○第三章

 <汐湯 莉里>

 

 朝起きるのが、久々に苦痛だった。

 体は骨が鉄骨になったのかと思う程固く、布団は鉛が入っているのではないかと錯覚してしまう程重たさを感じる。

 学校に行きたくないが、行かないわけにもいかない。

 明治先輩に、百合しおりの事を引き合いに何を言われるのかわからない恐ろしさは、確かにある。

 でもそれ以上に、その矛先が利紗先輩に向かうかもしれない、という恐怖の方が勝っていた。

 これ以上明治先輩に何かされる隙を見せないよう、百合しおりとしての活動停止を決めたわけだけれど、好きに歌えなくなったのも、ボクの心を蝕む大きな要素となっている。

 ……でも、これが一番、お姉様のためになるから。

 利紗先輩を支えたいと思い、百合しおりとして歌うようになった。

 でもそれで明治先輩がこちらにちょっかいを与えるきっかけになるのであれば、百合しおりとしての活動は、逆に先輩に迷惑をかけてしまう事になってしまうだろう。

 それに――

 ……このままだと、お姉様に嫌われちゃうから。

 

『ホントにさー、キモすぎるよねー? 誰かを題材にして歌ってるのか知らないけどー。ウチがあんな歌われかたしてるんなら、もう表歩けないなー。なぁ? お前もそう思うだろ? 汐湯』

 

 明治先輩に言われた言葉が、まだ耳にこびりついている。

 ボクの曲は、ボクに歌われてしまった人は、表を歩けない程恥ずかしい思いをしてしまうんだ。

 やっぱり勝手に先輩の事を歌うのは、マズかった。

 ボクの独りよがりな想いで歌った曲のせいで、先輩を傷つけてしまうかもしれない。

 自分の浅はかな行動が原因で、先輩に恥をかかせてしまうかもしれない。

 ……明治先輩にイジメられて、更にお姉様にも嫌われるなんて、もう本当に耐えられないよ。

 それこそ、もう二度と学校にいけなくなってしまうぐらいに。

 だから、ボクが百合しおりだという事を、絶対に利紗先輩には知られてはならない。

「莉里? そろそろ行かないと、学校に近くするわよー」

「……はーい」

 お母さんにそう言って、ボクは学校に向かう。

 行かない事で、利紗先輩がイジメられる事に耐えられない。

 ……それに行かなかったら、明治先輩なら確実に、ボクが百合しおりだってお姉様にバラすから。

 あれだけ陰湿なイジメを繰り返してきた明治先輩が、表を歩けない程の羞恥心を相手に与えれるネタがあるのに、それを使わないなんてあり得ない。

 二つの理由で、ボクは絶対に学校に行かなければならないのだ。

 二之夕先生ではないが、足を引きずるようにして学校に向かっていく。

 周りを歩く生徒達の中で、自分だけがこの世にただ一人取り残されているような、そんな疎外感を得ていた。

 それは正門に近づけば近づく程強く感じ、下駄箱で上履きに履き替えた所で、たまらず保健室に駆け出したい気持ちに駆られた。

 ……でも、行けるわけがないよ。

 いうなればこれは、身から出た錆。

 自業自得というものだ。

 ボクの独りよがりで、勝手に歌詞を描いて、曲を作って、歌って、百合しおりとして活動した。

 ……お姉様に、合わせる顔がないよ。

 身を引き裂くような思いで、教室に足を向ける。

 教室に入るが、いつもの通り誰もこちらに視線すらよこさない。

 誰一人助けを求められない中、ボクはいつ明治先輩からの呼び出しがあるのかと、震えながらホームルームの時間を迎えたのだった。

 それから授業の合間、昼放課と、気が休まらない時間が続く。

 普段であれば、利紗先輩へ会いに保健室に行く癒やしの時間が、今は拷問を受けているような苦痛を伴うものになっていた。

 呼び出されるのはまだか、まだかと神経をすり減らしている間に、最後の授業が終わるチャイムでボクの意識は現実に引き戻された。

 ……もしかして、今日は何もないんじゃ?

 そう思うが、自分がイジメられていた時には、そんな日は一日たりとも存在していなかった事を思い出す。

 今日は逃げ切れるかもしれない、という淡い期待をしたとしても、下駄箱か正門で待ち伏せされているのだ。

 ……なるべく、汚れても良いように荷物はまとめておかないと。

 前はビニール袋に教科書やノートを入れていると、生意気だと言われて余計に汚された。

 こっちに出来る事は、なるべくまとめて汚されないよう、荷物を鞄の中に分散する事だけだ。

 明治先輩は部活や生徒会の活動があるので、そこまで時間をかけてこちらをイジメて来たりはしない。

 昨日ボクに百合しおりの話をしたぐらいの、軽く世間話をする様な、そんな気安さと気軽さで、こちらの心を折りに来る。

 だから、一度にまとめて相手の目に入らなければ、その日は被害を免れれる事もあった。

 最も、それは気休めでしかなく、そもそも今回のイジメも物を汚す様なもので来るとは、限らないのだけれど。

 ……でも、それこそ何もしないよりはマシだから。

 そう思い、鞄を担いで教室を出ようとした所で、足が止まる。

 そこにいたのは――

 

「……どうして、二之夕先生がここに?」

「あれだけ毎日保健室にやって来ていた生徒が来なくなれば、心配もしますよ」

 

 そう言った二之夕先生に、ボクは反射的に鋭い視線を向ける。

 あれだけ怯えていた自分の中に、まだこれだけの反発心があった事に驚いた。

 でも、それ以上に驚いたのは――

「大丈夫なの? 先生。顔色がかなり悪そうだけど」

「……ええ、なんとか」

 普段はクールを通り越して冷徹や冷血と見られがちな二之夕先生だけれども、今は目の下にくまが出来て憔悴仕切っている様な気配を感じる。

 今は自分自身の事でいっぱいいっぱいのため、他人の心配をしている様な余裕はない。

 しかし、そんなボクであっても、この二之夕先生の状態は普通じゃないと思ったし、放っておけなかった。

 それぐらい、今の二之夕先生は疲弊している様に感じたのだ。

「それよりも、汐湯さんの方ですが――」

「いやいや、何がそれよりも、なんだよ。二之夕先生、人の事心配できるような体調じゃないでしょ」

「大丈夫です。私は保健師なので」

「いや、保健師でも体調を崩したりするでしょう?」

「心配ありません。風邪ではありませんから」

「え? 体調不良の原因には、心当たりがあるの?」

「……ええ、まぁ。ちょっとプライベートで、ショックな事が起こりまして。なんとか、戻ってきてくれたら(・・・・・・・・・)いいのですが」

「そう。気をたしかに持ってね」

 何のことかはわからないが、こちらとしてはそう言うしかない。

 一方二之夕先生は、ありがとうございます、と力なく笑った。

 先生のこういう反応は、初めて見る。

 余程二之夕先生にとって、キツい事が起こったのだろう。

 いつもは毅然としている様な先生がこんな状態になっているのは、ボクとしてもとても気にかかる。

 かといって、こちらはこちらでも大きな問題があった。

「それじゃあ、ボクはもう行くから」

「待って下さい」

 どこかで待ち構えているであろう明治先輩の下へ向かおうとしたボクの手を、先生が握って止める。

 こちらが振り向く前に、二之夕先生が先んじて口を開いた。

「どこに行こうと言うのですか? 汐湯さん」

「……ただ帰るだけよ」

「ただ帰るだけで、そんなに険しい表情を浮かべるのですか?」

「っ! あんたには、関係ない――」

「置鮎さんが、心配していましたよ」

「……お姉、さま、が?」

 こちらの言葉を遮るように差し込まれた言葉に、鼓動が跳ねた。

 やっぱりボクにとって、あの人の話は特別だ。

「保健室でも今日は上の空でしたし、汐湯さんの事を気にしているようでした」

「そう、ですか」

 利紗先輩が、ボクの事を心配してくれている。

 そう言われるだけで、今日一日中震えていた体が温かくなる。

 あの人に見られているというだけで、何でも出来てしまいそうな、無根拠な自信が湧き上がってきた。

 でも、だからこそ、そんな利紗先輩だからこそ、ボクは会いに行く事が出来ない。

 そんな先輩を、独りよがりなボクの行動で、傷つけてしまうかもしれないからだ。

 利紗先輩の事を勝手に曲にし、それを歌っていただなんて、決して知られるわけにはいかない。

 百合しおりがボクだと絶対にバレるわけには行かないし、それを明治先輩にバラされるわけにはいかない。

 それに、今先輩の下に行けば、ボクの事を探して明治先輩が保健室に向かうかもしれなかった。

 何をすれば最も効率的にこちらの心を傷つける事が出来るのか、あの相手は熟知している。

 だから――

「ごめんなさいっ!」

「汐湯さんっ!」

 二之夕先生の手を振りほどき、ボクは廊下を走り出した。

 制止する声が聞こえてきたけれど、そこで足を止める事はない。

 ここで走るのを止めてしまえば、ボクはまたきっと、利紗先輩の優しさに甘えてしまう。

 甘えて、あの人に、もう一度身代わりにしてしまう。

 これから明治先輩にされるであろう責め苦を、あの人にまた肩代わりさせてしまう。

 ……それだけは絶対に、絶対に嫌だっ。

 ボクを救ってくれた利紗先輩を、またあの地獄に落とす事は出来ない。

 今度こそ、今回こそ、自分の問題は、自分で解決して見せる。

 大丈夫。

 明治先輩は、もう今年で卒業する。

 もし推薦で大学が早く決まれば、学校にもそんなに来なくなるだろう。

 ……そうなったら耐えるのは、一年じゃなくって、もっと短くなるはず。

 その期間さえどうにか耐え抜ければ、後は全く問題ない。

 でも、そんな最低な絶望を耐え抜いた時には。

 利紗先輩と一緒の学校に通える期間が終わってしまう事だけが、心残りではあった。

 と、そこでボクは、鞄が振動している事に気づく。

 見れば、スマホに何か通知が届いているようだった。

 それは、百合しおりとしてネットにした、活動停止についての動画のコメントで――

『活動停止なんてしないで!』

『また百合しおりの歌が聴きたい』

『戻ってきて!』

 活動の復帰を求めるコメントが、沢山付いていた。

 見れば、今朝からお昼ごろまでにかけて、かなりの通知が届いている。

 ……その時間帯は、明治先輩が怖くて、それどころじゃなかったから。

 自分が歌うのを辞めた事について、こんなに多くの人に押しんでもらえる事が、純粋に嬉しかった。

 嬉しかった、のだけれど――

 ……なんか、同じ人から長文メッセージがめっちゃ届いてるんだけど。

 そのアカウントは、《こりのゆに》という人だった。

 その人は、活動停止の報告動画だけでなく、今までボクがアップした曲全てに、かなりの長文メッセージでコメントを付けている。

 通知の八割近くが、この《こりのゆに》さんからのものと言ってもいいだろう。

 ハッキリ言って、めちゃくちゃ怖い。

 他のコメントと同じく、百合しおりの活動再開を望むコメントなのだけれど、数と文字量が尋常じゃなかった。

 そのメッセージに、謝るからだとか、お願いです何でもしますから、みたいな、必死さが漂う文字が並んでいるのも、恐怖を感じるポイントだ。

 ……えぇ? 何でこの人、こんなに、何かに迫られたみたいに必死になってるの?

 

「なーにやってんの? 汐湯」

 

「明治、先輩……」

「昨日ちょーっとちょっかいかけただけで、あんな動画上げるなんて、ほーんと、わかりやすいねー、あんた」

 明治先輩は、ニヤニヤしながら、取り巻きを二人連れてこちらにやって来る。

 ニタニタ笑っているけれども、何がそんなに面白いのか、ボクにはさっぱりわからなかった。

 困惑に近い感情を得るこちらに、尚も笑うのを辞めない明治先輩が、こちらに向かってくる。

「昨日の今日で活動停止するなんてさー、もー自分で自分が百合しおりだ、って言ってるよーなもんだよねー」

「……そんなの、先輩は初めからわかってた事じゃないですか」

「まーね。でも、やっぱり必要じゃーん? こーゆー客観的な証拠、ってさー」

 ……それを言うのなら、状況証拠でしょ。

 昨日の今日で百合しおりが活動停止をしたからといって、それが即百合しおりとボクが同一人物であるという証明にはならないし、なるわけがない。

 しかしそんな事を言っても、明治先輩の神経を逆撫でするだけだ。

 つまり、ボクが出来るのは沈黙しかなかった。

 のだけれども、明治先輩はこちらが話すのを待っている様に、取り巻き連中と一緒に嫌な笑いを浮かべているだけだった。

 だからボクは嫌々ながらも、口を開くしかない。

「それで? その証拠とやらを使って、明治先輩は何をするつもりなんですか?」

「はー? 決まってるじゃん。教えるんだよ。あんたが、百合しおりだ、ってね」

「……え?」

 嫌な予感に、ボクの鼓動が早くなる。

 二之夕先生から利紗先輩に心配されていると聞いた時とは、全く違う心臓の伸縮だった。

 ときめきや高揚感ではなく、絶望や焦燥感。

 体の血管を流れる血潮を、耳の後ろにありありと感じる。

 背中に冷や汗が滲んでくるようで、息苦しいさも覚えた。

 しかし、相手の暴挙が何を指しているのか自明であろうとも、ここでは聞かざるを得ない。

「教えるって、誰に、ですか?」

「決まってるじゃーん? 置鮎以外に、誰がいるんだ、っつーの」

「な、何で?」

「はぁ? 何で、だって?」

 そう言うと、そこで初めて明治先輩が表情を笑みから変える。

「せっかく享太の中からお前を消せたっていうのに、名前変えてまであいつの中にお前がいるのを、許せるわけねぇだろ?」

「……っ!」

 ……そんなの、ボク知らないよっ!

 古堅先輩が百合しおりの歌を聞いていた事をボクが知る方法なんてないし、それを止める方法なんてありはしない。

 そもそも、歌い手がネットにアップしている曲なんて、無限大に存在するのだ。

 その中から、偶然誰かがボクの曲を聞いていて、それを気に入っているからって、いちいちその責任を取らされるだなんて、たまったものではなかった。

 第一、古堅先輩が好きな歌い手が、明治先輩とは全く関係のない人だったら、この人は本人を割り出して接触してきたりはしないだろう。

 ……いや、違う。

 そこまで考えて、背筋が凍ったのかと錯覚するぐらいの悪寒が走った。

 明治先輩が、百合しおりとボクが同一人物だと確信するには、ボクの歌声を知っている人(・・・・・・・・・・・・)に百合しおりの曲を聞かせなくてはならない。

 つまり、明治先輩は探したのだ。

 古堅先輩が好意を抱いた女性を、その好意がどういうものなのか関係なく、この人は全部潰そうとしている。

 嫉妬に狂ってしまったのかどうかはわからないけれど、この人の事を、ボクは恐らく生涯理解する事は出来ないと、そう思えた。

「さぁー、いこーか? 保健室」

 そう言ってボクの方に、明治先輩が迫ってくる。

 再びその顔に浮かべた笑顔が、今はこの世で最も恐ろしいものに見えた。

 それをボクは、ただただ震えて見返す事しか出来ない。

 去年と同じ様に、自分では何もする事も出来ず。

 だから今回も、この場で声を発したのは、何も出来なくなったボクではなくて――

「皆さん、何をしているのですか?」

 

 <二之夕 梨湖>

 

 二之夕先生、二之夕先生? 大丈夫ですか? 二之夕先生?

 

 その文字が自分を呼んでいる事に気が付き、私はハッとなる。

 視線を向けると、そこには心配そうな表情を浮かべた、九曜先生の姿があった。

 

 大丈夫ですか? 二之夕先生。どこか、お体の具合でも悪いんですか?

 

「……いえ、大丈夫です。すみません」

 そう言ってメガネの位置を直すが、心配そうな九曜先生の表情は、全く変わらない。

 それで如何に自分の状態が悪いのか認識はするのだけれど、だからといってそれを改善する方法は今の所地球上に存在していなかった。

 自分がこんな有り様になったのは、昨晩の出来事が原因だった。

 ……サリアたんの配信が、かなりショックなものになりましたからね。

 昨日、私はいつもの通り御雪サリアの配信を観ていた。

 いつもの通り推しを推して、いつもの通り生きがいを接種しようと、そう思っていたのだ。

 そんな中、御雪サリアは配信中、こう切り出してきたのだ。

 

 今日はリスナーの皆に、大切なお知らせがあります。

 

 そう切り出された時、私は最初、ついに御雪サリアがどこかの事務所に所属する事になるのか? と、そんなワクワクした気持ちで彼女の話を読んでいた。

 お知らせと言われても事前に何の告知もなかったし、本当に急遽決まった事なんだろうと、そう思っていた。

 一瞬、引退という単語も頭の中をよぎったのだけれど、それはないと自分で自分の考えを否定した。

 ……だって昨年の様に、何かに悩んでいそうな文脈は感じていませんでしたから。

 私が御雪サリアの配信に出会って古矢井高校の保健師になろうと決めた後、暫く彼女は悩みを抱えているようだった。

 だからこそ彼女を励ましたいと、《こりのゆに》として御雪サリアの配信を盛り上げようと頑張っていたのだ。

 ……まぁ、その気持ちが多分に空回りをして、ウザがられていた自覚はありますが。

 でも、そんな落ち込んでいた気配を、ここ最近は文脈上からは読み取れない。

 もし御雪サリアが本当に引退を考えていたのであれば、それが文脈として感じられる所はあっただろう。

 彼女にとって現実でかなり辛い事があったとしても、いきなり引退、という話にはならないはずだ。

 その時の私の考えは、確かにあっていた。

 御雪サリアのお知らせとは、引退の事ではなかったからだ。

 そう、私の推しのお知らせの内容とは――

 

 私、御雪サリアは当面の間、活動を自粛する事にしました。

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 ………………はぁ?

 え、何で? どうして?

 意味が、言っている言葉の意味が、さっぱりわからない。

 いや、わかる。

 言っている意味はわかるのだけれども、どうしてそんな話になっているのか、全く理解出来なかった。

 さっきも述べた通り、別に御雪サリアは何か悩みを抱えていそうにはなかった。

 登録者数は三千人程だし、特に炎上する様な発言も彼女はしていなかったし、事実炎上していない。

 幸い引退ではないものの、でもそれは引退ではない、という意味合いでしかなかった。

 活動自粛は、自粛期間が空ければ活動を再開するという意味なのだろうけれども、その期間がいつまでなのか明言されていない以上、その言葉は引退とほぼ同じ意味合いだ。

 ……どうしてサリアたんが、活動自粛なんて?

 その疑問に、私の推し自らが答えてくれる。

 

 私が活動を自粛した理由なのですが、その理由は、歌い手の百合しおりさんが活動停止をされたからです。

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 ………………はぁ?

 何が、何で、どういう理屈で、何故そうなるの?

 推しの活動自粛と、その推しが推していた百合しおりの活動停止の話が全く結びつかなくて、私は更に混乱した。

 あまりに理解できなくて、この世の法則が乱れてしまったのかと、本気でそう思った。

 ……そ、そうだ。コメント欄は? 他のリスナーは、どんな反応なんですか?

 そう思い、私は急いでコメント欄に目を走らせる。

 するとそこには、こんな文字が踊っていた。

『確かに、百合しおり活動停止の動画上げてるな』

『ここ数日で、結構辛辣なアンチコメントあったしな』

『サリアのファンもアンチコメント出してたよね』

『百合しおりって結構繊細そうな感じだし、それに耐えられなくなったんじゃね?』

 ……な、何なんですか、それはっ!

 そう考えている私をよそに、コメント欄の内容を肯定するような言葉が、御雪サリアから語られる。

 

 皆さんの言う通りです。

 私を応援してくれるのは本当に嬉しいんですが、それが行き過ぎて他の方を傷つけてしまうのが、私を応援してくれる人がそんな行動に出てしまったのが、本当に耐えられません。

 そのため百合しおりさんが活動を再開するまで、私も活動を取りやめ、自粛する事に決めました。

 

 ……そんな! 百合しおりが活動停止をしたのは、別にサリアたんは関係ないじゃないっ!

『百合しおりの活動停止の責任は、サリアたんには全くありませんぞ!』

 頭に思い浮かんだ思考が、そのままキーボードを叩いてコメント欄のメッセージとなる。

 押しに活動を続けてほしくて、その思いが無数の言葉となり、それを体の中から外に吐き出すために指がまたキーを叩いている。

 その、途中だった。

 他のコメント欄が、一斉に更新される。

『いやいや、それをお前が言うなよ』

『《こりのゆに》のせいかもしれんだろ』

『《こりのゆに》も、百合しおりにアンチコメント書き込んでたじゃねーか』

 そう言われ、昨日登校前に百合しおりの動画に書き込みをした事を思い出す。

 ……いや、だからって私のコメントが原因で百合しおりが活動停止したかどうかは、わからないじゃないのっ!

 そう思うが、実際にアンチコメントを自分が書き込んだのは事実だ。

 そしてその動画を見に行くと、御雪サリアの名前を使って百合しおりにアンチコメントを書き込んでいるアカウントの姿も見える。

 彼らは一様に、御雪サリアが褒めていたのに大したことがない、という様な論調で、明らかに私のコメントに便乗している事が読み取れた。

 明らかに、悪ノリしているコメントだ。

 でもそんなコメントが多数投稿されているわけがなく、本当に画面を二、三回スクロールして、ようやく一つ見つけられるか見つけれないかぐらいの頻度。

 しかし――

 ……私の醜い嫉妬で書き込んだコメントが、誰かを傷つけてしまう可能性を秘めていたのは、確かに事実です。

 現実では、気をつけようと思っていたのに。

 特に保健室に登校している置鮎さんが身近にいるのだから、尚更そう思っていた。

 でも、ネット上に自分でコメントにまで、細心の注意を向ける事が出来ていなかった。

 その場の会話の文脈を読んで誤りがあれば、眼の前の相手に訂正するなり認識合わせをする事が出来る。

 でも、ネットでの発言は、違う。

 書き込みは修正出来ないものもあるし、それを読む人も、書き込んだこちら側では決める事が出来ない。

 それに一度人目に触れたコメントは、誰に、どんな文脈で受け止められるのかもわからなかった。

 そう、文脈だ。

 自分が他人の言葉の色を聞く事が出来ず、聞いた文字だけで読み取ろと必死になっていた、文脈。

 それを、自分は蔑ろにしてしまった。

 そしてその結果、私は自分の大切な人(御雪サリア)から、大切な人(百合しおり)を奪ってしまったかもしれないのだ。

 

 本当に、簡単にコメントで誰かを傷つける人(《こりのゆに》)なんて、だいっ嫌いっ!

 

 そう言った御雪サリアの言葉の本気度は、文脈しか読めない私だからこそ、それが本気だとわかった。

 自分のした迂闊なコメントで、自分の大切な人に嫌われて、そしてその大切な人がいなくなってしまうかもしれない。

 そう思った瞬間、気づけば私は百合しおりの動画にアクセスしていた。

 そして動画毎に、コメントを書き込んでいく。

『《こりのゆに》です。先日は軽率なコメントをしてしまし、大変申し訳ありませんでした。百合しおりさんの歌は多くの人の心に響き、心の支えになっていると認識を改めました。ここで改めて謝罪をさせて頂きたい。そして、また是非とも活動を再開し、多くの人にまた素晴らしい歌声を届けて頂きたい。本当に、お願いします。帰ってきて下さい』

 こんな文面を、私はどんどんと百合しおりの様々な動画に投稿していく。

 もちろん、コピペでは私の誠意と謝罪の意志が伝わらないと思ったため、動画毎につけるコメントは全て一から書き起こしている。

 そういったコメントを、私は昨晩から時間を見つけて投稿していたのだ。

 その結果私は寝不足となり、頭の中も謝罪文の内容は何にしようか? という事で占められている。

 しかし、その謝罪文もかなりの数を書いてきたので、だんだん同じ様な文面になってきた。

 ……駄目ですね。これでは文脈的に気持ちが薄れてきて、こちらの気持ちが伝わらない――

 

 二之夕先生? やっぱり体調が悪いのであれば、今日はお休みされては如何ですか?

 

「……いえ、大丈夫です。この程度で休んでいては、頑張って保健室に登校している置鮎さんに申し訳ないですから」

 

 そうですか。わかりましたが、本当にご無理はなされないでくださいね。

 

「はい。ありがとうございます」

 心配してくれた九曜先生にそう返しながら、職員室を後にする。

 ……そうだ、いけない。今は仕事中なんだから。

 推しの復帰も大切だが、現実での仕事も大切だ。

 保健室を解錠し、ノートパソコンを立ち上げながらイヤホンを耳に挿す。

 聞こえてくる声を読みながら、先程の九曜先生との打ち合わせの内容を振り返る。

 こうして読み直してみると、記憶にない事項の話が出ているのに気づき、全く集中出来ていなかった事を改めて思い知らされた。

 本当にしっかりしなければ、と思っていると、保健室の扉が開く。

「おはようございます、置鮎さん」

 

 ……おはよう、ございます。先生。

 

 そう言って、置鮎さんが保健室の中に入ってくる。

 キーボードを叩く私の脇を通って、彼女が机の上に鞄を載せた。

 教科書や筆箱を取り出していく置鮎さんの行動に、キーを触る指を止めた。

「何か、ありましたか?」

 

 ……え? 何が、ですか?

 

 そう言った置鮎さんの表情は、明らかに悪い。

 彼女が保健室登校をする様になってから、過去最悪と言ってもいいだろう。

 正直、今は自分の事で手一杯で、あっぷあっぷしている様な状態だ。

 しかし、それでも置鮎さんの違和感に気づけたのは、ほんの少し前に仕事はしっかりとこなそうと、自分自身を戒めたおかげだろう。

 昨日も様子がおかしかったが、今日はいつにも増して言葉数が少ない。

 そして何より――

「昨日、あれから結局姿を現さなかった、汐湯さんの話をしませんから」

 まだ出会って半年も経っていない彼女の事だけれども、昨日不自然に保健室から出ていき、そしてそのまま姿を現さなかった後輩の事を全く気にしない様な性格の子ではないという事だけは、わかっている。

 私の言葉を聞いた置鮎さんは、あっ、と小さく呟く様に口の形を作り、結局そこからは何の言葉も発さなかった。

 本人は、いつも通り振る舞っていたつもりなのだろう。

 それを私に指摘されて、初めて全く普段通りの振る舞いではないと、気付いたようだった。

 ……気持ちはわかりますよ。私もついさっきまで、職員室で九曜先生に心配されるまで、全く同じ気持ちでしたから。

「何か、あったんですか?」

 

 ……梨湖先生は本当に、何でもわかるんですね。私の事。

 

 そう言った置鮎さんの顔色が、ほんの少しだけ良くなる。

 そんな彼女を一瞥した後、再びキーを叩く指を動かしながら、私は口も動かした。

「ただ、文脈を読んだだけですよ。それで? 今置鮎さんが抱えている問題について、何か私が手伝えそうな事はありますか?」

 

 いえ、これに関しては、流石に梨湖先生でもどうにかする事は出来ないんで。でも、ありがとうございます。そう言ってもらえるだけでも、気持ちが晴れました。

 

「そうですか。ですが、無理はしないように。抱え過ぎは、貴女の為になりませんから」

 そう言うと置鮎さんは、わかりましたと素直に答えて、席につく。

 そして、不満そうな表情を浮かべながら、保健室の入口に視線を向けた。

 

 でも本当にあいつ、何やってるんだろう? こんな時あいつがいれば、嫌な事や悩みも、考えている暇すら亡くなるのに。

 

「確かに、汐湯さんならもう保健室にやってきている時間帯ですが、全く訪れる気配がありませんね」

 

 梨湖先生? 私、あいつ、って言っただけで、莉里の事打なんて一言も言ってませんけど?

 

「確かに、その通りですね」

 同意しながらも、置鮎さんの表情と普段の行動から考えて、文脈的に彼女が汐湯さんの事を気にかけているのは自明だった。

 そして事実として、置鮎さんの考え通り、汐湯さんがこの場にいてくれた方が、今の私にとっても嬉しい。

 保健室で私と二人っきりの置鮎さんもそこそこ話す方だが、汐湯さんはいつもその三倍、四倍ぐらい口数が多い。

 人によっては、やかましさや、煩わしさを感じてしまう人もいるだろう。

 しかし、聞く言葉が文字にしか聞こえない私には、相手の言葉はただただ読むだけの読み物だ。

 声のボリュームは関係ないし、そもそもそれが向けられているのは私ではなく、置鮎さんだ。

 それならば私は彼女に対していう事は特になく、それを向けられている置鮎さんが何も言い出さないのであれば、こちらから何か言う事はない。

 ……それに、多少かしましい方が、活気があっていいですからね。

 だって、そちらの方が、気が紛れる。

 生きがいである自分の推しがいなくなってしまいそうなのに、職場が憂鬱になるだなんて、色んな意味で耐えられない。

 ……それに、彼女達のメンタルヘルスケアも、私の仕事ですから。

 直接ではない、目に見えない相手を傷つけた今だからこそ、より現実で向き合っている彼女達の事に心を配って上げたかった。

 しかし、そんな思いと裏腹に、朝からずっとバタバタとしており、中々空き時間が取れない。

 薬品の搬入だったり、気分が悪くなった生徒がやって来たり、そしてその合間に百合しおりに謝罪文を送ったりと、割と忙しい日となったのだ。

 もちろん忙しかった原因として、御雪サリアが活動自粛をした、という事も大いに影響しているだろう。

 正直思考もぼんやりとしており、頭の回転はあまり良くない。

 体に染み付いた癖みたいなものがあるので、いつも通りの行動なら出来るのだけれど、急な対応となるとどうしても普段よりも対応するのに時間がかかってしまった。

 ……一部九曜先生に手伝ってもらってしまいましたし、先生には申し訳ない事をしましたね。

 そんなこんなで結局私が汐湯さんの様子を見にいけそうになったのは、放課後を告げるチャイムが鳴った頃だった。

「では私は、汐湯さんの様子を見てきますので」

 ドタドタと机の上を片付ける私に向かい、置鮎さんが顔を向ける。

 

 ……梨湖先生。やっぱり、私も一緒について――

 

「この時間帯はまだ生徒達が部活に向かう途中で、校舎に残っていると思いますが」

 暗に、明治さんと遭遇する可能性が高い事を置鮎さんに告げる。

 そうすると彼女は、自分の上履きに害虫が入り込んだのを見たかの様な顔になった。

 しかし、そんな表情を浮かべたのは一瞬で、すぐに顔を振る。

 

 なら、少しだけ、少しの間だけ、ここで待っていてもいいですか? 莉里がどうなったのかだけ、こっち(・・・)の問題だけでもどうなったのか、知りたくて。

 

 ……こっちの問題?

 そう思うものの、そこの部分については今聞く事ではないと思い直す。

 私の足では、移動するのに普通の人よりも時間がかかる。

 今から汐湯さんの教室に向かっても、先に帰られてしまう可能性も十分あった。

「わかりました。ですが、くれぐれも無理をせず、帰りたい時には帰ってくださいね」

 そう言ったのは、あまり遅くになりすぎると、今度は部活帰りの明治さんと鉢合わせてしまう可能性が出てくるからだ。

 彼女は、帰宅しやすいタイミングで帰ればいい。

 その言葉の意図を理解したかのように、置鮎さんは頷く。

 それを確認してから、保健室を後にした。

 足を引きずりながら歩く私の脇を通り過ぎて、楽しげに笑う生徒達の声がすぐに遠くに通り過ぎていく。

 部活の話や帰宅途中にどこに寄るのか? という話題に興じる彼らの中で、私一人だけがそこから切り取られたように、静寂の中に取り残された様な気がしていた。

 事故にあってから、私の生活は本当に変わった。

 足だけでなく耳の問題で元々の知り合いとも縁が薄くなり、笑う事も少なくなった様に思える。

 そんな私を支えてくれていたのが推しである御雪サリアとの出会いだったのだけれど、そんな彼女とも別れなければならないかもしれない。

 本来であれば、御雪サリアが活動自粛を解くために、百合しおりに謝り続けた方がいいのだろう。

 私が謝った所でどれだけ効果があるかはわからないけれども、自分の生きがいを取り戻す為には、なりふり構わず行動すべきだ。

 しかし、私はそういった行動はせず、今は汐湯さんの教室に向かっている。

 その理由は――

 ……以外に、大きな存在になっていたのですね。私にとって、あの保健室の空間が。

 急な孤独感を意識したのは、保健室を出てからだ。

 置鮎さんと一緒にいる時は、そこまで気にならなかったものが、今はどうにも気になってしまう。

 ……あそこに汐湯さんがいたら、もっと気にならなかったんでしょうね。

 その場合、保健室を出れば逆に今以上の孤独感を得る事になるのだろうか?

 ……でもそうしたものも、サリアたんが戻ってきてくれれば、百合しおりが戻ってきてくれれば、全部解決するんですけど。

 そう思った所で、汐湯さんの教室に辿り着いた。

 既に帰宅しているかもしれない、という懸念はあったものの、彼女はまだ教室に残っている。

 いや、ギリギリだったようだ。

 丁度教室を出ようと鞄を担いだ汐湯さんと、バッチリ目が合う。

 

 ……どうして、二之夕先生がここに?

 

「あれだけ毎日保健室にやって来ていた生徒が来なくなれば、心配もしますよ」

 そう言うと汐湯さんは、反射的にこちらを睨んだ。

 逆に言うと、それまでは鋭い視線を向けられていなかった、という事だ。

 いつもなら、私の姿を見た瞬間、まるで親の仇にでも出会ったかの様な表情を浮かべるのに――

 ……何か、問題を抱えていそうですね。

 そう思い、口を開ことした私よりも先に、汐湯さんが口を開く。

 

 大丈夫なの? 先生。顔色がかなり悪そうだけど。

 

 その文字に、思わず苦笑いを浮かべそうになるのを、どうにか堪える事が出来た。

 心配した生徒に心配されるだなんて、とんだお笑い草だ。

 養護教諭ではないので先生ではないのだけれど、この学校に通う生徒達と向き合う大人として相応しいか? と問われれば、否と答えざるを得ない。

 不甲斐なさを感じながらも、私は汐湯さんと会話を続ける。

「心配ありません。風邪ではありませんから」

 

 え? 体調不良の原因には、心当たりがあるの?

 

「……ええ、まぁ。ちょっとプライベートで、ショックな事が起こりまして」

 本当にプライベート過ぎる事だし、個人的な事情過ぎる。

 推しの御雪サリアが、回り回って自分のせいで活動自粛を発表したかもしれないので、体調を崩しているだなんて。

 そして御雪サリアの活動復帰には、百合しおりが活動を再開してもらう必要がある。

 あの歌い手が戻ってきてくれない限り、自分の推しの復帰はあり得ない。

「なんとか、戻ってきてくれたらいいのですが」

 

 そう。気をたしかに持ってね。

 

「ありがとうございます」

 そう言うが、情けなさを通り越してもはや笑みが零れてしまう。

 こちらを見る汐湯さんの表情が、あまりにも心配そうにしていたからだ。

 ……そこまで酷いのでしょうか? 私の顔は。

 彼女にとって私という存在は、とても好意的に見られていない事は、認識している。

 そんな汐湯さんから本気で心配されているという事実に、今の自分が想像よりもマズい状態になっているのだと認識を改めた。

 そして、いなくなってしまうかもしれない、御雪サリアの存在の大きさを。

 ……だとしても、私に出来る事は、もう殆ど残っていないんですけれど。

 しかし、だからといって何もかも投げ出すのは違う。

 私がヘコんでいる間にも、現実の時間は流れており、他の物事はその時間の経過と共に進んでいるのだから。

「待って下さい」

 私の脇を通り過ぎ、立ち去ろうとした汐湯さんの手を取る。

 その時点で、彼女が何かしら問題を抱えていると確信する。

 ……だって汐湯さんは、私から逃げようと思えば、簡単に逃げる事が出来ますから。

 何故ならこちらは、足を引きずりながら(・・・・・・・・・)でしか歩けない。

 わざわざこちらの脇を通らなくても、少し離れて出ていけば、汐湯さんは確実にこちらの制止を振りほどく、どころか、そもそも制止されない状態を作れるのだ。

 特に、元々私の事を敵対視していた彼女ならば、好き好んでこちらに近づいては来ないだろう。

 でも私は、汐湯さんの腕を掴む事が出来た。

 つまり、そういう事なのだ。

「どこに行こうと言うのですか? 汐湯さん」

 そう言ったものの、彼女が素直に答えてくれない事は予想済みだった。

「保健室でも今日は上の空でしたし、汐湯さんの事を気にしているようでした」

 

 そう、ですか。

 

 置鮎さんの話題を振ってみると、汐湯さんの表情から一瞬険が和らいだ。

 でも、彼女にとって大切な彼女の話題であっても、最後まで汐湯さんをこの場に留めておく事は出来なかった。

「汐湯さんっ!」

 そう言うが、手を払い除けた彼女は、あっという間に私を置き去りにして駆け出してく。

 自分がついていけない速度で、どんどんと小さくなっていく彼女の背中を、私は足を引きずりながら進んでいった。

 こうなってしまっては、絶対に汐湯さんに追いつく事は出来ないだろう。

 ウサギとカメの競走の方が、まだ見ごたえがあるというものだ。

 壁伝いに、こんなに必死になって、汐湯さんを追いかける意味なんてない。

 ……ですが、追いかけないわけには、行きませんから。

 何故なら私は、彼女の手を掴めた(・・・・・・・・)のだから。

 ……つまりそれは、汐湯さんは、私に助けを求めていたんですっ。

 それは、勘違いかもしれなかった。

 人の言葉の声色がわからない、感情を聞く事が出来なくなった私が、盛大に勘違いをしているだけなのかもしれない。

 ……ですが文脈的に、ここで追わないという選択肢は、私にはありませんからっ!

 そうでなければ、何のためにここに自分がいるのだろう?

 そもそも私は、何故古矢井高校の保健師なんてやっているのだろうか?

 それは、事故にあい、看護師として働けなくなって。

 そして、御雪サリアの言葉に、励まされたからだ。

 彼女の言葉に背中を押されてここにいる以上、今私は止まる事が出来ない。

 確かに私の歩みは、カメより遅いのかもしれない。

 でも、一歩は一歩だ。

 人とは違う一歩であっても、これが私の、一歩なのだ。

 だから私は、ここで歩みを止める事は出来ない。

 ここで止まってしまったら、御雪サリアの言葉に支えられた自分が、嘘になってしまうから。

 自分の推しの言葉に力がないと、自分で自分の推しを貶めてしまう事になるから。

 ……だからここは、絶対に引けないんですよっ!

 今の季節は、春と言うには遅すぎて、夏と言うには早すぎる。

 でも足の不自由な自分が、汐湯さんを追うために必死に走ると、額にじわっ、と汗が滲んできた。

 重力に引っ張られて流れてくるそれを拭いもせず、私は船の錨を引っ張り上げるようにして足を動かす。

 カメの歩み寄りも無様な歩みで廊下を歩いていくと、女子生徒達が集まっている所に出くわした。

 ……あそこにいるのは、汐湯さんに、明治さん?

 他にも女子バスケ部だと思われる生徒達がいる中で、明治さんが口を開く。

 

 さぁー、いこーか? 保健室。

 

 ……どうして、保健室に?

 聞こえてきた言葉に疑問を抱くが、パッとすぐに思い浮かんだのは、置鮎さんの事だった。

 明治さんは、置鮎さんをイジメていた。

 他の人達は認めていないたが、私はそう言い切れると思っている。

 そしてその置鮎さんは、現在保健室登校をしている状況だ。

 だとすると、また明治さんは置鮎さんへのイジメを再開する為に、保健室に向かおうとしているのだろうか?

 ……ですが、どうして汐湯さんも一緒に?

 明治さんのイジメの最初の標的が、汐湯さんだったという事も、確実だと考えていいだろう。

 では明治さんは、置鮎さんと汐湯さん、二人同時にイジメを再開するつもりなのだろうか?

 ……いいえ。それだと、文脈的に整合が取れません。

 明治さんがあの二人にした悪行が今まで放置されているのは、教師や生徒達にその明確な証拠を与えていないからだ。

 もちろん、その全てを隠し通す事は難しいだろう。

 けれども、違和感程度であれば、周りの雰囲気という無言の圧力で黙らせる事ができる。

 たとえば、簡単なアリバイの口裏をあわせたり、あるはずのものがなかったと証言したり、ないはずのものをあったりと証言させる事ぐらいは、出来たはずだ。

 ……ですが、保健室で大っぴらにイジメをするとなると、流石に隠すのは無理です。

 何故ならあそこは、今学期からでこそ保健師の私が管理しているけれども、正式な管理者は養護教諭の九曜先生だからだ。

 保健師の私は教師としての資格を持ち合わせていないけれども、養護教諭は立派な先生。

 保健体育の授業を受け持つのも、九曜先生だ。

 だから保健室でイジメの証拠が残れば、学校側は動かざるを得ない。

 ……その危険性を、今までイジメをしても野放しにされていた明治さんがわかっていないわけがないと思うのですが。

 そうした疑問を抱えながら、私はスマホを操作しつつ、汐湯さん達に近づいていく。

「皆さん、何をしているのですか?」

 そう言うと、明治さん達だけでなく汐湯さんも驚いた様にこちらを振り向く。

 焦った様に顔を見合わせる生徒がいる中で、明治さんだけはいつもの貼り付けた様な笑顔を瞬時に浮かべた。

 

 えー? 別に、何もしてないですよー? ただ世間話をしていただけですー。なー? 汐湯。

 

 そう言いながら明治さんは、雑に汐湯さんの肩に手を回す。

 それと同時に、明治さんの友達が私の方に前に出た。

 文脈から、これ以上は近づけさせない、という意志を読み取る。

 ……確かに、足の悪い私にはただその場で立っているだけでも、壁としての役目は有効ですからね。

 私は辛そうに顔を伏せる汐湯さんを見ながら、眉をひそめた。

「今日、顧問の佐藤先生は早退されていないので部活は通常通りあるはずですが」

 

 流石、保健師さんだねー。女子バスケ部の顧問の健康状態もわかってるんだー。

 

 暗に、部活があるならこんな所で油を売っていないで早く体育館に向かうべきでは? と言ったつもりだったのだけれど、文脈的に明治さんには伝わらなかったらしい。

 ……いえ、わかっていて、そう振る舞っている可能性もありますね。

 なので今度は、もう少し踏み込んだ発言をしてみる事にする。

「部活があるのに体育館に向かわず、女子バスケ部でもない汐湯さんに話さなければならない用事とは、なんなのでしょうか?」

 

 なんですかー? 二之夕先生。随分気にしますねー。まぁ、ウチは何の話をしていたのか、ここで喋ってもいいんですけどー?

 それはっ……。

 

 明治さんの言葉に、どういうわけか汐湯さんが反応した。

 どうやら文脈的に、この話題は汐湯さんにとって避けたいらしい。

 だとすると、私としても強引にこの話を続けるべきではない。

 ……しかしだとすると、この状況は中々厄介ですね。

 明治さん達から汐湯さんを引き離す為に、二人が話していた内容がその足がかりとなればいいと思ったのだ。

 だが、その話自体を汐湯さんが避けたがっているのだとすると、その取っ掛かり自体を新たに探さなくてはならない。

 そして今の所、残念ながらそれが見つからないのだ。

 ……明確な証拠があれば別ですが、今の所はただ先輩が後輩に話をしているだけですからね。

 注意するのが、関の山といった所だろう。

 普段であれば、それで明治さんへの牽制になる。

 しかし、今回はそうではない。

 明治さんは、汐湯さんを保健室に連れて行こうとしている(・・・・・・・・・・・・・・・)。

 これは明らかに、何かの意図があっての行動だ。

 そして汐湯さんが今話していた話題をこの場でするのを嫌がっていた事から、一つの仮説が浮かび上がってくる。

 ……明治さんは、汐湯さんが嫌がっているその話を、保健室でするつもりなのではないでしょうか?

 そしてその内容が、保健室にいるはずの置鮎さんに関係があるものだと考えるのは、深読みのしすぎだろうか?

 でも、そう考えると、文脈的に違和感がなくなってくる。

 明治さんが、置鮎さんのいる保健室に汐湯さんと向かおうとしている理由も。

 そして、イジメの証拠を掴まれたくない明治さんが、何故わざわざその場所を選んだのか? という理由にも。

 ……恐らく、汐湯さんが避けている話というのは、他の人なら特に問題にならない話題なのでしょう。

 だから保健室でその話をした所で、明治さんは何かの罪に問われることはない。

 しかし彼女達にとって、置鮎さんと汐湯さんにとっては、かなり大きな問題になるものなのだ。

 もはや話は、二人が顔を合わせる事自体に焦点が移っていると考えてもいいだろう。

 そうであれば尚の事、汐湯さんをこの場から遠ざけるべきだが――

 ……結局、対症療法でしかありませんね。

 理由をつけて汐湯さんを連れ出しても、意味がない。

 何故なら彼女が置鮎さんと顔を合わせる事自体を、避ける必要があるからだ。

 今日この場を乗り切ったとしても、置鮎さんは保健室に登校してくる。

 そのため明治さんは、汐湯さんを何処かのタイミングで保健室に連れていけばいい。

 ならば、二人を会わないようにすればいいわけなのだが――

 ……置鮎さんをまた不登校に戻すわけにもいきませんし、逆に汐湯さんを不登校にさせるわけにもいきませんからね。

 妙案が浮かばず、口をつぐんだ私を見て、明治さんが嬉しそうに笑う。

 

 どーしたんです? 二之夕先生。なんだか具合が悪そうですよー? だからかなー? いつもの迫力もなくて、ぜーんぜん怖くないですー。

 

 余裕すら滲ませる明治さんを見て、私は一か八かの賭けに出るべきか考え始めていた。

 正直な所、この状況を変えられるかもしれない方法は、ある(・・)のだ。

 ……私が眼の前の生徒達を強引に押しのけて詰め寄り、明治さんからイジメの証拠を強引に引き出せれば。

 でもその場合、最悪私が生徒に暴力を振るったと、古矢井高校の保健師としての職を辞する事になる。

 四月に着任してから、まだ三ヶ月も経っていない。

 そんなに早く仕事を辞めれば、経歴的に次の職を見つけるのは容易ではなくなるだろう。

 そもそも事故の後遺症から、出来る仕事は限られているのだ。

 この学校の保健師の仕事を辞めれば、その後他の仕事に就ける保証は、全くない。

 ……ですが、もういっそ、それでいいのかもしれませんね。

 自分の軽率な行動で百合しおりを傷つけ、それが原因で推しの御雪サリアも活動を自粛してしまった。

 推しの言葉に背中を押されてこの職に就いたけれども、その推しの活動を潰してしまった自分は、きっとこの仕事は向いていないものだったのだろう。

 ……であれば退職覚悟でイジメの証拠を手に入れて、今後の置鮎さんと汐湯さんの人生を少しでも明るいものにした方がいいかもしれませんね。

 そうと決まれば、後は実行に移すだけだ。

 

 な、なんですかー? 急にそんな目をしてー。そんな目で見られても、状況は変わりませんよー?

 

 一瞥した私に明治さんは一瞬怯むも、すぐにいつもの調子を取り戻す。

 それを見ながら、結局百合しおりに謝りきれず、そして御雪サリアに許してもらえなかった事を後悔しつつも、口を開こうとして――

 

 ……え? お姉、様?

 

 <置鮎 利紗>

 

 百合しおりの活動停止のお知らせ。

 帰宅後、それを見た時、私の頭の中は真っ白になった。

 本当に、ただの、白。

 そこに僅かな染みも存在せず、あるのはただ空虚な白だった。

 人間、本当に想定外の事が起こった瞬間は何も考えられなくなるのだろう。

 そして、次の瞬間、無限の感情が湧き上がってくる。

 ……嘘でしょ? 嘘だよね? え、何で? どうして? 意味がわからないんだけどっ!

 全く予期していなかった推しの活動停止宣言に、頭の中は混乱の坩堝となる。

 前日までは普通に活動していたはずなのに、どうしてこんな事になったのだろう?

 突然過ぎる不意打ちにショックを受けながらも、パソコンのキーボードを叩いて、推しの事を調べる。

 ……何で? どうして活動停止なんてっ!

 検索エンジンやSNSで調べるも、それらしい手がかりは見当たらない。

 やがて私はとあるネットの掲示板に辿り着き、ディスプレイに表示された百合しおりさんのスレッドをクリックする。

 その内容に目を通していくと――

 ……最近、動画に誹謗中傷のコメントがつくようになった? はぁ? 誰よ、百合しおりさんの神曲にケチ就けるような馬鹿は、え? 御雪サリアに勧められて曲を聴きに来た奴、って、《こりのゆに》さんが書き込んだの? 嘘でしょっ!

 スレッドでは、少し《こりのゆに》さんの話題に触れられている。

 動画に否定的なコメントを書き込んだのを見た百合しおりさんのファンが、コメントから私が中の人を務めている御雪サリアにまで辿り着いていたようだ。

 そんな彼らの目から見ても、《こりのゆに》さんは私の配信で悪目立ちしていたらしい。

 ウザい存在として、掲示板ではやり玉に上がっていた。

 それは《こりのゆに》さんを真似して、百合しおりさんの動画にアンチコメントがついていた事も理由の一つなのだろう。

 その事実に先ほどとは違う衝撃を受けて、私は数秒固まった。

 そして次の瞬間、体の底から、マグマの様に怒りが湧き上がってくる。

 ……確かに百合しおりさんの神曲を聞くように言ったのは私だけど、それがどうしてこうなっちゃうのよっ!

「利紗? ご飯よー?」

 お母さんにそう言われて、ひとまず私は思考を中断する。

 それからご飯を食べている間も、お風呂に入っている間も、私は百合しおりさんの活動停止について考えていた。

 百合しおりさんが、もし本当に自分の曲に対する誹謗中傷で活動停止をしたのであれば、そのきっかけを作ったのが《こりのゆに》さんだったとするのであれば、それはもう私の責任でもある。

 本当に百合しおりさんはただのとばっちりを受けたようなもので、しかしどんな理由があろうともあの人が否定されていいわけがない。

 ……百合しおりさんの曲は、少なくとも私を助けてくれたんだもの。あの人の歌が、曲が、悪いわけないじゃないっ!

 そう思うが、彼女が活動を停止したというのであれば、致し方がない。

 それはその人の判断で、私がその判断にとやかく言う資格はないだろう。

 イチ視聴者の私は大人しく、座して帰りを待つしかないのだ。

 ……でも、やっぱりけじめをつけないとね。

 間接的であろうとも直接的であろうとも、百合しおりさんを自分が傷つけてしまったのであれば、私だって今まで通りではいられない。

 それに、その状態を無視出来るのであれば、莉里へのイジメも無視している。

 ……百合しおりさんも、歌ってたじゃない。大丈夫。きっとこれが、私にとって『前』に進む事だから。

 だから、今晩は急遽、配信する事に決めた。

「私、御雪サリアは当面の間、活動を自粛する事にしました」

『ええ、どうして?』

『何で? プライベートでなんかあった?』

『意味わかんないんだけど』

 百合しおりさんの活動停止を知った私の様な反応をするリスナーさん達のコメントが面白かった。

 だから私は、皆にその理由を告げる。

「私が活動を自粛した理由なのですが、その理由は、歌い手の百合しおりさんが活動停止をされたからです」

 そう言うと、視聴者の中で聡い方もおり、こちらがどんな目的で活動の自粛なんて言い始めたのか、理解してくれているようだ。

『確かに、百合しおり活動停止の動画上げてるな』

『ここ数日で、結構辛辣なアンチコメントあったしな』

『サリアのファンもアンチコメント出してたよね』

『百合しおりって結構繊細そうな感じだし、それに耐えられなくなったんじゃね?』

『百合しおりの活動停止の責任は、サリアたんには全くありませんぞ!』

 ……いや、《こりのゆに》さんのせいかもしれないんですからねっ!

 そう思うが、コメント欄ですかさずツッコミを食らっている。

 だから私は、今の自分の素直な気持ちを口にした。

「本当に、簡単にコメントで誰かを傷つける人なんて、だいっ嫌いっ!」

『サリア荒ぶってるな』

『とりあえず、気持ちが落ち着いたら戻っておいで』

『辞めないで、サリアたんっ!』

「……急な話で、ごめんなさい。それじゃあ、今日の配信はここで終わりにします」

 そう言って配信を終了した後、私は自己嫌悪で死にそうになった。

 ……私、自分の事しか考えてなかったな。

 確かに、《こりのゆに》がした事は許せない。

 でもあの人は間違いなく、私を推してくれていた。

 ウザかったとしても、必死にコメント欄を盛り上げようとしてくれていたのだ。

 御雪サリアを、私を、応援してくれていた。

 そんな人に対して、私は御雪サリア(私)を殺したのだ。

 もちろん、活動を自粛しているだけで、百合しおりさんの活動結果次第でまた再開するかもしれない。

 ……でも、私だって自分の推しがいなくなっちゃうかもしれないあの気持を、知っていたはずなのに。

 百合しおりさんの活動停止の知らせを受けて、私の頭の中は真っ白になった。

 きっと私が活動を自粛すると聞いて、《こりのゆに》さんも同じ様な状態になったに違いない。

 そんな人に向かって、私は容赦なく拒絶の言葉をぶつけた。

 それで出来た傷が、どれだけ痛いのか知っていたはずなのに。

 ……《こりのゆに》さんは、それでも辞めないで、って言ってくれたのに。

 私が逆の立場だったら、どうだろう?

 百合しおりさんに、辞めないでと言えるだろうか?

 ……言うよなぁ、絶対。

 だってあの人は、私の背中を押してくれた人だから。

 あの人の歌があったから、私は救われたんだから。

「利紗? そろそろ出ないと、学校遅れるわよー?」

「……はーい」

 そう言うが、気持ちは本当にどん底だった。

 自分の憧れがいなくなってしまうかもしれないという恐怖に、そんな気持ちを無造作に押し付けてしまった自分が、本当に嫌になる。

 両肩が抜けてしまうのではないかと思うぐらいに沈んだ気持ちのまま、私は裏門を通って、校舎に向かう。

 二日連続でこんな憂鬱な気持ちで保健室に向かう事になるとは、夢にも思わなかった。

「おはようございます、置鮎さん」

 扉を開けると、憧れの梨湖先生が既に保健室で仕事をしている。

 いつもなら後光が指しているはずの先生の姿を直視できなくて、私は挨拶をそこそこに、すごすごと机に向かった。

 今の自分は、普段の自分の動きをトレースするだけの、ロボットのようだ。

「何か、ありましたか?」

「……え? 何が、ですか?」

「昨日、あれから結局姿を現さなかった、汐湯さんの話をしませんから」

 そう言われて、そこで私はようやく莉里の事を思い出した。

 百合しおりさんの突然の活動停止に、《こりのゆに》さんに対しての怒りと申し訳無さでぐちゃぐちゃになり、今の今まで後輩の事を忘れていたのだ。

 ……本当に、何やってるんだろう? 梨湖先生にも心配をかけて、莉里の事を今の今まで忘れているだなんて。

 そう思いながら梨湖先生の方へ顔を向け、今日初めてまともに先生の顔を見る。

 すると先生も、あまり顔色がよろしくない事に気がついた。

 ……やつれた表情も素敵なんですね、先生は。

 そう思うのだけれども、その考えがどれだけ今このタイミングで似つかわしくないかぐらいはわかっている。

 先生と軽く会話をした後、今まで忘れていた不義理を申し訳なく思いながら、保健室の入口へと視線を向けた。

「でも本当にあいつ、何やってるんだろう? こんな時あいつがいれば、嫌な事や悩みも、考えている暇すら亡くなるのに」

 ……本当にあの子は、一体どこにいるんだか。

「確かに、汐湯さんならもう保健室にやってきている時間帯ですが、全く訪れる気配がありませんね」

「梨湖先生? 私、あいつ、って言っただけで、莉里の事打なんて一言も言ってませんけど?」

「確かに、その通りですね」

 見透かされた様にそう言う先生に、私はすねたように視線を外した。

 そしていつも通りの自習に取り掛かる。

 そして朝のホームルームの開始を告げるチャイムが鳴り、お昼休憩を告げるチャイムが鳴っても莉里は結局、保健室に現れなかった。

 やがて放課後となり、梨湖先生が立ち上がる。

「では私は、汐湯さんの様子を見てきますので」

「……梨湖先生。やっぱり、私も一緒について――」

「この時間帯はまだ生徒達が部活に向かう途中で、校舎に残っていると思いますが」

「なら、少しだけ、少しの間だけ、ここで待っていてもいいですか? 莉里がどうなったのかだけ、こっちの問題だけでもどうなったのか、知りたくて」

 ……百合しおりさんの事はどうする事も出来ないけど、現実の問題はまだ莉里と顔を合わせる事が出来れば、解決するかもしれないから。

 だから私は、無理せず帰宅するように言った梨湖先生の背中を見送った。

 保健室の扉が閉まり、一人部屋に残される。

 伽藍洞となった部屋の中で、私はやる事もなく椅子に座った。

 手持ち無沙汰となり、スマホをイジる。

 すると、面白そうなゲームを見つけた。

 ……あ、これ配信でやったら皆、って、そうか。活動自粛してるんだっけ、私。

 ついいつもの癖で、配信でリスナーの皆が喜んでもらえそうなものを調べていた。

 それだけで、自分が如何に御雪サリアとしての時間を大切にしていたのかを改めて認識する。

 ……でも、当たり前か。御雪サリアは、私なんだし。

 明治にイジメられていた莉里を助け、イジメられる事になったのも。

 百合しおりさんの曲に勇気づけられ、梨湖先生の支えでこうして学校にやって来ているのも。

 全ては地続きで、切り離せるものではない。

 まぁ、それがわかった所で、百合しおりさんがまた活動を再開してくれるわけでもなかった。

 そこでふと、スマホの時計の表示が目に入った。

 ……変ね。流石にそろそろ、梨湖先生も帰ってくると思うんだけれど。

 しかし、部屋の外から聞こえてくるのはアップをしている運動部の掛け声だけだ。

 それらの声が、私以外音を立てる人がいない保健室に反響する。

 その痺れる様な余韻に身が浸されて、どういうわけだか焦燥感を駆り立てたられた。

 一人しかいない、という孤独感を、まざまざと認識させられたからだろうか?

 ……莉里の事も一応、一応、気になるし。

 そう思い、私は保健室の扉に手をかける。

 明治と遭遇する可能性もあったけど、運動部がアップを始めているのなら、あいつらも今頃体育館にいるはずだ。

 そう考えると、案外あっさりと扉は開いた。

 そしてそのまま、私は莉里がいるであろう教室へと向かっていく。

 ……でも、私が向かっている途中で梨湖先生と莉里が保健室に戻って来る事も、あるよね?

 そのまますれ違わなければ、完全に入れ違いという形になる。

 そうなったら、何故保健室を一人抜け出していたのか、説明しなくてはならない。

 その理由を聞き出そうと、莉里がまたウザ絡みをしてきそうだな、と思ったのだけれど、その心配は杞憂に終わった。

「……え? お姉、様?」

 呆けたように莉里がそう呟くけれども、驚いたのはこちらも同じだ。

 梨湖先生と莉里を探しに来たら、そこに明治とその取り巻き達まで揃っていたのだから。

 突然の因縁の相手との遭遇に、一瞬二の句が継げなくなる。

 でも、言うべき言葉は決まっていた。

「だから、誰がお姉様か」

「あっれー? 置鮎じゃん。丁度いい所に」

 ニヤニヤとした明治が、こちらに振り向いた。

「ウチら、あんたに用があるんだよねー。なぁ? 汐湯」

「っ!」

 莉里の肩を、明治が叩く。

 有無を言わせない様な雰囲気に、そして事実言わせる気がない明治の振る舞いに、思わず眉をひそめた。

「あんた、また莉里に何かしようとしてるの?」

「いんやー? するのは、ウチじゃないよー」

「はぁ?」

「いや、もーした後、って言った方がいいかもねー」

「……いや、だから意味がわからな――」

「明治さんは、汐湯さんを脅しているのですよ」

 メガネの位置を直しながら、梨湖先生は言葉を重ねる。

「汐湯さんがした事で、置鮎さんに何か不利益なことがあるようで」

「それをわざわざ、莉里の口から私に言って聞かそう、って事ですか?」

「なーんだ、話が早くて助かるー」

 明治の表情が明るくなる度、莉里の表情が暗くなっていく。

「なんか汐湯がさー、置鮎に内緒で色々とやってるみたい――」

「や、やめてくださいっ!」

 震える声で、莉里が叫んだ。

「全部、ボクが悪いんです。だから、もうやめて――」

「えー、何言ってんのさー。頑張って作ったんだから、置鮎に感想もらえばいいのにー」

「だから、本当に……」

 そう言ってふさぎ込む莉里の姿を、私は以前にも見た事がある。

 それは昨年、初めてその後輩を見た時の表情と、全く同じもの。

 つまり、明治にイジメられて、絶望のドン底にいた時の莉里だ。

 だから私は、思い出していた。

 昨年自分の中に湧き上がった、この感情を。

 それを吐き出そうとして、開きかけていた唇の動きが、止まる。

 それを口にした結果、自分の身に何が起こった事を思い出したのだ。

 明治にイジメられた、あの日々を。

 ……でも、だからってここで口を噤むわけ?

 明治がわざわざ莉里を連れてきたという事は、この後輩がしでかした事は、少なからず私にとってショックなものなのだろう。

 嫌がらせとしては効果が高く、梨湖先生のおかげで復帰した保健室登校も、辞めてしまうかもしれない。

 せっかく引きこもりを脱する事が出来たのに、昨年と同じ状態に戻ってしまうかもしれないのだ。

 でも昨年と、決定的に違う事が、二つある。

 ……一つ目はVtuberとしての、御雪サリアとしての活動を、自粛している事だよね。

 御雪サリアとして配信を行ってきたから、誰かと繋がれたから、私はすぐに梨湖先生の話を聞く事が出来た。

 だから先生に憧れて保健室登校が出来る様になったのだけれと、それももう望めない。

 ……だって私が御雪サリアの活動を続けれたのは、百合しおりさんの歌で支えられたからだ。

 あの歌声に、歌詞に、曲に、彼女の歌に私は励まされ、救われたのだ。

 正直、あの歌がなければ、今の私はないとさえ思える。

 そんな歌が、もう聞けないかもしれないのだ。

 昨年と違う、この二つ目が、致命的だ。

 百合しおりさんの歌がなければ私は御雪サリアとして活動しておらず、梨湖先生と会話をする事もなかっただろう。

 もう一度引きこもってしまえば、きっと私は立ち上がれない。

 一人部屋の中で誰とも話さず、何も聞かず、暗い部屋で孤独に生きていく事になるのだろう。

 絶望感に浸りながら、あの時莉里に声をかけなければ良かった、だなんて、最低な事を一人で考えながら、日々を過ごすのだ。

 ……でも、それって、今と何が違うの?

 百合しおりさんの曲が聞けなくなった時点で、絶望しかない。

 莉里がまた明治に絡まれていているのを見ている時点で、最低だ。

 同じ絶望的で最低の状況なら、一体何を恐れる必要があるというのだろう?

 それならば、私に誰が何をしようとも、していたとしても、変わらない。

 ここがドン底なら、これ以上傷つけられた所で、私の状況は変わらない。

 ドン底だって、最低だって思うのなら。

 ……最高だった自分を、イメージ出来るわよね。

 だから私は、口を開いた。

 

「何? あんた、またイジメなんてダサい事してるの?」

 

 そう言った瞬間、明治の表情が、固まった。

 そしてすぐに、苛立たし気にこちらを振り向く。

「お前、まだ理解してねぇのか? この状況。汐湯はあんたに――」

「莉里が私に対して何かしてて、それを聞かせる事でショックを受けさせたいんでしょ? わかってるわよ、そんな事」

「だったら――」

「でも、それで私がこの口を閉じる理由にはならないわ」

 明治が莉里に言わせようとしている、彼女がしていた私が傷つく様な事とは、一体何なのか?

 有り得そうな所で言えば、莉里が明治に従っていた、という所だろうか?

 莉里が私のイジメに加担していたり、保健室登校する様になった私の所に来るようになったのは、全部明治からの指示でやっていた事だった、とか。

 ……そう考えると、確かにショックね。

 でも、だから何だって言うのだろう?

 明治のイジメを許せないと思ったのは、私自身だ。

 そして引きこもり、百合しおりさんの歌に支えられ、梨湖先生の言葉に励まされて保健室登校をしようと思ったのも、私自身で決めた事だ。

 だから――

「関係ないわよ。憧れた梨湖先生がいる保健室に行くって決めて、そこに毎日莉里がやって来たけど、それでも行こうと決めたのは、私自身だもの」

 ……それにもう、私、底の底の、ドン底にいるんだもんね。

 だから明治ごときにこれ以上、私を変える事なんて、決して出来やしない。

「裏で何かコソコソやってるのか知らないけれど、そんなダサい奴に、私は負けたりしない。莉里が私に何かしていたとしても、それでも私はそんな馬鹿な後輩を受け入れてやる。それぐらいで、私はもう揺るがないわ」

「お姉様……」

 ……だから、誰がお姉様か。

 感極まった様な莉里にそう言う返そうとしたけれど、私は言葉を発する事が出来なかった。

 癇癪を起こした明治に突き飛ばされた後輩を、支えなければならなかったからだ。

「お前ら、本当にムカつくなっ!」

「大丈夫、莉里?」

「……はい、大丈夫です」

「そんなに大丈夫だ、って言うんなら、教えてやろうじゃんか。汐湯が、何をしていたのかを、さ」

 その言葉に、びくりと肩を震わせる莉里を見て、明治がすぐに加虐的な笑みを浮かべた。

「置鮎は大丈夫って言ってたけど、汐湯の方は耐えられるかなぁ? なぁ? 正義のヒーロー気取りさんさぁ」

「明治、あんたって奴はっ」

「ははっ! いー顔すんじゃん! 自分の痛みの覚悟は出来てたけどー、後輩の痛みはそうじゃなかったってー?」

 明治の言う通りだった。

 確かに私は現状以下にはならないと明治に強気に出たけれど、莉里の気持ちまできちんと汲んでいたかと言われると、違うと言わざるを得ない。

 ……今朝、自分勝手な怒りを《こりのゆに》さんにぶつけたばかりなのに、私、何やってんのよっ!

 そう思う私の制服を、ヒーローにすがるように莉里が握る。

 でも生憎、私は後輩に期待される様な素晴らしい人間でも、ましてやヒーローでもなかった。

 それどころか逆に独りよがりな行動で、他の誰かを傷つけてしまう、そんなヒーローに退治される側なのだ。

 本当のヒーローとは、そんな私なんかが一人暗い部屋に閉じこもっている時に、そっと背中を支えてくれて、救いの手を差し伸べてくれる人達の事を言うのだろう。

 何も出来ず、歯噛みする私に向かい、明治が勝ち誇った様に笑う。

「それじゃー、聞かせてあげよーか? 置鮎も驚くと思うよ? なんと汐湯って――」

 

「とりあえず、これぐらいでいいでしょうか」

 

 明治の言葉を遮ったのは、今まで黙っていた梨湖先生だった。

 明治は舌打ちをして、先生の方を睨む。

「なんですかー? 今まで黙ってた癖に。大体この件は、先生に関係ないですよねー?」

「いいえ、流石に眼の前でイジメが行われているのを見過ごす事は出来ませんから」

「……ぷっ、イジメ? イジメって、誰が、誰をですかー?」

「もちろん、明治さん達が、置鮎さんと汐湯さんをです」

「先生、ひょっとして馬鹿なんですかー? そんな話、今更この学校で誰か認めれるっていうんですー?」

 明治の言葉に、奴の取り巻きもケラケラと笑う。

 明治の言う通り、この学校では教師も生徒も、皆こいつの行動を見て見ぬふりをしている。

 私に莉里をイジメていた事は確かだと薄々わかっていながら、それに加担していたと明らかになるのを恐れて、なかった事にしようとしているのだ。

「そんな中、ウチがイジメをしていた、っていう二之夕先生の証言だけ(・・・・)で、この学校にいる奴らが変わると思う? そもそも、元々ヨソモンの先生の言葉を誰が信じるって――」

 

『明治さんは、汐湯さんを脅しているのですよ。汐湯さんがした事で、置鮎さんに何か不利益なことがあるようで』

『それをわざわざ、莉里の口から私に言って聞かそう、って事ですか?』

『なーんだ、話が早くて助かるー』

 

「文脈的に、明治さんは汐湯さんを脅している事を否定しておりませんが」

 梨湖先生のスマホから流れてきた音声に、明治だけでなく、彼女の取り巻き達も驚愕の表情を浮かべる。

 でもすぐに、明治は頬を引きつらせながら口を開いた。

「な、なんですか? そんなの、生徒達の会話を盗聴している二之夕先生の方が悪い事してるじゃん!」

「私の場合は事情(・・)があって、許可されているんですよ。九曜先生も、認識頂いております。そして――」

 

『何? あんた、またイジメなんてダサい事してるの?』

『お前、まだ理解してねぇのか? この状況。汐湯はあんたに――』

 

「イジメをしていた事を否定しない明治さんの言葉を聞けば、そんな九曜先生は動いてくださるでしょう。養護教諭でこの学校の教師の資格がある九曜先生の話は、学校としても流石に無視出来ません。ここで先生と揉めて学校を辞められたら、法律で定められている代わりの養護教諭を見つけなくてはなりませんから」

「そんなの、勝手に見つけたらいいじゃんかっ!」

「見つからないから(・・・・・・・・)、私が保健師としてこの学校に赴任してきたんです。だから、九曜先生の訴えは学校として絶対に無視出来ません」

 歯ぎしりする明治をよそに、私は莉里と一緒に毅然とした態度を崩さない梨湖先生を、ただ呆然と眺めていた。

 ……すごい。あっという間に、形勢逆転しちゃった。

 ただ莉里が傷つけられるのを見ている事しか出来なかった私と違い、梨湖先生はしっかりと明治に対するカウンターを用意していた。

 やっぱり梨湖先生は、凄い人だ。

 正義のヒーローというのであれば、それはこの人の事を言うのだろう。

 もう明治は、観念するしかない。

 そう思っていたのだが、相手は私が思っていた以上に往生際が悪いらしい。

「でもさー、二之夕先生。それでウチ、一体どんな悪い事をしてるって言うんですかー?」

「……なんですって?」

「だってそーでしょー? 確かにウチは、汐湯が置鮎にやった事を伝えようとしたよー? 汐湯も、それは嫌がっていた。それは認めるよー。でも、それだけでしょー?」

 話していて自信を取り戻したのか、明治の歪んでいた顔に余裕が戻って来る。

「それでー、学校側にそれを注意されてー、その後は? 何? 汐湯にごめんなさいすればいーの? するよ? ウチ。それで? それで、この話はおしまし。そーでしょー?」

 そう言いながら、明治が嘲る様に笑う。

「結局、それだけなんだってー。学校が動こうが何しよーが、結局あんたらが出来る事なんてそれぐらいで――」

 

「古堅先輩、は?」

 

 その言葉を発したのは、莉里だった。

 そんな後輩を、明治が射殺す様に睨みつける。

「はぁ? てめぇ、何気軽に享太の名前口にしてんだよ」

「二之夕先生が録音した声を、古堅先輩に聞かせますよっ!」

「……なるほど。考えたわね、莉里」

 震える指で私にしがみつく後輩を安心させる様に、背中を擦る。

「あんた、莉里をイジメたきっかけって、古堅がこいつに告白して嫉妬したからだったわよね?」

「……お前っ」

 明治は口を開くが、会話を録音されている事を思い出したのか、途中で口を噤む。

 これ幸いと、私は言葉を重ねた。

「薄々気付いているとは言え、今の録音した会話を古堅に聞かせたら、そいつ、どう思うかしら? フラれた相手のイジメに加担していたなんて決定的な証拠突きつけられて、平静でいられるかな? いや、そもそも、好きだった相手をイジメている奴の事、好きになるわけないわよね?」

「ふざけんな、ふざけんな、ふっざけんなっ!」

 録音されている事を気にする余裕がなくなったのか、それとも怒りで忘れてしまったのか、明治が罵声を上げる。

「そんな事、ウチが絶対させるわけないだろ? ウチと享太は幼馴染で、家も隣なんだ。近づく女は、全員ウチが遠ざけてやる! テメェらは享太に近づかせねぇ!」

「では、古堅さんの方から来てもらいましょう」

 メガネの位置を直しながら、梨湖先生が口を開く。

「今日、古堅さんは体調不良で保健室を訪れています(・・・・・・・・・・・・・・・)。生徒の健康を管理するのは、私の職務の範囲内ですから。体調の確認がしたいと言えば、彼も呼び出しに応じないわけにはいきません」

「てめぇ、教師の癖にウチを脅すのかよっ!」

「いいえ、ただ私は、仕事はきっちりとこなすタイプなだけです。ちなみに録音したデータはクラウドにもアップされていますから、このスマホを奪っても無駄ですから」

 足の悪い梨湖先生ににじり寄っていた明治の取り巻き達が、ばつが悪そうな表情を浮かべる。

 そんな中先生は、歯ぎしりをしている明治を一瞥した。

「明治さんは聡明だと思うのでおわかりだと思いますが、私はこの音声をすぐに古堅さんに聞かせるつもりはありません」

「……ウチに、何をさせようとしてんの?」

「三つ、条件があります。一つは金輪際、置鮎さんをイジメない事。二つ目も同様に、汐湯さんへのイジメはやめて下さい」

「あと一つは?」

「今後、置鮎さんが教室に戻りたいと思った時に、最大限のサポートを確約して下さい」

 その言葉に驚いたのは、明治だけでなく、私もだった。

「あんた、正気なの? イジメてた相手に、教室に戻るのを手伝わせるだなんて」

「そうですよ、梨湖先生! それに私、このまま保健室登校でも――」

「ですから、置鮎さんが戻りたいと思った時、ですよ。将来の選択肢は、多い方がいい。だって皆さんが生きている今は、これから生きる未来の通過点でしかありません。歩幅は違えども、時間は平等に一秒ずつ、確実に進んでいくんですから」

 そう言った後梨湖先生は、ほんの僅かに口角を吊り上げる。

「それに人間、自分で壊したものをもう一度組み立てるのは、かなりのストレスになりますからね」

「……ウチのイジメに対する、復讐ってわけ?」

「いいえ、復讐ではなく、修復です。壊してしまったものは、直すべきです。たとえ直せないものであっても、直す誠意は見せるべきです。見せ続ける事でしか、本当の許しは得られないと、私は思います」

「別に、ウチは許してもらおうだなんて思ってないし」

「わかっています。ですので、最大限のサポートを確約して頂くのです」

 梨湖先生が見せびらかすように、スマホを掲げる。

「明治さんが最大限のサポートをしているのか否かの判断は、全て置鮎さんに一任されます」

「それじゃあ、明治に購買のパン買ってこいとか言えるわけですね」

「置鮎さんが教室に戻りたいと思った場合、ですが」

 私達の会話を聞いて、明治が苦虫を百匹程噛み潰したかの様な表情を浮かべる。

 でも一方で、莉里は不満そうな表情を浮かべた。

「二之夕先生の案は、ちょっと温すぎると思うよ? それに、ボクがイジメられていた事に対しての贖罪がないし」

「では汐湯さんは、明治さんに死んでもらいたいのですか?」

 すぐに莉里が回答出来なかったのは、その問に戸惑ったからではない。

 少なからず、そう思っている(・・・・・・・)自分がいたからだ。

 もちろんそれは、私も同じだった。

 でも、それは出来ないのだ。

 人を殺せば、当然殺人犯になる。

 自殺しろと言っても、自殺幇助で罪に問われるだろう。

「アニメやマンガの様な復讐は、これから先の、未来を考えなくていいから行える事です。もちろん証拠を残さず復讐するやり方もあるでしょうが、それを成し遂げるアイディアと、それを実行する力が必要でしょう」

「だから、ボクに泣き寝入りしろっていうの?」

「明治さんに死んで欲しいと思ったのは、文脈的に今後の人生で二度と関わって欲しくないからではありませんか?」

 その言葉に、私は莉里と共に顔を上げる。

 確かに、そう思っている部分があるのは、事実だった。

 でも現実的に考えて、それは無理だ。

「同じ学校に通っている間は、全く関わらないというのは、現実的ではありません。それと同じ様に、復讐だって別に在学中にしなければならないという、時間制限はありませんから」

「ちょっとー。ウチが聞いているって、わかってて言ってんのー?」

「逆ですよ、聞かせているんです。加害者は被害者から許されるまで、一生恨まれ続ける。先程言った通り、将来復讐される可能性も残り続ける(・・・・・)。もちろんそれは、加害者に加担した人にも言える事ですが」

 梨湖先生の言葉に、明治の取り巻き達がたじろいだ。

「そんな! 私達は、別に」

「だって、恵が大丈夫だ、って言うから」

「関係ないんですよ、そんなの。傷つけられた側は、相手に傷つけられたという事実が全てなんですから」

 そう言って梨湖先生は、自分の足元へと視線を向ける。

「私の足は、事故でこうなりました。裁判も既に終わっていますが、あの事故がなければこんな体にならなかったのに、という気持ちは、まだ私の中にもあります。人との違いを実感する度、どうしてもそう思ってしまうんです」

 そして先生が顔を上げ、その瞳に明示達を捉えた。

「私はこうして、見た目でわかりやすい傷を負っていますが、置鮎さんと汐湯さんも同じですよ。二人は私と同じく、後遺症に苦しんでいるんです。ただそれが心の傷なので、目に見え辛いだけで。明治さん達がやった事はそういう事だと、将来自分が幸せの絶頂の時に復讐される事もあるのだと、肝に銘じておいて下さい」

 それはある意味、今まで交わされた言葉の中で、最も重い脅迫だった。

 梨湖先生の言葉で明治達は、これから先幸せを感じる度、私達から復讐される可能性に怯え続けなくてはならなくなったのだ。

 自分が幸せを感じる度、幸せを感じてしまう度に、怯えて生きていかなくてはならない。

 その事に気付いたのか、流石の明治も何も言い返せないようだった。

 そんな彼女達をよそに、梨湖先生が今度は私と莉里に視線を向ける。

「私もこんな体なので、文脈的にお二人が復讐を考えるのは止めはしません。ですが、最初の復讐は、特にイジメで壊れてしまった場合は、イジメられる前よりも幸せになる事です」

「幸せ、に?」

「はい。だって貴方達はイジメられる前、幸せに生きていたんですから。なので、これ以上傷つけられても変わらないだなんて痛みを我慢する方向に考えるのではなく、傷つけられたものを修復して、幸せになるべきなんです。そのうえで本格的な復讐がしたいのであれば、すればいいんですよ」

 私の考えを見透かされた様な言葉に、心臓が跳ねた。

 そんな事を知る由もない莉里が、少しだけ不服そうに口を開く。

「……ボクの幸せは、やり返した後にしかないんだとしたら?」

「だからこその、三つ目の条件なんですよ。文脈的に汐湯さんは、置鮎さんが以前のように教室に通いたいと思うのなら、それがかなった方が嬉しいですよね?」

「当たり前じゃないですかっ」

「その時置鮎さんが明治さんをこき使っているのを見るのは、痛快ではありませんか?」

「……確かにそうかも! ボクは明治先輩をパシリにして嬉しそうにしているお姉様を見られて幸せだし、パシリにされて辛そうな先輩も見られるし、復讐出来てるっ!」

「誰がお姉様か。後、人をサディストみたいに言うんじゃない」

 そう言いながら、私は梨湖先生が莉里の質問を誤魔化した事に気がついた。

 莉里が復讐出来ていると言ったのは、あくまで私が普通に登校したいと思った時だけだ。

 保健室登校を選ぶのであれば、私と莉里が得られるのは、明治にイジメられないという取り決めだけ。

 莉里が明治に復讐する話は、何も決められていない。

 ……でも、落とし所としては、この辺りが妥当なのかもしれないわね。

 私と違い、莉里と明治は学年が違う。

 明治に莉里の学校生活をサポートさせるのは限界があるし、あいつの後輩に莉里をサポートさせても、それは明治に対して復讐しているとは言えないだろう。

 だから明治に出した条件は、三つなのだ。

 私と莉里へのイジメをなくし、そして簡易的ではあるものの明治への復讐の機会を私と莉里の二人(・・)が得られる。

 でもこれは、ひょっとして――

 ……莉里が望む展開にするためにも、私に普通に登校出来る様に頑張れ、っていう梨湖先生からのメッセージなのかな?

 文脈的に、そんな気もしてくる。

 でも、無理に戻れと言わない辺りが、梨湖先生らしいと思った。

 そして最後の最後まで、本格的な復讐をする選択肢を消さない所も。

「それで、どうですか? 明治さん。三つの条件、飲んで頂けますか?」

「逆に、それ以外選択肢ないでしょ」

「では、交渉成立ですね。佐藤先生には、部活に遅れたのは私に呼び止められていたからと、言い訳に使って頂いても結構です」

「……誰がお前に貸しなんて作るもんか。行くよ、和泉、はじめ」

「ちょ、ちょっと!」

「待ってよ、恵!」

 恵達が立ち去る背中を見ていると、梨湖先生がこちらに近づいてくる。

「言いたい事は、わかりますね?」

「……はい」

「え? ちょっと! 何二人でわかり合ってる感じ出してるんですかっ」

「真面目な話ですよ? 汐湯さん。二人共、今回はたまたま上手く行きましたが、あまり無闇に相手に突っ込まないようにして下さい。やるなら、ちゃんと落とし所は考えないと。私も、危なかったですが」

 先生の最後の言葉が気になったのだけれど、莉里の言葉で会話が流れていく。

「いいじゃないですかっ。上手くいったんですからっ!」

「それで二人の心の傷が増えるのは、好ましくありません」

「……もうっ、すぐそう言う事言ってっ!」

「なんか莉里、私の知らない間に梨湖先生と仲良くなってない?」

「そ、そんな事ないですよお姉様! ボクのお姉様は、お姉様だけですからっ!」

「だから、誰がお姉様か」

「では、いい加減戻りましょう。置鮎さんがここにいるという事は、保健室に誰もいないという事ですから」

「そうだった! す、すみません、梨湖先生」

「仕方がありませんよ。それに、こうやって私が気にしてあげられるのは、卒業までの間ですから」

 そう言われ、立ちすくんだ私に背を向けて、ゆっくりと梨湖先生が歩いていく。

 先生の言葉で寂しさに胸が締め付けられる思いになるけれど――

「やっぱり梨湖先生、素敵です……」

「ちょっと! 確かに二之夕先生が最後は助けてくれた形になりましたけど、形勢逆転された後の再逆転はボクの言葉が、って利紗先輩? 先輩? お姉様! ねぇ、話聞いて下さいよ!」

「何をしているんですか? 出来れば、先に保健室に戻っていてもらいたいのですが。申し訳ないのですが、私の歩みは遅いので」

「わかりました、梨湖先生!」

「露骨すぎますよ! くっそーっ、意地でもボクの言葉をお姉様に伝えてみせますからね。そうと決まれば、家に帰ったらまた練習だ! そうだよ。元々お姉様の為にやってたんだから、他の誰かに何言われたって関係ないんだ。頑張るぞーっ!」

「莉里? 何やってんの? 置いていくわよ?」

「すぐ行きますっ!」

 そう言ってバタバタやって来る後輩と一緒に、私は梨湖先生の脇を通り過ぎ、保健室に向かうのだった。

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