第1話 影の始まり2
夕暮れが、空を淡い茜色に染めていた。
西日が校舎のガラス窓に反射し、長く伸びた影が歩道に広がっている。
「なあ、ちょっと寄り道しないか?」
陽翔の提案で、二人は駅へ向かう途中の公園に立ち寄ることにした。
部活帰りの生徒や、下校中の小学生がちらほらと見える。
公園のベンチでは、老人が新聞を読んでいる。
これまでと何も変わらない、平和な日常の光景。
……なのに。
「おい、どうした?」
陽翔の声が遠く聞こえた。
奏は足を止め、じっと一点を見つめていた。
「……あそこ、見てみろ」
指差した先、電柱の影がやけに長く伸びていた。
ただ、それだけなら問題はない。
夕暮れ時、影は長くなるものだ。
——だが、問題は方向だった。
光源とは違う方向に、影が伸びている。
「これ……普通じゃなくないか?」
陽翔も異変に気づき、眉をひそめる。
奏はじっと、その影を見つめた。
(おかしい。影は必ず、光源の反対方向に伸びるはず……なのに)
陽翔が一歩踏み出した、その瞬間——。
影が、ゆっくりと動き出した。
——ぞわっ。
二人の背筋に、冷たい戦慄が走る。
「えっ……?」
影が、まるで生き物のようにゆらめき、地面を這うように広がっていく。
そして——
影が「腕のような形」を作り、こちらに伸びてきた。
「……っ!」
無意識に後ずさる。
影が——掴もうとしている?
「——奏、逃げるぞ!」
陽翔が叫び、腕を引いた。
二人は全速力で駆け出した。
足音がアスファルトを叩く音が響く。
影はなおも追ってくる。
普通なら、影は動かないはずなのに。
この影は、意思を持っている。
公園を抜け、細い路地に入った。
後ろを振り向くと——影はついてきていなかった。
「……なんだったんだ、あれ」
奏は荒い息を吐きながら、壁に手をついて立ち止まる。
陽翔も額の汗を拭いながら、警戒するように周囲を見回していた。
普通じゃない。
これは——何かがおかしい。
そして、この異変は二人だけのものではない ということを、彼らはまだ知らなかった。
◇
細い路地にひそむ静寂。
先ほどまで響いていた人々のざわめきが、嘘のように消えた。
まるで、世界から音そのものが消失したかのような感覚。
住宅街の隙間を縫うように延びるこの路地は、昼間でも薄暗い。
ましてや夕暮れ時となれば、どこか異世界に迷い込んだような錯覚を覚えるほどの陰影が生まれる。
壁に沿って延びる影が、異様なまでに濃く、地面に張り付いていた。
まるで、ただの影ではないかのように——。
「……なあ、陽翔。これ、本当に普通の影なのか?」
奏の声は、かすかに震えていた。
口に出してみると、余計に現実味を帯びる。
陽翔は眉をひそめたまま、じっと地面を見つめる。
「……俺も、さすがにこれは変だと思ってる」
いつも明るく軽い陽翔の声が、重く沈んでいた。
二人の間に流れる沈黙が、余計に空気を重くする。
風は吹いていない。
だが、空気が揺れている気がする。
……いや、違う。
揺れているのは、影だ。
影が、微かに蠢いた。
最初は気のせいかと思った。
しかし、目を凝らして見れば見るほど、その動きは確かだった。
音もなく、じわじわと広がっていく黒。
まるで液体のように地面に滲み、波紋を広げていく。
——ぞわり。
背筋に冷たいものが走った。
「陽翔……見てるか?」
奏が囁くように言うと、陽翔は無言で頷いた。
二人の視線が、じっとその影に釘付けになる。
影は止まらない。
広がり、膨らみ、やがて持ち上がった。
「!?」
影が「立ち上がる」。
いや、違う。
影の中から、何かが這い出してきた。
それは、ゆっくりと、だが確実に姿を現していく。
黒い霧のような身体。
腕とも足ともつかない無数の手足が、うごめいている。
その動きは、まるで深海の中を漂うクラゲの触手のように、不規則で、しかし有機的だった。
そして——
目が、ない。
だが、確実に「見られている」と分かった。
「……やばい、やばいって……」
陽翔の声が震えていた。
その震えが、奏の恐怖をさらに煽る。
逃げようとした。
だが、足がすくむ。
身体が冷たくなり、まるで自分の影に引き止められているかのようだった。
影の怪異は、じわじわと近づいてくる。
一歩、また一歩と迫るたびに、空気が重くなっていくのが分かった。
まるで、影そのものが空間を支配し始めているようだった。
その瞬間——
黒い腕が、異様な速さで奏の足元に伸びてきた。
「っ!」
反射的に飛び退いた。
だが、影の手は消え、次の瞬間、別の場所から再び現れた。
それは、まるで影が空間を滑るように移動しているかのようだった。
「陽翔——」
奏が声をかけようとした瞬間、黒い手が陽翔の肩に触れた。
「うわっ——!!」
陽翔の体が、一瞬だけ沈む。
影に引きずり込まれた?
違う——。
目を凝らすと、陽翔の体が一瞬だけ「不透明になった」気がした。
まるで、影の一部になりかけたような。
「くそっ、離れろ!!」
陽翔が力任せに腕を振ると、影はぼろぼろと霧散した。
その動きは、まるで水面に石を投げ込んだときのように、不自然なまでに滑らかだった。
「……影って、こんな風に動くもんか?」
息を荒げながら、陽翔が呟いた。
だが、誰も答えられなかった。
影の怪異は、再びゆっくりと蠢く。
こちらを試すように——。
「……逃げるぞ」
奏は陽翔の腕を引いた。
だが——
影の怪異は、道を塞ぐように動いた。
その動きは、まるで二人の逃げ道を知っているかのようだった。
その時だった。
——カツン。
足音が響く。
「止まれ」
低く、静かな声。
奏と陽翔が振り向くと——
そこには、黒いロングコートを羽織った青年が立っていた。
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