第1話 影の始まり3
「止まれ。」
その声は、不意に降る冷たい雨のように、路地の空気を切り裂いた。
まるで、世界の時間そのものが一瞬だけ停止したかのような錯覚。
奏と陽翔は、驚きに目を見開きながら振り返る。
そこには、黒いロングコートを羽織った一人の青年が立っていた。
街灯の下、彼の姿はまるで影の一部が人の形を取ったかのように見える。
短く整えられた黒髪、そして、冷たい光を湛えた鋭い瞳。
無駄な動きひとつなく、静かにこちらを見据えている。
(誰だ……?)
その存在感は、ただそこに立っているだけで周囲の空気を一変させた。
まるで、この場にいるだけで周囲の重力が変わったような異質さ。
心臓が強く打ち、鼓動の音だけが耳に響く。
耳を澄ませば聞こえてくるのは、自分たちの荒い呼吸と、その青年の無音の存在感だけだった。
彼の背後から吹き込む風が、ロングコートの裾をわずかに揺らしている。
その動きさえも、まるで計算された舞台演出のように整然としていて、不気味なほどに静かだった。
「……誰だ、お前?」
陽翔が、かすれた声で問いかける。
その瞬間、張り詰めた緊張の糸がほんの少しだけ緩む。
しかし、それでも青年の放つ圧倒的な不気味さは消えなかった。
青年は、返答しなかった。
ただ一歩、ゆっくりと二人の方へと歩み寄る。
その足音はまるで存在しないかのように静かだった。
(なんなんだ、この人……)
奏は無意識に喉を鳴らしながら、青年の動きを見つめていた。
「お、おい……!」
陽翔の声が上ずる。
その隣で、奏も無意識に後ずさっていた。
その瞬間——。
ズズッ……
地面を這っていた影が、突然、青年に向かって動き出した。
黒い霧のような体が、波紋のように揺れながら広がっていく。
その動きは、どこか意志を持った生物のように、じわじわと迫ってきた。
(……何なんだ、あれは?)
脳が危険信号を発しているのに、体が動かない。
ただ、その異様な光景に目を奪われていた。
「危ない、逃げろ!」
陽翔が叫ぶが、青年はまったく動じない。
——スッ。
青年はポケットから何かを取り出した。
それは、小さな銀色のペンダントだった。
月明かりを受けて淡く輝くそのペンダントには、不思議な複雑な紋様が刻まれている。
「影は影で制す。」
彼が低く呟いたその瞬間——。
カッ。
ペンダントが淡い青白い光を放った。
光は静かに広がり、路地全体を淡い光の膜で覆ったようだった。
影の怪異は、その光に反応するように一瞬だけたじろいだ。
その不定形な体がわずかに震え、まるで引き裂かれそうになるかのように揺らめく。
しかし、それだけでは終わらなかった。
「……効かない!?」
陽翔が驚きの声を上げる。
影の怪異は、一瞬ひるんだかと思うと、次の瞬間には再び鋭く動き出した。
その動きは、獲物を見定めた獣のように素早く、正確だった。
ズアアッ!
黒い手が、音もなく青年に向かって伸びる。
その動きは、まるで空間そのものを滑るように速い。
「遅い。」
青年は冷静に、影の伸びる方向を見極めると、わずかに身体をずらした。
その動きは極めて小さく、まるで最初から相手の攻撃を予見していたかのようだった。
ドシュッ!!
怪異の腕が地面に叩きつけられ、粉塵が舞い上がる。
しかし、青年は一歩も退かない。
その冷静さと確信に満ちた動きが、逆に不気味さを増幅させていた。
彼は再びペンダントを握り直し、静かに呟いた。
「影の中へ——還れ。」
ズズズッ……!!
ペンダントが再び強く光を放ち、その光が影の怪異に向かって流れ込む。
光が怪異の体を包み込み、黒い霧が少しずつ引き裂かれていく。
「な、なんなんだ……あれ……」
陽翔が息を呑む。
そのとき、青年が初めて二人に視線を向けた。
「……カゲロウだ。」
「は?」
陽翔が反射的に問い返す。
「お前たちが見ているそれは『カゲロウ』と呼ばれる存在だ。」
その声は冷静で、感情の欠片も感じられなかった。
「カゲロウ……?」
奏がその名前を反復する。
「影が意思を持ち、実体を得たもの……。見た目は儚げだが、放っておけばお前たちの影を喰う。」
その言葉に、陽翔の顔が引きつった。
「影を……喰う?」
陽翔が信じられないというように首を振る。
「そうだ。そして、影を喰われれば——お前たちはこの世界から消える。」
その言葉に、奏と陽翔は顔を見合わせた。
「……ふざけんな、そんなわけ——」
陽翔が言いかけた瞬間、影の怪異「カゲロウ」が再び動き出した。
その瞬間、青年が冷静な声で告げる。
「下がっていろ。」
彼は再びペンダントを強く握りしめ、静かに立ち尽くしていた。
影の怪異が彼に迫る中、陽翔が震える声で問いかけた。
「お、お前……一体、誰なんだ?」
青年は一瞬だけ視線を二人に向けた。
その瞳には、どこか冷たさと哀しみが入り混じっているように見えた。
「……鷹宮司(たかみや つかさ)。」
それだけを告げると、再び影に向き直った。
「お前たちとは、これから何度も顔を合わせることになる。」
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