窓際のあなた
窓際のあなた
その人は、いつも窓際のテーブルに座り、本を開いてゆっくりと紅茶を口にする。
訪れるのはいつも土曜日。だが、もしかすると他の曜日も来店しているのかもしれないけれど、わたしは土日以外にここでアルバイトをしないので、わたしには確かめる術がなかった。
短く揃えられた黒髪、清潔感のある髭をきれいに剃ったあご、ワイシャツの上に着たストライプのセーター、青い色のジーンズ。
わたしは他の客へ対応を行いながら、横目に今日の彼のスタイルを盗み見て確かめた。
やはり今日も彼はかっこいい。
思わず上がりそうになる口角を抑え、不自然な笑みを浮かべないよう気をつけた。接客中の笑顔は大事だが、一人でにやにやしているのでは不審者になりかねない。
彼が初めてこの店に訪れたのは半年前。
わたしは大学に入学して、新しく入ったサークルでもようやく周りに馴染んだ頃、偶然通りかかった大学の隣駅にあったこの喫茶店のアルバイト募集の看板を目にして、応募した。採用は、面接に足を運んだその日に決まり、わたしはその週末からこの喫茶店でのアルバイトを始めた。
そしてアルバイトをし始めて、1カ月後、初めて彼を目にしたのだった。
それ以来、彼が訪れるのを楽しみに、わたしはアルバイトをするようになった。いわゆる一目惚れだ。
清潔感のある服装や、すっきりとした顔立ち、だが存在感のある瞳。そしてなにより、彼の声がわたし好みだった。落ち着いたトーンの低めの声は、きっと一緒に話をすれば安心感があるんだろうなと思った。
だが、ここは喫茶店だ。彼の声を聞くタイミングは、来店時と会計の際くらいしかなかった。そのためチャンスは少ない。そして今日はその少ないチャンスを一緒にアルバイトしている子に取られてしまった。今日、彼が訪れた時、わたしは運悪く注文内容をやたらと確認してくる客に捕まってしまっていたのだ。その客とそうこうしている間に、注文を聞きに行かれてしまった。
それにしても、とわたしは思う。
彼はいつもなんの本を読んでいるのだろうか?
手元にノートなどを広げている様子はない。なので、勉強しているわけではなさそうだった。小説でも読んでいるのだろうか。もしかすると、小説を読んで過ごすのが彼の休日の過ごし方なのかもしれない。
それから間もなくして、彼は読んでいた本を鞄に仕舞うと、席を立ち上がり伝票を手に取った。
わたしはもうひとりのアルバイトの子へさっと目を走らせる。
よし、彼女はいま紅茶を運んでいる最中だ。
わたしは飛び跳ねたくなる気持ちを心の中で抑え、レジへと向かった。
彼はまっすぐわたしのいるレジへと向かい、伝票を差し出してきた。
余計な感情が顔に出ないよう気をつけながら、わたしは彼に会計の金額を伝える。なるべく機械的な態度と声で。
わたしには、彼に話しかける勇気も、連絡先を渡す覚悟もないのだ。ただ、店員と客、それ以上でもそれ以下でもない。それがわたしと彼との関係であり、超えることのできない大きな壁だった。
そう考えると、わたしは彼を目の前にして、とても悲しい気持ちになった。こんなにすぐ近くにいるのに。こんなにすぐ目の前で話しているのに。
わたしは、彼から勘定を受け取り、釣り銭をレジから取り出した。そしてそれを彼に渡す。それから彼は、店をあとにする。いつもその繰り返しだ。もちろん今日もそれは変わらなかった。
レジ伝票を仕舞い、わたしは名残惜しい気持ちのままホールに戻る。
わたしが恋愛をしたのは、高校生三年生の終わりに付き合ったのが最後だった。
大学受験も終わり、同じクラスの友達に誘われていったカラオケに合流した別の高校に通う同級生の男の子だった。だが、やがて大学に入り、お互いの生活環境が変わると次第に連絡を取らなくなり、そのまま自然消滅となってしまい、それまで使っていたスマートフォンを機種変更したことで、いまでは彼の連絡先すらわからなくなった。
それから新しい彼氏もできず、片思いをするのは喫茶店に訪れる名前もどんな職業に就いているかもわからない男性。
我ながら寂しい大学生生活だと思う。華の十代が間もなく過ぎようというのに、わたしはこのまま片思いだけでただ季節が過ぎていくのを待つばかりなのだろうかと考えると、わたしはひとりベッドで身震いした。
こんなんでいいのだろうか。
いや、いいはずがない。
大学の同級生たちは皆、同級生や同じサークル、アルバイト先など、彼氏を作っている。わたしだって、もしかしたら声をかけるだけで進展があるかもしれない。
ああ、でも…。
実際になにかをしようと考えると、それだけで心臓が飛び跳ね、一挙に不安な思いが全身を駆け巡り始める。
拒否されたらどうしよう。なに言ってんだこいつとか思われたら、もうアルバイトに行けない。いや、それで彼に嫌な気分を与えてしまっては彼の休日のサンクチュアリすら奪ってしまうことになりはしないだろうか。それではお店の店長にも申し訳がたたない、と不安は助長に助長を重ね、自分以外のことにまで及んでしまった。
だめだ、とても話しかけるなどできない。できるわけがない。
そうやって、夜のベッドでひとり身悶えながら、わたしはそっと涙を流した。
悲しくなり、わたしは涙を重ね、やがて彼の横顔を思い、わたしはまた眠れない夜を重ねた。
その次の週末、やはり彼は同じように店に訪れ、小一時間ほど本を読んでいた。
わたしはその日、先週末の夜の考えを引きずったまま、ぼーっとした状態だった。彼の姿を見て、余計に悲しい気持ちが湧いてきてしまった。そしてそんな状態でティーカップをカウンターで受け取り、そのまま床に落として割ってしまった。
店長と周囲のテーブルへお詫びを伝え、慌てたまま割れたカップの片付けを行った。
はあ、なにやってんだろ、わたし…。
カップを片付け終え、ため息を吐いた時、レジに会計にきた客がいた。わたしが急いで目線をあげると、そこにはあの彼が伝票を片手に立っていた。
「会計を」
彼はそう言って伝票を差し出す。
「あ、はい、こちらになります」
わたしはなるべく平静を装いながらレジに表示された金額を示した。
彼は千円札を一枚取り出し、これで、と言った。
千円札を受け取り、おつりを渡そうとしたとき、
「さっき、大丈夫でした?」
そう彼が唐突に言った。
は?
「えっ、とあの…」
とっさに何のことを言われたのかわからなかった。
「さっき、派手に落としてたよね。怪我とかなかった?」
彼がもう一度そう言ったので、わたしはようやく先ほど割ったティーカップのことだと思い至った。
「え、あ、はい」
わたしはあまりのことに、しどろもどろになりながら、やっとそれだけ答えた。
「気をつけてね、ごちそうさま」
彼は笑顔でそう言うと、店を出ていった。
いったいなにが起こったのか。
わたしは信じられない思いで彼が出ていった扉を見つめた。
その夜、わたしは浴槽に浸かりながら、今日の出来事を思い返した。
思い出してみても、やはり現実味が感じられない。
あの彼が、話しかけてきたのだ。
なぜだか急に恥ずかしさが込み上げてきた。
彼と、初めて会話をした。注文や会計以外の。しかも、彼から話しかけてきた。
だめだ、何度考えてもにやにやしてしまう。
わたしは夢見心地で、お風呂をあがった後もふわふわとした思いだった。
ベッドに入ったとき、わたしはまた新たな考えが浮かんだ。
彼はもしかして、わたしに興味があるのだろうか?
いや、興味があるとまでは言わなくとも、わたしから話しかければ、もしかするとチャンスがあるということなのかもしれない。
今まではなにもできずに、ただ彼の姿を見るだけだった。だが、今日決定的にそれは変わった。
彼がその入り口をこじ開けてくれたのだ。
昨日はゼロだったものが、今日ゼロではなくなった。そんな風に思えてきた。
来週、彼が店に訪れたら、話しかけよう。今度は、わたしから。
わたしはそう決意した。
それからの一週間は、期待と不安と切なさとが繰り返しやってくる長い長い一週間だった。
そうして訪れた、土曜日。
やはり彼はやってきた。
席に着いた彼は、いつも通りに本を鞄から取り出し、読書を始めた。
わたしは、気を落ち着けるため、なるべく彼の方を見ないようにした。
彼を見ると、どうしても意識してしまう。
声をかけるのは、会計のときだ。
そして、ついに彼は席を立ち、会計にやってきた。
はやる気持ちを抑えながら、いつも通り会計の対応を行った。
よし。
わたしは勇気を振り絞り、口を開いた。
「あ、あの…」
そのときだった。
「ごめんねー、遅くなっちゃった」
店の扉を開けた女性が、彼にそう言った。
え?
「ああ、大丈夫だよ。今ちょうど出ようとしてたから」
わたしは呆気に取られてしまった。そして、初めて気付いた。
彼の左手の薬指に、今までなかったはずの指輪があることに。
「えっと、なにか?」
彼がわたしに聞いた。
「あ、いえ、レシートはご利用ですか?」
「ああ、大丈夫です。ごちそうさま」
そういうと、彼とその女性は店を後にした。そうして店を出るなり、彼女は彼の腕に甘えるように抱きついた。
わたしは、ぷっと吹き出した。
なんだかばかみたいだ、わたし。
急におかしさが込み上げ、そして、わたしはたった今自分の恋が終わりを告げたのだと悟った。
不思議と涙は出なかった。その夜、ベッドに入り電気を消すまでは。
そうして、わたしの十代最後の恋が終わった。
そんなわたしは今日、成人式を迎える。二十代では、果たしてどんなことが待っているのだろうか。
叶うなら、次が人生最後に出会う恋になりますように。
了
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