この世界、誰も本当の敵を知らない

ごんぞう

プロローグ 影の始まり

 夜の街に、闇が沈んでいく。

 冬の空気は冷たく、風もないのに、どこかざわついた気配があった。


 その気配の正体が 「影」 だと気づいたとき、世界は微かに歪んだ。


 街灯に照らされた影が、ほんのわずかに 「揺れた」。


 ありえない。

 風もない。光源も変わらない。

 なのに、影だけが 「動く」。


 その瞬間、それを見た者は 「違和感」 に囚われる。

 何かが——おかしい。


 だが、その場にいた人々は誰も気づかない。

 影はすぐに元の形に戻る。まるで何もなかったかのように。


 ……しかし、それを見た者が、一人だけいた。


 時雨奏(しぐれ かなで) は、立ち止まった。


(……今、影が動いたか?)


 彼の目が、無意識に影を追っていた。

 しかし、どれだけ目を凝らしても、影は静かに沈んでいる。


(気のせいか……?)


 だが、一度「違和感」を抱いてしまうと、すべてが怪しく思えてくる。

 街灯の影が 「伸びている」 ように見える。


 遠ざかるほどに影が細くなるはずなのに。

 目の前の影は——じわりと形を変えていた。


(なんだ、これ……)


 彼は、影の「奥」を覗こうとした。

 その瞬間——


 影が、消えた。


 息を呑む。

 目の前のアスファルトにあったはずの影が、一瞬で消えたのだ。

 何かが欠けたような 空白。


 そして、気づけば "違和感" だけが残る。



 翌朝。

 奏は「何かを忘れている」感覚に襲われていた。


(昨夜……何があったんだ?)


 脳裏にぼんやり浮かぶのは、「影」。

 だが、それが何を意味するのかは思い出せない。


「どうした? 朝からボーッとして」


 隣の席の**天宮陽翔(あまみや はると)**が声をかける。

 いつもの日常。

 しかし、確実に「何かが変わっている」。


「なあ、昨日の夜……影が消えたんだ」

「は?」

「帰り道、影が……動いて、消えた」


 陽翔は呆れたように笑う。


「お前、何言ってんだ?」


 だが、その瞬間だった。


 陽翔の影が、一瞬——ズレた。


「お前の影、今……」

「ん?」


 陽翔は気づいていない。

 "気のせいだ" と言い聞かせる。

 しかし、奏の背筋を這う冷たい感覚は消えなかった。



 夜の街。

 奏は昨日と同じ道を歩いていた。


 影は、そこにある。

 しかし——昨日とは違って見えた。


(……やっぱり、気のせいだったのか?)


 そう思った次の瞬間——


 影が、蠢いた。


 それは 「揺れ」ではなかった。

 それは 「動き」だった。


 影がゆっくりと形を変え、何かが這い出てくる。

 奏の足が止まる。


 目の前の影の中から——

 「手」が伸びた。


 黒い影の中から、人間の形をした何かが、ゆっくりと姿を現す。

 しかし、それは 決して"人"ではなかった。


 影の輪郭は揺らぎ、目だけが暗闇の中で光る。

 奏は息を詰まらせた。


「——お前も、こちら側に来い……」


 影の中から聞こえた囁き声。

 それは、人間の声ではなかった。


 影が絡みつく。

 逃げようとするが、足が動かない。


 影の中の「何か」が這い出ようとする。

 奏の体を引きずり込もうとする。


(ヤバい……!)


 その瞬間——


「——見るな」


 低い声が響いた。


 奏の前に立っていたのは、**鷹宮司(たかみや つかさ)**だった。

 彼は影を見つめ、指を鳴らす。


 次の瞬間、影の怪物が霧散する。


「お前は……」

「何も見なかったことにしろ」


 鷹宮司は冷たい声で言う。


「影に触れるな。今のうちなら、まだ戻れる」


 その言葉の意味は、まだ奏には分からなかった。



 夜が深まる。

 影は静かに沈む。


 しかし、その影の奥で——


 「誰かが」こちらを見ていた。


 奏は気づいていない。

 陽翔も、鷹宮司も。


 だが、確かにそこに "何か" がいる。


 影の中の影。

 その存在は微かに笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る