第二話 過度な英雄扱い
学年内ではきょうかが学年一位になったことがもちきりだった。
そんな時に生徒会の話が始まる。友達や同期達がこぞって生徒会の重要なポストを気にし始めた。
「お前は、生徒会に入らないんだな」
二組の教師が四組の生徒であるきょうかにそう話しかけた。
「入りそうに見えますか?」
「ああ、興味がありそうに見えたんだ。でも入ろうとはしないんだな」
「…秩序には興味ないんで」
「へぇ、面白いこと言うじゃねえか」
「秩序には興味ないんで」
きょうかの返答に、二組の教師は少し目を細めて笑った。
「何笑ってるんですか?」
「秩序に興味がない、か……でも、お前は無秩序を望んでるようにも見えないな」
きょうかは、ペンをくるりと回して机に置く。
冷めた目で先生を見上げた。
「ただ、ルールを作る側になろうとは思わないってだけですよ」
生徒会は、教師の補佐をし、校内の秩序を維持する役割を担う。
だが、きょうかにとって、それは退屈な仕事だった。
(私が生徒会に入ったところで、何が変わる?)
誰かの決めたルールに従い、形式的な会議を繰り返し、無意味な書類を作成する。
そんなことに意味はない。
「……ま、でもお前ならやれると思うぜ」
「それ、嫌味ですか?」
「いや、本心だ」
二組の担任は肩をすくめて笑った。
きょうかは鼻で笑った。
「私は、成績がいいだけです。何かを管理したいわけじゃないんだ」
「つまり、上に立ちたいわけじゃない、と?」
「…上って何ですか?」
二組の先生はしばし沈黙したあと、「なるほど」と呟いた。
「お前は勝つことには興味があっても、人を統治することには興味がないんだな」
「……どうでしょうね」
二組の先生それ以上何も言わずに去った。
•••
昼休み、教室の片隅で、一也がゲームの話をしていた。
きょうかは、ふとその様子を眺める。
「いやー、俺マジで生徒会とか絶対向いてねぇわ」
「お前が生徒会とか冗談だろ」
「マジでやったらカオスになるわ」
一也とその友人たちは、ゲラゲラと笑い合っている。
そんな彼らの様子を見ながら、きょうかはふと、思う。
(生徒会か……)
確かに、入ればそれなりの権力を手にすることはできる。
けれど、それは私の勝ちとは何の関係もない。
生徒会に入ったところで、私は私以上にはなれない。
(私は上には興味がない……のか?)
違う。
きょうかは、ただ負けたくないだけだ。
誰かの上に立ちたいわけではない。
ただ、自分の価値を証明し続けたいだけ。
「きょうかは生徒会入らないの?」
梅が話しかけてきた。
きょうかは軽く笑って肩をすくめる。
「私がそんなことすると思う?」
「うーん……いや、しなさそう!」
梅は笑った。
「でもさ、きょうかが生徒会にいたら、なんか面白そうじゃん?」
「そう?」
「だってさ、学年一位の狗崎きょうかって、なんかカッコよくない?」
きょうかは、一瞬だけ言葉を失った。
(……学年一位の狗崎きょうか)
そうか。
私は、もうただの狗崎きょうかじゃない。
学年一位という肩書きを背負っている。
きょうかは、軽く鼻を鳴らした。
「私には、もっと面白いことがあるからね」
「えー、何それ!」
「さぁね」
梅が笑いながら去っていく。
きょうかは、ゆっくりと教室の窓の外を眺めた。
(私は……上に立ちたいわけじゃない)
(ただ、負けるのが嫌なだけ)
それだけは、間違いない。
•••
だがそれでもきょうかの元にもトラブルが舞い込む。廊下を歩いている時に姫瑠が近づき、姫瑠の制服が触れたような気がした。
「……………」
セーラー服とセーラー服が接触する。
「…………チッ!」
きょうかはいつもの通り姫瑠から逃げ出した。姫瑠にされたあの頃を思い出す。
「絶交だ」
「つまんない」
「甘えんな」
きょうかが勉強ができても、成績が上がっても、治らないものがあった。姫瑠を避けるくせだ。
「はっ……はぁっ………」
それでも前よりも白い目では見られない。しかし、誰かがこちらを見ていた。主任だ。
「………ふむ、あの子も何かありそうだ」
•••
その夜、純の携帯に電話がかかった。
「もしもし、狗崎です…え?きょうかのことで話がある?」
「はい…わかりました…きょうかがパニックに?人を避けて歩いてる」
「そうですか…わかりました」
携帯が切られる。純は携帯を眺めている。あんなに言ったのにきょうかの避ける癖が治ってない。
「どういうこと?」
•••
「話があるんだけど」
純はきょうかを上の部屋に呼んだ。祖父母は下の部屋で食事をしている。
「なんだよ」
「姫瑠のことまた避けてるって本当?パニックになったって聞いたけど」
「誰から聞いたの」
「あんたの学年の主任の蛙坂先生だよ!あんたね…パニックになって逃げるなんて、治してって言ったでしょ!」
「……………」
きょうかは困った。自分の弱みをつついて怒られたような気分だ。
(クソ!蛙坂め…!あんなセクハラ教師がパニック?馬鹿な弱みを暴露しやがって!あいつどうにしかして………)
「聞いてるの!?」
純がきょうかを叱る。
「……このままだと、多分犬子先生にも話が伝わってるよ」
純の言葉に、きょうかの指がピクリと動く。
犬子先生に?
あの人にこれを知られるのか?
「……それ、ほんと?」
「本当。先生たちは連携してるんだからね」
きょうかは無言で目を伏せた。
犬子先生はきょうかのことを気にかけてくれている。
成績が上がった時も、頑張ったねと褒めてくれた。
でも、もし、犬子先生がこの件で私のことを問題児だと思ったら?
もし、犬子先生がきょうかをどうにかしないとと考えたら?
(……そんなの、最悪じゃん)
きょうかは、拳を握りしめた。
•••
翌日、昼休み。
犬子がきょうかを職員室の前に呼び出した。
周りの生徒たちは何事かとちらちらとこちらを見ていたが、きょうかは気にしないフリをした。
どうせ大したことではない。そう思おうとした。
「きょうか」
犬子は優しい目で彼女を見つめる。
「蛙坂先生から話、聞いたよ」
きょうかは、心臓がギュッと締め付けられるような感覚を覚えた。
この先生は、責めるつもりで話をしているわけではない。
けれど、それが逆に怖い。
「……先生、私、パニックとかじゃないです」
「うん」
「ただ……関わりたくないだけで……」
「……そうだね。無理に関わる必要はないよ。クラスも離れてるしね」
犬子はきょうかの頭をポンと優しく撫でた。
その瞬間、きょうかは一瞬目を見開いた。
(あれ……?)
怒られないのか?
「避けるのは良くない」とか、「ちゃんと向き合いなさい」とか、言われないのか?
犬子は、ただ微笑んでいた。
「きょうかは、頑張ってるよ。この前も成績一番だった。家庭学習の量は学年一位だと先生達の中でももちきりなんだ」
「……え?」
「私は、無理に誰かと仲良くしなさいとは言わない。でも、きょうかが少しでも楽になれる方法があるなら、それを一緒に考えていきたいな」
犬子の声は、とても静かで優しかった。
きょうかは、喉が詰まるような感覚を覚えた。
「……楽になれる方法、なんて……そんなの、ないですよ」
「そうかな?そんなことないよ」
犬子は、きょうかの目をじっと見つめた。
「きょうかは、一人で頑張るのが得意だよね。でも、時には誰かに頼るのもアリなんじゃないかな?」
「……頼る?」
「うん。もし、姫瑠のことが気になるなら、先生が何かできることがあるかもしれないし」
「……」
きょうかは言葉を詰まらせた。
頼る、か。
私は、誰かに頼ったことなんてあっただろうか?
……いや、そんなはずはない。
私は、ずっと自分でやってきた。
自分で成績を上げて、
自分で人間になって、
自分で強くなったんだ。
(でも……)
きょうかは、ゆっくりと犬子の袖を掴んだ。
「……先生、私、強くなりたいです」
「うん」
「歌見のことを、どうでもいいって思えるくらい……強くなりたいです」
犬子先生は、静かに微笑んだ。
「うん。きょうかなら、なれるよ」
きょうかは、その言葉を聞いて、小さく息を吐いた。
(……私、今までずっと一人で戦ってきたけど)
(もしかして、こういうのが 支えってやつなのか?)
きょうかの心の中で、何かが少しだけ柔らかくほどけていくような気がした。
「まずはその事がどこから行くのか調べてみよう」
犬子はそう言った。そして純と犬子ときょうかの協力関係が作られた。
しかしきょうかは犬子に対して絆されていき、同時に少し純に冷め切っていた。
部屋で自分を怒る母親と、優しく頑張って行こうと支援する犬子。どっちがいいのかは明白だ。
(…だが、蛙坂は許さないな)
きょうかは蛙坂を陥れる計画を始めた。
•••
その計画について少しうやむやになった頃、蛙坂が他の生徒に嫌がらせをしている話題がもちきりになった。
発端はある生徒が蛙坂は気持ち悪いと言い始めたこと。距離が近い事、男子に激怒するところ、女子の体に触るところ。
そしてきょうか自身もまた他の生徒と蛙坂の話をすることにした。そしてやがて孤立したきょうかもまた他の生徒と話し合い、仲良くなる事が増えた。
「私見たんだ、蛙坂先生が女子生徒のお腹突いてたの」
「他にもね、頭をポンポンするんだよ。キモいのに嫌だよね」
「……そうなのか」
きょうかはみんなで蛙坂を嫌うことに楽しみを覚えてきた。蛙坂は確かにきょうかも嫌なタイプだ。しかし何かあればみんなとは協力しない。
だが次の授業は国語だ。蛙坂の担当教科だ。きょうかは癖のように足を組み、授業に参戦する。
蛙坂。あだ名はドブガエル。女子達に嫌われており、男嫌いで、嫌味ったらしい性格。
授業が進み、もうすぐで授業が終わる頃。
すると蛙坂は授業中に近づき、きょうかの左肩に触れた。
「君。足を組むのは──────」
男性教師に触れられたきょうかは初めて大声を出した。あまりにも驚いてしまい、近くの一也もぽかんとしていた。
「やめろ!!!!教育委員会に訴えてやる!!うあああああ!!!!」
きょうかは驚きすぎて椅子から転げ落ち、さらには走って女子トイレに走った。
「えっ、ああああ……」
走っていくきょうかは女子トイレに行って手を洗い始めた。
「くそ…私に触りやがったな!どこまでイカれてるんだ!」
しかし授業が終わると、女子達がやってきた。きょうかのことをよく思っていない生徒達もみんな明るい顔でトイレにやってきてきょうかを囲んだ。
「きょうか!ありがとう!」
明るくて美少女の友達が話しかけ。
「本当に!きょうかしかいないよ!あんなこと言えるの!」
毒舌で嫌味ったらしい友達がそう嬉しそうにする。
「ありがとう!」
「本当にありがとう!」
「蛙坂先生戸惑ってたよ!」
嫌がらせをされた女子達全員が、最初はきょうかに目もくれなかったのに今では英雄扱いだ。
•••
その日の放課後、きょうかは帰り支度をしていると、犬子が声をかけてきた。
「きょうか、ちょっと話せる?」
きょうかは肩をすくめ、他の生徒たちが帰り支度をする中で、犬子先生についていった。
職員室の前で立ち止まり、犬子先生は優しく微笑む。
「……先生、どうしたんですか?」
「蛙坂先生が、謝罪してきたよ」
きょうかは眉をひそめた。
「あいつが?」
「うん……『言い方が悪かった、驚かせてしまった』って」
「……謝罪って、私に直接じゃなくて先生に?」
「そうだね」
きょうかは舌打ちしそうになるのを堪えた。
(ふざけんな。なんで私じゃなくて犬子先生に謝るんだ?犬子先生は何にも関係がないだろ)
「で、どうするつもりですか?」
「どうするって?」
「先生は蛙坂の肩を持つんですか?」
「……そういうことじゃないよ」
犬子先生は困ったように微笑む。
「ただね……きょうかのことを、他の先生たちが少し気にしてるんだ」
「私のこと?」
「今日の授業中のことが、ちょっと大きくなっちゃってるからね。『蛙坂先生を陥れようとしたんじゃないか』って思う人もいるみたいで」
きょうかは無意識に拳を握る。
(何だよそれ。違うだろ…)
「先生は、きょうかのことを信じてるよ。でも、こういうのって、意外と裏目に出ることもある」
その時、廊下の向こうから声が聞こえた。
「きょうか、ちょっといい?」
振り向くと、クラスの女友達が立っていた。犬子が気を利かせるようにきょうかの肩を叩く。
「じゃあ、また後でね」
きょうかは友達と並んで歩きながら、少しだけ気分を落ち着かせようとした。
「……何?どうした?」
「いや、その……今日のこと、ちょっとやりすぎじゃない?」
きょうかの足が止まる。
「…え?やりすぎ?」
「いや、だってさ、確かに蛙坂先生キモいし、嫌いだけど……別にきょうかちゃんがそこまでしなくても……」
きょうかはゆっくりと息を吸った。そして鼻で笑った。
「そうだ、お前はあんな目にあってないもんね」
「いやまあそうだけど」
「でもね、あんな奴を謝らせたのは間違いじゃないと思うよ。私はそう思う。あんな奴、もっと困っとけばいい」
「そうかなぁ……」
「お前はあんな触られてないだろ?触られたら嫌なはずだよ」
(それに…みんな喜んでた。英雄扱いだ)
きょうかの自認は英雄ではない。だがみんな喜んでいた。それが少し嬉しい。歪んだ事があるが、感謝はされている。
この後蛙坂が一年生の最後にこの中学を立ち去るというのは別の話。
•••
純にもまた、きょうかが蛙坂に対して怒鳴り散らした話が入っていた。いや、有頂天になったきょうかが純に話していた。
「蛙坂は無様だったな。私に怒鳴られて怯えて謝っていた。他の子達も英雄扱いだよ」
きょうかは純粋に感謝されるのも悪くないと思っていた。しかし純は車で運転しながら眉を顰めていた。
「ねぇ、きょうか。あんたそれでいいと思ってるの?そんなことする必要あった?」
「……お母さんもそう思う?」
「まさかあんた、他の子にもそう言われたの?」
「うん」
しかしきょうかは悔いてる様子は無い。ため息を吐く純。
「蛙坂先生のことをそんなに怒ることないでしょ」
「それでもさ、間違っては無い。噂が広まって、みんなだって蛙坂を嫌ってるよ。被害者が多いんだよ」
「……うん、正しいことをしたかもしれない。でも、やり方が強引すぎる」
「じゃあどうしろって言うの? 黙って触られろって?」
「そういうことじゃない!」
純が珍しく強い口調で言い返す。
「ただ、あんたはいつも極端すぎるの。もっと別のやり方があったんじゃない?」
「はぁ……」
きょうかは深いため息をついた。
「じゃあ、お母さんならどうするの? ねえ、蛙坂に『やめてください』って言って、それで終わり? 何もなかったみたいに流して、また誰かが被害に遭うのを見て見ぬふりするの?」
「…………」
「そうだよね、お母さんはいつもそうだ」
きょうかは鼻で笑った。
「お母さんはさ、私が小学校の頃にいじめられてた時も、結局何もできなかったよね?」
「……それは、あんたが言わないから」
「それはそうだね。でもさ、何もできなかったのは事実だ。お母さんは確かにいじめ発覚した時にいじめっ子達に怒ってくれたよね」
「……あんた、それはいいじゃない!」
「何にも良くないだろ!私はやり返ししたんだ…」
「それはそれでいいじゃん」
「暴力も振るって姫瑠を苦しめ、先生に何か言われたら罵ってやったんだ」
「…それとこれとは話が違うよ!このままじゃ…あんたの極端さが心配だよ」
「………!??はぁ?極端でも解決してるならいいじゃん」
「でもね、みんな確かにあんたに感謝してる。でももうこういうのはやめてね」
「……」
わからない奴だときょうかは純を嘲った。そして犬子の優しい微笑みを思い出した。
(全然違う………)
厳しい純と、優しい犬子。きょうかに新しい感情が芽生え始めたが、きょうかは何も気づかなかった。
•••
蛙坂はクビにはならないが、もう女子生徒の体に触ったり嫌なことを言ったりするのはやめたという噂がこの学校で蔓延した。
きょうかはまるで学校の「正義の味方」になったかのようだった。
「きょうか、本当にありがとう!」
「私の代わりに言ってくれて、スッキリした!」
「まじで最高!蛙坂もうビビってるよ!」
授業中、休み時間、体育の前後、どこへ行っても誰かがきょうかに声をかけてくる。
最初はその歓迎ぶりに戸惑ったが、次第にきょうかはその立場を受け入れ始めた。
ここでは、自分は認められている。
この「人間」としての地位を守りたい。そんな気持ちが芽生えていた。
かつて小学校時代、誰からも疎まれ、虐げられ、馬鹿にされていたあの頃とは違う。
今、きょうかは「英雄」として扱われ、周囲にとっての頼れる存在になっている。
(悪くない……いや、むしろ、最高じゃん)
そして、それは勉強の面でも変わらなかった。
昼休みになると、きょうかの周りには自然と人が集まる。
「勉強を教えてほしい」と頼んでくる生徒も増えた。
「ねぇ、きょうか!次の数学の範囲、一緒に解かない?」
「お前、この前一位だったらしいな!どうやって勉強してんの?」
「次の英語、コツ教えてくれよ〜!」
そして、その中で最もきょうかに懐いてきたのが、一也だった。
きょうか〜!ねぇ、勉強教えてくれよ〜!頼むって!」
一也は猫なで声を出しながら、机に肘をついてきょうかを見上げる。
「お前、また何もやってないんじゃないの?いい加減、自分でやれよ」
「やるって!でも、お前に見てもらったほうが早いじゃん!ね?お願い、先生〜」
「誰が先生だよ……」
一也のバカさ加減には、呆れるばかりだ。
成績はひどい。国語は25点、理科も40点ほどしかない。
しかも、努力しようとする意志があまり感じられない。
(まったく……こいつは、どうしようもないな)
そう思いながらも、きょうかはふと気づいた。
一也のような「何も考えていない馬鹿」は、今までの人生でほとんど関わったことがない。
姫瑠のように策略を巡らせて人を支配しようとするタイプとも違うし、蛙坂のように立場を利用して調子に乗るような大人とも違う。
一也は、ただの「バカ」なのだ。
純粋にバカで、怠惰で、無能で、ずる賢いくせに妙に人懐っこい。
(……なんだろう、この感じ)
一也を見ていると、どこか「ペットのような可愛さ」を感じる。
バカすぎて逆に手を差し伸べたくなる、そんな類の存在。
「はぁ……しょうがないな」
「え、マジ!?ありがとう!きょうか神!」
きょうかは少しだけ笑いながら、ノートを一也の前に差し出した。
周りのクラスメイトも「お、また一也がきょうかに頼ってる」と微笑ましく見ている。
しかし一也は勉強をしていると眠くなったのか眠ってしまった。
「うーん………」
一也の隣の席には女子がいる。それでもきょうかには一也が可愛くて甘えん坊な寄生虫に見えた。
それでも子犬のように可愛い。いや、一也の体は大きいので大型犬でもいいのかもしれない。なんて考えながら一也を揺り動かして起こすこともしなかった。
(それにこいつはきっと努力していない。私がやってきたことも無駄なんだけど…こいつの成績が伸びないのならそれでいいかな)
一也の寝顔を見ながら、きょうかはため息をついた。
(はぁ……こいつは一生変わらないんだろうな)
努力しない、勉強もしない、けれどどこか憎めない。
クラスの女子たちは「また一也がきょうかに頼ってる」と笑いながら遠巻きに見ている。
普段なら、きょうかはこんな怠惰な生き方を許せない。
だが、一也に限っては例外だった。
バカだから。
何も考えていないから。
自分の劣等感も、プライドも、自意識すらも、全部関係なく、ただ「教えて〜」と甘えてくる。
そして、何の疑いもなく、きょうかの言葉を受け入れる。
(……だからこいつは、私を傷つけない)
一也がバカでいてくれる限り、きょうかはこの時間を楽しめる。
自分が「上にいる」と思えるからだ。
彼女はノートをめくりながら、一也の乱れた字を眺めた。
相変わらずひどい。読めたもんじゃない。
「……一也」
「んん〜……」
寝ぼけながら顔をあげる一也。目をこすって、だるそうにあくびをする。
「お前さ、せめて字くらいまともに書けよ」
「えぇ〜?オレの字、そんなに読めない?」
「読めない。これは犬じゃなくて大だし、数の最後の点も抜けてる」
「まじか〜、でもさ、だいたい合ってればいいじゃん?」
きょうかは軽く頭を抱えた。
こいつはだいたいで生きてる。
だいたいで許されてきた人生。
自分とは真逆だ。
(私がだいたいで生きられたら、どれだけ楽だったんだろう)
だが、そんな考えはすぐに振り払う。
違う。そんなことを考えても意味がない。
「……もういい、寝てろ」
「え、マジ?きょうか優しっ!」
「違う。お前に教えても無駄だって思っただけ」
「でもさ、俺、こうやって教えてもらえるの、結構楽しいんだよね」
「……は?」
「だって、きょうかってさ、俺のことダメだな〜とか言いながらも、ちゃんと教えてくれるじゃん?」
「…………」
「は〜。頼れるなぁ」
一也の言葉に、きょうかは少し息を詰まらせた。
そうだ。
自分は何だかんだ言いながらも、一也の勉強を見ている。
嫌いだったら、最初から無視しているはずだ。
(……いやいやいや、違う違う)
一也の無邪気な笑顔に釣られそうになり、きょうかは慌てて思考を戻す。
これはあくまで、ペットを可愛がるようなもの。
バカすぎて無害だから許しているだけ。
それ以上の意味はない。
「……あのな、一也」
「うん?」
「もう少し、自分で考えて勉強しろよ」
「え〜、だって考えるのめんどいし」
「だからお前は馬鹿なんだよ」
「はは、でもさ〜、きょうかがこうやって教えてくれるし、別にいいかな〜って」
一也は、本当に何も考えていない。
この適当さ、怠惰さ、楽観的な思考。
全部、自分にはないものだ。
(私は、こいつみたいにはなれない)
けれど、ほんの少しだけ。
一也みたいに、どうでもいいやと力を抜いて生きてみたいと思うこともあった。
……でも、それができないから、きょうかは「狗崎きょうか」なのだ。
きょうかはため息をつき、ペンを机に置いた。
「もういい、お前は一生バカのままでいろ」
「え、ひどっ!」
「でもまあ……しょうがないな」
小さく笑いながら、一也のノートを軽く叩いた。
一也はきょとんとしながら、それを見ていた。
•••
姫瑠には着々と友達が減っていた。もう群れてくれるのは歩実しかいない。そしてある噂も蔓延した。
「聞いた?姫瑠って卓球部の女子達いじめてるらしいよ」
「本当?姫瑠って卓球部だよね」
「私達、ほら、一年生じゃん。でも姫瑠がいじめてるのは同期なんだよ」
「同期?」
「なんでも、無視したり八つ当たりしてるんだって」
きょうかはその様子を聞きながら歩いていた。
(…無視と八つ当たり、か)
きょうかは内心こう思った。姫瑠のいじめのレベルは確実に下がっている。きょうかにあんな苦しめるようなことをしておいて。確実にいじめのレベルが下降している。
(……弱くなったな)
きょうかは心の中で、どこか冷めたようにそう思った。
小学校の頃、自分にしてきたあの洗脳じみた支配、恐怖を植え付けるような言葉、逃げ場をなくすような束縛。
それに比べたら、「無視」と「八つ当たり」なんて、まるで子供の悪あがきだ。
(まるで……自分の力がなくなったのを自覚してるみたいじゃん)
もし姫瑠が今でも全盛期の支配力を持っていたなら、こんな陰湿な手は使わないはずだ。
むしろ、表立って「私が正しい」と言わんばかりに支配するはず。
(あいつ、もう終わりかけてるんだな)
そんなことを考えながら、きょうかはゆっくりと階段を下りた。
そこには、一也が待っていた。
「おーい、きょうか! 帰ろうぜ」
「……お前、宿題やった?」
「……え?」
「はぁ……やってないよね?」
「いや、まあ、その……」
一也はへらへらと笑って誤魔化す。
きょうかは呆れながらも、どこか微笑ましく感じていた。
(まあ、こいつはバカのままでいいか)
姫瑠みたいに、自分の支配力が落ちたことにすら気づかず、必死に足掻くよりは。
バカはバカなりに、怠惰に生きてるほうが、ずっとマシだ。
しかし、一也はあまりの馬鹿さ加減にきょうかの気持ちを台無しにするようなことを言った。
「最近姫瑠の噂、よく聞くね」
「…お前小学校時代あいつと同じクラスだったよな。五年と六年」
「えー詳しいね!ストーカーなの?」
「違うよ。お前、あいつと同じ委員会だったろ。ボランティア委員会」
「あー、はは。まぁね…でも、俺思うんだよ。姫瑠って悪い奴じゃ無いよねって」
「え……」
馬鹿で無能な一也がとんでもないことを言った。きょうかの脳が殴られてような感覚を得る。
「…は?」
「俺、よくわかんないけど…あいつと接した時に思ったんだ。あんまり悪いやつに見えないよ」
きょうかは裏切られたかのような錯覚に陥った。だが一也は自分の目線で意見を言ってるだけで別に悪いことではない。
だがその事が余計にきょうかを怒らせた。
「黙れ!」
「えっ!え!なんだよ〜〜〜〜」
「わかんないなら話すな!黙れよ!あいつは頭のおかしい気狂いなんだ…!!!私にはわかる!お前はボランティア委員会で優しくしてもらったんだろ!?あいつはそういうやつだ!」
「えっ!ええ〜!!!」
「もういい!帰る!」
きょうかは一也に背を向いて別の方向から遠回りし始めた。
「あ、ど、どどどどうしよう……」
一也はきょうかに怒鳴られてしまった。そして一也もまた一人になってしまった。
•••
次の日、犬子が現れた。
「きょうか、ちょっと」
犬子は相変わらず優しい顔をしていたが、きょうかは一也のことを理解した。
(あいつ、ちくったな)
いつもそうだ。そうやって先生を味方につけようとする。所詮こいつもただの蛆虫だ。そう思った。
しかし犬子は別室ににつくなり、こう優しく説くように話した。
「一也がきょうかに酷いことを言ったと後悔しててね。悪かった、もうしないって言ってた」
「……は?」
きょうかは有名なボクシングの選手に殴られたような衝撃を脳内で受け入れた。
「つまりそれは…ごめんなさいってこと?」
「うん、本当に申し訳なさそうだった。きょうかのこと、友達みたいだと思ってるし、面白いから、嫌なことはしないって言ってた」
「…………じゃー私に謝れよ………」
(謝ったって許してやらない。それになんだ、友達みたいって)
それでもきょうかは一也の聞いた言葉を飲むように受け入れる。
(………こいつ、私に謝ったのか)
きょうかは過去のことを思い出した。きょうかに嫌がらせをする男子は誰も謝らない。むしろきょうかが暴力を振るうので純が他の家に謝りに行った。男子の親達は自分の子も悪かったと優しくいうが、中には純を怒鳴りつける親もいた。
それでも周りは驚くほどきょうかに謝ることはなかった。男子も女子も先生も。
だがきょうかは一也のことが気がかりだった。何であいつは謝ったんだ。この私に。とすら思った。
一応、許してやることにした。だがきょうかは一也が苦しんで謝ったのと理解すると、少しながらの嗜虐心が現れてきた。だがそんな嗜虐心も一也が勉強を教えて欲しいときにさりげなく断り、あまりしつこいなら怒鳴りつける。それくらいだった。そしてまた一也自身もそんなに嫌味なことを言わない頭の悪い奴だった為、あまり揉めることはなかった。
きょうかは一也の謝罪を受け入れたものの、完全に許したわけではなかった。
ただ、どうにも釈然としない気持ちが残る。
(なんで、こいつはこんな簡単に謝るんだ?)
今まできょうかに嫌なことを言った人間は大勢いた。
でも、誰も謝らなかった。
むしろ「きょうかが悪い」と責められることのほうが多かった。
なのに、一也はあっさりと「悪かった」と言った。
しかも、それを犬子先生に伝えて、自分から仲直りしようとしている。
(……バカだからか?)
一也は根本的に、きょうかが今まで関わってきた人間とは違う。
きょうかを支配しようとした姫瑠とも、自分を守ることしか考えなかった大人たちとも違う。
ただ、「悪かった」と思ったから謝る。
それだけのことなのに、なぜかきょうかの中では妙に引っかかる。
「……ま、別にいいけど」
犬子の前ではそう呟いた。
「そう、よかった。きょうか、一也のこと、また友達として接してくれるといいな」
「……考えとくよ」
犬子は微笑んで、それ以上は何も言わなかった。
•••
翌日、一也はきょうかにおそるおそる話しかけた。
「あの、さ……この前はごめんな?」
「……わかればいいんだよ」
きょうかは一也の顔をちらりと見た。
昨日の一件で妙に意識してしまいそうになったが、こいつはバカで能天気なやつだ。
下手に気を使うと、また甘えられそうで面倒くさい。
「……それで、さ」
「何?」
「この前の続き、教えてくれない?」
「……ふざけんな、馬鹿」
一也は「ですよねー!」と笑いながら、別の友達のところへ逃げていった。
きょうかはため息をつきながら、どこか安心したような気持ちで彼の背中を見送った。
(……まあ、こいつはバカのままでいいか)
それでも、一也の「謝る」という行為が、きょうかの中で小さな爪痕を残していることに、彼女はまだ気づいていなかった。
(今里一也……本当に馬鹿なんだ。私に謝るなんて)
•••
その頃、美術部の先輩達の中でもきょうかの話は有名だった。
「きょうか、あんた蛙坂にあんなことしたの覚えてる?その話私達と中でもちきりなんだよね」
「……そうですね。その通りですね」
放課後の美術室。
パレットに絵の具を広げながら、三年の先輩がふと話しかけてきた。
きょうかは筆を動かしながら、軽く流すように答えた。
だが、先輩は真剣な顔で続ける。
「ありがと」
「へ?」
「私達も蛙坂に困ってんたんだ。女子には馴れ馴れしいし、指導も意味不明なくせにプライドだけ高いし。いちいち生徒に突っかかってくるしね」
「……そうだったんですね」
きょうかは少し驚いた。
自分の行動が、知らないところで感謝されていた。
「みんな影で文句言うだけだったけど、あんたは違った。あんなふうに公然とぶちギレてくれたの、正直すっきりしたよ」
「……まあ、私は私のためにやっただけですけど」
「それでいいんだよ。あんたみたいに行動する人がいなきゃ、何も変わらないんだから」
先輩はニッと笑う。苦手な先輩だが、きょうかにはそう言われると嬉しくなった。
(これが……嬉しさなのかな)
•••
しかし、きょうかも病院で検査を受けた。それでも釈然としない結果だったので、きょうかはさらに大学に行き、心理相談室を受けた。
きょうかの話を聞いて、心理相談室にいる大学教授・芝は結論を出した。彼は蛙坂の知り合いだが、きょうかが蛙坂にあんなことをした話は知らない。
「きょうかさんは、PTSDだと思います」
「…は?」
きょうか、が目を見開く。
隣に座る犬子も、驚いたように目を丸くする。
純は眉をひそめ、疑問を投げかけた。
「あの心的外傷後ストレス障害のことですか?」
「ええ」
教授は頷き、資料をめくる。
「きょうかさんの話を聞いた限り、小学校時代のいじめによる心理的な影響が、今も強く残っている可能性があります。特に、姫瑠さんに対する過剰な拒絶反応や、教師に対する強い敵意……これは典型的なトラウマ反応です」
きょうかは、無意識に拳を握りしめた。
(ふざけるな……)
自分が「傷ついた側」だとは思いたくなかった。
誰かのせいで心が壊れたなんて、そんなの……弱者の言い訳じゃないか。
「……そんなこと、ありません」
きょうかは強がるように言った。
「私はただ、正しく戦っただけです。蛙坂は気持ち悪かったし、姫瑠は最低の人間でした。それだけです」
「それはそうでしょう。でも、きょうかさんの行動には、過剰な反応が見られます」
「過剰?」
「はい。たとえば、姫瑠さんが近づくだけでパニックになること。それから、蛙坂先生に触れられたときの激しい拒絶反応。こういった極端な行動は、過去のトラウマが関係している可能性が高い」
「……」
きょうかは口を開けかけて、閉じた。
そんなこと、認められるわけがない。
(私は……私はただ、私を守るために戦っただけだ)
「……それはただの甘えです」
「そう思いたい気持ちはわかります。でも、実際に貴方は今も過去に囚われている。だからこそ、適切な治療が必要なんです」
「治療?薬でも飲めっていうんですか?」
「薬物療法は最終手段です。まずはカウンセリングを受けることから始めましょう」
教授は穏やかに微笑んだ。
「あなたが人間として生きやすくなるために」
その言葉に、きょうかの胸がざわついた。
(……人間)
私は、ずっと人間になるために戦ってきたのに 。
「……考えておきます」
それだけ言って、きょうかは視線を逸らした。
犬子が優しく微笑んで、肩に手を置いた。
純はまだ納得していないような顔をしている。
外の世界は相変わらず騒がしく、人々は何も知らずに日常を生きている。
•••
「今日ここに来れてよかった。きょうかのことがもっと知れたよ」
「…え?」
「でもここからが始まりだよ。今は姫瑠と距離が離れているからいいけど、これとどう向き合うか、だよね」
犬子ときょうがが話しているところを純は後ろから黙って見ていた。
「…はい、でも私は」
「わかってるよ。きょうかは今までずっと一人で頑張って戦ってきたんだよね。うんうん」
犬子はきょうかの頭に手を置く。子犬を撫でる優しい手つきだ。
その様子に純は眉を顰めた。
(なんなんだ、あれ。一人で頑張って戦ってきた?私もあの子のために守ろうとしてきたのに?)
きょうかを守ろうとしたことが、無かったわけではない。
小学校の頃、姫瑠にいじめられたと知ったとき、必死に担任に訴えた。
きょうかの成績が伸びたときは、何度も何度も褒めてやった。
高校受験のために塾にも通わせたし、努力を認めてやろうとした。
(……なのに、きょうかの中で戦ってきたのは自分だけなのか?)
純は、無意識に拳を握りしめた。
きょうかの視線は犬子に向けられている。
まるで、「この人こそが私の理解者だ」とでも言わんばかりに。
(バカバカしい。違うでしょ、きょうか)
純は表情には出さなかったが、内心で苛立ちが募るのを感じていた。
「私は」
純は口を開きかけたが、そのまま言葉を飲み込んだ。
ここで犬子に反論しても仕方がない。
それに、今のきょうかは明らかに犬子を信頼している。
(……今は黙っておこう。私は大人なんだ。今は犬子先生ときょうかと連携をとるんだ)
純はゆっくりと息を吐いた。
だが、このまま犬子がきょうかの「唯一の味方」になってしまうのは気に食わない。
(……どうする、私)
考えながら、純はきょうかの横顔をちらりと見た。
きょうかは、犬子の言葉を飲み込もうとしている。
そして、それを認めたくない自分がいることにも気づいているようだった。
(まだ、終わりじゃない)
純は心の奥でそう呟き、黙ってその場に立ち尽くしていた。
•••
きょうかと純は共に家に帰った。車で田舎の街を走り抜け、これからのことを考える。
「……あんた、あの病気だったんだ。PTSDってやつ」
純の声はどこか遠かった。
きょうかは助手席でぼんやりと外を見つめながら、曖昧に答える。
「…私は違うよ。そんなことないって」
「でも、あの様子だとそうなのかもしれない」
「………そうか」
「ごめんね。あんたのこと何にも知らないで怒っちゃって。蛙坂先生に言われた時にまたやってるって思ってしまった」
「………」
車内の暖房が効いていても、きょうかの指先は冷たいままだった。
母親に謝られるなんて、思ってもみなかった。
いつも純は「正しいこと」を言う人だった。
「これが普通だ」「こうするべきだ」と、きょうかの行動に評価を下す人だった。
だから、謝るなんて思いもしなかった。
(……何なの、それ)
今さら謝られても、何が変わるわけでもない。
それに、きょうかは純のことを完全に嫌っているわけじゃない。
「……別に、いいけど」
そう言って、また窓の外を眺めた。
遠くの山の上に、白い雪が積もり始めている。
冷たい風が吹き荒れるブリザード。
もうすぐ、宿泊研修がやってくる。
(……どうせ、あのクラスの奴らと過ごさなきゃいけないんだろうな)
冬の寒さが、胸の奥に染み込んでいく。
•••
そのまたしばらくして、きょうかは美術部員の男子生徒が項垂れているのを発見した。
「おい…お前!大丈夫か?何かあったの?」
「あ、どうも……きょうか」
男子生徒はクラスメイトの倉田だ。だが倉田は全く元気がない。
「どうしたんだよ!」
そして陰気な子が多い美術部員は倉田に誰も声をかけない。
「……俺、昨日電話が入ってさ。彼女に別れようって言われたんだ」
「え?お前の彼女って」
「うん、お前の友達の葉一光な。で…そいつにさ、俺…別れようって言われて…何で?って聞いたんだ。そうしたら好きな人ができたからそいつと付き合うっていうんだ」
「そいつの名前は?」
「あー…確か坂田だったかな。ほら、陸上部員で」
きょうかは倉田の発言を聞いてあることを思い出した。坂田は運動神経抜群で弱音を吐かない陸上部員。筋肉質で頼もしく明るくみんなにも優しい。そして目の前の倉田は顔は可愛いが病弱で体の具合が常に悪く、運動ができない。だから体は華奢でまるで女のようだ。そして何よりも倉田はサッカーをしたり走るのが夢だった。だがその体で夢が叶わない。
きょうかはそう思った。だが倉田の悲しそうな目を見ると黙っていられなかった。
倉田の肩が小さく震えていた。
きょうかはその様子をじっと見つめる。
(負けてしまったのか)
そう思った。
彼はただ、運動ができないだけで。
ただ、生まれつき体が弱かっただけで。
それだけで、恋人に捨てられる理由になったのか。
「……辛いな……」
自分でも珍しく、率直な言葉が出た。
倉田はゆっくりと顔を上げる。
「……まぁ、仕方ないよな……坂田はすげぇよ……あいつが勝つのは当然だ……」
笑おうとしている。
自分を納得させようとしている。
だけど、声が震えている。
きょうかは拳を握った。
(ふざけんな)
この世界は、どこまでも残酷だ。
強い者が勝ち、弱い者は捨てられる。
勉強ができなければ馬鹿にされる。
運動ができなければ見向きもされない。
そして、勝てなかった者は、惨めなまま置き去りにされる。
「……なあ、倉田」
「ん?」
「もうお前、今日は休めよ。絵もそんなに描くようにしなくていい。お前は色々思うところあるけど、それでも休むんだ」
初めてきょうかは人生で倉田を労った。ほっとけなかった。
(こいつは負けたんだ。坂田のように走りたいのに、坂田は生まれつき走ったりサッカーもできる。陸上部だからサッカーメインじゃないけど、筋肉だってつく)
俯いた倉田を見てきょうかは無意味な励ましはしなかった。だが同時に倉田を傷つけるのはいけないと一種の優しさを見せた。
(こいつを傷つける奴は、みんな外道なんだ)
「……わかった。今日は、帰る」
「そうしろ」
倉田は立ち上がり、鞄を手に取る。
美術部の他の部員たちがちらりと彼を見るが、何も言わなかった。
「……じゃあな」
そう言って、倉田は部室を出ていった。
だが、きょうかはそれを気にすることなく、次の作業に取り掛かった。
(……さて、私もやることやらないとな)
そう思いながら、キャンバスに向かい、筆を取った。
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