第三話 騙し合いの青春



 一也に以前彼女がいた話が発端となった。噂は始まり、きょうかに強烈な記憶を残した。

(嘘だろ)

 きょうかはそう思いながら今日もベッドの上にいた。これから眠る準備をする。

「さて、おやすみー」

 きょうかは独り言のようにベッドに寝転がり、瞼を閉じた。


•••


 夢の中できょうかは必死に何かを追いかけていた。目の前にいるのは一也と、彼と手を繋ぐ少女。背が高く髪が短いが、顔が見えない。こちらも細そうな、厚みのない体型だ。

「一也!おい!」

 きょうかは二人で歩く彼らを見て走っている。なぜは走っているのかわからない。

「一也!」

 いつもよりも声を荒げて一也を追いかける。

「そいつは誰なんだ、誰だ!」

 すると夢の中の一也は振り返る。女の方の顔が見えない。

「…頼むから、近寄らないでくれない?」

 一也が拒絶の言葉を発した。きょうかは困惑したが涙が出る頃には一也は女とどこかに行ってしまった。


•••


「うわああああああああ!!!うあああああっ!!」

 きょうかは跳ねるように飛び起きた。涙を流して絶叫する彼女は、愛の知らないモンスターのようだ。

「ちょっ、どうしたのきょうか!泣いてるよ!」

「………え?」

 きょうかの目から大粒の涙が溢れる。しかしアニメのように美しくない。醜くきょうかの顔を濡らしていく。

「大丈夫なの?学校行ける?」

「あ………」

「なんの夢みたの?」

「いや…なんでもない。朝ごはん食べるよ」

 きょうかはパジャマを脱ぎ、制服を着る準備をした。


•••


 学校に行くと、ある女子とすれ違いざまにぶつかってしまった。

「あ!ごめんごめん!」

 他のクラスの陸上部員で、背が高く髪が短い。少しあざ黒いが、手足が長い女の子だ。名札には千砂花美と書いている。

「…千砂、花美」

「あ!そうだよ。よろしく。君は…狗崎きょうか。学年一位の人だね!」

「そうだよ。私はきょうか…ん?」

「どうしたの?」

 きょうかは嫌な気分になった。花美の髪型や骨格は夢の中で見た一也の隣にいた女と同じだった。

 見事に一致している。不気味なくらいに。

「…あのさ、一也と付き合ったことある?」

「え?ないよ?付き合ったことないし」

「…そうか」

 きょうかは目の前の初対面の女の子を疑うことはできなかった。

 きょうかは、花美の顔をじっと見つめた。

 夢で見た 「一也の隣にいた女」 の面影が、そこに重なって見える。

 髪の長さ、骨格、立ち姿。まるで夢からそのまま現実に飛び出してきたようだ。

(でも、付き合ってないって言った……)

「……そっか。じゃあ、変なこと聞いてごめん」

「ううん、全然気にしてないよ!」

 花美はあっけらかんと笑って、元気に手を振りながら去っていった。

 きょうかは、目を細めながらその後ろ姿を見送る。

(夢に出てきたのは、偶然……なのか?)

 一也のことは、もう考えないようにしよう。そう思っていた。

 なのに、なんで今さらこんな夢を見る?

 しかも、夢の中での一也は 「頼むから、近寄らないでくれない?」 と言った。

 あんなこと、現実では言われたことがないのに。

 いや、違う。

(これって、私が一番怖がってることじゃないか)

 目の前で一也が、他の女と手を繋ぎながら去っていく。

 振り返りもしない。

 「頼むから近寄らないで」と、拒絶の言葉だけを残して。

 それが、きょうかの一番恐れている未来だった。

「……くだらない」

 自分で自分に呟いて、ため息をつく。

 どうかしてる。たかが夢に、こんなに心を揺さぶられるなんて。

 でも、夢は 「無意識の本音」 だっていうしな。

 私は、本当は一也のことを 「手放したくない」 と思ってるのか?

 そんなはずはない。

(……いや、そんなこと、考えてもしょうがない)

 とにかく、今は勉強に集中しよう。

 一也のことなんて、どうでもいい。

 学年一位を守ることのほうが、よっぽど大事なんだから。

 きょうかは、強引にそう思い込もうとして歩き出した。

 しかし、その後も花美の姿が、脳裏から離れなかった。


 教室に戻ったきょうかは一也に平静を装って聞いてみた。

「お、きょうかじゃん」

「一也…千砂花美って知ってるか?」

「え?」

「お前がそいつと付き合ってたって話聞いたんだけど…どうなのかなって」

「え!あー」

 一也は嘘をついた。

「俺、女と付き合ったことないし。知らないな」

「……そう」

 きょうかは信用した。一也が嘘をつくわけがないと思っていた。

 一也は馬鹿だが、少なくとも「ズルいことをしない」やつだった。

 誤魔化したり、人を騙したり、そういう小賢しい真似をするような男じゃない。

(……そうだよな)

 きょうかは、心のどこかでホッとした。

 夢のことも、花美のことも、深く考えなくていい。

(ただの偶然。あれは私の被害妄想だったんだ)

「……なあ、きょうか?」

 一也が、珍しく真剣な声で話しかけてきた。

「お前さ、何でそんなこと気にするんだ?」

「え?」

「なんかさ、気になってる感じしたけど……まさか、俺のこと好きなのか?」

「はぁ!?」

 きょうかは即座に声を荒げた。

 一也は、あからさまに 「やばっ」 って顔をする。

「ち、違うの?じゃあなんでそんなに」

「お前が変な噂流されてたら気になるだろ!なんなんだよ…」

「あ、そっか……」

 一也はちょっと納得したような、でもまだ釈然としないような顔をしていた。

(……なんか、嫌な予感がする)

 きょうかは、ふと視線を落とす。

 自分の右手が、少しだけ震えているのに気づいた。

(なんで、こんなに……イラついてるんだろう)

 心の奥で引っかかる何かを、見ないふりをしながら、きょうかは無理やり思考を切り替えた。

「ま、まあいいや。次の授業、数学だからな。お前また寝るなよ?」

「お、おう!」

 普段通りの会話に戻ったことに、ほっとしながらも、どこか釈然としないまま きょうかは席に着いた。

 そして、次の授業が始まっても頭のどこかで、「一也が嘘をついた」という可能性 が、じわじわと広がっていくのを止められなかった。

(今里一也…………無能で怠惰で、体は大きいのに頭が非力…まるで赤ちゃんみたいな…)

 きょうかはそんな無能な一也を愛してしまったのかもしれない。しかしみんなのように付き合いたいとか、一緒にいたいと言う感情もなく、デートやキスがしたいわけでもなく。

(……いや、違う)

 こんなの、愛なんかじゃない。

 私が求めてるのは、そんな生温い感情じゃない。

 一也と一緒にいたいわけでも、手を繋ぎたいわけでもない。

 ましてやキスなんて、考えたことすらない。

 ただ、

(私は、一也を持っていたかったのか?)

「赤ちゃんみたいな無能なやつ」

「何も考えずに笑って、怠けて、愚かで、でも憎めないやつ」

 そんな存在を、私はどこかで所有物のように思っていたのかもしれない。

「自分だけが知っている、一也」

「自分に甘えてくる、一也」

「自分にだけ懐いている、一也」

 でも、それがもし誰かのものになったとしたら?

 もし、一也が他の女のために笑ったり、他の女に甘えたりするようになったとしたら?

(それは……許せることなのか?)

 きょうかはペンを握る指先に力を込めた。

 気づけば、ノートの端が無意識に破れかけていた。

「馬鹿みたいだ」

 小さく、誰にも聞こえない声で呟く。

 馬鹿みたいだ、本当に。

 一也が誰と付き合おうが、私には関係ないはずなのに。

(関係ない……関係ない、はずなのに)

 どうして、こんなに胸がザワザワするんだろう?

 授業が進んでいく中で、きょうかは何度も自分の感情を押し殺そうとした。

 でも、そのたびに脳裏にちらつく。

「頼むから、近寄らないでくれない?」

 夢の中で、軽蔑したように一也が言い放った言葉が。

(……なんだよ、それ。お前が言うな。そんなこと言っていいのは私だけだ)

 心のどこかに冷たい怒りを宿しながら、きょうかは静かにペンを走らせた。


•••


 それでも冬が過ぎ、宿泊研修の日々が過ぎ、春になった。

 通知表が開示された。きょうかは国語は四だったが、それ以外の五教科は全部五だ。

(蛙坂にあんなに激しく怒鳴り散らしたから妥当だな)

 とはいえきょうかは他の生徒に比べて国語も活躍していた。数学や理科、英語、社会もそうだ。自分は負けなしだ。

 そうして三月の頃にきょうかは通知表を眺めていた。美術も五だ。

「いいぞ……」

 きょうかは笑い転げそうだったが、そうしていると一也が声をかけてきた。

「うーわ!お前五ばっかじゃん!ちょっと見せてよ」

「あっおい」

 一也についついきょうかは通知表を渡してしまった。

「うわパネエ!お前五ばっかじゃん。すごいね。俺なんか五ないよ」

「お前は最高でなんなんだよ」

「んー、四だ。大体三か二」

「二か……」

 きょうかは一瞬、眉をひそめたが、すぐに思い直した。

(まあ、こいつはバカだからな)

 だが、一也は通知表を見ながら、笑顔で「すげーなー」と言っている。

 まるで自分のことのように、何の疑いもなく、ただ純粋に称賛しているように見えた。

「すごいな、お前! マジで頭いいじゃん!」

「当たり前だろ」

「いやいやいや、すごすぎだって! 俺、社会の先生に『もうちょっと頑張ろうね?』って言われたし……」

「もうちょっとどころの話じゃねえだろ、お前」

 きょうかは呆れながらも、一也のあまりに素直な反応に、ほんの少しだけ口元を緩めた。

(……こいつ、ほんとにバカだけど、こういうところだけは素直だよな)

 一也はバカで怠惰で、いつも他人に頼ろうとする。

 だけど、誰かを妬んだり、卑屈になったりすることはない。

 たとえ自分の成績が悪くても、「お前はすごい!」と無邪気に言える、ある種の才能を持っている。

「なあ、俺の通知表も見てくれよ」

「嫌だよ、どうせ惨劇だろ」

「うわ、ひでぇ! まあまあ、見てくれって!」

 一也は自分の通知表をきょうかに差し出した。

 そこには、ほとんど「二」と「三」が並んでいた。唯一の「四」は体育だ。

「はっ、安定のバカじゃねえか」

「まあな! 俺、こういうの苦手なんだよ!」

 一也は悪びれる様子もなく笑っていた。

 そんな彼の姿を見て、きょうかはふと考える。

(……私がもし、こういう成績だったら、こんなふうに笑えるんだろうか?)

 たぶん、無理だ。

 私なら、きっと悔しくて、自己嫌悪に陥る。

 自分を責めて、次こそはと必死になる。

(でも、こいつはそれができない。いや、そもそもする気がない)

 一也はバカのまま、それを受け入れて、変わろうともしない。

 その怠惰さが、きょうかには信じられないほど腹立たしく思える時もある。

(……なんでだろうな)

 そんな一也が、羨ましいと思ってしまう瞬間があるのも、また事実だった。


•••


 運命はそれでも狂うことになる。

「みんな一年間ありがとう。今日はみんなのことを褒めたり改善できてるところを上げていこうと思うの」

 犬子が一年生の最後の授業の時に穏やかに口を開く。

「席順に言っておくよ。まずは………」

 ある者は毒舌が面白いと言われる。ある者は成績がうんと伸びたと言われる。

(毒舌の何が面白いんだよ)

 鼻で笑うしかない。それでもきょうかより翔太の番が早かった。

「翔太は料理ができるんだってね。コックになりたいとか言ってたね」

 きょうかの眉が吊り上がった。

(……は?)

 きょうかは思わず犬子の言葉に反応してしまった。

(料理? コック? 何言ってんだ、あのバカが)

 翔太といえば、ナルシストで、口だけ達者で、何も努力しないくせに自信だけは一人前の男だ。

 料理なんかできるイメージはなかったし、何より、そんな話を犬子から聞かされるのが気に食わなかった。

「それでね、翔太は家でお母さんの料理を手伝ったり、自分で色々作ってるんだって。すごいことだよね」

(すごいこと……?)

 心の奥で、何かが軋むような感覚があった。

 犬子はずっと、自分のことを見てくれていた。

 成績が良いことも、努力していることも、誰よりも理解してくれていた。

(なんでそんなくだらないことを、そんなに褒めるんだよ)

 翔太なんて、料理ができたところで何になる?

 そんなもの、努力しなくても誰だってできる。

「そして、きょうかは逆鱗が収まったね。前よりも穏やかになった」

 なんと犬子はきょうかの成績や実力ではなく、穏やかになった性格面を褒め始めた。

(…私は学年一位だったんだぞ。秋の時に。それが、逆鱗が収まった?)

「まあ、許してやるよ」

 きょうかは弱く動揺しなかった。つい出てしまった言葉はそれだけだった。

(……許してやる? 何をだよ)

 自分の口から出た言葉に、きょうかはわずかに違和感を覚えた。

 だが、それ以上に、胸の奥に生まれた違和感の方が大きかった。

(逆鱗が収まった、か…)

 犬子は、きょうかの成績については何も言わなかった。

 数学も理科も英語も、すべて五を取ったのに。

 誰よりも努力して、誰よりも結果を出したのに。

(それなのに、「穏やかになった」 だと……?)

 学年一位になったときも、犬子は喜んでくれた。

 けれど、そのときの称賛とは何かが違う。

(……「お前は怒らなくなったから偉いね」 ってことか?)

 それが、「いいこと」 なのか?

 誰よりも努力して、誰よりも戦ってきたのに、今の自分が褒められるのは、「大人しくなったから」 だと?

(……私の努力なんて、結局そんなもんだったのかよ)

 ふと、一也の顔が脳裏に浮かぶ。

 あいつはバカだ。 でも、あいつはどこへ行っても「すごいね!」と褒められる。

 たとえテストの点数が低くても、 「お前、やればできるじゃん!」 なんて言われる。

 翔太だって、料理をしてるだけで「すごいね」なんて言われる。

(……だったら、私は?)

 私は、学年一位を取ったのに。

 私は、ずっと戦ってきたのに。

 結局、 「怒らなくなったから偉いね」 なんて、そんなものしか与えられないのか?

 きょうかは犬子の笑顔を見つめた。

 それは、今まで何度も見てきた笑顔のはずなのに。

 今は、何かが違って見えた。

(この人は、私を本当に認めてくれているのか……?)

 そんな考えが、きょうかの中に、ゆっくりと沈んでいった。

(いや、これからだ。二年生になってさらに実力を上げればもっといけるはずだ。目指せ、黒百合高校)

 黒百合高校はもっともこの県で有名な進学校だ。

(……そうだ、私はまだ終わっていない)

 きょうかは、強く自分に言い聞かせた。

 二年生になれば、さらに上を目指せる。

 もっと努力して、もっと結果を出せば、今度こそ認められるはずだ。

(黒百合高校に行けば、すべてが変わる)

 黒百合高校は、この県で最も優秀な進学校。

 そこへ行けば、同じレベルの人間と競い合える。

 そこなら、学年一位の価値も、もっと大きくなるはずだ。

(そうすれば……)

 きょうかは、ちらりと犬子を見た。

 犬子は変わらず、クラスのみんなに優しい笑顔を向けていた。

 けれど、その視線はもうきょうかに向けられていない。

(……いや、今はそんなことを考えてる場合じゃない)

 感傷に浸るのは、もっと後だ。

 今は、とにかく前を向く。

 私は、もっともっと、強くならなければいけない。

(黒百合高校に行って、一番になって、私をちゃんと「すごい」って言わせるんだ)

 きょうかは静かに、手を握り締めた。


•••


 クラス替えが始まった。四月に見ることができるクラス替えの表では、きょうかはいつものように四組だった。二年生に進級してきょうかは二年四組となった。

 しかしきょうかはクラス替えの表示を見て震え上がった。このクラスは二年四組で、一年四組の生徒達のほとんどがいなかった。自分の成績を認めてくれた周りがほぼいない。

 なら代わりにいるのは、と見たのは小学校六年生の時に自分を馬鹿にして上になってきたクラスメイト達だった。きょうかは確かに今ではその生徒達よりも勉強ができる。

 しかしきょうかが一番を志し始めた頃、ある生徒にこんなことを言われた。

「お前にそんなことができるわけがない」

 嘲笑われてもそうかな?と笑った自分。そして何よりも注目したのは美術部で一緒にいた、一番静かな子だ。彼女は雛原やよいという女子生徒で、クラスメイトとは口を効かない。

(これは大変なことになりそうだ…)

 そんな時に花美が話しかけてきた。

「きょうかと同じクラスなの!?やったー!よろしくね」

 きょうかは、花美の明るい声に反応することなく、クラス表をじっと見つめていた。

(……終わった)

 今までの一年間、必死に築き上げた「居場所」が、一瞬で崩れ去ったような感覚だった。

 自分を認めてくれる仲間達はほぼいない。

 代わりにいるのは、小学校の頃に自分を馬鹿にした連中。あの頃、きょうかを「できない奴」と見下していた奴らだ。

(……でも、今は違う)

 あの頃とは違う。

 きょうかは学年一位を取った。

 実力で、今までの自分を塗り替えた。

 だから、もう誰にも見下されることはない。

 そう言い聞かせる。

 そう言い聞かせるしかない。

「きょうかと同じクラスなの!?やったー!よろしくね!」

 花美の声が、きょうかの意識を現実に引き戻す。

 振り向くと、花美は満面の笑みを浮かべていた。

 屈託のない、眩しいほどの笑顔。

「……ああ、よろしく!」

 きょうかは無理やり笑顔を作り、花美の言葉に応じた。

 でも、その心の奥では、冷たいものが渦巻いていた。

(……こいつは、一也のことをどう思ってるんだ?)

 一度は否定したものの、花美の存在が気になって仕方がない。

 夢の中で見た、一也の隣を歩くあの姿。それが、ずっと頭から離れない。

(……いや、今はそんなことを考えてる場合じゃない)

 今の問題は、クラスの人間関係だ。

 ここでまた、一から関係を築いていかなければならない。

 そして、また学年一位を取る。

 それだけが、きょうかの存在を証明する方法なのだから。


•••


 きょうかはクラスに入るなり絶望するかもしれないと思いながら廊下を歩いていた。一也が友人と話している。

「俺さぁ、四組が良かったんだ」

(じゃあ一也、交換してくれよ。私が男になってお前が女だと無問題だろ)

 きょうかはそう思いながら歩いていく。やがてある教室にたどり着いた。二年四組の新しい教室。

 きょうかは玄関に踏み入れた時に絶望感に襲われた。そこにはきょうかを馬鹿にしてコケにしてくれた六年生の時のクラスメイト達がかなりいた。

 自分の頭の悪いところを知っている周り。そして自分よりもできていた周囲だ。

(問題ない。私はできる。私は十番内に入ってるんだから…)

「おはよう、きょうか」

 声をかけてきたのは雛原やよいだった。美術部の同期で、クラスの中では比較的話しやすい相手。

「ああ、おはよう」

 そう返す。

(やよいは、このクラスの子なのか)

 美術部員でやよいと一緒のきょうかは彼女がどんな人かは知っていた。おとなしいが絵に関してはものすごく真面目で、きょうかの方がちゃらんぽらんに見える時がある。

「今年はよろしくね」

「うん。何かあったら私に言ってよ」

「そう?わかった」

 やよいは少し微笑んだような顔になった。そんな顔で笑えば可愛いのに、と思ってしまう。

 

•••


 しかしそんな時にも事件が起きる。花美ときょうかは掃除をしていた。他のメンバーとも掃除を頑張るが、花美はきょうかにこんなことを暴露していた。

「ねぇ…きょうか、話したいことがあるんだけど」

「んー、なんだ?」

「……うちさぁ、一也と付き合ってたんだよね」

「は?」

 きょうかは思いっきり雑巾をぼとりと落としてしまった。

「え?」

 一瞬、頭が真っ白になった。何を言われたのかわからなくて、思考が止まった。

 花美は平然とした顔で続ける。

「だからさ、一也と付き合ってたんだよね」

 きょうかは、思わず雑巾を拾い上げながら、目を細めた。

「いつ?」

「えっとねー、去年の冬くらい?」

 去年の冬。一也と普通に話していた時期だ。一也からはそんな話、聞いたこともなかった。

 そもそも、花美と一也が付き合ってたなんて、誰も言ってなかったはず。

「それ、ほんとなの?」

「ほんとだよー!一也とは結構いい感じだったんだけどさ、まあ色々あって別れたんだけどね」

 さらっと言った花美の態度が、やけに軽い。軽すぎて、どこか嘘くさい。

 一也がそんなことを黙ってるはずがないし、そもそも花美のこういう「なんとなくすごそうなことを言う癖」を、きょうかは知っていた。

「ふーん、そうなんだ…」

 とりあえず曖昧に返して、雑巾を絞る。

 でも、気になる。気になって仕方ない。

「ねえ、花美」

「ん?」

「今はどうなの?一也のこと、好きなの?」

 花美は、わずかに目を泳がせた後、笑った。

「いや、もう別れたし、好きとかないよ!」

 その言葉に、きょうかの中で確信が生まれた。

 こいつ、嘘ついてる。

 一也と付き合ってもないし、そもそも「別れた」ってことにしたいだけ。

 一也のことを知ってる風に話して、何かしらの優位性を得ようとしてるだけ。

「そっかー」

 きょうかは雑巾をまたバケツに投げ込んだ。この話は、一也に確認するしかない。


•••


 放課後、きょうかはすぐに一也を見つけた。

「おい、一也」

「ん? なんだよ」

「お前、花美と付き合ってた?」

「は? いやいやいやいや、付き合ってねぇし」

 一也は即答した。

「っていうか、なんでそんなこと言うんだよ!?」

「花美がそう言ってた」

 一也の顔が、一瞬で青ざめる。

「マジで?」

「マジ」

 一也は困惑して、頭をかいた。

「え、ええ〜……そんなこと言ってたの? ………うん、そうだよ。付き合ってた。ほんの少しだけ…すぐ別れたけど」

 一也は苦い顔をしていた。まるでもう思い出したくないような顔だ。

「そうか………わかった」

 きょうかは一也としばらく話すことにした。

「あ…あのさ…今度四組行くわ」

「なんでよ…」

「俺、一組で友達ができないんだ。みんな勉強教えてって言っても無視してくるし、面白いこともしても、無視されるんだ。俺は頑張ってるのに…」

 きょうかはじっと一也を見つめた。

 彼の言葉は、妙に重く、苦しそうだった。

「そうか」

 それしか言えなかった。

 一也が今のクラスでうまくやれていないことは、噂程度には聞いていた。

 でも、本人の口から直接「友達ができない」なんて聞かされると、思ったよりも心に刺さるものがあった。

「でもさ、お前、花美と付き合ってたんだよな?」

 一也は、うんざりしたようにため息をついた。

「付き合ってたっていうか……なんつーか、あっちが俺のこと好きって言ってきたから、まぁ……流れで?」

「は?」

「でも、すぐ別れたって! マジで!」

「ふーん……」

 きょうかは無表情のまま、一也の顔をじっと見つめた。

「で、なんで別れたんだよ?」

 一也は、しばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。

「花美、嘘ばっかつくじゃん?」

「まあな」

「最初はさ、別にいいかなって思ったんだけど、ある日、俺のことをみんなに自慢してるの聞いちゃってさ……。『うち、一也と付き合ってるんだよね〜』とか、『一也のこと大好きなんだよね〜』とか言ってて……。なんか、俺のことをただのアクセサリーみたいに思ってるんだなって気づいた」

 きょうかの眉がぴくりと動いた。

「で、その日のうちに別れた。つーか、俺の口から別れ話したわけじゃなくて、花美が勝手に『もう冷めた』って言ってきて終わった」

「なるほどね」

 一也の話を聞いて、きょうかの中で何かが決定的になった。

 花美を、許すわけにはいかない。

 嘘つきで、虚栄心ばかりの女。

 ただの虚言癖ならまだしも、一也を利用して、自分をよく見せるために「付き合ってた」と言いふらすようなやつ。

(そんな嘘をついて、許されるわけがない)

 きょうかはゆっくりと口を開いた。

「一也、四組に来たらいいよ」

「マジで!?」

「でも、あんまり馬鹿なこと言ってると私も呆れるからな」

「お、おう……わかった」

 そう言いながらも、一也の顔にはどこか安堵の色が浮かんでいた。

(まあ、こいつは今さら嫌いになれないしな)

 でも、花美のことは別だ。

 あいつには、それ相応の報いを受けてもらわないと。


•••


 その次の日、一也の親友の渡嶋がこんなことを言った。

「お前、一也の話聞いたか?」

「うん?ああ、みんなの方に溶け込めないこと?」

「ああ、そうじゃないよ」

「…?なんだよ」

「一也、お前に対して近寄らないでって言ってた。俺からの伝言だよ」

「…は?いやいや、一也が?」

「あ、ダメだぞ、本人に聞いても。本人が近寄らないでって言ってるんだからそれを尊重してやれよ」

「……….は?」

「それにさ、あいつ歩実って女と仲良いんだよ。それにお前が一也好きなの、みんなに知られてるぜ?」

「は…?なんなんだよお前!」

 きょうかは渡嶋の胸ぐらを掴もうとしたが、そこで犬子が登場した。

「渡嶋!きょうか!どうしたの?」

「あっ…せんせ」

 きょうかは立ち尽くした。それを花美が心配そうに見つめる。

 なんなんだあれは。渡嶋は確かに一也と仲良しの同じ部活の部員だ。何を知ってるんだ。

「何かあったの?」

「犬子先生、俺と二人で話せますか」

「え?うん」

 犬子は渡嶋と共に行ってしまった。一人きょうかは立ち尽くしかなかった。


•••


「きょうか…渡嶋から聞いたよ。なんでも一也は君のことが嫌いで近寄らないでって言ったんじゃないって。一也は君に隠し事をしてたんだ」

「なんですか…」

「一也は、女の子が苦手で、顔が引き攣るらしいんだ」

「は?」

 きょうかは思わず聞き返した。

「顔が引き攣る? 何それ、どういう意味?」

 犬子は少し困ったように微笑みながら、ゆっくりと説明を続けた。

「一也はね、女の子と話すときに、無意識に緊張してしまって、表情が硬くなったり、ぎこちなくなったりするんだって。特に、君みたいにハッキリものを言うタイプの子には、余計に萎縮してしまうらしいの」

 「……はあ?」

 きょうかは、心の底から意味がわからなかった。

 一也は、あんなに自分に馴れ馴れしく接してきたのに?

 どこが「女の子が苦手」だって?

「そんなの、今まで見たことないですけど?」

 犬子は苦笑した。

「うん、でもね、それを隠してたんだって。だから、『近寄らないで』っていうのは、君に嫌われたいわけじゃなくて、単に自分がどう振る舞えばいいのかわからなかったからなんじゃないかな」

 何かがおかしい。

 確かに、一也はバカで、無神経で、無邪気で、だからこそきょうかはあいつのことを可愛いと思っていた。

 でも、「女の子が苦手」なんて、そんな話、今まで一度も聞いたことがない。

 (いや、待てよ……)

 一瞬、きょうかの中である可能性がよぎる。

 つまり、一也は「歩実」といるとき、本当にリラックスできているのか?

 もし、歩実といるときも本当は顔が引き攣っていたとしたら?

 もし、無理して笑っているのだとしたら?

 (いや、考えすぎか……)

 きょうかは頭を振って、目の前の犬子を睨んだ。

 「……先生、それってつまり、一也は私に嫌われたくないけど、どう接すればいいかわからなかったってことですか?」

 犬子は穏やかに頷いた。

 「そうかもしれないね。でも、これからどうしたいかは、君次第だよ」

 きょうかは、拳を握りしめた。

 (私は……どうしたいんだ?)

 一也を問い詰めるか? それとも、距離を置くか。どっちにしろ、このままじゃいられない。

 きょうかはついに決断した。

(様子見だ。しばらく…しばらく見てやる。近寄らないで欲しいのなら、お前を尊重してやる)

 しかし、この決断が後日、大きな影響を生む。


•••


 きょうかはいつものように学校から帰ろうとした。涙がぼろぼろ出る。

「近寄らないで」

 もしもそれが本当のことなら、きょうかの夢の通りに現実がなっているのだ。きょうかがあの日見た夢。花美と一緒にいた一也は自分を冷めた目で拒絶した。

「…まさかね」

 きょうかは一人で帰る。そんな時に変な音がした。

「…?なんだこれ、人の声?」

 男の声と、女の声だ。きょうかは声の元に近寄る。そして衝撃的なものを遠くから見る。

「だめだって!それはまずいって!」

「いいじゃん別に。なに、言うこと聞けないの?また殴られたい?」

「…キスはまずい!キスはまずい!!!」

 きょうかはその時見てしまった。まずいものを見てしまい、汚物を見るような目で歩実と一也を眺めた。

 目の前で二人はキスをした。苦しんでる一也にきょうかはじっと見てしまったが、歩実はきょうかに嫌な視線をじっとりと眺めた。

「………う、おえっ」

 きょうかは立ち去り、すぐに家に帰った。


•••


 きょうかは一也と歩実がキスしたのを思い出して、涙を流しながら家に帰った。

「どうしたきょうか!」

 純は戸惑い心配してきょうかに声をかけた。

「一也と歩実が………付き合ってて、それで一也は前に花美と付き合ってたんだよね……」

 事実を伝えたつもりだった。泣いてるきょうかを見て純は鼻で笑った。

「一也ってすぐ異性と付き合うんだ。女たらしじゃん」

 きょうかはその言葉を聞いて、胸が締め付けられるような気がした。純は、あくまで冷静に、まるで一也の行動に慣れているかのように言っただけだった。それがきょうかにとっては、何も分かっていないような、あまりにも無神経な言葉に思えた。

「それに、きょうかも分かってたでしょ?」

 純は続ける。

「一也はそんな性格だから。自分の気持ちに素直で、すぐ他の女に気を取られて。今更どうして泣いてるの?」

 きょうかは言葉に詰まった。泣いていた理由を説明できなかった。たぶん、純の言う通りだ。理屈では分かっている。それでも感情が押し寄せてくる。怒りと悲しみ、混ざった感情がぐちゃぐちゃになって、うまく整理がつかなかった。

「あ、あ、そうじゃない」

「え?なに。もしかして好き?」

「違う!ただ、あいつは…あいつは……」

 きょうかはここでとんでもないことを話した。

「あいつを壊していいのは、私だけだ」

「…へぇ」

 純は軽く笑った。きょうかにはこれが嘲笑に見えた。

「ま、いいや。手を洗って。ご飯あるから」


•••


 食卓の美味しい食事をとっても、祖父母と会話をしても、風呂に入って勉強をしても、悩みが晴れない。だが今は一也と歩実の話をしてもしょうがない。

 きっと純にまた振っても嫌な回答が帰ってくるだけだ。それに文句を垂れたりしたら、

「じゃあ、私にそんな話を振らないでよ」

 と言われて終わりだ。

 花美の嘘が気になる。一也と付き合っていた頃の話。しかも何がいけないかと言うと、自分だけがその話を知らないようだった。

(まあいい………やってやるよ)

 計画を立てて、永遠に騙す。そして頃合いを見て裏切って嘘の恐ろしさを伝える。花美が嘘をつくのなら仕方ない。

「明日は…許してやるふりをする。できるだけ花美が安心するように…」

 きょうかは静かに息を吸い込み、決意を新たにした。明日は花美に優しく接し、彼女が嘘をついていることを感じさせないようにしよう。そして、最後にはその嘘の真実を突きつけ、花美の顔にそれを見せる。

「あいつは嘘をついた。それを知っているからこそ、今は優しく接するんだ。いつかのタイミングで、すべてを暴いてやる」

 きょうかは自分に言い聞かせながら、何度もその言葉を繰り返した。

 翌日、きょうかはあえて花美の前で柔らかい笑顔を作り、何事もなかったように接した。花美は驚きながらも、きょうかの態度を受け入れ、いつものように話しかけてきた。

「きょうか…この前のこと怒ってないの?」

「え?怒ってないよ?」

「本当に?」

「あれは一也が悪いよ。花美は話を聞いてると悪いことをしていない。花美と仲良くするよ」

「ほんと!?ありがとう!!」

花美は嬉しそうに笑顔を見せ、きょうかに感謝の言葉を言った。その笑顔を見て、きょうかの心の中で少しだけ戸惑いが生まれる。何かを感じながらも、きょうかはそのままの態度で花美に接した。冷静に、そして少し距離を取って。

(本当こいつ馬鹿だな。頭悪いや)

 きょうかは花美の定期テストの点数が一也以下なのを知っている。余計に嘲笑が止まらない。それでも今は花美と仲良くして全てを聞き出す予定だ。

 きょうかは花美の行動に着目した。彼女は頭が悪いと言うよりも足が早く、体を動かす方が得意な様子を見せる。わかりやすい問題は簡単だが、わかりにくい問題にぶち当たると困るタイプなのだ。

(私はこいつよりも人間だ。人間をしているんだ)

 そう優越感に浸って毎日を過ごす。花美は意気揚々と毎日を生き続ける。

(見てろよ花美。全部壊してやるよ)

 ほくそ笑む人生が始まる。

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