第1話 影の始まり

朝。

 カーテンの隙間から差し込む陽の光が、部屋の壁に淡いオレンジ色のグラデーションを作っていた。

 時計の針は6時30分を指し、部屋の中はまだ朝の静寂に包まれている。


 枕元のスマートフォンが、ゆっくりと振動する。


 ——アラーム 6:30


 「……ん」


 奏は目を閉じたまま手探りでスマホをつかみ、アラームを止める。

 まだ、まぶたが重い。


 耳を澄ますと、家の外ではすでに鳥が鳴いていた。

 風がそよぎ、窓をほんのわずかに揺らしている。

 遠くからは車のエンジン音や、通勤・通学で動き始めた街の音が微かに聞こえてくる。


 ——いつもと変わらない朝。


 なのに、なぜか心が落ち着かなかった。


 「……まだ眠い……」


 体を起こし、髪をくしゃくしゃと乱すようにかき上げる。

 ぼんやりと視界を巡らせた。


 机の上には昨夜開いたままのノートと教科書。

 椅子には適当に脱ぎ捨てられたパーカーがかかっている。

 部屋の隅には小さな観葉植物が置かれ、葉が朝日を浴びて柔らかく光っている。


 普通の光景。

 いつもの部屋。

 昨日と何ひとつ変わらない。


 けれど——


 部屋の隅の影だけが、やけに濃く見えた。


 まるで黒いインクを流したかのように。

 光が当たらない場所があるのは当然だ。

 でも、普段よりもその闇が深く、異様な静けさを感じる。


 (気のせい……?)


 気になって目を細めると、影はまるで奏に気づかれたかのように、じわりと形を変えた——ように見えた。


 心臓が、軽く跳ねる。


 だが次の瞬間、カーテンが風で揺れ、影が元の形に戻った。


 「……なんだよ、怖え……」


 自分で自分を笑いながら、ベッドを降りる。

 寝ぼけていただけだ。


 気のせいに決まっている。



 ——チチチ……チチチ……


 窓の外から、小さな鳥の鳴き声が響いていた。

 キッチンからは母親が料理をする音。

 フライパンが火にかけられ、油が弾ける軽い音が聞こえる。


 奏は階段を降りながら、まだ少しぼんやりとした頭で深く息を吸い込んだ。

 トーストの焼ける香ばしい匂いと、味噌汁の出汁の香りが鼻をくすぐる。


 リビングの壁に掛けられた時計の針は、7時12分を指していた。

 普段と変わらない朝。

 けれど、何かが違う気がする。


 「おはよ、奏」


 キッチンでエプロン姿の母が、振り返る。

 その手には、ちょうどフライ返しが握られていた。


 「もうすぐ朝ごはんできるわよ」


 「あぁ……ありがとう」


 奏はテーブルに座り、スマホを取り出してSNSを開く。

 友達が投稿した写真や、どうでもいいニュースが画面を流れていく。

 何も変わらない、平和な日常。


 ——なのに。


 不意に、視線の端に「影」が入った。


 壁際に伸びる、奇妙な影。


 それは、いつもならカーテンの隙間から漏れる朝日によって作られるはずの影。

 しかし、どこかがおかしい。


 形がほんの少し、揺れているように見えた。


 いや、そんなはずはない。

 風は吹いていない。

 リビングの空気は静止している。


 なのに、影だけがじわりと微細に動いていた。


 (……気のせいか?)


 奏は少しだけ眉をひそめ、視線を影から外した。

 心なしか、背筋がひやりと冷たくなる。


 「奏? なんかぼーっとしてるけど、大丈夫?」


 母が気づいて声をかける。

 その瞬間、影の動きがピタリと止まった。


 まるで「見られている」ことに気づいたかのように——。


 「……いや、なんでもない」


 口元に力を入れて、無理に笑みを作る。

 母は「そう?」と軽く首を傾げると、皿に焼きたての卵焼きをのせた。


 ——パタン。


 そのとき、背後の窓が微かに揺れた。


 カーテンの裾が、わずかに動く。

 しかし、風は吹いていない。


 「……?」


 胸の奥で、不安がじわりと広がる。


 影はさっきと同じ形を保っている。

 しかし、それが「本当にただの影なのか」確信が持てなかった。


 (おかしい。やっぱり、何かが……)


 そのまま時計に目を向けると、針が7時14分を指していた。

 2分しか経っていない。


 ……けれど、もっと時間が経ったような気がした。


 「奏、ご飯冷めるわよ」


 母の声にハッとして、彼は視線をテーブルに戻す。

 もう、影のほうを振り返ることはできなかった。




 カァァァン!


 教室の天井に響く、金属バットがボールを打つ乾いた音。

 窓の外では、グラウンドで野球部の練習が始まっていた。

 遠くから響く掛け声が、午前中の授業の終わりを告げるようだった。


 昼休み。


 奏は窓際の席に座りながら、教科書を閉じると、息を吐いた。

 少しずつ頭が重くなってきている。

 ずっと違和感を感じているせいだろうか。


 「よーし、今日の給食は何かなー」


 隣の席から、呑気な声が聞こえてきた。


 天宮陽翔——奏の幼なじみであり、親友。

 運動神経抜群で、特にサッカーが得意。

 成績はそこそこだが、持ち前の明るさでクラスの中心的存在だった。


 奏がちらりと彼を見やると、陽翔はニヤッと笑いながら立ち上がる。


 「おーい、給食室のメニュー知ってるやついる?」


 彼が大声で尋ねると、クラスの何人かが笑いながら答えた。


 「カレーだってさ!」

 「え、マジで? よっしゃ!」


 「俺、給食のカレーって好きなんだよなぁ。なんか妙にうまく感じるんだよ」


 「いや、それ分かるかも……」


 奏は苦笑しながら、陽翔が無邪気に拳を握るのを見つめた。


 「つーかさ、なんか顔色悪いけど、大丈夫か?」


 陽翔がふと奏の顔を覗き込んだ。


 「あぁ……ちょっと寝不足かも」


 そう答えながら、窓ガラスに映る自分の姿を見た。

 その時、違和感が再び襲う。


 ——影が、微かに歪んでいる。


 ほんの一瞬だった。

 まるで、ガラス越しの自分の影が、意識を持って動いたような——。


 「おい、奏?」


 陽翔が軽く肩を叩く。


 「いや……なんでもない」


 奏は視線をそらしながら、影のことを頭の中から追い払おうとした。

 だが、背筋に走る不気味な寒気は、消えなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る