第1話 影の始まり
朝。
カーテンの隙間から差し込む陽の光が、部屋の壁に淡いオレンジ色のグラデーションを作っていた。
時計の針は6時30分を指し、部屋の中はまだ朝の静寂に包まれている。
枕元のスマートフォンが、ゆっくりと振動する。
——アラーム 6:30
「……ん」
奏は目を閉じたまま手探りでスマホをつかみ、アラームを止める。
まだ、まぶたが重い。
耳を澄ますと、家の外ではすでに鳥が鳴いていた。
風がそよぎ、窓をほんのわずかに揺らしている。
遠くからは車のエンジン音や、通勤・通学で動き始めた街の音が微かに聞こえてくる。
——いつもと変わらない朝。
なのに、なぜか心が落ち着かなかった。
「……まだ眠い……」
体を起こし、髪をくしゃくしゃと乱すようにかき上げる。
ぼんやりと視界を巡らせた。
机の上には昨夜開いたままのノートと教科書。
椅子には適当に脱ぎ捨てられたパーカーがかかっている。
部屋の隅には小さな観葉植物が置かれ、葉が朝日を浴びて柔らかく光っている。
普通の光景。
いつもの部屋。
昨日と何ひとつ変わらない。
けれど——
部屋の隅の影だけが、やけに濃く見えた。
まるで黒いインクを流したかのように。
光が当たらない場所があるのは当然だ。
でも、普段よりもその闇が深く、異様な静けさを感じる。
(気のせい……?)
気になって目を細めると、影はまるで奏に気づかれたかのように、じわりと形を変えた——ように見えた。
心臓が、軽く跳ねる。
だが次の瞬間、カーテンが風で揺れ、影が元の形に戻った。
「……なんだよ、怖え……」
自分で自分を笑いながら、ベッドを降りる。
寝ぼけていただけだ。
気のせいに決まっている。
◇
——チチチ……チチチ……
窓の外から、小さな鳥の鳴き声が響いていた。
キッチンからは母親が料理をする音。
フライパンが火にかけられ、油が弾ける軽い音が聞こえる。
奏は階段を降りながら、まだ少しぼんやりとした頭で深く息を吸い込んだ。
トーストの焼ける香ばしい匂いと、味噌汁の出汁の香りが鼻をくすぐる。
リビングの壁に掛けられた時計の針は、7時12分を指していた。
普段と変わらない朝。
けれど、何かが違う気がする。
「おはよ、奏」
キッチンでエプロン姿の母が、振り返る。
その手には、ちょうどフライ返しが握られていた。
「もうすぐ朝ごはんできるわよ」
「あぁ……ありがとう」
奏はテーブルに座り、スマホを取り出してSNSを開く。
友達が投稿した写真や、どうでもいいニュースが画面を流れていく。
何も変わらない、平和な日常。
——なのに。
不意に、視線の端に「影」が入った。
壁際に伸びる、奇妙な影。
それは、いつもならカーテンの隙間から漏れる朝日によって作られるはずの影。
しかし、どこかがおかしい。
形がほんの少し、揺れているように見えた。
いや、そんなはずはない。
風は吹いていない。
リビングの空気は静止している。
なのに、影だけがじわりと微細に動いていた。
(……気のせいか?)
奏は少しだけ眉をひそめ、視線を影から外した。
心なしか、背筋がひやりと冷たくなる。
「奏? なんかぼーっとしてるけど、大丈夫?」
母が気づいて声をかける。
その瞬間、影の動きがピタリと止まった。
まるで「見られている」ことに気づいたかのように——。
「……いや、なんでもない」
口元に力を入れて、無理に笑みを作る。
母は「そう?」と軽く首を傾げると、皿に焼きたての卵焼きをのせた。
——パタン。
そのとき、背後の窓が微かに揺れた。
カーテンの裾が、わずかに動く。
しかし、風は吹いていない。
「……?」
胸の奥で、不安がじわりと広がる。
影はさっきと同じ形を保っている。
しかし、それが「本当にただの影なのか」確信が持てなかった。
(おかしい。やっぱり、何かが……)
そのまま時計に目を向けると、針が7時14分を指していた。
2分しか経っていない。
……けれど、もっと時間が経ったような気がした。
「奏、ご飯冷めるわよ」
母の声にハッとして、彼は視線をテーブルに戻す。
もう、影のほうを振り返ることはできなかった。
◇
カァァァン!
教室の天井に響く、金属バットがボールを打つ乾いた音。
窓の外では、グラウンドで野球部の練習が始まっていた。
遠くから響く掛け声が、午前中の授業の終わりを告げるようだった。
昼休み。
奏は窓際の席に座りながら、教科書を閉じると、息を吐いた。
少しずつ頭が重くなってきている。
ずっと違和感を感じているせいだろうか。
「よーし、今日の給食は何かなー」
隣の席から、呑気な声が聞こえてきた。
天宮陽翔——奏の幼なじみであり、親友。
運動神経抜群で、特にサッカーが得意。
成績はそこそこだが、持ち前の明るさでクラスの中心的存在だった。
奏がちらりと彼を見やると、陽翔はニヤッと笑いながら立ち上がる。
「おーい、給食室のメニュー知ってるやついる?」
彼が大声で尋ねると、クラスの何人かが笑いながら答えた。
「カレーだってさ!」
「え、マジで? よっしゃ!」
「俺、給食のカレーって好きなんだよなぁ。なんか妙にうまく感じるんだよ」
「いや、それ分かるかも……」
奏は苦笑しながら、陽翔が無邪気に拳を握るのを見つめた。
「つーかさ、なんか顔色悪いけど、大丈夫か?」
陽翔がふと奏の顔を覗き込んだ。
「あぁ……ちょっと寝不足かも」
そう答えながら、窓ガラスに映る自分の姿を見た。
その時、違和感が再び襲う。
——影が、微かに歪んでいる。
ほんの一瞬だった。
まるで、ガラス越しの自分の影が、意識を持って動いたような——。
「おい、奏?」
陽翔が軽く肩を叩く。
「いや……なんでもない」
奏は視線をそらしながら、影のことを頭の中から追い払おうとした。
だが、背筋に走る不気味な寒気は、消えなかった。
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