第一話 人類と化け物の地上戦



 羽泉小学校の六年生は、本日をもって卒業する。   

 中学の真新しい制服に身を包んだ九十一人が卒業式を迎え、多くの教員の涙をぼろぼろと流させ、親が成長を見守り、これから新しいステージに踏もうとするその時の話。

 誰もが明るいことを考え、中学に対する前向きな気持ちを示し、卒業の手紙に笑って泣いた。しかし、特に泣いておらず嫌いな女子の同期をじっと睨めているだけの女子小学生がいた。

 そこにいたのは、狗崎きょうか。主人公。そして、主人公とは言えないような、平凡な中にも明るさや信念があるわけでもないその態度。今の彼女は主人公というよりも、悪役の中でもすぐに倒されそうな弱い雑魚キャラだ。

 しかし、きょうかは心だけは立派だった。だが、悪い意味での立派だ。彼女はセーラー服に身を包んだ別のクラスの女の子をただただじっと見て、歯軋りをする。

 そして内心呟いた。

(歌見。お前よりも成績が上がって、実力を積む。優秀な高校に入って、お前から逃げる。私の人生は、それでできてるんだ)

 その言葉は自分の心と頭を直撃する、鋭くて苦しい痛みだ。だが、きょうかは絶対にそれを歌見姫瑠には言わなかった。

 自分はいじめられたが、加害者になってしまえば問題はない。いじめられた分勝てばいい。そんな思考が彼女の脳を埋め尽くす。

 きょうかの手にはくしゃりと皺のついた嫌いな担任の教師からもらった手紙が握られていた。

(あの教師はろくでもない。私を悪者だと疑い、怒り、時に激しく怒鳴り散らしたんだ。私にどうしたの?と聞かなかった。耳を傾けなかった)

 その全ても、もうここで終わる。そう言いたげなきょうかはぺらりと教師からもらった手紙を開いた。自分のことを内申書で長所はこの子にありません、と言ったあの人の手紙だ。

「きょうかちゃんは発想力がいいと思います。これからもそれを活かして頑張ってね」

 意味がわからなかった。

 お前の前で、いつ、私が発想力を生かしたというのだ。

 お前の前で、創造力が長所として生かされた時などあったか?

 違う。お前は私がおかしいのをあえてポジティブに言い回したいだけだ。

 担任の言葉は首に合わないネックレスのようだった。綺麗なのに強く締め付ける。太った女がそれをつけたら、まるで刺さってるような、アレだ。

(ま………今日もこれで終わりだ)

 きゃぴきゃぴと、聴覚過敏を刺すような高い声で女の子達が話している。

「ねーねー!また遊ぼうよ!同じ中学じゃなくてもさ!」

「おっ!いいねぇ!遊ぼ遊ぼ」

 きょうかはこれほど一人を喜んだことはない。人生で最後の一人を心から楽しんでいた。その態度は他の群れた生徒から見えたら違和感をより感じる。

(どこまで持つかな。どのみち私達は、変わりゆくのさ)


•••


 きょうかは中学校がどこにあるのかわかっていた。

 羽泉中学校。地元の市立中学校。日本の羽泉町の、田んぼがたくさんある真ん中の中学校。

 母親の純が隣で考えるきょうかに声をかけられた。

「お母さん」

「どうしたの?」

「私、塾に行くよ。夢ができたの」

「夢?」

 純は珍しそうな顔をした。あの怠惰なきょうかが夢を語るなどと、珍しい。

「得意なことで一番になることだよ」

「得意なことで一番に…?」

「勉強したいんだ。実力を高めて黒百合高校に通いたいんだよね」

「それって県で一番の高校だよね?どうして…?」

「だって、実力で何か勝ち取らないとさ────」

 きょうかは純に初めて向けたことのないギラギラとした目を向けた。それはまるで獲物を狩るのではなく潰して回るような目だった。

「姫瑠から逃げられないじゃん」

 正しく、平和主義な純からしたらその動機は邪で、驚くものだった。

 だが、純は自分の子供が勉強してくれる気になって嬉しさが勝った。この際動機なんてどうでもいい。

 もしこの子が一番になれば、それはすごいことなのではないだろうか。

 お世辞にも頭も良くない、すぐに人と対立し、先生とも不和を起こした、この災害のような娘が。

 運動神経もつまらないくらい低い、歌も音痴だと馬鹿にされ、絵も描いているのに嘲笑われる、社会的に周りから嫌われていく実子。

 そして揉めたら男子を掴み掛かり、攻撃するようなこの荒々しい子供が、周りから精神病を疑われているような、凡人以下の俗物。

 もちろん純はそんなことを思ったことがない。ただ、自分の子供は効かない性格で人の気持ちに沿わないだけの娘だと思っている。

 だが、純は口を開いた。

「いい塾見つけたんだ。こくすうっていうところでね…!予定を組むから行こう。勉強しないとね」

「…!うん!」

 きょうかは塾に入り、勉強の道に進み、優秀な高校に行くことを視野に入れる。

 中学に入り、周りの人間に実力を誇示して、自分の優位性を認めさせる。

 その動機がどれだけ不純で、周りの純粋な夢を破壊するものであっても、きょうかは知らない。どうでもいい、勝てれば興味がない。 

 だがその周りに優位に立つための支えとなる担任の出会いが、きょうかをどれだけ破滅の道に突き進むなんて、誰も知らなかった。


•••

 

 新しくやってくる生徒達や入学式の進行を見てもなんら感動はしない。まるで、自分には気持ちがないような。そんな態度を示す。

 それでもきょうかは冷たく辺りを一瞥した。

(歌見もこの学校に入ったんだな)

 きょうかは無表情に入学式の進行を眺める。歌見は猫背で椅子に座っていた。背が高いのに台無しだと思いながらもきょうかは前を向いている。

 国歌斉唱。日本の国歌を歌う。きょうかはみんなと共に立ち上がり、まるで適応するかのように国歌を歌う。

 それを誰かが見ていた。担任となる来原犬子だ。骨が目立つ骨格の低身長、そしてほりの深い顔は日本人でありながらもポーランド人のような要素を感じさせる。

 きょうかは犬子の視線に目もくれず、前を向いて歌を歌う。そして時間が終われば椅子に座り、黙って進行が終わるのを見守る。

(この後は高校受験に向けて成績を上げないとな。塾にも入ったし授業はわかりやすいだろう。あとは…間違いなくこの学校で暴力は通じないな。ここからは成績を上げて姫瑠と同じ高校に行かないようにする。それだけだ)

 入学式がそろそろ終わろうとしていた。四月の昼の頃だった。


•••


「君は狗崎きょうかさんっていうんだね」

 犬子は真っ先にきょうかに話しかけた。きょうかは首を傾げながら冴えない受け答えをする。

「え?は、はぁ。私がきょうかですが…?」

「私は来原犬子」

「犬子先生…ですか」

「不思議だね。君は狗がついてる。私にも犬がついてるね」

「………」

「国歌歌うの上手いんだね。歌が上手なのはいいことだと思うよ。これからもよろしくね」

 きょうかは立ち去る犬子の背中を見つめた。冷徹な視線を送るが、ふとその視線が下に向いた。

(やけに静かに褒める先生だったな)

 変な違和感と居心地の悪さが残った。


•••


 クラスを確認する。きょうかは四組だった。

 その頃、姫瑠は一番離されて一組だ。これで体育の授業でも一緒になることはないだろう。安心したきょうかは授業を受けることにした。

 きょうかのクラスには小学校時代からの知人が半分くらいいる。自分のクラスをどうでもよさそうにするきょうかでも、まだ優しかった人達が四組に入っていた。

「それではみんなには係活動を決めてもらおうと思うの。係はこんな風にあってね…」

 口頭説明を黙って聞いた後は、全員でなんの係に入るか群れることになる。きょうかは二人の知人に誘われて掲示係をやろうとした。

 その知人は、なんら関係のない小学校の同期。きょうかを馬鹿にしなかった違うクラスの可愛い女の子達。

「きょうかと私達三人でやろうね!」

「…あれ?」

 どうした、ときょうかは知人に聞いた。

「あの子一人だよ?」

 知人の一人が指をさす。音楽係の女子生徒は一人で残っていた。犬子も困った顔をする。

「困ったな。一人で係はやるものじゃないしな……そういうルールだし」

 空気が一瞬で変わった。知人二人はきょうかと話し合う。

「どうする?誰かが抜けないといけないよ?」

「そうだね。…でも、どうしよう……」

 知人二人は互いに仲良しだった。きょうかはしばらくして自分が抜けるべきだと判断した。

「わかった、いいよ。私が抜ける。二人は二人でやればいいよ」

 きょうかは目を細め、二人の知人を応援した。そして音楽係になって一人ぼっちになっている初めての女子生徒に声をかけた。

「おーい、私狗崎きょうかっていうんだけど…一緒にやろうよ」

「ほんと?はじめまして、よろしくね!」

 きょうかは次第に周りと適応するために声をかけ始めた。

 流石に孤独に暴力を振るうことは中学ではいけないことだとわかっている。

 そして暴力はもう通じない。きょうかは女だから、男に勝つことはないだろう。

(……次のテストまでいつくらいかな。塾に行って結果を出さないとな…最初は二十位くらいを想定して………)

 

•••


 犬子はいつも学級通信を書く、几帳面でルーティンを重視する先生だった。

「今日は偉いなと思ったみんなのことを書きました。見てくれると嬉しいんだけどな」

 きょうから真っ先に学級通信を眺めた。学級通信一号の記念すべき初めての話は、「偉いなと感じたところ」だった。

(何を書いたんだろう)

 純粋に興味が湧いて読んでみた。すると、こんなことが紙に書いてあった。

「五つ目の偉いなぁはこちら。きょうかが自ら音楽の係になって二人組を組んでくれたこと」

「………!!!!」

 勢いが強すぎて無意識に紙をくしゃりと握り締めそうになった。目を丸くして学級通信を眺める。

(なんということなんだ……何が起きてるんだ?)

 きょうかは目を見開いた。昔の記憶を思い出す。

「きょうか!あんたのことは庇ってやってんだよ!いつもいつも!」

「きょうかは良いところなし!」

「なんで出来ないの!」

「人の気持ちを考えなさいよ!」

 きょうかは一瞬このことに戸惑いを隠せなかった。二年間小学校の担任に褒められなかったきょうかが一日目で褒められている。意味がわからない。

(何が起きている………なんだこれは………)

 それでも部活に行かないといけないのが現実だ。帰りの会が終わり掃除が終わればきょうかは次のことを考え始めた。


•••


 きょうかは姫瑠に友達ができつつあるのをなんとなくだが、感知していた。

「あいつは私を束縛して利用してきた。でも、私と違って簡単に友達を作れるのか?馬鹿げてる」

 きょうかは姫瑠と離縁した後は避けるように歩いていた。それは毎日変わらず、時折逃げるようにきょうかは走った。その様子が周りから疑問や嘲笑の対象となった。

「きょうか、誰かから逃げてるんだよ」

「なんでー?姫瑠じゃない?なんか姫瑠の事虐めてたらしいよ?ひどいよね」

「いじめっ子なのに逃げるんだね」

「変なところに隠れたりすんだよ。なんなんだろうな」

「ああいうやつがいるからダメなんだよな」

 きょうかは馬鹿笑いする男子や女子を見下すように眺める。

(蛆虫のような脳みそをした分際で…でも、姫瑠さえいなければこっちのもんだね)

 ぐっと拳を握りしめるきょうか。

(これからの人生、どちらが笑うことになるのか。見届けろよお前ら。判断するのはお前らだぞ)


•••


 そんなある日のことだった。友達がメガネをなくしたらしい。

「確か体育館で無くしたの」

 メガネのない友達の顔は新鮮だった。きょうかはみんなと一緒に探すことにした。

「いいよ、みんなで探そう」

 きょうかはその友人が酷いことをしない、優しい子だと知っていた。だからこそみんなで協力してメガネを探すことにした。

 クラスの女子の全員で階段を駆け降りていった時、誰かの声が聞こえた。聞き覚えのある声だ。忘れもしない。耳に死ぬほど残っている。その声がわかりやすいくらいにきょうかは表情を曇らせ、その方向を一瞥した。

 姫瑠だ。他の友達に囲まれて新しい生徒たちと馴れ合う彼女はきょうかにこう言った。

「どうして避けるの?」

「………」   

 ここできょうかはお前にいじめられたからだというべきだったとは思わなかった。話としたくない。口も聞きたくない。反論するのも疲れる。面倒だ。腹が立つ。その口を塞いでやりたい。だが触れるのも嫌なくらいだ。

「………ふん」

 きょうかは他の女友達と共にメガネを探しに行き姫瑠を無視した。姫瑠の周りの友達の白い目がきょうかを冷たく刺す。


•••


「あったー!」

 友達のメガネは女子更衣室で見つかった。友達は感動している。

「私のメガネ、もう離さないよ!」

「よかったね」

「ほんとよかった!重要だよね!」

 周りの友達がメガネをなくした友達に駆け寄っていく。その様子を遠目からみるきょうか。

 しかしきょうかはもっと別のことを考えていた。

(絶交だ!他の女の子と話すなんて!)

(もう謝らなくていいよ、面白くないから)

(あーあ、つまんない)

(そんなに謝罪して許されると思うなよ)

 きょうかは姫瑠に小学校三年生の頃に言われ続けていたことを思い出す。

(どうして避けるの?か)

 あれで脅したつもりなのだろうが、きょうかは姫瑠よりも違うことに苛立っていた。

 何も知らないのに冷たく自分を見る周り。姫瑠の友達。そして最近流れている噂話。

「きょうかって、姫瑠のこといじめてたらしいよ」

 あたり一面に流れる鳩糞と同等の価値を持つ噂話。そしてそれを鵜呑みにして冷たく眺める周り。(クソが。馬鹿な雌豚の癖に冷たい目を向けやがって)

 きょうかには今は周りが人間に見えていない。今は男児が雄猿で、女児が雌豚。きょうかだけが人間に見える。尊く素晴らしい、人間に。

「きょうかって姫瑠の事いじめてて暴力も振るったんだって」

「あの男子のこと、蹴ったらしいよ。酷いよね」

 きょうかはそれでも毎日を過ごし、塾に行き、勉強をする。クラスの授業を受けて、時には周りと話して仲良くなる。それを永遠に続ける。

 そんな時に体育記録会と定期テストの話が盛り上がる。


•••


 きょうかはいわゆる運動音痴である。周りからはよく馬鹿にされて貶されて同情された。

「………さて、どうしようかな」

 定期テストの結果が届いたのだ。周りの生徒たちは阿鼻叫喚。きょうかは定期テストの結果をぺらりとめくる。

「なんと……これは!」

 きょうかは学年二十位くらいを目標にしていたが、なんと彼女は学年六位だった。しかも六位は三人もいた。

「は?」

 きょうかは目を瞬いた。まさかの学年六位。しかも、三人並んでの同率六位。

 最初の目標は二十位以内。そこからはるかに飛び越えてしまった。

(よっしゃ!)

 内心喜んだ。きょうかの塾での努力と勉強の結果がすぐに正体を表した。数学は百点だった。それを見てか、犬子が声をかけてきた。

「きょうかは百点なんだってね。数学」

「…ああ、はい。やりましたよ」

「よく頑張ったね。すごいことだ、本当に頑張った」

 犬子はきょうかの頭を撫であげる。その時、きょうかはとんでもないことに気づいた。

(百二十三人いて、六位はなかなかすごいんじゃないか?)

 それでも姫瑠とは違うクラスだ。姫瑠が何位なのかは公開されない。ただこの場合だと姫瑠よりも上位の可能性が高い。

(それならもう私は姫瑠よりも上の方に行ってるのかな?)

きょうかは悩みつつも犬子の方を見上げた。

「ありがとうございます。ただ…少し問題があって」

「え?どうしたの?」

「理科の点数が九十三点と、低いんですよ」

「え!?そんなことないよ!でも…ちょっと低いのかな、比較的に」

「はい。それでですね…うちの親が、何か言ってくるんじゃないかと心配で」

「そうなのね。わかった。ちょっと話聞くね」

 犬子はきょうかを別室に連れて行く。


•••


「何か言われるってどういうこと?何かあったの?」

 犬子は本当にきょうかを心配していた。

「…実は、うちの親は、成績に厳しくて。昨日まとめられた理科の九十三点を「惜しい」って言ったんです」

「なるほどね…」

 犬子は少し考えたのちこう言った。

「懐かしいな。先生もケアレスミスで悩んだな」

「…え?」

「昔先生になるためのテストの中に、五問大きな問題を解けっていうテストがあったの。それで二つくらい間違えて後で後悔したんだよね」

「…は、はぁ、大変でしたね」

「辛くて嫌な思いしたんだよね。わかった。先生がなんとかお母さんに言ってくる」

 犬子は親身だった。今日電話してみると言っていた。仕事を事情あって今できない母親の携帯に。

(………もしかして)

 きょうかは思った。もしかして今の自分は人生で一番恵まれているのでは?と、先生は親身。成績は上がり、姫瑠よりも成績優秀。

 教室に戻れば他の生徒が話しかけてくる。

「お前何位?」

「六位だった。お前は?」

「えっ!狗崎六位なの!?俺もだよ!」

 男子二人が驚く。間違いない。この男子達は成績優秀で人格も良い部類に入る。そして何よりも明るいクラスメイトだ。

 きょうかはふふっと微笑んだ。自分の人生に光がさすような気がした。

「ありがとう、でも次は負けないよ!私も結果出すし」

 きょうかも喜んだそぶりで他の二人に戦争を仕掛けるような目つきでいた。

(ああ、この人生は全部私のものだ。私、これから主人公に。いや、人間になれだ)

 他のクラスメイトたちがきょうかに話しかけてくる。

「どれくらい勉強したの?」

「やっぱ塾とか行ってる?」

「次もその順位狙うの?」

 きょうかは知らない感情に満たされた。これを世間では優越感という。

「いやいや、落ち着いて。またまた上に上がるよ。これじゃ足りない」

 自分のことを姫瑠をいじめたいじめっ子と馬鹿にしていた連中が、自分を褒めちぎる。自分が人間にさらに上がったような気持ちになったきょうかは、口角を上げた。

 そして、答案用紙を軽く折りたたむ。

 この世界では、強い者だけが人間として扱われる。

 それが今、証明された。

(これが「勝ち」の味か)

 胸の奥が熱くなる。

 小学校の頃、味わえなかったものがここにある。

 優越感。承認。周りの尊敬。

 私が「人間」になった瞬間。

 クラスメイトたちの笑顔が、祝福のように感じる。

 今まで話したことのない生徒たちまでもが、きょうかに声をかけてくる。

 みんなが、自分を認識している。

「狗崎、お前勉強法教えてくれよ!」

「次のテスト、また勝負しようぜ!」

「いや、六位はすごいって!」

 言葉を交わすたびに、自分が「人間」のステージに上がった実感が増していく。

 きょうかは、心の中で静かに笑った。

(見てるか、姫瑠)

 小学校の頃、あいつが支配していた世界。

 あの時は、私はただのいじめられっ子だった。

 でも今は違う。

 私は強者になった。

 先生に撫でられ、周りから称賛される側に回った。

 姫瑠の存在がどんどん霞んでいく。

(このまま、もっと上に行こう)

 次は六位じゃ足りない。

 もっと上に行けば、もっと確実に世界を手に入れられる。

 成績を上げれば上げるほど、きょうかは人間としての立場を固めることができる。

 結果を出せない奴は、結局豚や猿に成り下がるしかないのだから。

 もう彼女のすでに、次の目標は決まっている。

 次は、学年一位を獲る。

 その時、世界は完全に自分のものになる。

 きょうかは、静かに息を吐いた。

 (さて、そろそろ次の授業の準備をしよう)

 心の中の昂ぶりを隠して、いつも通りの冷静な顔を作りながら、きょうかはペンケースを開いた。


•••


「きょうか、聞いたよ。先生からあんた『ケアレスミスをしたからお母さんに惜しいって言われるのが嫌だ』って言ったね」

「…別にいいじゃん」

 きょうかはジュースを飲みながら母親の純の話を聞いている。

「別にお母さんは、惜しいってそんな意味で言ったんじゃない。すごいねって意味で言ったよ」

「じゃあすごいって言えばいいじゃん」

 きょうかは母親がいつも怒っているようにしかみえなかった。純はきょうかが姫瑠を避ければ学年六位を取れたのだから姫瑠を避けないこともできると言う。

(高校受験失敗者が黙ってろよ。私はこれから県で一番優秀な高校に入るように結果を出すんだ)

 きょうかの反抗期が訪れる。


•••


 体育記録会が始まり、ほどほどに進行していく中、女子達はどうしても暇な時間が来る。きょうかも含めて十人の女子達はやがて暇人特有のトークを始めた。

(……恋バナ、か。くだらないな)

 きょうかは今日の夜ご飯について考えていた。ハンバーグやオムライスなどがあがる。

 しかしきょうかに興味津々な話が振りかかる。

「クラスのさ、梅ちゃんが色々な男子と付き合ってるんだって」

「梅ちゃんね、他の男子と別れる時も他の男子と付き合いたいとか言って、未練たらたらじゃんねー」

「梅ちゃん、リレーに出るらしいよ。なんでも自分のことを委員長に売ったんだって。他の人が速いのにね」

「これじゃ負けちゃう。梅ちゃんのせいで」

「梅ちゃんみんなのことLINEでブスって言ってたし自分の小学校の方がレベルが高いって言ってたな」

「ひどいね。見損なった」

「みんなで梅ちゃん無視しようよ。あいつ私のこと好きな人なら誰でもいいとかいうし」

「…え?」

 きょうかは初めて噂話が耳の中にようやく入った。

「梅?」

「うん、クラスの吉原梅。とんでもなく色々な男子と付き合うんだよ」

 きょうかは対応に困った。自分はみんなと違ってスマホもない。梅がLINEでブスと言ったことも見ていない。ましてや初めての情報が耳にまとわりつく。

「そうなのか?梅がそんなことを言ったの?」

 吉原梅。気さくな性格で男子とも女子ともよく話す。しかし裏でこんなに嫌われていたなんてきょうかは知らなかった。

「そうだよ。梅って結構やらかしてるよ?柔道部は自分の成績で推薦で入るって言ってたし。勉強しないとだめなのにね」

 きょうかは周りの女子達の空気を感じ取った。もう梅を無視する流れに入っている。

(梅が嫌われる理由、か……)

 きょうかにはどうしてもひっかかることがあった。梅が嫌われる理由を彼女は一人模索する。


•••


 リレーで敗北をかました四組は、成績の上では学年三位だった。梅がかなり足を引っ張ったこともあり、周りのクラスメイトや友達が梅を無視し始めた。

「撮るよー」

 犬子は写真が好きでみんなを撮影する。しかし女子達が梅から距離を置くように撮影していた。

 ぱしゃり、と音がする。男子は馴れ合うように仲良く撮るが、女子達は明らかに梅を避けている歪な構図になった。 

 きょうかと同じ小学校の友達がさっきから泣いている。 

「負けた!!!」

 陸上部で足の速い美人なその子はわんわん泣いている。腕に覚えがあるのだろうが、負けは負けだ。

「負けた!!!!私頑張ったのに!!!」

 きょうかはあまりにも面倒に感じたが、同時にこれ以上泣いても困ると思った。その子を泣き止ませる目的でハンカチを貸した。

「え?きょうかっちこれ貸してくれるの?」

「洗って返してね。いつでもいいから」

「え、本当にありがとう!」

 周りの女子生徒も彼女に同情する中、梅は孤立していた。それをきょうかだけが見ていた。

(梅が嫌われる理由、もう少しでわかるはずなんだ…)

 きょうかは冷静に周りの動きを観察する。

 クラスメイトたちは、梅を無視するようになった。

 さっきまで当たり前のように話していたはずの女子たちが、彼女を取り囲む空気を変えていく。まるで、感染症のように。

 誰かが「梅が悪い」と言い始めたら、他の誰かも「そうだよね」と同調し、そして集団の共通認識となる。

 梅が本当に悪いのかどうかは問題ではない。

 「梅は嫌われるべき人間である」 という空気が、彼女の存在をじわじわと追い詰めていく。

 梅は気さくで、男子とも女子とも話すタイプだった。確かに、あまり深く考えずに発言することもある。でも、それが彼女をここまで孤立させるほどの理由になるのか?

 きょうかは、陸上部の美人な女子が泣いているのを横目に見た。

 リレーで負けたことがよほど悔しいのだろう。

 でも、負けた原因を全て梅のせいにするのは違う。

 そしてきょうかは一つの答えに辿り着いた。

(梅が嫌われた理由…そうだ、彼女は気さくなんだ。あっさりしてて、さっぱりしてて、言葉の一つ一つに察して感がない。それが男子に受けた。それだけなんだ)

 きょうかはやがて体育記録会が終わるのを知っていた。全員で解散し、母親の車に乗った。

「お疲れ!あれ…きょうか疲れてる?」

「いや…お母さん、今日さ、梅って子がみんなに避けられるようになって…」

「避けられる?そうなの?何かあったのかな?」

「梅が周りの女子をブスって言ったり、自分を愛してくれる人なら誰でもいいって言ったりさ」

 純は少し考え込みながらハンドルを握る。

「ふーん……それで、きょうかはどう思ったの?」

 きょうかは窓の外をぼんやり眺めながら答えた。

「別に、梅が何言ったのか実際に聞いてないし、私はLINEも持ってないから証拠はない。でも、みんなは証拠を持ってるわけでもないのに梅のことを悪者にした」

「そっか……」

 純の返事は淡白だった。

 きょうかはそれを気にせず続ける。

「私は考えてた。梅は、ただ気さくで、さっぱりしてて、余計な気遣いをしないだけなのかもしれない。それが男子に受けた。それだけなんだ」

「うん」

「でも、それだけでみんなが梅を悪者にして、無視して、あいつのせいで負けたって決めつけて……なんか、それがすごく馬鹿みたいに思えて」

「そうなんだね。でもきょうかは…」

「梅はあのままだと思う。だから私は助けないよ。でも、梅に対してみんなと同じように冷たくはしないよ」

「そっか……大変だったね」

「うん…」

 きょうかの腹がなる。それを聞いて純は軽く笑った。

「今日はハンバーグにしよっか」

「…うん!」


•••


 ハンバーグを食べてる間もきょうかは次のことを考えていた。他の生徒達は梅を無視する流れを決めていたがきょうかは全くそんなことはしなかった。

(みんなが無視しても、話しかけられてたら私は梅を無視しない。だって、自分がやる道理はないしな)

 もぐもぐとハンバーグを食べ、美味しそうに平らげる。

「ご馳走様」

 テストのことでモラハラ気質なところがある優しい祖父が褒める。

「きょうか学年六位なんだって?おめでとう!」

 そして次に、

「さすが私の孫ね。頑張ったね!」

 厳しく主張する、結果主義の祖母が讃える。

「うん、ありがとう。でも次も頑張るよ」

 純が微笑んでいる。きょうかが可愛くて仕方ないのか、他のおかずも持ってきた。

 きょうかは純から追加のおかずを受け取りながら、ふと、今日の出来事を思い返した。梅のこと、クラスの空気、体育記録会の敗北、そして自分の成績。

(結局、みんなが何をどう言おうが、私には関係ない。私は私のやることをやるだけだ)

 ハンバーグの余韻を感じながら、次に食べるサラダのフォークを刺した。

「きょうか、今度のテストも同じくらいの順位を目指すの?」

 純が穏やかに尋ねる。

「目指すどころか、もっと上に行くつもり」

 きょうかはサラダを口に運びながら、当然のように答えた。

「そう、それならよかった。頑張ってね」

「うん。でも、勉強だけじゃなくて、色々なことを考えなきゃいけないとも思ってる」

「たとえば?」

「クラスのこととか、誰がどういう風に振る舞ってるかとか」

 純は少し驚いた顔をしたが、すぐに納得したように微笑んだ。

「あんたらしいわね」

 祖父と祖母は、きょうかの話には興味がないのか、それとも信頼しているのか、黙々と食事を続けていた。

 きょうかは内心、小さく息をついた。

(家の中では何も問題はない。でも、学校では違う)

 梅はこれからどうなるのか。みんなの態度はどこまで変わるのか。そして、自分はこのまま「勝者」であり続けられるのか。

(何にせよ、私がどうするかは、私が決める)

 フォークを置き、冷めたスープをゆっくりと飲んだ。


•••


 美術の授業が始まり、着々ととりかかる絵ができていた頃に、きょうかは梅に話しかけられた。

「きょうか…ちょっといい?」

「ん?どうしたの?なんかあった?」

 きょうかは振り向いた。梅の顔は少し弱々しい。まるで疲れているような、嫌気がさしているような。だがきょうかはそんな顔つきにも目もくれず梅と話すことを決めた。

「私…最近みんなから無視されてるような気がして。きょうかはなんか聞いてる?」

「うーん…」

 きょうかはここで少し悩んだ。わからないと言ったら梅にあの無視をしている周りと同じく思われているような気がしたのだ。

 きょうかはついにこう言った。最初から打ち明けることにした。

「うん、みんなお前のこと嫌いだって言ってるよ。でも私は嫌いじゃないし好きだから、安心していいよ」

「うん…え、え?」

 梅は眉を上げてきょうかの方を見た。

「そ、そっか、ありがとう」

 梅はすごすごと消えた。きょうかは内心思った。

(気さくで明るくて何事も考えない態度…そうだな。そして男子に受けている。女子はあれが嫌いなんだね)

 梅がすごすごと席に戻るのを横目に、きょうかは筆を動かしながら考えを巡らせた。

(梅が悪いのか?違う、梅はただ自分を貫いているだけだ。でも、周りの女子はそれを許さない。男子と親しくすること自体が気に入らないんだろうな)

 無視の流れに乗る女子達は、確かに梅のことを表向きには避けているが、その態度の裏には嫉妬や優越感、あるいは単なる群れの同調圧力があるように思えた。

(でも、私は梅を嫌いにはならない。嫌う理由がないからな)

 きょうかは筆を置き、ふと窓の外に目を向けた。

 その瞬間、梅が何気なくクラスの男子に話しかけているのが視界に入る。男子は楽しそうに笑っている。

(ほら、やっぱり梅は変わらない。男子とは今まで通り仲良くするし、特に気にしていない。なのに女子達はそれをさらに嫌悪する。…まるで負のループみたい)

 きょうかは鼻で笑った。

(まぁ、どうでもいいか。私は私のやるべきことをやるだけだ。絵をでかさないと)

 授業が進むにつれて、きょうかは再び筆を走らせた。梅のことも、女子達の態度も、ひとまずは放っておくことにした。どうせ、自分の手でどうこうする気もない。

 いつか仲良くなる、ということも期待していない。多分あのままなのだろう。だが梅は悪い奴じゃないときょうかは思うことにした。


•••


 青春を続けて、学年十位になり、文化祭を乗り越えて悔し続けるきょうかの元にもいずれにせよ秋が来る。そしてきょうかの通路を挟んで隣になった男子がいた。

 今里一也(いまりかずや)だ。彼は甘えた声を出してきょうかに勉強を教えて欲しいとせがんでくる。

「…今日は嫌だ。自分でやれよ」

「ねぇなんで!お願い!お願いだよ〜!!お前しか勉強教えてくれないんだよ……」

 きょうかがなぜ一也に自分でやって欲しいかは明確だ。

『ちょっと苦しめたいから』というとの、『答えを見せてと言ってくる態度が気に入らないから』の二つの理由がある。 

 今里一也は想像以上の無能だ。なんと彼は勉強ができない。そして得意なものは暗算と計算式と体育と家庭科のみ。それ以外の正式は鼻くそのようなものだ。国語が二十五点と聞いた時にきょうかは裏で笑ってしまった。まるで猿以下じゃないか、とも思う。

 しかしその一也が今では色々な意味で愛おしい。そう、彼は俗に言う『怠惰な無能』なのだ。

 怠ける、楽をしたい、勉強ができないと言い訳をして何もしない。そのくせ他人に答えを見せろとせびったり勉強を教えて欲しいと言う卑怯で馬鹿な存在だ。そんな惨めで無様な存在が、きょうかには究極に可愛らしく見える。

 きょうかは一也を横目で見ながら、軽く溜息をついた。

(こいつ、本当にどうしようもないな)

 それでも、一也の甘えた声はどこか心地よい。

 彼が頭を使わず、努力をせず、それでいて無邪気に他人を頼る様子は、まるで飼い慣らされた犬のようだった。

「……今日は無理。自分で考えなよ」

「えー! なんで! いいじゃん、ちょっとくらいさぁ!」

「ちょっとくらいって、お前毎回じゃん」

 一也は机に突っ伏しながら、きょうかをじっと見上げる。

 その顔には何の悪意もなく、ただ「俺はバカなんだから助けてくれて当然だろ?」という甘えた空気が漂っていた。

 きょうかはそんな一也の態度に、呆れを通り越して少し笑ってしまう。

(……まぁ、いいか)

「……じゃあさ、英語の単語テスト、次のやつで四十点以上取れたら教えてあげる」

「えっ!? 四十点!? そ、それはちょっと……!」

「じゃあ無理。自分でやれ」

 一也は絶望したように机に突っ伏す。 

「うわー!もう!きょうかの意地悪」

 その姿が滑稽すぎて、きょうかはますます笑いそうになった。

(こいつが勉強で苦しんでるところを見るの、ちょっと面白いかも)

 だが、一也のこの「どうしようもなさ」が、きょうかにはたまらなく愛おしくも感じられる。

 彼は無能だ。怠惰だ。努力をしない。

 それなのに、誰かに甘えて、なんとか生きていこうとする。

(……まったく、可愛い奴だな)

 結局、きょうかは次の日、一也のノートを見て赤ペンを入れてやることになった。

 呆れながらも、一也が目を輝かせて「ありがとう!」と無邪気に喜ぶ姿を見て、きょうかは思った。

(まあ、こういう奴もいてもいいか)

 彼女の中にあった冷徹な「優劣の価値観」とは、少しだけ異なる感情が芽生え始めていた。


•••


 きょうかはやがて一也のことも少し興味を持って考えるようになった。

 今里一也は他の生徒と何かが違う。そう、一也はきょうかと同じ小学校なのにも関わらず、きょうかの悪い噂を知らない。

(……こいつ、まるで私のことを何も知らないみたいに接してくる)

 きょうかは、一也の無邪気な態度を観察しながら思った。

 彼は同じ小学校だったはずなのに、あの頃のきょうかの噂をまるで知らないように接してくる。

 「姫瑠をいじめていた」とか、「暴力を振るった」とか、そんなくだらない話がこの中学では広まっていたのに、一也だけはそんなことには一切触れずに、ただ「勉強教えて〜」と甘えてくる。

(いや、そもそもこいつは噂とか、そういうものに興味がないだけか?)

 一也は、無能で、怠惰で噂話にすら関心がない。

 周りがどうこう言おうが、自分の欲求だけを優先するような生き物だ。

(なんか、面白いな)

 きょうかは少し笑ってしまう。

 一也は、勉強ができないくせに、自分のことを特に恥ずかしがるわけでもなく、ただ「できないから教えて〜!」と堂々と頼ってくる。

 他の奴らみたいに、「プライドがあるから聞けない」とか、「できないことを恥じる」とか、そんな感情が一切ない。

(……まあ、それも才能なのかも)

 きょうかは、いつものように一也のノートを覗き込み、溜め息をついた。

 ノートはほぼ真っ白。授業の内容なんてほとんど書かれていない。

「お前、何してたんだ?」

「え? いや、なんか聞いてたら終わってた」

「それ、聞いてたって言わないよ」

 きょうかは、思わず鼻で笑った。

 一也は机に頬杖をついて、ヘラヘラしながら言う。

「だってさぁ、書くのめんどいし……でも、テストでは点取りたいんだよなぁ」

「じゃあ、せめて授業中にノート取れよ」

「無理!やだ!」

 堂々と言い切る一也に、きょうかは呆れる。

(無理ってなんだよ、無理って)

 普通の人間なら、ここで「頑張る」とか「次から気をつける」とか言うだろう。

 だが、一也は違った。

 無理なものは無理。やらないものはやらない。

 それを悪びれもせず、平然と言ってのける。

 それが、きょうかには妙に興味深かった。

(この男、私の価値観とは真逆の世界に生きてるな)

 勉強ができないことを恥じることもなく、ただひたすらに「誰かに頼ればいい」と思って生きている。

 まるで、小学生の頃の自分とは正反対の存在だ。

(……なんでだろうな)

 一也の存在は、きょうかにとって「許せないはずの人間」のはずだった。

 努力しないくせに、結果だけを求める。

 それなのに、一也を目の前にすると、不思議と腹が立たない。

(こいつ、見てて飽きないな)

 気づけば、きょうかは一也の横でノートを開いていた。

 彼に教える気はない。

 ただ、今ここにいる「怠惰な無能」をもっと観察したくなったのだ。


•••


 秋の定期テストが始まり、きょうかは結果を見るためにクリアファイルを開いた。

「………な、何!!!」

 きょうかは席を立ってしまった。隣の男子が心配する。

「お、おい、どうしたの」

「………学年一位だ」

「え?なんだって?」

「私だけが、学年一位だ」 

 犬子がその様子を見て微笑んだ。

「また頑張ったんだね、きょうかはすごいなぁ」

 きょうかは紙を握りしめたまま、しばらく動けなかった。

 前回の十位から、一気に一位。

 しかも、今回は同率ではない。たった一人の、単独の学年一位。

(……これが、「勝ち」か)

 思わず笑いがこみ上げる。

 小学校時代、惨めな思いをし続けた自分が、今こうして頂点に立っている。

 誰も彼女を見下すことはできない。

 誰も、彼女の価値を疑うことはできない。

(私が、一番だ)

 周りのクラスメイトたちがざわめく。

 きょうかの名前が学年トップにあることを知り、驚いているのが伝わる。

「きょうかが一位!?マジかよ!」

「前回も十位だったけど……まさかここまでくるとは……」

「やべぇ、ガチで努力の人間だな……」

 きょうかはそれを聞きながら、ふん、と小さく鼻を鳴らした。

 当然の結果だ。

 こんなものは、努力の積み重ねに過ぎない。

 ただし、結果を出せない奴らには理解できない世界なのだろう。

(ほら、みんな……「人間」になりたければ、これくらいのことはやってみろよ)

 すると、後ろから声がかかった。

「……お前、マジで一位なの?」

 一也だった。

 彼はきょうかの肩越しに答案を覗き込み、目を丸くしていた。背が大きく色々密着してしまい、きょうかの頬が赤らむ。

「……うわ、本当に一位じゃん。お前、すごくね?」

「だから、そう言ってるじゃん」

「いやー、すげぇなぁ……」

 一也はヘラヘラと笑いながら、肩をすくめた。

 きょうかは彼のノートを横目で見た。相変わらずの白紙だ。

「で、お前の順位は?」

「……えーっと……」

 一也は答案をめくる。

 そこには、惨憺たる結果があった。

「……百三位」

「お前、百二十三人中、百三位?」

「うん」

 あまりにも堂々としている。

「お前さ……なんか、恥ずかしいとか思わないの?」

「思わないよ」

「なんで?」

「だって、勉強してないし」

 きょうかは思わず吹き出しそうになった。

 なんだこいつは。

(こいつある意味最強かもしれんな)

 努力せず、結果も気にせず、ただ楽しく生きる。

 その生き方を「無能」と切り捨てるのは簡単だが、こんなに気楽に生きられる奴は、ある意味で最強なのかもしれない。

 そして、一也は笑いながら言った。

「なぁ、お前、ちょっと勉強教えてくれよ」

「は?」

「俺も……とは言わんけど、せめて三桁脱出したい」

 きょうかは、ため息をついて天井を見上げた。

「……まぁ、考えとくよ」

 結局、教えることになる気がしていた。


•••


 姫瑠には友達がいなくなっていた。連れていた友達はいつしか離れ、姫瑠の横には歩実がいた。

「ま、気楽にやろうぜ、姫瑠ちゃん?」

「………まあ、そうだね」

 姫瑠は学年三十五位だ。小原歩実はそれよりも少し下の順番だ。


•••


 それでも季節は過ぎ去る。そんな時に美術できょうかは優良賞を取った。

 そしてそんな授業中に、クラスのナルシストキャラである灰原翔太が女友達からハンカチを貸してもらった。ハンカチを紛失したらしい。

「どうも、ありがとさん」

 翔太は女友達からハンカチをもらい手を拭く。その様子をきょうかはついじっと見てしまった。

 灰原翔太。クラスのナルシストキャラ。サッカーでも大したことがなく、成績も悪い。しかし彼は一也と全く異なるスタンスがあった。

 彼はナルシストな上に成績も悪い。遅刻や忘れ物も多い。それでもエネルギッシュで陽気で強い態度を崩さない。一也が無能すぎて負けることがあるなら、翔太は負けてもすがりつこうとするタイプだ。

 その様子に翔太はくすりと笑った。

「なんだよお前」

「いや…別に」

「お前にハンカチ貸されたいとか思ってねえよ。勘違いすんなよ!」

 翔太の最後のあたりに笑いが込み上がっていた。翔太は女友達にハンカチを渡すとどこかに行ってしまった。

 その時、ぴりっと嫌な感情をきょうかは抱いた。

 一也が弱い「子供』のような存在なら翔太はどこまでも進もうとする『敗者』だ。

 きょうかも眉を顰めてその場を立ち去った。


•••


「クソっ!学年一位の私を馬鹿にするとはいい度胸してるな!」

 きょうかは一人で校舎の壁を蹴飛ばしていた。壁を睨みつける。まるで翔太を殺すための予行練習のようだ。

「あんのクソ猿!覚えていろよ!カス!ゴミ以下の知能をしやがって!」

 きょうかは一人で壁を蹴り続ける。ここは死角であるため誰も来ない。

「私は学年一位の狗崎きょうかなんだぞ…?見ていろよ、私はこれからも人間になる。お前のようなナルシストな猿など、蹴落としてやるよ!いくらでもな!」

 壁を蹴るたびに、鈍い音が響く。

 この学校の白い壁は、彼女の怒りを何も受け止めず、ただ黙ってそこにあるだけだった。

 それがまた腹立たしい。

(私は、ここまで登り詰めたんだぞ)

 学年一位。

 最強の証明。

 小学校の頃、あれほど惨めな思いをしていた自分が、ついに頂点に立った。

 みんなが、きょうかを認めている。

 教師も、クラスメイトも、誰もが彼女の実力を認め、尊敬の目を向けるようになった。

 なのに、あいつは。

「クソが……!」

 翔太のことを思い出すと、また腹が立ってくる。

 あいつは負けても動じない。

 惨めなはずなのに、ヘラヘラしてやがる。

 一也のように、負けを気にせず怠けるだけの無能ならば、それはそれで可愛い。

 だが翔太は違う。

 負けても、自分の価値を疑わない。

 自信が揺るがない。

(何なんだ、あいつは……!)

 翔太が持っているもの、それはきょうかには決して持ちえないものだった。

 負けても揺るがない自尊心。

 きょうかはそれを持っていない。

 だからこそ、学年一位にしがみつき、結果を出し続けることで、必死に「人間であること」を証明し続けている。

 負けたら終わり。

 負けた瞬間、自分はただの「猿」に成り下がる。

(だから、私は負けるわけにはいかないのに……!)

 そんなきょうかにとって、翔太の存在は耐え難いものだった。

 負けても堂々と笑い、気にせず前に進む。

 実力がないくせに、「自分には価値がある」 と思い込んでいる。

「俺はかっこいいからさ〜」

(黙れ!そんなわけないだろうが……!)

 勝者だけが人間になれる。

 それ以外の奴は、猿か豚だ。

 それがこの世界の真理だ。

「……許さない」

 きょうかは最後にもう一度、壁を蹴った。

 足の裏に鈍い痛みが走る。

 だが、それでもスッキリすることはなかった。

 「負け犬が偉そうに笑ってんじゃねぇ。クソ猿が。馬鹿な奴だ」

 胸の奥で渦巻く苛立ちを抑えながら、きょうかはゆっくりとその場を後にした。

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