な考え方である」

 ということになるわけで、その問題を解決できなければ、

「タイムパラドックスの存在を否定できない」

 ということになり、結局は、

「タイムパラドックスが引き起こす堂々巡りが、さらなるパラドックスを生む」

 ということで、それこそ、

「合わせ鏡」

 という発想であったり、

「マトリョシカ人形」

 のような発想に結びつくということであろう。

 合わせ鏡というのは、

「自分の前後に鏡を置くことで、その鏡面に映っている自分が、小さくはなっていきながら。永遠に続いているものだ」

 ということである。

 これは、

「絶対にゼロになるということはない」

 ということで、

「限りなくゼロに近い」

 という無限を表しているということになるのだ。

 その理論が、

「限りない繰り返し」

 ということであり、それこそが、

「パラドックス」

 というものになるのであろう。

 実際には、このような

「発想の最初」

 ということで、

「タイムパラドックスというものは、簡単に解釈できる」

 という発想ができるのだが、それをしてしまうと、

「ドッペルゲンガーというものの説明がつかない」

 ということになるのだ。

 そうなると、

「ドッペルゲンガーというものが、近い将来に死んでしまう」

 という都市伝説を解決させるのに、

「タイムパラドックスというものが、パラレルワールドだ」

 という解釈でなければ、辻褄が合わないということになり、

「それぞれに、解釈できない」

 ということになるであろう。

 それを考えると、

「一つの面に線を引っ張って、それを半回転捩じることで、交わることがない」

 という理屈の下に作られたものが、

「描いた線が交わる」

 という、

「理論上不可能なことが可能になる」

 という、

「メビウスの輪」

 というものに結局は結びついてくる。

 つまり、

「堂々巡りが必ず、同じ場所に戻ってくるとは限らない」

 ということが、

「タイムパラドックスを形成している」

 といえるであろう。

 また、

「ロボット開発」

 というものにおいても、

「ロボット工学三原則」

 というもの、そして、

「フレーム問題」

 というものによって、

「ロボット開発は不可能ではないか?」

 と言われるのであった。

「ロボット工学三原則」

 というのは、

 ロボット開発においての問題で、

「実際に出来上がったロボット」

 というものの、操作というのが問題であった。

 というのは、

「フランケンシュタイン症候群」

 と呼ばれる問題であり、

「理想の人間を作ろうとして、怪物を作ってしまった」

 という、

「フランケンシュタイン」

 というSF小説というものが問題となったのだ。

「元々から人間に逆らわないようにする」

 という観点からのものであるが、他にも大きな問題を含んでいるのだが、その一つが、

「外見で判断してもいいのだろうか?」

 という問題も孕んでいるのだ。

 確かに、

「人間というものがあ一番高等な動物だ」

 という発想から、

「自分の民族が優秀である」

 という発想になり、さらに、

「自分たちの地域の人間が一番偉い」

 というように、どんどん範囲が狭くなることで、

「差別」

 であったり、

「身分制度」

 などという問題が出てくる。

 そういう意味では、

「ロボットというのは、人間が作り出すものだから、身分は人間以上であってはならない」

 ということになるのであろうが、

「ロボットには、人間にはできないことをやらせる」

 ということで、

「強靭な力」

 というものが宿っているということで、

「理性」

 というものがなければ、ロボットが自分の勝手な判断で、

「人間を支配しよう」

 と考えないとも限らないという発想である。

 そうなってしまうと、

「ミイラ取りがミイラになってしまう」

 ということで、

「人類にとって、いかに危険であるか?」

 ということになるのだ。

 そこで、肝心なことは、

「人間というものが、か弱いものだ」

 ということからの出発点である。

「人間は、力というものがない分、頭脳で生き残ってきた」

 と言ってもいいだろう。

 だから、

「人間が自分たちにできないことをロボットにやらせる」

 という発想から、

「ロボット」

 という発想が出てきたのだ。

 これは、

「あくまでも、動かすのは、人工知能」

 ということで、

「ロボットというのは、人間ではない」

 という発想であった。

 しかし、この、

「フランケンシュタイン症候群」

 という問題を解決しようと考えるのであれば、

「ロボット工学三原則」

 と言われる発想。

 つまり、

「ロボットは人間を傷つけてはいけない」

 であったり、

「ロボットは人間の命令に従わなければいけない」

 であったり、

「ロボットは、自分の身は自分で守らなければいけない」

 ということの三原則を組み込む必要がある。

 しかも、この三原則には、厳格な、

「優先順位が存在する」

 ということで、

「前述の順番が、そのまま、優先順位になる」

 ということであった。

 また、

「このロボット工学三原則」

 という考えは、そもそもが、

「SF小説家によって作られた発想」

 ということである。

「自分の小説のネタ」

 ということで作られたのだ。

 あくまでも、

「科学者によって提唱されたもの」

 ということではないが、提唱されてからかなりの時間が経っているにも関わらず、今でも、

「有名大学の研究所」

 では、

「バイブルのように扱われている」

 ということであった。

 ただ、いくら

「ロボット工学三原則」

 というものがある程度確立されたとしても、

「どこまでが安心なのか?」

 ということになると、大きな問題だといえるだろう。

 そんな問題を解決することとして、

「なぜ、誰もこのことに触れないのか?」

 という、解決方法がある。

 それが、

「サイボーグ」

 つまりは、

「人造人間」

 という考え方である。

 というのは、

「人間の脳を、ロボットに移植する」

 という考え方である。

 パッと考えたところでは、

「倫理的な問題」

 ということである。

「命あるものを、いくら脳だけとはいえ、ロボットに移植するというのは、神をも恐れぬ暴挙」

 ということになるだろう。

「輸血ですら許さない」

 という宗教があったり、

「自殺を許さない」

 という戒律がある宗教もあるくらいなので、

「人間が宗教と切っても切り離せない関係にある」

 という以上、

「倫理やモラル」

 というものが戒律として存在する宗教に逆らうということは、ありえないというのではないだろうか?

 しかも、

「安楽死」

 すら許されない世界ではないか?

 本人が、希望していたとしても、

「死ぬことも自由に許されない」

 ということである。

 たとえ、家族には支えきれない負担がかかっているのだから、患者が、

「家族に迷惑をかけるくらいだったら、殺してほしい」

 と思ったとしても、それは許されないのだ。

 それを思えば、

「もし科学が発展して、不治の病になったとすれば、ロボットに脳だけを移植する」

 という発想も許されないということになるだろう。

 だとすれば、

「倫理的に、サイボーグを作ることは無理だ」

 といえるだろう。


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