○第二章

 <二之夕 梨湖>

 

 端的に言わせてもらえれば、今日の私は朝から機嫌が良かった。

 今日は、必ず良い日になると、そう断言出来る。

 何故なら――

 ……まさか、朝一からサリアたんの雑談配信があるだなんてっ!

 今年の四月ぐらいまでは不定期で朝の配信もあったのだけれど、最近は中の人が忙しかったのかご無沙汰となっていた。

 ゲリラ的な配信だったけれども、朝から推しの話しが聞けて嫌な人類はこの世に存在していいない。

『朝からサリアたんの配信が聞けるなんて最高すぎます! 今日も是非是非サリアたん節を炸裂させていただきたい所存ですぞ。うひょひょひょひょっ!』

『うわ、朝からいるのかよ、《こりのゆに》』

『時間帯関係なく、配信中は常にいるな』

『サリアたんを推す定めに生まれたものとして、拙者常に全力投げ銭出来る準備は出来ておりますぞ!』

 

 それは流石にストーカーっぽくて気持ち悪いよ!

 

『朝からサリアたんにコメントを読んで頂けるとは、今日一日幸せなに過ごせる事間違いないですなッ!』

『マジで投げ銭が早すぎるぞ、《こりのゆに》……』

『下手すると《こりのゆに》のコメントだけでコメント欄埋まるぞ』

 御雪サリアだけでなく、他の視聴者にもウザがられてしまう。

 しかし、それはそれで他のリスナーとの会話が盛り上がっているので、ウザがられがいがあるというものだ。

 多少嫌われようとも、推しのチャンネルが盛り上がっている方が、推しのために貢献出来ている気がする。

 完全な自己満足なのだけれども、今自分が保健師として社会復帰出来ているのは、間違いなく御雪サリアのおかげだ。

 彼女の力になれる事が、この上なく嬉しかった。

 時計を確認すると、まだ登校するまで余裕がある。

 推しの配信をまだ楽しめると、愉悦に浸っていると――

『サリアが昨日神曲って言ってた百合しおりの曲、確かにマジで神曲だった』

 そのコメントが投稿された瞬間、会話の流れが一気に変わった。

 

 そうなのそうなの! 憧れの人がいるのに、いざその人を眼の前にすると中々思うように気持ちを伝えられないもどかしさとか、逆に想いが空回りして変なことしちゃうとか、マジでこれ私の事じゃん! って思っちゃったっ!

 

 その文字を読んだ瞬間、キーボードを叩く私の手が止まった。

 相手の声色が聞こえず、言葉が全て文字となる私であっても、わかる。

 文字だけであっても、明らかに御雪サリアのテンションが上ったのが。

 それを認識した瞬間、自分の中でとても形容し難たく、どす黒い感情が湧き上がる。

 今まで百合しおりの動画の話題で、配信が盛り上がった事は、確かにあった。

 でも、今回はいつもとは違い、熱としか言いようがない何かが、御雪サリアの語る文脈から漂ってくる。

 それを認識した瞬間、自分の指が凍りついたように動かなくなった。

 いつもなら即時コメントしてウザ絡みをして、呆れられるまでがいつものパターンだったのに。

『おい、《こりのゆに》、どうしたんだ?』

『投げ銭足りねーぞ? 《こりのゆに》』

『まさか、ついに観念して新曲聴きにいったのか?』

 御雪サリアのリスナー達の間でも、私が意地でも百合しおりの曲を聴きに行っていない事は認知されていた。

 そして視聴者にも知られているのだから、当然推しもそれは認識している。

 

 え、そうなの? あの曲は絶対に聴きに行ったほうがいいよ! 《こりのゆに》さん。

 

 ……サリアたんが、そこまでいうのなら。

 名指しをされたこともあり、私はブラウザで百合しおりを調べる。

 チャンネルのページまで辿り着き、昨日投稿された動画をクリック。

 そして、五分程の曲がヘッドホンから流れ始めたのだが――

 ……どうしてサリアたんも他のリスナーも、どうしてあんなに絶賛しているんでしょう?

 正直私には、良さがわからなかった。

 でも、それも仕方がない事なのかもしれない。

 歌は、その歌い手が込める感情も含めての歌だ。

 それが私には、文字にしか聞こえない。

 先程推しの言葉に熱を感じ取れたのは、私がずっと御雪サリアの配信を聞いていたからだ。

 初めて聞いた相手の言葉の文脈から、それを即時読み取れるわけがない。

 ……自分の耳が、嫉妬で使い物にならなくなっているとは、思いたくはないですけれど。

 そう思うが、さっきまですぐに動かなかった指が、勝手にキーボードを叩いていた。

 書き込んでいるのは、今聞き終えた百合しおりの新曲の感想だ。

 気付いた時には、そのメッセージを投稿し終えるエンターキーを押し終えている。

 その内容は――

『吾輩の愛する大人気Vtuber、御雪サリアたんが激推ししていたので聞いてみれば、正直がっかりですな。相手の事を考えない独りよがりの文脈で、これだけ評価されている理由がハッキリ言って見つかりませんぞ。大した事ないと、言わざるを得ませんな』

 ……この内容は誰がどう読んでも、嫉妬している文脈ですね。

 苦みよりも、痛みを感じた時に近い笑みを思わず浮かべてしまう。

 まさか、これ程までに自分が御雪サリアに執着しているとは思わなかった。

 いや、彼女の言葉を文脈で感情を読み取れるぐらい配信を見続けているうちに、想像以上に自分の中で御雪サリアという存在が大きくなっていたのだろう。

 ……知っているのはアバターという仮初の姿で、どこに住んでいてどんな顔をしているのかも、全くわからない相手なのに。

 それなのに、自分が彼女を百合しおり程熱中させられなかった事が、元気づける事が出来なかった事が、悔しくて悔しくて、たまらなかった。

 ……いえ、そもそも中の人が、『彼女』である保証も、どこにもないんですよね。

 御雪サリアの中の人が、ボイスチェンジャーで声を変えている可能性だって、十分あり得る。

 相手の年齢どころか性別すらわからないのに、そんな相手に自分の心がここまで掻き乱された。

 ……本当に、私は何をやっているんでしょうか?

 気づけば時間は、もう登校しなければならない時間になっている。

 私は敗北感に近い感情を抱えながら、文字通り足を引きずって、学校に向かう準備を始めるのだった。

 

 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 自分の醜さに沈んだ気持ちは学校に到着しても一向に晴れず、濁りが固まり、沈殿してしまった様に校舎を歩く私は、足と一緒に憂鬱を引きずっていた。

 ……久々にサリアたんの朝配信を聴けて、素晴らしい一日になると思っていたんですけどね。

 スマホを操作しながら職員室に向かい、九曜先生と今日の仕事の打ち合わせを行う。

 打ち合わせの主な内容は、今後実施を予定している健康診断の調整だ。

 調整といってもいつもお願いしている保健所に頼むので、そこまで難しい事をするわけでもない。

 

 二之夕先生が保健師の資格をお持ちだから、話が早くて助かるわぁ。

 

「いえ、九曜先生が仕事の内容をまとめてくださっていたおかげですよ」

 文字起こしをした内容をスマホの画面でも見ながら、おっとりとした九曜先生と他の仕事も詰めていく。

 と言っても、残る仕事は保健室の備品管理ぐらいだ。

 そして最近保健室を利用しているのは置鮎さんと、置鮎さん目当ての汐湯さんぐらい。

 つまり、一気に消毒液が消費されている、というような事はなかった。

 去年の消費量から必要な薬品等の手配をする事になり、私は保健室の鍵を手にとって、職員室を後にする。

 廊下を歩く私の耳に、開けられた窓から朝練に励む生徒達の掛け声が文字として入り込んできた。

 いつもならそれぐらいの文字数、特に気にしないのだけれど、朝の出来事が影響しているのか苦痛に感じてしまい、思わずワイヤレスイヤホンを耳に挿す。

 流れてくる環境音の清涼さで幾分気持ちが落ち着くか、と思ったのだけれど、逆に自分の卑しさを感じる結果となってしまい、思わずスマホをタップして、音声を消した。

 ……駄目ね。仕事に集中しないと。

 自分の心の乱れは、あくまで自分だけの問題だ。

 確かにプライベートで心を乱してしまうような事はあったのだけれど、それを仕事に持ち込むのは良くない。

 いや、むしろ仕事ぐらいきっちりこなせないと、自分の心の置き場がなくなってしまう。

 ……それに、せっかく学校に来てくれるようになった置鮎さんに悪いですからね。

 彼女が保健室登校をしてくれるようになったのは、大きな前進だと思う。

 何も、無理して置鮎さんに保健室まで来てもらう必要はない。

 他の人と、無理にあわせようとする必要はないのだ。

 それは私の推しが言っていたとおりだろう。

 でも、そもそも置鮎さんが引きこもってしまったのは、彼女が引きこもりたくてそうしているのではない。

 元々学校に通う事を望んでおり、それをまだ置鮎さんが望んでいるのであれば、それを手助けしたい。

 御雪サリアが、私の背中を押してくれた様に。

 古矢井高校に赴任してきて彼女の家を訪ねたのは、そんな理由からだった。

 結果として、彼女は勇気を出して保健室に来てくれるようになり、それは今も続いている。

 その事実は置鮎さんだけでなく、汐湯さんにとっても大きな影響を与えた事だろう。

 ……彼女の話の文脈からは、かなりの後悔が読み取れましたからね。

 事実、置鮎さんが保健室に登校する様になり、汐湯さんも保健室を訪れていた。

 彼女の言葉を直接読んだ事はないのだけれど、自分を救ってくれた置鮎さんへ救いの手を差し伸べれなかった事を、未だに引きずっているのだろう。

 ……本来であれば、そうした後悔も抱える必要はないのですけれど。

 何故なら汐湯さんは、何も悪い事をしたわけではないのだ。

 むしろ彼女の立場を考えれば、表立って何か出来るわけがない。

 その行動で再び明治さんのイジメのターゲットにされたら、それこそ置鮎さんが汐湯さんを庇った意味がなくなってしまう。

 イジメの決定的な証拠を掴めるのであれば話は別だが、今現在は明治さんが誰もイジメるつもりはなさそうだ、という状況を維持するしかなかった。

 唯一教師の中で九曜先生だけは、明治さんについて私の意見を聞いてくれる。

 しかしご高齢のため、イジメの証拠集めをお願いするのは無理があった。

 ……私もこの耳と足では、出来る事が限られていますからね。

 そんな事を考えている間に、もう保健室に辿り着いていた。

 解錠し、ノートパソコンを立ち上げる。

 型落ちのそれが起動するのを待っている間に、換気のため保健室の窓を開け放った。

 席に戻ると流石にOSは立ち上がっており、作業を開始する。

 暫くキーボードを叩いていると、置鮎さんが保健室にやって来た。

 

 おはようございます、梨湖先生。

 

「おはようございます。今朝は、少し遅めでしたね」

 

 け、今朝は少し、用事がありましてっ。

 

 スマホの時計を見ながらそう言うこちらに、置鮎さんが申し訳無さそうにそう言った。

 ……また、冷たく言い過ぎてしまったのかしら?

 そう思うが、私の中に気の利いた言葉は浮かんでこない。

 結局紡いだ言葉は、簡素なものだった。

「登校出来るのであれば、問題ないです」

 

 そ、そうですよね! わかってますっ。

 

 置鮎さんはそう言うと、こちらの近くに移動させた机に座り、自習の用意を開始する。

 と、そこでもう一人の訪問者がやって来た。

 言うまでもなくその一人とは汐湯さん、なのだけれど――

 ……汐湯さんも、今日は少し遅かったわね。

 いつもなら置鮎さんの登校するのとほぼ同時か、少し後ぐらいにやって来るのに。

 とはいえ、まだ朝のホームルームには、まだ早い時間帯。

 たまには、こういう事もあるだろう。

 そう思っていたのだけれど、どうやら様子がおかしい。

 ……変ですね。汐湯さんが、置鮎さんに抱きついていません。

 通常であれば、汐湯さんが置鮎さんにじゃれついて怒られる、までが一連のサイクルだ。

 流石にベッドに押し倒すのはやりすぎだけれども、私としても程々にしてくれるのであれば、そこまで口うるさく注意はしていない。

 違和感を覚えたのはどうやら私だけではなかったらしく、置鮎さんも眉をひそめる。

 

 何よ。あんた、朝から変なものでも食べたわけ?

 ……え? なんですか? お姉様。

 だから、誰がお姉様か。

 

 そう言った後、置鮎さんはすぐにジト目を汐湯さんへ向ける。

 

 いつもなら、もっと私にベタベタしてくるじゃない。何かあったわけ?

 え? 気にしてくれるんですか?

 私の事、どう思ってるのよ。いつも顔を合わせている相手の様子が変なら、気になるでしょう。

 えへへっ。だったら慰めて下さいよぉ、利紗先輩っ。

 こら! 急に抱きつくな! 全く、少し甘くしたら、すぐ調子に乗るんだから。

 

 そう言いながらも、置鮎さんは本気で怒ってはいないようだった。

 文脈と彼女の表情から、私であってもそう感じることが出来る。

 しかし、汐湯さんは全く違う受け止め方をしたようだった。

 

 そ、そうですよね。ボク、調子に乗ってました。すみません……。

 莉里?

 どうせボクなんて……。

 

 顔を伏せる汐湯さんへ、置鮎さんは戸惑った様な表情を浮かべる。

 彼女が後輩へその真意を確かめる前に、汐湯さんは踵を返した。

 

 すみません、そろそろ一限始まるんで、ボク、帰りますっ。

 あ、ちょっとっ!

 

 置鮎さんの呼び止める声を無視するように、汐湯さんは保健室を飛び出していく。

 後輩の背中へ手を伸ばすが、彼女が保健室の扉を越える事はなかった。

 スマホの時計を確認すると、そろそろ予鈴がなりそうな時刻となっている。

 つまりは、朝練をしている運動部の生徒達が、自分の教室へと向かって移動している時間帯だ。

 女子バスケ部が今日朝練をしているのかは知らないけれど、明治さんと顔を合わせたくない置鮎さんにとって校舎の中を安心して歩けるのは朝練前か、放課後の時間の少しの間だけだ。

 その事実が彼女の足を止め、やがて予鈴がスピーカーから流れ出る。

 ハッとしたように置鮎さんが顔を上げるが、汐湯さんを追いかけるには遅すぎた。

 もう自分の教室に辿り着いているのだろうし、ホームルームも始まっているだろう。

 置鮎さんは、動画の再生停止ボタンを押された様に、手を虚空に上げて止まっている。

「そろそろ授業が始まりますので、自習を始めて下さい」

 いつまでもそうしているわけにもいかないだろうと声を掛けると、置鮎さんは弾かれたように顔を上げた。

 

 そ、そうですね! すみません。

 

 そう言って置鮎さんは、自習を開始する。

 しかし、やはり汐湯さんの事が気になるのか、彼女も普段通りとはいかないようだった。

 ……もうすぐお昼になろうというのに、一度も私に声をかけてきませんね。

 いつもなら、この問題がわからないだとか、普段私が家で何をしているのかだとか、保健師の仕事は忙しいのかだとか、そもそも保健師になるにはどうしたらいいのかだとか、何かにつけて雑談をしようと話を振ってくる。

 でも今日はシャーペンをクルクルと器用に手で回し、何を口にするでもなく虚空を見つめてぼーっとしている様に見えた。

 ルーティーン化しているやり取りがなかったとしても、今の彼女が上の空になっている理由は、一つしかない。

 文脈を読むまでもなく、置鮎さんは汐湯さんの事を気にしているのだろう。

 お昼を告げるチャイムが鳴り、私は束ねたプリントを持って立ち上がる。

「置鮎さん。私はこれから、九曜先生にこの書類を渡してきます。置鮎さん?」

 

 ……は、はいっ!

 

 二度名前を呼んで、ようやく意識をこちらの方に向ける彼女へ、私は小さく頷いた。

「大丈夫ですか? 体のどこかに異常を感じたり、違和感があったりするのでしょうか?」

 

 い、いえ、そ、そういうわけでは……。

 

 恥ずかしそうにそう言った置鮎さんへ、私は先程言葉にした用事を、もう一度口にする。

 保健室の留守を預かる事を了承した彼女へ、それでも無理はしないようにと伝えた後、私は保健室を後にしようとして、足を止めた。

「そう言えば職員室は、二年生の教室がある階と同じ階にありましたね」

 

 そ、そうです、ね。

 

「学校の保健師としては、生徒のメンタルヘルスケアも仕事の一つです。たまには校舎の中を回って保険室外での表情も確認して、ケアが必要な生徒も確認しないといけませんね」

 

 っ! お、お願いしますっ!

 

「礼を言われる様な事ではありませんよ。これも、仕事、ですから」

 わかりやすく表情を明るくした置鮎さんにそう言って、私は保健室を後にした。

 お昼時という事もあり、学食に向かう生徒達とすれ違う。

 はしゃぐ彼らの声を読み飛ばすように、私は職員室の中に入っていく。

 職員室ではいつもの様に、お茶をすすりながらお弁当をつついている九曜先生の姿があった。

「九曜先生。今朝言われていた薬品の確認が終わりました。お手数ですが、チェックをお願いいたします」

 

 あぁ、もう終わったんですか? 流石、二之夕先生は仕事が早いですねぇ。

 

 おっとりとした口調でそう言う九曜先生の確認を終え、このまま作業を進めていいと許可をもらうと、私は足早に移動を開始する。

 行先は当然、職員質と同じ階に連なる二年生の教室だ。

 はたして彼女は、すぐに見つけることが出来た。

 何故なら汐湯さんは、目立っていたからだ。

 いや、あれはもはや目立つというより、異常と、そう言ってもいい。

 空白だった。

 まるで、鉛筆でぐちゃぐちゃに丸を描いた後、消しゴムで真ん中だけを綺麗に消したような、空白。

 その空白の中心に、汐湯さんはいた。

 ただただその場に一人、ぽつんと、孤立している。

 一人お弁当を食べている汐湯さんが、今クラスメイトからもイジメられているという話は、文脈からは読み取れなかった。

 それに、別にイジメられているという雰囲気ではない。

 でも、積極的に誰かが話しかけるようなことはなかった。

 ……明治さんからイジメられなくなって、周りがどう接すればいいのか、わからなくなったんですね。

 イジメられていた時は、もっと酷かったのだろう。

 明治さんの振る舞いに、クラスメイト達も協力していたはずだから。

 だから、それがなくなっただけでも、以前に比べて汐湯さんは教室で過ごしやすくなったはずだ。

 ……ですが、この状況は健全ではありませんね。

 彼女が置鮎さんに時間を見つけて会いに来るのは、教室がこんな状況だから、という理由も少なからずあるはずだ。

 いや、ひょっとしたら汐湯さん自身、その事に気付いていないのかもしれない。

 去年が酷すぎて、今の状態がかなりマシな状態になっているのだから大丈夫と、感覚が麻痺していてもおかしくはなかった。

 ……本当に、置鮎さんと汐湯さんには申し訳ない事をしました。

 本来であれば、こんな自体にならないよう、昨年の段階で学校側が然るべき処置をすべきだったのだ。

 しかし実際に彼女達のケアを始めれたのは、今年の四月、つまり、私が赴任してきてから。

 交通事故からの復帰、そして学校の保健師という新しい仕事をする事になり、私はまずこの学校がどんな所なのか知ろうと、色んな人に話を聞いて回った。

 すると、どう考えても不自然な文脈が存在している事に気付いたのだ。

 それは生徒会長の明治さんについて、皆の証言がピッタリと一致していた。

 ……文脈的に、総論としてあの人は優しい人だ、という評価はありえますが、一語一句、教師から生徒まで証言が揃うのは、おかしすぎます。

 特に、不登校になっていた置鮎さんの話は、顕著にその傾向が見られた。

 そしてその傾向は、何故だか部活を辞めた合唱部のエース、汐湯さんについても見られたのだ。

 だからその日、下校の時間に正門から帰宅する汐湯さんに話を聞こうとして――

 ……あの時の汐湯さんは、本当に酷い顔をしていましたね。

 目は口ほどにものを言うらしいが、あの時の彼女の目は、絶望色に染まっていた。

 それで私は、明治さんが置鮎さんをイジメており、汐湯さんもイジメられていたのだと確信したのだ。

 看護師時代に見た、自殺願望のある患者さんと、全く同じ目をしていたから。

 そして汐湯さんが学校に来れており、置鮎さんが不登校になっている事から、どういった順番で明治さんが二人をイジメていたのかも、推測できる。

 全ては、文脈から導き出した結果だ。

 ……でもそれを理解出来るのは、声が文字として読める私だけですからね。

 他の先生達を説得するための、明治さんがイジメをしていたという決定的な証拠がないため、誰の助けも期待する事が出来ない。

 だから私は登校時下校時に、一人で置鮎さんの家を訪れるようになった。

 当たり前だが、彼女がすぐに学校に戻ってくると決意したわけではない。

 保健室登校が出来るようになるまで、何度も何度も私は言葉を重ねに行った。

 でも現在、置鮎さんは保健室に勇気を出して登校する事を選んでいる。

 彼女が勇気を出せる様になったきっかけは、一つしかない。

 それは――

 ……サリアたんのおかげですね。

 事故にあって御雪サリアの存在を知ってから、私はずっと彼女の配信を聴き、そして彼女の言葉に勇気づけられたのだ。

 あの時自分が支えられた言葉を、今度は自分が置鮎さんを支えるために彼女に送った。

 その結果置鮎さんは、学校にまた来れるようになった。

 ……やっぱりサリアたんは、偉大ですね。

 彼女の言葉は私だけでなく、不登校だった引きこもりの学生が外に出るための、勇気を与えたのだから。

 自分の推しの尊さを再認識していると、ふと振り向いた汐湯さんと目があった。

 私の存在に気付いた瞬間、彼女は弾かれたようにこちらに向かって教室を飛び出してくる。

 さっきまで感情を無にして、もそもそと一人弁当を食べていた人と同一人物だとは、とても思えない変わりっぷりだった。

 

 何なんですか? ボクに何か用でもあるわけ?

 

 まるで親の仇を見るような目でこちらを睨む汐湯さんに、思わず私は苦笑いを浮かべてしまう。

 会う度会う度不機嫌さを隠しもしない彼女の事が、実はそこまで嫌いではない。

 ……この子は、私に似ていますからね。

 汐湯さんが私に敵意を向けるのは、文脈から読み取るに、嫉妬からだ。

 そしてその感情を上手くコントロール出来ず、他人にぶつけ、そしてそんな自分に自己嫌悪している。

 ……今朝の私と、同じですね。

 どれだけ話しかけても、私という存在は御雪サリアにとって一リスナーでしかない。

 いや、それ以下の、ウザい視聴者でしかなかった。

 汐湯さんも置鮎さんの支えになろうと、毎日保健室に顔を出している。

 でもそれが空回りして、置鮎さんからは鬱陶しがられていた。

 そうやって邪険にされるのが、自分以外の人も含まれているのであれば、まだここまでの敵愾心を持たなくて済むはずだ。

 しかし、そうではない。

 自分ではない誰かが、その人の心の大部分を占めているという事実に、どうしても心が掻き乱されてしまう。

 ……おかしいですよね。私は大人なのに、高校二年生の汐湯さんと同じ様な事をしてしまうだなんて。

 百合しおりの動画に、今朝当てつけの様なコメントを送ってしまった事を改めて後悔していた。

 しかし、今更コメントを削除した所で、既に自分の醜さを言語化して見知らぬ他人に叩きつけてしまったという事実を変える事は出来ない。

 だったらせめて、自分と似たような女の子にはそんな思いはしてもらいたくないと、私は口を開く。

「今朝は元気がなかったようですが、大丈夫ですか?」

 

 ……何を言いに来たのかと思えば。保健室でも言ったじゃないですか。ボクは別に――

 

「置鮎さんが気にされていましたよ」

 

 お姉様がっ!

 

 先程まで眉間に刻んでいたシワが、一瞬にしてなくなった。

 瞳を輝かせる汐湯さんの顔を見て、自分の中で特別な人がどれだけ大きな存在なのか? という事を、改めて実感する。

 一方眼前の少女は、自分が前のめりになってしまったと気付いたのか、ばつが悪そうな表情を浮かべた。

 

 そ、それだけの事を言いにわざわざ来たんですか? 全く、保健師の仕事は随分暇なんですねッ!

 

 文字ではそう聞こえるが、その表情はまんざらでもなさそうだった。

 他の人であれば、表情と内心が一致しない事もあると、一歩引いた目線になっていただろう。

 でも相手は、私と似た者同士だ。

 ……であれば、単純に素直になれないだけね。

 それはつまり自分の事でもあり、相変わらず面倒くさい性格をしているなと、改めて自己分析をする結果となる。

「それでは、そろそろ保健室に戻りますね」

 

 一昨日来やがれですよっ!

 

 そう言いながらも、しっかりと見送ってくれる汐湯さんに踵を返し、足を引きずりながら保健室の方へと向かっていく。

 だがその途中、階段の踊り場で、見知った顔が集まっているのに気がつく。

 ……あれは、明治さん?

 明治さん以外にも、女子バスケ部と思われる二人の生徒の姿もあった。

 そう考えたのは、以前裏門で置鮎さんと一緒にいた女子生徒がいたからだ。

 

 ねぇ、この歌い手ってひょっとして――

 吹奏楽部の子にも聞かせてみようよ。

 確かに、一緒に演奏してるって言ってたし――

 

 でもここからでは、話している言葉を拾いきれず、表情もよく見えない。

 近づこうと足を動かした瞬間、明治さんがこちらに振り向いた。

 ……なんですか? あの表情は。

 私の見間違いでなければ。

 明治さんは、勝ち誇った様な表情を浮かべていた。

 すぐに踊り場から立ち去った彼女達を、生憎私の足では追いかける事は出来ない。

 残念ながら、今この場で何か出来る事はなさそうだ。

 再び保健室に足を向けながら、私はどうしてもこう考えずにはいられない。

 ……良からぬ事が、起こらなければいいのですが。

 

 <置鮎 利紗>

 

『おはよー。久々の朝からの雑談配信だよ』

 そう言うが、コメント欄への書き込みはまばらだった。

 朝という時間帯もあり、配信を観に来てくれている人が少ないのだ。

 それに先程述べた通り、久々の早朝配信という事もあるだろう。

 配信を行う時間帯が決まっていれば、それに合わせてリスナーが付いてくれるけれど、不定期ともなれば視聴者も時間を取りづらい。

 引きこもりを続けていた時は時間も持て余していたので、朝もそれなりの頻度で配信を行っていた。

 ……でも、今は保健室へ登校するようになったから。

 しかし、久々の時間帯での配信だったとしても、何人かのリスナーはいつもの様にコメントを書き込んでくれる。

 その中には逆に夕方以降の配信では出られない人もいて、久々に彼? 彼女? 達と会話ができるのが嬉しかった。

 ……こういうのがあるから、たまに違う時間帯で配信したくなるのよね。

 時計を見ると、まだ登校までは時間がある。

 せっかく来てくれた視聴者のために、もらったコメントを一つ一つ読み上げ、お礼と返事をしていくのだけれど――

『朝からサリアたんの配信が聞けるなんて最高すぎます! 今日も是非是非サリアたん節を炸裂させていただきたい所存ですぞ。うひょひょひょひょっ!』

 ……うわぁ、《こりのゆに》さんかぁ。

 本当にこの人は、いつでも湧いてくる。

 いや、応援してくれているのは理解しているし、それはそれで嬉しいのだけれど、どうしても鬱陶しさの方を先に感じてしまうのだ。

 そしてそんな《こりのゆに》を、他のリスナーがイジるのももはや定番化している。

『うわ、朝からいるのかよ、《こりのゆに》』

『時間帯関係なく、配信中は常にいるな』

『サリアたんを推す定めに生まれたものとして、拙者常に全力投げ銭出来る準備は出来ておりますぞ!』

「それは流石にストーカーっぽくて気持ち悪いよ!」

 そう言うと《こりのゆに》は、すぐに嬉しさをコメントを連投してくる。

 別の人のコメントでもある通り、コメント欄が《こりのゆに》のものだけで埋まってしまいそうだった。

 これでは、他の視聴者が配信を楽しめないかもしれない。

 《こりのゆに》に対しては、雑に扱ってもいい雰囲気は自分の配信では出来ているし、他のリスナーも望んでいる節もある。

 ……でも、かといって常連の視聴者さんにあまりキツい事も言えないし。

 そう思っていると、こんなメッセージがチャット欄に書き込まれた。

 

『サリアが昨日神曲って言ってた百合しおりの曲、確かにマジで神曲だった』

 

 百合しおり。

 その単語を見ただけで、今まで自分の中でモヤモヤと渦巻いていた黒い靄が、あっという間に晴れた気がした。

「そうなのそうなの! 憧れの人がいるのに、いざその人を眼の前にすると中々思うように気持ちを伝えられないもどかしさとか、逆に想いが空回りして変なことしちゃうとか、マジでこれ私の事じゃん! って思っちゃったっ!」

『相変わらず、百合しおりの話題になった瞬間にクソデカ感情発露するの笑う』

『あった事もない人の歌詞に自己投影するのやめてw』

『時間帯関係なく、しおりの話になるとテンション上げるなぁ』

「いやいや、百合しおりさんの曲聞いてテンション上がらないとかありえないからっ!」

 特に、昨日アップされた新曲は、紛うことなき神曲だった。

 いや、百合しおりさんの曲はどれも神曲で、その優劣を語る事すらおこがましい。

 そう考えてしまうのは、彼女の曲に支えられて、Vtuberを続けてこれたからだ。

 彼女の曲がなければ今の自分はいないと、断言できる。

 Vtuberを続けていたから、人と関わる事を辞めなかったから、引きこもっていた私に会いに来てくれた梨湖先生とも言葉を交わそうと思えたのだ。

 百合しおりさんがいなければ、今頃私はまだ一人で暗い部屋に閉じこもり、保健室登校をする事すら考えなかっただろう。

 改めて百合しおりさんに感謝の言葉を伝えていると、コメント欄が大人しくなっている事に気がついた。

 いつもなら、私が百合しおりさんの話を始めた途端、《こりのゆに》さんが怒涛のコメントを投稿するはずなのに。

 そう感じたのは、私だけではなかったようだ。

『おい、《こりのゆに》、どうしたんだ?』

『投げ銭足りねーぞ? 《こりのゆに》』

『まさか、ついに観念して新曲聴きにいったのか?』 

「え、そうなの? あの曲は絶対に聴きに行ったほうがいいよ! 《こりのゆに》さん」

 好きなものや好きな人の事を考えたりするのは、非常に楽しい。

 でも自分が好きなものや人が他の人にも認められる事は、それ以上に嬉しいものだ。

 本当なら私も、対面で百合しおりさんの事を語りたい。

 ……でも、梨湖先生はVtuberとか歌い手とか、興味なさそうだし。

 莉里については、まぁ、あの子はいいだろう。

 口を開けば開くだけお姉様お姉様とうるさいし、《こりのゆに》さんとはまた違ったウザさがあった。

 そんな後輩に百合しおりさんの事を教えたら、新曲がアップされる度、それを話のネタにしてまとわりつかれるに違いない。

 そうこうしている内に、そろそろ登校準備を始めた方がいい時間帯となっている。

 コメントがそこまで連投されず、治安の良くなったコメント欄に別れを告げて、私はすぐに着替え始めた。

 セーラー服を着込み、鞄を持って台所に向かう。

「お弁当ありがとう、お母さん。私、そろそろ学校行くね?」

「はい、気をつけてね」

 そう言って玄関に向かう私の後を、お母さんが見送るためについてくる。

 その顔は嬉しい、というよりも、安堵に近い表情だった。

 引きこもりを脱したあの日から、お母さんはこんな表情を浮かべる事が増えたように思う。

 ……学校に行くようになって、安心したんだよね。

 娘が引きこもりになって心配しない親はいないし、引きこもりを脱した娘が再び元に戻ってしまう事を恐れない親もいない。

 ……心配しないで。また引きこもりに戻るつもりなんて、今はないから。

「いってきまーす!」

 そう言って玄関を出る私の足取りは、軽かった。

 昨日明治達に会った時はかなり動揺してしまったけれど、学校に行けば梨湖先生がいる。

 先生の事を想うと、自然と勇気が湧いてきた。

 学校では誰も明治の事を疑わなかったけれど、あの人だけは私の味方になってくれる。

 引きこもっていた時に語りかけてくれた先生の言葉は、今も私の背中を押してくれていた。

 ……何度もその事について先生にお礼を言ったけど、自分は大した事はしていないって、言ってきかなかったっけ。

 何でも以前、梨湖先生も他の人に救ってもらった事があるという。

 それが回り回って私に届いただけだとそう言って、菓子折り一つ受け取らなかった。

 ……あぁ、もう、本当に梨湖先生はカッコいいなぁ!

 そう思うと、自然と学校に向かう足が軽やかになった。

 

 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 配信をしていた兼ね合いもあり、学校にはいつもより遅れて着いた。

 裏門を通って下駄箱に向かっている間に、朝練に励む生徒達の声が聞こえてくる。

 心なしかその声がいつもよりも大きく聞こえてしまい、私は焦るようにして上履きに履き替えた。

 登校時刻が少し遅れたので、朝練に励む生徒達の体もほぐれて、声も出せる様になったのだろう。

 バスケ部が練習をしているであろう体育館には意地でも顔を向けず、私は足早に保健室へと向かっていく。

 すると廊下の先で、梨湖先生が保健室の鍵を開けている場面に出くわした。

 ……先生、どうしたんだろう?

 梨湖先生は、いつも私が登校するより早く学校に来て、保健室を開けてくれている。

 つまり、先生もいつもより遅れて学校にやって来た、という事だ。

 ……でも、先生だってそういう時もあるわよね。

 そう考えている間に、梨湖先生はそのままゆっくり歩いて保健室の中に入っていく。

 何となく声をかけるタイミングを逸した私は、もったいぶるように廊下を進む。

 ゆっくりと歩くのは、罪悪感で足取りが重いせいだ。

 その罪悪感とは、憧れの人にすぐに声をかけなかったという、この世で私以外気にしないであろう後ろめたさが原因となる。

 ……本当に、面倒くさいな、私。

 そう思うが、後悔の感情が自分の中から湧いてきてしまうのだから、仕方がない。

 どれだけ私が面倒くさくって、不甲斐ない私でも、梨湖先生に対しては清廉潔白でいたかった。

 百合しおりさんの歌声の様に、透き通って向こう側が見えるような、そんな自分でいたかったのだ。

 やがて保健室まで辿り着き、保健室の扉を開ける。

「おはようございます、梨湖先生」

「おはようございます。今朝は、少し遅めでしたね」

 その言葉が、今朝Vtuberの配信を行っていた事を咎められているようで、一瞬息が詰まる。

 もちろん、私が御雪サリアとして活動している事を知らない梨湖先生が、そんな事を言うわけがない。

 でも、私の口からは流暢に言葉が出ず、舌がもたついてしまう。

「け、今朝は少し、用事がありましてっ」

「そうでしたか」

 淡々とスマホを見る梨湖先生の一挙手一投足が、気になって仕方がない。

 さっきまでは先生に対して後ろめたさを感じていたのに、そもそもそういう事は全く気にならないと言うようなそっけない態度を取られると、今度はそちらの方が気になってしまう。

 興味を全く持たれないより、ウザがられてもいいから、先生の興味をこちらに向けたかった。

「登校出来るのであれば、問題ないです」

「そ、そうですよね! わかってますっ」

 そうだ。

 わかっていた事じゃないか。

 先生が私を救ってくれたのは、あくまでそれが仕事だからだ。

 保健師として引きこもった生徒の、メンタルヘルスケアをするという、職務に従った結果に過ぎない。

 それ以上の興味も関心も、きっと先生は持っていないのだろう。

 ……引きこもっていなかったら、イジメられていなかったら、梨湖先生は私に優しくしてくれたのかな?

 今のように、保健室に来る事を許してくれていたのだろうか?

 自習の準備をしながら、そんなやくたいもない事ばかり考えていると、保健室の扉が開けられた。

 入ってきたのは、莉里だ。

「おはようございます、利紗先輩」

「おはよう。あんた、凝りもせず今日も来たのね」

「そりゃ来ますよ。先輩がいる所にボクあり、ですから」

「何だそりゃ」

 朝は私、梨湖先生に莉里の三人でホームルームが始まるまで保健室で話すのが日常化していたのだけれど――

 ……そう言えば、莉里も遅れて来たのね。

 普段もっと登校が早い三人が同じ日に遅れてくるなんて、珍しい。

 珍しいといえば、莉里の反応も珍しかった。

 いつもなら、異様に人懐っこい小動物の様にまとわりついてくるのに、今日は借りてきた猫の様に大人しい。

 まぁ、大人しいといっても物理的な接触がないだけで、身振り手振りにこちらへ畳み掛けるような喋りは健在だ。

 しかし――

「何よ。あんた、朝から変なものでも食べたわけ?」

「……え? なんですか? お姉様」

「だから、誰がお姉様か」

 ……何よ。いっちょ前に、強がろうっていうわけ?

 そう思うと、ほんの少しだけムッとしてしまう。

「いつもなら、もっと私にベタベタしてくるじゃない。何かあったわけ?」

「え? 気にしてくれるんですか?」

「私の事、どう思ってるのよ」

 あんたがイジメられていた時、一番最初に声をかけたのが誰なのか、忘れてしまったのだろうか?

「いつも顔を合わせている相手の様子が変なら、気になるでしょう」

「えへへっ。だったら慰めて下さいよぉ、利紗先輩っ」

「こら! 急に抱きつくな!」

 そう言いながら、普段の調子に戻った莉里に、私は安堵していた。

 ……そうよ。あんたはそうやって能天気に笑っていればいいの。

 辛い思いは、もうしなくていい。

 明治のイジメの矛先は莉里から私に移っているし、私が引きこもった事でその行く先も宙ぶらりんになっている。

 だから、このままでいいのだ。

 このまま何事もなく時が経過してくれるのが、一番いい。

 ……とはいえ、夏にもベタベタされるのは困るわね。

「全く、少し甘くしたら、すぐ調子に乗るんだから」

 冗談めかして、そう言った。

 いつも保健室で繰り広げているやり取りの、延長線。

 その、つもりだったのに――

「そ、そうですよね。ボク、調子に乗ってました。すみません……」

「莉里?」

「どうせボクなんて……」

 おかしい。

 こんなはずじゃなかった。

 それなのに、どうして莉里はこんなに辛そうな表情を浮かべているのだろう?

「すみません、そろそろ一限始まるんで、ボク、帰りますっ」

「あ、ちょっとっ!」

 私の声に振り返りもせず、莉里は保健室を飛び出していく。

 もう朝練を終えた生徒達が校舎の中に入ってきており、ホームルームの時間を告げる予鈴が鳴った。

「そろそろ授業が始まりますので、自習を始めて下さい」

「そ、そうですね! すみません」

 梨湖先生にそう言って、私はひとまず席につく。

 ノートを広げ、教科書のページを捲るが、英単語も数学の公式も、全く頭の中に入ってこない。

 ……もしかして、明治が莉里に何かしたとか?

 自分の中に浮かんだその疑念を、私はすぐに自分自身で否定する。

 私が下校時に明治達から声をかけられたのは、昨日の話だ。

 奴が莉里を今もイジメているのなら、あの場で私に声をかけてはこなかっただろう。

 相手の性格から考えて、部活が休みになって時間が出来たのなら、裏門前で仲間とだべらず、すぐお楽しみ(・・・・)に向かっているはず。

 ……ひょっとして莉里の様子が変だったのは、学校とは関係のない事が理由なのかしら?

 それはあり得るかもしれないな、と思うのと同時に、私は莉里の事を詳しく知らない事に、今更ながらに気がついた。

 でも、それは致し方がない事だと思う。

 私が転校してきて、莉里をイジメる明治を咎め、そこからすぐに奴にイジメられるようになったのだ。

 あの時明治にイジメられていた後輩の事を知る時間も余裕も、私にはなかった。

 ……とはいえ、今更あの子になんて言ってプライベートの事を聞けばいいのか、わからないし。

 明治にイジメられていた場面に遭遇したのが初めましてなら、莉里に出会った二度目ましては、保健室登校をする様になった今年なのだ。

 だから後輩と話をする様になった時点であの子は私にベタベタしてきたし、お姉様と突然言われるようになっていた。

 そのため、莉里の事を邪険にする様な扱いをしてきており、今更このスタンスをどう変えたらいいのかわからない。

 気づけば自習は全く進まず、ただただシャーペンを回す回数だけが増えていく。

「置鮎さん。私はこれから、九曜先生にこの書類を渡してきます。置鮎さん?」

「……は、はいっ!」

 そう梨湖先生に返答した時には、既にお昼の時間となっていた。

「大丈夫ですか? 体のどこかに異常を感じたり、違和感があったりするのでしょうか?」

「い、いえ、そ、そういうわけでは……」

 話しながら、思わず赤面してしまう。

 梨湖先生に心配された事もそうだけど、まさか莉里の事を考えて、午前中が終わるとは思わなかった。

 でも、先生に話しかけられた事で、私の中である考えが思い浮かぶ。

 ……そうだ。保健師の先生なら、莉里の事情も話しを聞けるんじゃないかしら?

「そう言えば職員室は、二年生の教室がある階と同じ階にありましたね」

 まるでこちらの考えを読んだかのように話す先生の言葉に、私は口から心臓が飛び出てきそうな程驚いた。

「そ、そうです、ね」

「学校の保健師としては、生徒のメンタルヘルスケアも仕事の一つです。たまには校舎の中を回って保険室外での表情も確認して、ケアが必要な生徒も確認しないといけませんね」

「っ! お、お願いしますっ!」

 ……本当にこの人は、素敵過ぎるっ!

 こちらが困っている所に、適切なタイミングで、そして適切な言葉を投げかけてくれる。

 ひょっとしてこの人は、神様か何かなんじゃないだろうか?

 流石すぎて、そう思わずにはいられない。

 仕事だからとクールに保健室を出ていく背中を、ときめきながら見送る。

 大人の余裕がある所を見せつけられて、ますます私の中で梨湖先生の存在が大きくなった。

 それでふと思い出したのは、登校前に行っていた早朝配信だ。

 いや、百分の一でもいいので先生の様な大人の対応をしてもらいたいあの人は、どの配信でもウザ絡みをしてくる。

 ……本当に、《こりのゆに》さんは、もう少しだけ落ち着いてもらいたいんだけど。

 そう言えば《こりのゆに》さんは、あの後配信に戻ってこなかった。

 結局、百合しおりさんの新曲を聞いてくれたのだろうか?

 そんな事を考えながら、私はお昼を食べ始める。

 お弁当を半分程食べたぐらいで、梨湖先生が保健室に戻ってきた。

「先生、おかえりなさい」

「はい、ただいまです」

「莉里の様子は、どうでしたか?」

「はい。置鮎さんが心配していると伝えたら、文脈的に喜んでいましたよ」

「ちょっ、先生っ」

 思わず立ち上がる私に、梨湖先生が淡々とした瞳でこちらを一瞥する。

「違いましたか?」

「違、いません、け、ど」

「お昼の時間ももう少ないですし、放課後には顔を出すと思いますよ」

「ほ、本当ですか?」

「はい。なので、午後は自習に集中できますね」

「……はい」

 やっぱり私が全く集中出来ていない事は、バレていたようだ。

 気恥ずかしさを感じるも、先生が莉里と話をしてきてくれた事で、だいぶ落ち着いた。

 安心した、と言い換えてもいいかもしれない。

 放課後になれば、莉里と会える。

 次会った時は、もう少しあの後輩の事を聞いてみよう。

 そう、思っていたのだけれど。

 結局放課後になっても、莉里は保健室に現れる事はなかった。

 

 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 ……莉里、どうしたんだろう?

 そう思いながら、私は鞄を担いで立ち上がる。

 保健室の出口に向かう私に、梨湖先生が口を開いた。

「私はまだ仕事が残っているので、片付けてから帰宅します」

「わかりました」

 そう言って振り向くと、先生は書類を書くわけでもノートパソコンを操作するわけでもなく、静かに椅子に座ってスマホを操作していた。

 仕事が残っているというのは建前で、もう少しだけ残って莉里が来るのを待つつもりなのだろう。

 私も一瞬残ろうかと思ったのだけれど――

 ……そうなると、他の生徒と鉢合わせするかもしれないから。

「そろそろ、校舎に残っていた生徒も部活に行ったんじゃないでしょうか?」

「そう、ですね。では、失礼します」

 梨湖先生に促されて、私は下駄箱に向かっていく。

 そこで上履きを履き替えていると――

 

「あっれー? 置鮎じゃん」

 

 どういうわけだか、外から戻ってきた様な明治達と、下駄箱で遭遇した。

「昨日と今日で会うなんて、すっごい偶然だねー」

「……何の用?」

「あー、そんな警戒しなくてもいーって。お前には用はないからさー。今は、ね」

 すれ違った時ワザと肩をぶつけられ、下駄箱に体が強かに打ち付けられた。

 そんな私を、明治が睥睨する。

「せいぜい今のうちに、楽しんでたらいーよ。ヨワイモン同士、ヨソモン同士、肩寄せ合ってさー」

 ……何? 何かするつもりなの?

 それを聞き返す前に、明治達は私の前から去っていく。

 歯に何かが詰まったような、どうしようもない不快感が残るも、ここにいても何が出来るわけでもない。

 私はすぐに家に帰り、すぐにパソコンを起動させる。

 ……今朝配信したから夕方は止めようと思ったけど、やっぱり配信しよう。

 嫌な記憶を消し去りたくて、私はすぐにゲリラ配信を始める。

「どもども。いつもの冴えない皆様の毎日に、ちょっとしたおっ、という驚きをお届けするVtuber、御雪サリアです。朝も配信したけど時間があったから、ゲリラ配信始めましたよー」

 夕方に配信したからか、今朝よりも視聴者数は多い。

 でも珍しく、《こりのゆに》さんからのウザいコメントはなかった。

 しかし、その代わりとでも言うかのように、別のリスナーから、衝撃的なコメントが書き込まれる。

 その内容とは――

 

 <汐湯 莉里>

 

 ……さて、反応はどうなっているかな?

 昨晩アップした動画の反応が知りたくて、ボクは珍しく百合しおりのチャンネルをブラウザに表示した。

 普段しない行動をとっている理由は非常に単純なもので、アップした曲に手応えを感じていたからだ。

 どの曲も妥協して作ったものはないのだけれど、昨晩アップしたのはここ最近で一番手応えがある曲だ。

 好評であれば、次こそ利紗先輩に直接ボクの歌を聞いてもらおうと、そう思える程のもの。

 本心を言わせてもらえれば、自信がかなりある曲だ。

 そしてボクは、そろそろ限界を迎えようとしていた。

 ……お姉様に直接、ボクの歌を聞いてもらいたい。

 何も行動に移さなかった後悔を、もうしたくない。

 ボクの歌で、先輩を支えたい。

 そういう気持ちが、自分でも抑えきれないぐらい、大きくなっている。

 ……だって保健室でお姉様のあんな顔を見せられたら、たまらないじゃないか。

 ボクの方を見てくれないのに、利紗先輩は瞳を輝かせて二之夕先生を見ている。

 どれだけ騒いでもこちらを見てくれないのであれば、無理やりこちらに振り向かせるしかない。

 自己満足から曲をネットにアップするようになったのだけれど、登録者数が一万を越えた辺りで、その数が自分の自信につながった。

 一万人もの人が自分の歌を聞いてくれるのであれば、利紗先輩にもボクの歌が届くかもしれない。

 でも、あの人が一番辛かった時に動けなかったので、誰かに背中を押してもらいたかった。

 だから今回アップした曲が好評だったら、先輩に直接歌を聞いてもらおうと、そう決めたのだ。

 朝はそこまで強い方ではないのだけれど、今日はリスナーさんの反応が知りたくて、自分にしては早起きをしてしまった。

 ……これでめちゃくちゃ酷評とかされてたら、どうしよう。

 弱気になるものの、確認しないという選択肢はない。

 意を決して、ボクはサイトにアクセスした。

 コメントの内容は――

 ……良かった。概ね、好評だ。

 ホッとした所で、そういえばそもそも自分の動画にコメントしてくれるような人達は、肯定的なメッセージをくれる事が多かったことを思い出す。

 これなら自信を持って利紗先輩に歌を聞いてもらえると、そう思った所で――

 

『吾輩の愛する大人気Vtuber、御雪サリアたんが激推ししていたので聞いてみれば、正直がっかりですな。相手の事を考えない独りよがりの文脈で、これだけ評価されている理由がハッキリ言って見つかりませんぞ。大した事ないと、言わざるを得ませんな』

 

 ……え? 何? これ。

 コメントしてくれたのは、《こりのゆに》さん?

 御雪サリアたんさんって誰なの? と思ったけれど、Vtuberという単語で思い出した。

 前にコメントをもらった、御雪サリアさんの事だ。

 数ある肯定的なコメントの中で、長文でかつ否定的な《こりのゆに》さんのコメントが、やけに目立つ。

 といっても、先程述べた通り、書き込まれたコメントの殆どが、曲を褒めてくれるものばかり。

 でも――

 ……相手の事を考えない、独りよがり、かぁ。

 その言葉が、ぐっさりとボクの心に突き刺さる。

 刺さった理由は、まさに独りよがりの自覚があったからだ。

 ……ボクの曲は、全部お姉様の事を歌ってるものだもんね。

 それも、利紗先輩の許可をもらうでもなく、一人で勝手にやっている事だ。

 ……ボク、何を一人で舞い上がっていたんだろう?

 利紗先輩に、自分の歌を聞いてもらいたい。

 自分の歌で、先輩を支えたい。

 この願い自体が、まさに独りよがりなものだ。

 ……っていうか、勝手に自分の事を歌にされてるって、普通に気持ち悪いよね。

 それも、普段まとわりついてくるウザい後輩なら、尚更そう思われるはずだ。

 ストーカー扱いされても、おかしくない。

 というか、絶対そう思われる。

 手応えがあろうが、登録者数がどれだけあろうが、ボクが認められたいのは、一人だけなのだ。

 そう思うと、普段読み飛ばしていた様な、曲や歌詞を否定するコメントが目についてしまう。

 

『学校でイジメられてた陰キャが歌ってそう』

『根暗で女々しい所が全面に出ててキモい』

『誰かのためじゃなくて、結局自分のためだけに歌ってるんでしょ?』

 

《こりのゆに》さん以外にも、こんなコメントが並んでいる。

 いや、こうして見ると、《こりのゆに》さんのコメントが、否定的な内容で一番優しいものと思えるぐらいだ。

 ……お姉様のために、って歌ってきたつもりだったんだけど、他の人にはこんな風に聞こえるんだ。

 ボクの歌を、声を、歌詞を褒めてくれる人の方が、圧倒的に多い。

 けれども一度向けてしまった心無いコメントで、結局ボクは自分のためにしか歌っていなかったんじゃないか? という疑念に取り憑かれてしまう。

 ……ひょっとして、イジメられてた時友達が助けてくれなかったのは、ボクが自分の事しか考えてなかったからなのかな?

 そんなわけがないし、そんな事を今考える必要なんてないのに、嫌な考えが止まらない。

 そしてそんなネガティブ思考がコメントで指摘された通りの内容で、更に落ち込む事となった。

 気づけばいつもより、家を出る時刻を過ぎている。

 ……駄目だ。一人でいると、嫌な事ばかり考えちゃう。

 今無性に、利紗先輩に会いたくて仕方がなかった。

 でも、そう考える事自体、自分の独りよがりさが出ているようで、嫌になる。

 嫌になるけど、学校をサボるわけにもいかない。

 別に、イジメられているというわけでもないのだ。

 気を取り直して、ボクは学校に向かう。

 古矢井高校に近づく度、生徒達の朝練の掛け声が聞こえてくる。

 正門をくぐった所で合唱部の声が聞こえてきて、気にする必要もないのに顔を伏せた。

 そのまま足早に下駄箱まで向かい、バタバタと上履きに履き替える。

 保健室に辿り着いた時には、なんだかもう息切れしてしまい、呼吸を整えるために少し扉の前で深呼吸してから扉を開いた。

「おはよう、ございます」

「おはようございます」

「おはよう。何? あんた、また凝りずに来たわけ?」

 二之夕先生と利紗先輩に出迎えられ、ここでようやくボクは一息付くことが出来た。

 先生は相変わらず感情をメガネの奥に閉じ込めているように淡々としており、先輩は面倒くさそうにしながらも、こちらのために椅子を用意してくれる。

 そのいつも通りの雰囲気が嬉しすぎて、利紗先輩に今すぐにでも抱きつきたくなるのだけれど――

 ……それも結局、ボクのわがままだよね。

 独りよがりで、結局自分のためにしか何か出来ないという言葉が頭に浮かび、ボクは先輩に伸ばしていた手を引っ込めた。

「椅子、ありがとう、ございます」

「? どういたしまして」

 一瞬先輩は不思議そうな表情を浮かべたものの、すぐに席に座る。

 その隣に腰を下ろすと、いつも通りボクは雑談を始めた。

「先輩、今日の朝ご飯は何でしたか?」

「いつも通り、サラダとスープよ」

「それでよくお腹すきませんね」

「……すくけど、ダイエット中なのよ」

「え? ダイエットなんてしてるんですか? 他の人と比べても、むしろ痩せてるぐらいなのに」

「こういうのって、他人がどうこうじゃないでしょ?」

「それは、そうかもしれないですけど」

「そうなのよ。それに、ほら? 私、暫く家にこもってたでしょ? だからちょっと太っちゃって」

「こもってた……」

 保健室にいる三人の中で、私と利紗先輩がイジメられていた事も、先輩が引きこもっていた事も周知の事実だ。

 今更隠す必要もないし、先輩も変に話題を避けるような事はしていない。

 だから今の発言は、完全な世間話の一つとして話されたものだろう。

 しかし、今朝の事があったため、その一言が特別な意味を持つように感じてしまう。

 先輩の言葉が、何故あの時助けてくれなかったのかと、一人でイジメを逃れるなんてズルいと、言われてもいない言葉へと勝手に変換されてしまう。

 そんな事ないとわかっているのに、口を開けば余計な事を言ってしまいそうで、思わずボクは無言になってしまった。

 急に喋らなくなったこちらを、利紗先輩が胡乱げな表情で一瞥する。

「何よ。あんた、朝から変なものでも食べたわけ?」

「……え? なんですか? お姉様」

「だから、誰がお姉様か」

 一拍反応が遅れてしまうが、とっさに喋ったにしては、いつも通りのボクの答えを口にできた自信があった。

 でもそれぐらいでは誤魔化されてくれないのか、利紗先輩の追求は止まらなかった。

「いつもなら、もっと私にベタベタしてくるじゃない。何かあったわけ?」

「え? 気にしてくれるんですか?」

「私の事、どう思ってるのよ。いつも顔を合わせている相手の様子が変なら、気になるでしょう」

 その言葉で、一瞬にして自分の心が晴れやかになる。

 同じ人の言葉なのに、気持ちが乱高下するのが不思議でならなかった。

 でもきっとこの人が、自分にとって特別な存在だからに違いない。

 ちなみに今の気分は、当然上がっている方だった。

「えへへっ。だったら慰めて下さいよぉ、利紗先輩っ」

 気持ちが抑えきれず、思わず先輩に抱きついてしまう。

 その瞬間、すぐに利紗先輩が私の額を抑えた。

「こら! 急に抱きつくな! 全く、少し甘くしたら、すぐ調子に乗るんだから」

 ……調子に、乗る。

 本当に。

 たった一言で、気持ちの色がガラッと変わってしまう。

 でもそれは、自分に思い当たる節があるからだ。

 勝手に先輩を支えたいと思って、勝手に曲が受けたら直接歌を決めて、勝手に一人で盛り上がって。

 改めて考えると、確かに調子に乗っていた。

「そ、そうですよね。ボク、調子に乗ってました。すみません……」

「莉里?」

「どうせボクなんて……」

 そう言った所で、ハッとした。

 こうした自分のつぶやきですら、自分勝手な想いが零れてしまっただけでしかない事に気がついた。

 眼の前の利紗先輩も、困惑したような表情を浮かべている。

 ……本当に、ボク、何やってるんだろうっ。

「すみません、そろそろ一限始まるんで、ボク、帰りますっ」

「あ、ちょっとっ!」

 先輩の声を振り切るように、保健室を飛び出した。

 駆ける勢いをそのままに、自分の教室に辿り着いた。

 自分の席につくと、丁度ホームルームの開始を知らせる予鈴が鳴った。

 それが鳴り響いている間に、担任の先生が入ってくる。

「ほらー、立ってる奴は席につけー」

 先生の言葉で、クラスメイト達がバラバラと席についていく。

 皆他の同級生と話しているが、ボクとは目すらあわせない。

 担任の先生も、似たようなものだ。

 必要がない限り、ボクはこの教室で認識される事はない。

 こうした扱いになったのは、明治先輩のイジメが、ボクから利紗先輩に移った辺りからだ。

 あの時は同級生も先生も、明治先輩の味方だった。

 皆先輩の言い分を聞いて、イジメなんてするわけないって、盲信しているみたいだった。

 けれどもイジメの対象が利紗先輩に移った事で、明らかにボクの荷物が汚れなくなった(・・・・・・・)。

 その時、皆自分の間違いに気付いたのだろう。

 しかし、明確なイジメの証拠はなかった。

 でも、イジメがあった事はほぼほぼ確定で、だとすると皆は、加害者側に回っていたという事になる。

 何故なら明治先輩の話を無根拠に聞き入れるという、間接的にイジメに加担していた事になる。

 だからこそ皆、何もしない事を選んだ。

 いや、そこに何もなかった事にした(・・・・・・・・・・)のだ。

 ボクなんていないように扱う事で、自分達が加害者だった事も、なかった事にしようとしているのだろう。

 当たり前なのだけれど、それで事実が変わるわけではない。

 でも、その無意味で無頓着で無関心な行動が、いくつかプラスになった事もある。

 まず、イジメられるよりもいないもの扱いされた方が、ボクが楽だったこと。

 そして皆が明治先輩に疑念を持ってくれたおかげで、二之夕先生も動きやすくなったこと。

 その結果二之夕先生が利紗先輩の家に行こうとするのを、他の先生達が強く反対する事もなかったようだ。

 そうした状態が今も続いており、ボクは同じ制服を着込んだ口も聞かない何かに囲まれながら、今日もホームルームから授業中、一言も喋らず過ごしていた。

 それはお昼の時間になっても当たり前のように続いていて、周りの席の人が学食や他の教室の人とお昼を食べに行く中、ボクは一人お弁当箱の蓋を開ける。

 お母さんが作ってくれた料理は美味しいはずなのに、口の中で咀嚼するそれらは、非常に味気ない。

 それでもいつもなら素早くご飯を食べ終えて、利紗先輩に会いに保健室に向かうのだけれど――

 ……ちょっと、今日は行けるかな?

 今朝の事が、まだ尾を引いている。

 口に運ぶ箸も重くって、いつまで経ってもお弁当箱の中身が減らない。

 そう思っていると。

 教室の外に、二之夕先生がいるのが目に入った。

 その瞬間、ボクの頭の中で何かが弾けた。

 ……何でここに、貴女がいるんだっ!

 貴女は、利紗先輩の傍にいないといけないはずなのに。

 貴女がいるから、先輩は学校に来れるのに。

 それなのに、ボクの所に来たという事は――

 ……同情しているつもりなのかっ!

「何なんですか? ボクに何か用でもあるわけ?」

 教室を出て睨みつけるのだけれど、安心した様に笑うのが、更に腹が立つ。

「今朝は元気がなかったようですが、大丈夫ですか?」

 心配してもらっているのに、その気遣いすら煩わしかった。

「……何を言いに来たのかと思えば。保健室でも言ったじゃないですか。ボクは別に――」

「置鮎さんが気にされていましたよ」

「お姉様がっ!」

 二之夕先生に気にしてもらうのと、利紗先輩に気にしてもらうのでは、勝手に郵便ポストに投函されているチラシの内容か、天国から遣わされた天使から神託を承るのか、ぐらいの差がある。

 でも、その喜びを先生の前で見せたのが気恥ずかしく、ボクは思わず二之夕先生から顔をそらした。

「そ、それだけの事を言いにわざわざ来たんですか? 全く、保健師の仕事は随分暇なんですねッ!」

 でも、そうか。

 利紗先輩は、ボクの事を気にしてくれているんだ。

 色々と悩んでいたけれど、その事実だけで、自分の心が温かくなる。

 確かに独りよがりかもしれないけれど、それでも先輩ならボクの歌を聞いてくれるんじゃないか? って、そう思えた。

 ……そうだよね。顔も知らない誰かのコメントなんかに、いちいち振り回されてても、しょうがないし。

「それでは、そろそろ保健室に戻りますね」

「一昨日来やがれですよっ!」

 そう言うものの、気持ちが晴れやかになった事で心の余裕が随分出来た。

 二之夕先生を見送った後、食べかけだったお弁当に手を伸ばす。

 口に含んだその味は、食べ始めた時よりも随分と美味しく感じられた。

 

 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 放課後になり、ボクは今日一番の軽い足取りで教室を出る。

 時間があればお昼休憩にも保健室に顔を出そうと思ったのだけれど、お弁当を食べ終えるのが遅くなったのでそれは取りやめた。

 ……でも今なら、お姉様とゆっくり話せるよね。

 何なら利紗先輩に用事がなければ、今日歌を聞いてもらってもいい。

 変に思い詰めて聞いてもらうよりも、軽い感じで話した方が、先輩も重く感じないだろう。

 そう思いながら、保健室に向かうと――

 

「あっれー? そこにいるのってー、汐湯じゃない?」

 

 その言葉に、背中から鋭利な氷柱で心臓を貫かれたのかと思うぐらいの悪寒が走った。

 その人に名前を呼ばれるのなんて、前年度の一年生の時以来。

 それでもあの時の恐怖が蘇ってきて、足が止まってしまう。

「いーところに来たじゃん。ちょっとお前に話があってさー。聞きたい事あんだよねー」

 動けなくなったボクの肩に、明治先輩が手をかける。

 足音から後ろにも何人か引き連れている事がわかるけど、震えて振り向く事が出来ない。

 ……何で? どうして? どうして今更ボクに?

 頭の中が、疑問で埋め尽くされる。

 それでも冷静な自分の中で、明治先輩は他の生徒達が廊下を行き交っているこんな目撃者が多い場所で、何かする様な事はないと、そう言っている。

 それでもボクの唇は恐怖で震え、完全にパニックに陥っていた。

 そんなこちらの意識を引き戻すように、ボクの肩を明治先輩がつねるように握りしめる。

 その痛みで顔をしかめるが、それよりも衝撃的な言葉を言われて、頭の中が真っ白になった。

 

「百合しおりって歌い手、知ってるー?」

 

 ……どうして明治先輩が、その名前をっ?

 先程以上の衝撃に、息をする事も出来なくなる。

 無様なボクを嘲笑うように、明治先輩が唇をボクの耳に近づけてきた。

「なんかさー。最近享太(きょうた)がハマってる歌い手らしいんだけどー、まさか汐湯も、知ってるって事ないよねー?」

 享太というのは、古堅先輩の事で、昨年ボクに告白して、ボクがフった人の事だ。

 別の言い方をするなら――

 ……ボクが明治先輩に、イジメられる原因になった人っ。

 古堅先輩とは告白されて以来会ってもいないし、顔を合わせた事もない。

 でも、まさか古堅先輩が百合しおりのリスナーだとは、夢にも思わなかった。

「何だんまり決め込んでんだよ。答えろよ」

「っ、し、知らない、ですっ」

 更に肩を強く握られ、呻くようにそう言った。

 そうとしか、言えなかった。

 古堅先輩に告白された嫉妬でイジメられたのだから、また先輩が気に入っている歌い手の百合しおりがボクだとバレたら、またボクは明治先輩のイジメのターゲットにされてしまう。

 ……でも、どうしてボクに百合しおりの事を聞くの?

 ボクが歌っているのを聞いた事がある人がいれば、確かに百合しおりがボクであると気づくかもしれない。

 ……明治先輩は、聞いているはずがないのに。

 そう思った瞬間、ボクはある事を思い出した。

 合唱部の友達は、前も明治先輩のイジメに協力している。

 ボクの歌声を七色の声と言った彼女であれば、百合しおりの中の人が誰なのか、気付いたとしてもおかしくない。

 ……それに、歌詞の内容は、全部お姉様の事を考えたものだし。

 イジメていた張本人である明治先輩なら、ボクと利紗先輩の状況もわかっている。

「そっかー。やっぱり知らないかー」

 だというのに、明治先輩はあっさりとその手をボクの肩から放した。

 どう考えても、ボクが百合しおりだと気付いて、それを笑いに来たと思ったのに。

 そう思っていると、明治先輩が笑いながら肩をバシバシ叩く。

「そりゃそーだよねー? あんな歌、とても歌う気になれないよねー」

「そうそう。イジメられっこの陰キャが歌ってそうな感じだし」

「歌詞から女々しさが溢れ出てて、根暗な感じしかしないよねぇ?」

「ほんとほんと。自己陶酔してる感じがして、ホントヤバいよね」

 明治先輩が連れてきた二人が、口々にボクの曲を貶していく。

 その言葉を、ボクは歯噛みして聞く事しか出来なかった。

 アップした曲に付いた否定的なコメントであれば、教室を出る時に乗り越えられた。

 でも、面と向かって投げかけられる誹謗中傷は、意味が全く違ってくる。

 それも、相手が明治先輩であれば、特に。

「ホントにさー、キモすぎるよねー? 誰かを題材にして歌ってるのか知らないけどー。ウチがあんな歌われかたしてるんなら、もう表歩けないなー。なぁ? お前もそう思うだろ? 汐湯」

「は、はい。そう、です、ね」

 震える手で両手を握りしめながら、ボクは噛みしめる様にそう言うしかなかった。

 明治先輩に、自分が百合しおりだとバレるわけにはいかないという恐怖。

 それに、やっぱり勝手に歌にされるのは利紗先輩にも気味悪がられるんだという恐れ。

 そして何より、自分自身で自分の曲を否定しなければならい事が、辛かった。

 利紗先輩へ込めた想いを自分で否定する事が、あの人への憧れと助けてもらった感謝を土足で踏みつけている様な気がして、痛くて、苦しかった。

「でもー、汐湯とまたこーやって話せるようになって、良かったよー」

 そう言って、明治先輩が再びボクの耳元に口を近づける。

「明日も、また話そーね? 百合しおりの事について。来なかったら、わかってるよね?」

 勝ち誇る様にボクの肩を叩き、明治先輩は他の方を引き連れて立ち去っていく。

 どう考えても、ボクが百合しおりだと確信しているとしか思えなかった。

 ……それに、明日も話そうって言われた。

 これで、学校を休むわけにはいかなくなった。

 あれは、ボクに対する明確な脅しだろう。

 ボクが逃げた後、そのイジメの矛先が次に誰に向けられるのかを知っているのに、逃げる事は出来ない。

 ……もう、お姉様には頼れない。せっかく保健室に登校出来る様になったのに。

 それから、どれぐらいの時間が経っただろう?

 もうオレンジ色になった太陽の下、ボクは重くなった足を引きずって帰宅していた。

 家に帰っただけなのに、顔を上げるのすら億劫になる程の疲労感に見舞われている。

 荷物を下ろし、パソコンを立ち上げて、百合しおりのサイトを表示した。

 ……もう、これ以外、こうする以外、何も出来ないよ。

 そう思いながら、ボクは百合しおりのサイトに、一本の動画を投稿する。

 そのタイトルは。

 百合しおりの、活動停止に関するお知らせ、というものだった。

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