2:銀のヴィーナス

 佳斗が運転する車に揺られてるうちに、窓の外の街並みが華やかなビジネス街へと移り変わっていく。地元の最寄り駅からも乗り継ぎが無いから新宿はたまに遊びに行く街ではあったけれど、電車の車窓から見る景色とは雰囲気が異なっていてまるで違う街みたいだった。

 西側の中央公園の傍にある黒っぽい高層ビルが部隊本部だという。地下へと続く道を車体はなめらかに降りていく。だいぶ深くまで降りたという体感だけはあったが、地下何階にいるのかは定かでなかった。コンクリート製の駐車場と造りは似ていたけれど、頑丈なフェンスで仕切られたセキュリティゲートが現れる。エリア五一もこんな感じじゃなかったっけ? 宇宙人が実験される場所だとしたら、その実験体になるのは私かもしれないけど。

 佳斗たちが着ているのとよく似たユニフォームをまとったスタッフが守衛所から出てくると、衛藤と佳斗に挨拶をする。自分について衛藤が説明しているのが聞こえてぴょこりと会釈をすると、守衛さんは真面目な表情を崩さないまま通行許可を出してくれた。ちょっと怖いけど仕事人って感じ。

 駐車場に停まった車から降りて、百珈は静かに二人について歩いた。あれこれ尋ねたい気持ちは家を出た時からずっと呑み込んだままだ。ミラーガラスに仕切られた、内部の様子がうかがえない自動ドアをくぐると、想像以上に高い天井が広がった。

「わっ……」

「ようこそ、私たちの基地へ」

「ここが俺達、二十三区西部隊が所属する新宿基地。〝呪特じゅとく〟の本部も兼ねている」

 地下特有の湿った暗さはまるで無く、吹き抜けの天井はガラス張りで太陽光に似た照明が煌々と光っていた。内装は無彩色でまとまった直線的な様式で、あまり武官組織っぽさはない。入り組んだ通路や階段が頭上に見えて、百珈はエッシャーが描いたペンローズの階段を思い出していた。一人で歩いたら三秒で迷子になりそうだ。

 歩き慣れているであろう衛藤はさくさくと目的地まで歩いていく。隣を進む佳斗を横目に伺いながら、百珈はきゅ、と両手でリュックの肩紐を握った。見失わないようにしなくちゃ。

「……そういえば衛藤さんは基地のこと〝呪特〟の本部って言うんだね。陰陽寮じゃないんだ」

 衛藤が自称した単語を思い出してぽそりと尋ねてみると、佳斗は「ああ」と気だるげに息を漏らした。

「陰陽寮って平安時代くらいにあったお役所のことだよね……? 星から暦を作ったり、風水占い的なことしたり、当時は学者たちの集団だったって日本史の授業で先生が言ってた」

 呪鬼を狩る特殊部隊、とワードのイメージが結びつかなくて少しだけモヤモヤしていたのだ。

「過去にあった機関はその認識で正しいと思う。ここで言う所の〝陰陽寮〟は部隊が編成されたばかりの頃に身内で使われてた古い呼び方だ。陰陽師の自称と一緒で男性隊員しかいなかったし、呪われた鬼と戦う自分たちにちょうどいい呼び名だと思ったらしい。どちらかと言うと漫画や映画のフィクションのイメージから来ているんだろうな」

 男性隊員しか、という佳斗のどこか疲れた眼差しが気になって百珈は言葉を濁らせた。

「ええと、でも、佳斗も〝陰陽師〟なんでしょ……?」

 さてな、と苦笑して佳斗は乾いた声でぼやく。

「歴史上の陰陽師に女は居ないんだからお前は〝陰陽師〟にはなれない、とセンパイから言われたことがある。女陰陽師だの巫女だのとわざわざ呼称するのも面倒だし、それ以来私は呼び名に関してあまり興味がなくなった」

「なんかその人の言い方、イジワルだね……」

「呪特の隊員はクセが強いやつもいるからな、気をつけろよ」

 余計なことを聞いてしまったかな、と百珈は胸のうちに広がっていたモヤが濃くなっていくのを感じた。佳斗はなんてことないように笑っていたけれど、そんなトゲのある物言いをしてくる人がいるかと思うと不安が募ってしまう。

 百珈がとぼとぼと廊下を進んでいると、消毒液や薬剤の匂いが漂うドアが近づいてきた。壁にかかった医務科というプレートの傍に長い黒髪の女性が佇んでいる。

「衛藤隊長も佳斗もおかえりなさい。そして、後ろの子が奈砂さんかしら?」

 佳斗ほどではないが、女性はすらりとした長身だった。パンツスーツがよく映えている。ネクタイとベストを合わせたマニッシュな着こなしに見惚れていると、彼女にひらひらと手を振られて我に返った。

「あ!はい! 私が奈砂です!」

「おお、良いお返事。ここから先の案内はわたくし、加賀美かがみ 吉乃よしのが担当しますので」

 胸ポケットにかけた名札を示して、吉乃はにこりと微笑んだ。つい先程の言葉がよぎって佳斗を伺うと、

「……そんな子犬みたいな顔するな。吉乃はまともな人間だから安心していい」

 耳元で囁かれて百珈はこくりと頷いた。佳斗の物差ししか信じられるものがないから、何もかもが不安になってしまう。そこまで人見知りするタイプではないはずなんだけれど、言葉の通じない外国に放り出されたような気持ちで。

「ただの身体検査だが、案内は加賀美に頼んだ。奈砂さんの測定値は彼女に分析してもらう。健康診断を受けに来たと思ってリラックスしてほしい」

 つい昨日も病院で受けたばかりなんだけれど、きっとこの基地でしか調べられない何かがあるのだろう。リラックスしろ、と言われると逆に緊張してしまうのはどうしてなんだろう、と唇を引き結んで百珈はか細い返事をした。

「終わったらまたここに迎えに来るから」

 心細さが顔に出ていたのか、佳斗に頭を撫でられて一瞬で頬が熱くなった。幼い挙動を取れば、相手の対応もそれ相応のものになる。恥ずかしい、つい子どもじみた振る舞いをしてしまった。

 通路を戻っていく二人の背中を横目に見つつ、吉乃に先導されて医務科へと向かう。百珈は不安を呑み込んで大きく息を吐いた。ただの検査だ、怯える必要なんてないはず。

 百珈の緊張とは裏腹に、衛藤が言っていた通り説明された検査項目は至って普通だった。検査着に着替えてから各セクションをラリー形式で巡っていく。採血に身長と体重測定、レントゲンや心電図、肺活量の計測。医務科の設備やスタッフたちも一般的な病院とそう変わらないように見えた。

 すべての項目を周り終えて、百珈は休憩エリアの椅子にぐったりと体を預けた。怒涛の慌ただしさで気疲れしてしまった。隣からは乾いたタイプ音が響いてくる。野暮ったい黒縁の眼鏡を押し上げながら、吉乃は百珈の検査数値やら何やらをノートPCに打ち込んでいるようだった。真剣な眼差しは鋭く、声もかけずらい。色々聞きたいことがあるけれど仕事の邪魔はしたくないし。

 手持ち無沙汰になってうろうろと休憩エリアを歩き回っていると、ガラス張りの向こうに階下の様子が見えた。吹き抜けになった部屋と通じているのか、黒と白の畳が敷かれた広々とした空間がある。試合場の形は柔道の道場と似ているかもしれない。

 何人かの人影が組み手の練習に励んでいるようだった。そのうちの二人が正方形に区切られた試合場に進み出てくる。片方は知った顔である佳斗、もう片方は知らない金髪の男性だった。二人ともラフなトレーニングウェア姿で、手には木刀を携えている。男性は両手の二振りで上下太刀の構えを取った。

 無音の中で組み手が始まる。音は聞こえないが、木刀がかち合う硬い音が百珈の耳にも届く気がした。形式にとらわれない自由組手のようで、二人の間合いが詰めては返し、流動的に変わって渦を描く。背丈が高い佳斗の方がリーチ的にも有利そうに見えたが、その不足を男は足運びの軽快さで補っているようだった。

 太刀の組手だと思って見ていたが、男は足技で佳斗の足元を払うような仕草を度々仕掛けていた。ふらついた体勢を後方転回の動作で立て直して、佳斗も打ち返す。飄々とした立ち回りで、打ち込みは浅い。どちらかというと演舞の振り付けを見ているような、ひらひらとした動きだった。

 対人の練習にしてはやや血の気が多く見える試合で、百珈は息を詰めて見守ってしまった。呪鬼と戦う為に作られた部隊と、そこで働く戦闘員たち。命を救われた夜に見た、揺れながら輝く佳斗の銀髪を思い出して百珈はひっそりと唇をなぞった。まだ現実味が薄くて、ふとした瞬間にどうしてこんな場所にいるんだろう? とパニックになってしまいそうだ。 

 ……どう足掻いても逃げられないんだろうな、と諦めたから。なんとなく従順に、ここまで来てみただけ。

 確かに自分の身に起きた真実は知りたかったけれど、それも母の前で強がっていただけなのかもしれない。本当はイヤだよ、って泣き喚きたい気持ちだったけれど、そんなことしたらまた母に迷惑をかけてしまう。この災難に巻き込まれたのも、自業自得なのだ。

 このまま私物を取り上げられて人体実験をします、と告げられても今の自分ならすんなり受け入れてしまうような気がした。大してなかった反抗心の芽も枯れている。あんな機敏に動く猛者たちが群れを成していたら、逃げられるわけがない。

 百珈がぼんやりとガラスの階下を覗いていると、佳斗が右手首に強い一太刀を食らった。木刀を取り落とした佳斗に男性が二度、三度と肩口や面を攻撃したかと思うと、間合いを詰め、腹部へと膝蹴りが放たれる。過剰な攻め手に審判役の隊員が制止に入り、うずくまっていた佳斗がゆっくりと立ち上がった。互いの唇が何事かを紡ぎ、男性が逆上するように腕を振り回す。他の隊員たちに取り押さえられる猛獣のような様子を唖然と見ていると、階下の佳斗と目が合った気がした。苦笑か、ウインクか、遠くて判別はつかなかったけれど、存外元気そうで安心してしまう。

「奈砂さん、分析結果が出ましたよ。衛藤隊長に報告しに行きましょうか」

 呼ばれて振り返ると、どこか楽しげな面持ちの吉乃がいた。墨色の瞳がきらきらとまたたいている。その表情はどういう意味なんだろう、と慄いているとそのまま着替えるよう言われて大人しく従った。

 やっと肌に馴染んできた制服に着替えて吉乃と共に医務科を出ると、廊下に佳斗の姿があった。トレーニングウェアのまま戻ってきたらしい。制服の上着の下にショート丈の白いタンクトップを着ていたが、その胸元には赤い血の痕が散っていた。向かって右のこめかみから頬の辺りには腫れぼったい青痣が見えて、先程の訓練のせいだ、と百珈は思わず渋い表情をしてしまった。吉乃は見慣れているのか呆れたように鼻を鳴らす。

「またカナタとやり合ったの?」

「んー、組手に付き合えって言われたんだけど、今日は気分が乗らなくてさ。殴らせてやったのに気に食わなかったらしい」

 カナタというのはあの金髪の男性のことだろうか。切れた唇を舐めながら笑っている佳斗を見やって、百珈は眉根を寄せた。

「……手当てしに来たんじゃないの?」

「あー、違う。めんどくさいしな」

 へらり、と返されて、でも痛くないわけじゃないんでしょう、と食い下がりたくなる気持ちをぐっと堪えた。外野がアレコレ言っても、本人にその気が無いのなら放っておくしかない。

 吉乃の案内で入り組んだ通路を進んでいくと、隊長室に辿り着く。ノックして中に入ると衛藤は書類仕事をしている最中だった。

「……芦矢は汚れた服くらい替えてから来い」

「これでも呼び出された時間には遅れない努力をしたんですけどね」

 やっぱり衛藤も負傷に関しては触れないらしい。佳斗は唇を尖らせて上着のジップを閉めると、これでいいでしょ、と涼しい顔をしていた。確かに血痕は隠せているけれども。

 吉乃はデスクの上にノートPCを置くと、こほんと咳払いをした。液晶に表示されているのは検査結果の数値をグラフ化したものらしい。

「依頼されていた、奈砂さんの測定値を分析しました。結果としては佳斗が懸念していた通り、半呪鬼化していると思われます」

 はんじゅきか、の単語がすんなりと飲み込めないまま百珈ははて? と首をひねった。置き去りにされた百珈には構わず説明は進行される。

「こちらのグラフは通常のヒト血液、奈砂さん、佳斗の数値をグラフ化したものです。まず微量ですが、呪鬼が発するのと同成分の瘴気が検出されました。そして本来存在しない異種たんぱく質や、異常に活性化した血小板由来成長因子、形質転換成長因子などが見られます。これらにより通常のヒトと異なる代謝システムや細胞再生機能を持ち合わせ、半不死身体質が成立しているものと思われます。負傷時の再生速度も観測済みだと伺いました。奈砂さんと佳斗、どちらの数値も極めて相似形です」

「芦矢の〝古巣〟でも半呪鬼化の成功例は無いという話じゃなかったか?」

「はい、異災いさい生命科学研究所のログも参照しましたが、生存した被検体はゼロです。大抵の人間にとって呪鬼の瘴気を含む彼女の血は、一定量を超えると毒性を帯びてしまいます」

 衛藤の質問に吉乃が答え、佳斗は壁に寄りかかりじっと床を見つめたまま固まっていた。

 百珈は混乱極まる情報量に圧倒されながら、どうにか脳内を整理した。半不死身体質、というのはあの異常な速さで傷が治った状態のことだろう。それも佳斗の血を与えられたことで変化した。傍らに立つ佳斗の横顔を見やると、先程までひどく腫れていた頬には、痣の影も何一つなくなっていた。それはあの高架下で手品を披露された時から薄々分かっていたことだ。

 生存した被検体、毒性、というワードが小骨のように喉元に刺さって抜けず眉をひそめていると、

「今まで私の血が誰かを生かしたところは見たことがないけど、彼女の出血量からしてもう死んでるようなものだったから。もし助かる可能性があるなら託してみたかった」

 成功したみたいだな、と佳斗がアイスブルーの瞳をまたたかせてこちらを見た。少し困ったような乾いた表情に、百珈は小さく息を飲む。それって、

「……そんな博打みたいな確率の中で……私はたまたま生きられたってことですか?」

「芦矢の行動の可否は置いておくとして。適合体質だったのは偶然だろうが、君が掴み取った命だ」

 衛藤の言葉に百珈はそっと唇を噛んだ。それでも血を与えるという決断をしてくれたのは佳斗だ。やっぱり私は救われたし、生かされたのだろう。

「……化け物にされて怒ってるんだったら謝るよ。悪かったな」

 黙り込んだ百珈に気分を害したと思ったのか、佳斗がか細い声で謝罪を告げる。ふるり、と頭を振って百珈は佳斗の袖口をきゅっと握った。

「怒ってないよ。化け物だとも思ってない。ただ混乱、してるだけ……」

 別に今に限った話じゃない。一昨日の夜からずっとずっと混乱している。自分が今どこに立っていて、どこへ向かおうとしているのか。痛いのも怖いのも避けたいし、人体実験の材料にされるのもイヤだなあ、ってことくらいしか分かんない。

 気まずそうに沈黙した吉乃がぱたり、とノートPCを閉じた。

「奈砂さんは前例のない、後天的半呪鬼化状態にある。私からの報告は以上となります」

「ありがとう」

 そう言ってしばらく衛藤は天井を見つめ、何事かを考えあぐねているようだった。百珈は佳斗の背中に隠れるようにしてぼそぼそと呟く。

「……私、まだ家には帰れない、ですよね」

「今の奈砂さんの体質が一時的な可能性もある。後学のためにも経過を観察したい、というのが正直な意見ですね」

 眼鏡を押し上げて吉乃が淡々と答える。その瞳には隠し切れない好奇心が滲んでいた。経過観察、と言われましても医務科に入院でもすればいいのだろうか? それとも独房にでも放り込まれるのか?

 百珈がぐるぐると不安をこねくり回していると、

「元はと言えば私が蒔いた種だ。責任は取る」

 佳斗に腕を手繰り寄せられて、足元がふらついた。十センチ以上、高い位置にある佳斗の横顔をぼんやりと見上げていると、

「百珈、私と組んでみないか?」

「へ? 組むって……二人三脚でもするの?」

「まあ似たようなもんだろ。衛藤隊長だってガミガミ言ってたじゃないですか、いい加減ソロプレイヤーは卒業しろだのなんだの」

「ガミガミは余計だ。年長者からのアドバイスは大人しく聞けとは言ったが」

 佳斗の言い出した提案に、衛藤は苦虫を嚙み潰したような表情をした。

 コンビを組む、ってことは、佳斗の仕事上での話なんだろう。

「それって、私が呪特に入るってこと……ですか?」

「試験的に体験入隊してみればいい。経過観察の間、ただ放置されたってヒマだろうし、私たちの傍にいてくれたら監視員をつける手間が省ける。一石二鳥だろ」

 どうすか隊長、と佳斗に仰がれて衛藤は小さく唸った。

「……どうせ誰も私について来られないんだ。可能性のある人材を育てて戦力にすればいい」

 思案する衛藤に爛々と瞳を輝かせた佳斗が畳みかける。その低い声音には底知れぬ圧力があった。

「お前を一人きりで現地投入するのは、確かに限界があると思っていた。でも奈砂さんの意思が重要だ。まだ未成年だし、彼女にも将来の展望があるだろ」

 衛藤の険しい眼差しを向けられて、百珈はひゅ、と肩をすぼめる。

「えっと……」

 展望と聞いて、胸の奥がずくりと痛んだ。そんな高尚な目標なんてなかった。特技もないからなりたい職業もないし、まだ誰かを深く好きになったこともない。キスに憧れてたのだって、自分が誰かと交わす日が来るとは思ってなかったから。ただ美味しいご飯を食べて平和に生きていけたらいいなあくらいのぼんやりとした将来図。

(私の中身って、ずっと空っぽなんだよね)

 俯いた百珈の視線をすくい上げるように、佳斗がこちらを覗き込んでくる。そう大して明るくない天井灯の下でも、その双眸が宝石のように青く光る。

「体験入隊中の訓練プログラムは私と吉乃で考える。やりたくないことはやらなくていいし、無理だと思ったら辞めたっていい。受験勉強がしたければそっちを優先してくれていいし、経過観察を終えたら、家に帰れるはずだ。もしも賠償金が欲しいんだったら私が言い値を払うよ」

「おい芦矢、何勝手なこと言ってんだ!」

「あらぁ、いつの間にか私も巻き込まれてますね? 別にいいけど」

 衛藤が声を荒げ、吉乃は朗らかに笑う。分岐路に立たされた思いで百珈は息を詰めて、佳斗の瞳をじっと見つめ返した。

 純粋に助けられた訳じゃなかったけれど、でも本当だったら二日前の夜には死んでいた命だ。救ってもらった恩だってあるし、空っぽだと嘆くくらいなら自分から満たす為の行動をしないといつか後悔する。

 今ここで返答したくない気持ちを強引に捻じ伏せて、百珈はか細い声を吐いた。

「た、試させてください。……私に何が出来て、どうお役に立てるかは……さっぱり分からないですけど」

 緊張でどっと顔が熱くなって声も膝も震えていた。佳斗に背中をさすられて腰が抜けそうになってしまう。

 衛藤は複雑そうな面持ちだったが、やがて諦めたように「分かった」と言って苦笑した。

「芦矢がここまで執心するのも稀だろ。……あまり無茶はしないように。上層部には適当に取り繕っておく」

「よっしゃー、泥避けお願いしますね」

「頼むから調子に乗って暴れるなよ……」

 頭が真っ白になった百珈が、会話の流れを右から左へと聞き逃している合間に、気がつけば吉乃に背中を押されて隊長室から撤退していた。廊下で立ちすくみかけていると、佳斗の白い手が目前に差し出される。

「ということで、明日からどうぞよろしく」

「あ、う、……はい!」

 反射的にその手を握り返すと、ひんやりと冷たくて指先や付け根には硬いしこりがあった。剣道の師匠とは少し違う、戦う人の手の平の感触だった。

 握手だけかと思いきや、そのまま手を引かれて百珈はふらりと佳斗の後を追うように歩いた。まだ緊張の名残りで膝が震えていた。三つ編みに結われた銀髪がふわふわと鼻先で揺れ、ほのかに汗とメンソールの香りが漂う。

(私、どうなっちゃうのかな)

 幾つもの不安が光の速さでよぎったけれど、でも。彼女に振り回されるなら構わないのかもしれなかった。

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