呪鬼祓う白花

蜜井 眠

1:咲いた蒼炎

 —— 憧れていたファーストキスで人生が一変するなんて、思ってもいなかった。


 朝から寝坊して爆走、昼ご飯は大好きな購買のジャムパンが買えなかったし、放課後も予備校の小テストの結果が散々で。ただでさえ憂鬱な一日だったのに。

 奈砂なずな 百珈もかは歩き慣れた帰り道を全力疾走していた。今朝ですらこの世の終わりだと焦ったけれど、それとは比にならないほどの焦燥感。ハイカットスニーカーでアスファルトを蹴るたびに、教材を詰めたリュックサックが背中で跳ね上がる。こんな重い枷を背負ってる場合じゃない、と道端にリュックをかなぐり捨てて速度を上げてみたものの、うなじの辺りにべったりと張り付いた厭な気配は消えなかった。

 公園へと続く並木道は等間隔に照らされた街灯のおかげでほの明るい。剣道部で練り上げた健脚もさすがに怠さを覚え始めた。直線を走りながら怖々と振り返ると、あの人影は未だに数メートル後ろをしっかりと追って来ていた。

(どうしてこんな日に限って誰もいないの?! 叫んだら聞こえるのかな)

 最初は不審者だと思ったのだ。それか少し早いけど、ハロウィンの仮装準備をしてる人。渋谷と比べたら少ないけれど、一応都内だから浮かれている人もたまに見かける。

 予備校を出て数分後、今日の夕飯は何を作ろうかなとぼんやり冷蔵庫の中身を思い出していると、黒っぽいコートを着た人影が前方に見えた。自分と同じか少し高いくらいの背丈。ロングコートだと思ったものはボロボロの黒い布切れで、開いた胸元からは黄ばんだ肋骨がずらりと並んでいた。右手には部活でも使う中刀と同じくらいのサイズをした、鋭く尖った大きな骨の塊。

 異様な気配を察知して、百珈は反射的に踵を返した。走って走り続けて、誰ともすれ違わなかった。何かがおかしい。悪い夢でも見ているのだとしたら、早く醒めてほしいのに。

「っ、うあ……!」

 疲労の溜まった脚がついにもつれて、路面へと前のめりに転んだ。秋が始まったばかりの肌寒さで街路樹は紅に染まっている。冷え切ったタイル舗装の上で体を起こして座り込むと、背後で足音がこつりと止まった。

 はっとして振り返ると、顔があるはずの場所には何もなかった。頭巾とその中にぽっかりと浮かんだ闇。剥き出しの肋骨は白鍵しかないピアノみたいで、動かないでいてくれたら美術館に並んでいそうな造形なのに。

 相手の右の肩から手首にかけてが軋む気配を感じて、百珈は転がるように脇へと飛び退けた。案の定、鋭利な骨の切っ先が振り下ろされる。殺気は無いけれど、それ以上に不気味な空気が空間を裂いた気がした。


 『ねえねえ、もかち知ってる? 日本にはね、やっばい鬼がいるんだってよ』

 流行り物に敏感な友人がそんなことを言っていたのをふと思い出した。昼休み中、友人が見せてくれたSNSの動画はオカルトや都市伝説のたぐいを扱う、いかにも怪しいアカウントだった。そのわりに再生数は伸びているようで彼女のオススメ欄に出てきたのは当然だろう。

 日本には二十年ほど前から、人を襲って食う鬼がいる。ニュースや新聞では政府の情報規制により行方不明者としか扱われないので一般人は知り得ない。そして鬼を秘密裏に駆除する部隊が存在していて、陰陽師と呼ばれている。陰陽師は全国各地に陰陽寮という基地があり——

 音声読み上げ機能で作られた平坦なナレーションと、鬼の目撃例だという不明瞭な画像が数枚流れていく。そんなのただの作り話だと、あの時は彼女を笑い飛ばしたのだ。インボーロンとかそういうヤツでしょ、そう言って信じなかったのに。

 今なら分かる。これがきっと〝鬼〟ってやつなんだ。


 避けた少し先にはゴミ捨て場があった。百珈は転がっていた破けたビニール傘を掴んで、強く握り込み、中段の構えを取った。もうこれ以上逃げられる気がしないなら少しでも抵抗して時間を稼ぐしかない。馬鹿な真似をしているという自覚は大いに、ある。

 深く息を吸って、乱れた息を整えると引っ込んでいた声が戻ってくる。

「……っ、だれか、誰かいませんか! 助けてくださいっ! ヤバめの不審者に襲われてるっぽいです!」

 心臓がうるさいくらい鳴っているのに、緊張で指先や爪先が冷たかった。転んだ時に擦りむいたのか、スカートの裾がかすめる度に両膝が痛みを訴えてくる。

 ふいに静止していた鬼の肩口が僅かに揺れる。普段見慣れた筋肉や重心移動による〝起こり〟とは異なる予備動作を捉えて、傘を横に構えると重たい一撃が降り掛かった。骨しかないはずなのに、その力強さはどこから来ているんだ?!

 鈍る足を叱咤して後ろにステップを踏む。この攻撃を全部受けていたら体が持たない。でもこの気味の悪い鬼とやらを倒せるほどの力が自分にあるとは思えなかった。

「ねえほんとに……お願いします! 誰か助けてください!」

 スマホはリュックにしまっていたのに、さっき投げ捨ててしまった。カーディガンにしかポケットがないけど、入れておくと落っことすから。

 誰も助けてくれないなら、どうにかして警察を呼ぶ手段を見つけないと。

 もう一度走って逃げられるようになるまで回復するのを待ちながら、百珈は鬼の斬撃を寸でのところで数度避けていなした。骨にしては鋭いが、刃物にしては鈍い切っ先がビニール傘の耐久度を消耗させていく。

 急所らしい急所は判別できない。せめて相手の得物を叩き落とせたら。

 そう祈りながら、百珈は鬼の手首に全力の突きを打った。傘の先端が鬼の手元をえぐる。逸れた切っ先は骨の間、尺骨の隙間に滑り込む。百珈の攻め手に無反応なまま、鬼が腕を振り上げた瞬間にスチール製のシャフトがぐにゃりとねじ曲がるのが見えた。

 あ、やばい、終わったわ。なんて馬鹿な真似をしたんだろう。

 まばたきの間に、お腹に熱い痛みが迸った。

 尻餅をついてお腹に触れると、熱くぬめった血が制服を濡らしていた。痛い。こんなに痛いのは生まれて初めてだ。生理痛だってこんなに痛かったことないのに。

 百珈はじんわりと視界が滲むのを感じた。

「……っ、うう……痛いよぉ……誰かたすけてください、わたしまだしにたくない……っ」

 確かに大した夢も取り柄もないし、大学進学だって周りに流されて選んだ道だけど、あともう数年くらいは生きたって許されるはずだ。

 体に力が入らなくなって路面に横たわる。自分の体温がお腹から外に向かって流れ落ちていく感触。ほたほたと泣きながら必死に傷口を押さえて体を丸めてみるけれど、痛いばっかりでちっとも血が止まる気配がなかった。


 お願い、誰かたすけて。


 ふいに、真っ暗な絶望の中に差し込んだのは、軽やかな炸裂音だった。

 映画の中でしか聞いたことがない、少しくぐもった銃声。朦朧とする意識の中、路面にぺたりと頬を預けたまま百珈はうろうろと視線を彷徨わせた。

 遠い場所に青く燃える人の形が見えた。

 青い人の影が、踊るように鬼の攻撃を避けるたびに銃声が鳴り響く。街灯よりももっと明るい発火炎がちかちかと辺りを照らしていた。光だ。絶望を照らす光。

 やがてあんなに百珈の攻撃にも怯まなかった鬼の体が、どさりと重たい音を立てて地面に転がる。

 もう目蓋が重たくて、眠い。

 どうにかこじ開けた視界の中に、踵の高いスニーカーが映り込んだ。

「……来るのが遅くなってすまなかった。まだ生きているか?」

 若い女性の声がした。膝をついた彼女に体を抱き上げられると、痛いはずの感覚が麻痺していて何も感じなかった。

 百珈が力を振り絞って目を向けると、サプレッサーのついた無骨な銃が見えた。知らないデザインをしたエンブレムが上着の胸元で光っていて、その上を銀色の髪がさらりと撫でる。灰色を帯びた青い瞳が不安げにこちらを伺っていて、瞳と同じ色温度の高い火をまとったツノが二つ、額に生えているのが見えた。

 昔話に出てくる鬼のようだったけれど。でも、とっても綺麗な人だった。

 もう声が出せなくなった百珈がぱくぱくと唇を震わせて吐息を吐き出すと、彼女は逡巡するように遠くを見つめた。

 それから装備していたナイフを抜くと、左手の手首を躊躇いなく切りつける。

 傷口から溢れた血を口に含んで、何をするのかと見つめていると。

 ふ、と唇に柔らかいものが触れた。銀色の長いまつげがぼやけて見えて、喉を伝い落ちていく錆びた匂いは不思議とまろやかで甘く感じられた。

 これがキスの味か、と思った。

 友達とじゃれあって頬に交わすものとは違う、誰かとする初めてのキス。

 反射的に血を飲み込んでほう、と息を吐くと、彼女が安心したように囁く。

「悪いな。生き延びたかったら耐えてくれ」

 それってどういう意味かな、とのろのろと思考を巡らせた瞬間、全身に鋭い痛みが走った。

「っ、…………ぐ、ぅあっ!」

 炎の中に放り込まれたような熱さと針で突き刺すような痛みが一部の隙もなく全身を包む。腹を切り裂かれた時とは比べ物にならない痛みのうねりに、百珈は震えながら体を縮こめることしかできなかった。十八年ほどの人生でさっきから経験した痛みの記録更新がされ続けているのはどうかと思う。呼吸をするだけで激痛が走って、ちかちかと視界が明滅する。込み上げた吐き気のままに血の混ざった胃液を吐いた。

 悶絶する百珈をそのままに女性がその場を離れると、再び銃声が鳴り始めた。

 新しく鬼が現れたのかもしれない。

 彼女は戦い続けている。鬼から守ってくれているのかな。骨の怪物と同じように倒すつもりなのか。

 それならもしかして、あれが、あの人が〝陰陽師〟という存在なのかもしれない。

 朦朧とする視界と思考に抗えないまま、百珈はそこでふつりと意識の糸を手放した。


§


 白っぽい消毒液の匂いがする病室のベッドではたと目を覚ました。

 飛び起きた百珈はまず真っ先に腹の傷口を確かめた。身につけていたのは制服ではなく検査着の上下で、水色の布地をめくり上げるとそこにはつるりとした、傷口のない、いつものお腹しかない。

「ふあ……どういうこっちゃ?」

 病室は個室タイプで、人目も無い中だしと体のあちこちを点検していく。右腕には採血の痕を示す絆創膏が貼られていたが、包帯も酸素マスクも点滴もなんにもない。どう考えても気絶する前の自分は絶体絶命、瀕死の重傷だったはずだ。

 ベッドを離れて窓の外を覗くとキリリと晴れた秋空が広がっていた。眼下に広がる庭と駐車場には見覚えがある。ベッドサイドに置かれていた放り捨てたはずのリュックをあさってスマホの日時を確認すると、今日は水曜日、翌朝の十時過ぎ。メッセージアプリには体調を案じる友人たちからの通知が入っていた。どうやら学校には連絡をして休んだらしい。

 やっぱり悪い夢でも見ていたのだろうか。それにしてはあまりにも生々しい質感だった。刻みつけられたあの痛みの連続は忘れられそうになくて。

 力の入らない足をスリッパに突っ込んで洗面台に向かう。鏡に映っているのは風呂上がりと変わらない、いつもの自分だった。母に似て生まれつき少し色素が薄い、頭髪検査に引っかかって地毛届を出したこともある明るい茶色の髪と赤茶の瞳。染めろと指導されたこともあるけど、余計に髪が傷むし気に入っているから絶対に従わなかった。生まれつきの個性なのになんで逆に染めなくちゃならないのか。大人はたまに子どもじみた屁理屈をこねるなと呆れてしまう。

 顔を撫でると、昨夜は風呂に入らなかったのか肌のがさつきを感じた。手首にかかっていた髪ゴムで鎖骨のあたりにかかった髪を束ねた。クシがないのであまり綺麗にはまとまらなかったけれど、これもいつも通りの通学スタイルだ。ぬるま湯で顔を洗ってもう一度鏡と向き合う。

 ちゃんと〝私〟がそこにいると、そう思えた。

 とりあえず私物を確認するか、とベッドサイドに戻りリュックと一緒に畳んで置かれていた制服を手に取る。ひやりとした生地の手触りにむむ、と百珈は眉根を寄せた。

「……これ、私が着てた制服じゃないね?」

 着慣れたはずのカーディガンは別物だった。ベージュ色やオーバーサイズなのは一緒だけれど、袖口のほつれやポケットに空きかけていた穴がない。学校指定のシャツやネクタイも糊が効きすぎたピカピカの新品で、スカート丈だって少し長くて違和感があった。履いていた白いハイカットスニーカーもお気に入りのスポーツブランドなのは相違なかったけれど、傷一つなくて。お年玉と夏休みのバイト代を貯めて買った思い出の一足だったのにな。さみしい。どうしてこんなことを?

「いったい誰が用意してくれたんだろう……」

 百珈がベッドに座り込み、うっすらとした気味の悪さを感じていると、ドアがノックされる音がした。返事をするかしないかの所でドアがスライドし、ナースウェアを着た母と目があった。

「お! 起きたか、百珈。おはよう~」

 駆け寄ってきた母・汐里しおりに抱き寄せられてわしゃわしゃと頭を撫でられる。そう、ここは母が勤める病院だ。病室の内装までは知らなかったが、何度か訪れていたので外の庭の景観には見覚えがあった。

「んん、おはようお母さん……あのさぁ、なんで私ここにいるんだっけ?」

 もみくちゃにされた髪を撫でつけながら百珈が尋ねると、汐里はきょとんと目を見張ってカルテをめくった。

「おや、覚えてないのかね? そんな重症だったかしら」

「うーん、記憶があやふやで……予備校の帰りだったのは覚えてる……はず」

「そうそう、百珈いつも予備校の帰りに三角広場通るんだっけ? あの橋のそばで倒れてますって、通りすがりの親切な女性が救急車呼んでくれたみたい」

 昨夜死に物狂いで走ったルートは確かに公園近辺だったはずだ。広場の脇には小川が流れていて、公園の中央部と繋がる橋があるのは知っているけれど、そばだったかな? 記憶が定かではない。

「ほほう……?」

「外傷もなし、念の為CT検査もしたけど異常なし。心電図や血液検査の結果も、白血球の数がやや多めだけど健康そのもの。あと少し貧血っぽいかな……生理中だったっけ?」

「いや、この間来たばっかりだからしばらく来ないはず……えー、病名的なものはないんすか」

「強いていうなら迷走神経反射による失神、じゃない? 立ちくらみ。脳貧血。目が覚めて異常なければ帰してヨシ、ってお医者さんが言ってたので退院です。めでたい!」

 カルテのバインダーを小脇に挟んで、汐里がぱちぱちと手を叩く。

「我が愛娘がわりかし健康そうで母は安心しました」

 得体のしれない化け物に腹を切られて死にかけた……気がする、なんてとてもじゃないけど言い出せなかった。血だらけで破けた制服も、体の傷も、実際証拠になりそうなものは手元に一切残っていないわけだし、現場に行ったところで血痕だって綺麗さっぱり消えていることだろう。妄想のたぐいかと疑われて精神科まで連れて行かれたくもない。

「ぶっちゃけ、夜中に連絡来た時は冷や汗かいたけどさ。私がいたから話がスムーズだったわ」

「うー……心配かけてごめんなさい」

 眠い時に髪を乾かすのがしんどいと言って、母は五年ほど前からずっとショートヘアだ。自分によく似た、色の薄い茶色の髪。看護師としての仕事が忙しく、帰って来る時間も不安定だったし、夜勤と日勤の混ざったシフト体制に苦労しているのをずっと近くで見てきた。それだけ人々の命を救うために全力で働いてるということ。尊敬しているからこそ、余計な心配はかけたくなかった。

 百珈が深く俯いて考え込んでいると、汐里はふふ、と息を漏らして笑う。

「大丈夫よ。ちゃんと無事だったんだし、心配させてくれるだけ幸せってもんよ」

 よしよし、と強くハグをされて喉の辺りに苦いものがこみ上げる。体温の優しさで胸が詰まって、言うべき言葉が溶けて沈んでいく。無理に言わなくてもいいのかもしれない。だって何にも証明できないんだもの。

「受験勉強が忙しくて根を詰めすぎたのかもね。今日は家に帰ってゆっくり休みなさい。一人で帰れそう? 送っていこうか?」

「あ、へーき。歩いて帰るよ。冷蔵庫の食材使っちゃいたいから、夕ご飯作っとくね」

「いつもありがとう。百珈のご飯は美味しいから今日の仕事も頑張れそう! このまま着替えたら受付に声だけかけておいて。後の手続きはやっておくから」

「はあい、分かった」

 気をつけてね、と最後に頭を撫でて汐里は病室を足早に出ていった。疲れている時ほど母は快活になっていくから。今日もきっと忙しいんだろうな。

 無意識のうちに止めていた息をそっと吐いて、百珈は違和感の拭えない制服に着替え始めた。


§


 行き慣れたスーパーマーケットで少しだけ足りない材料を買って家路を歩く。今日は自分の好物を作ることにしたのでエコバッグも不思議と軽く思えた。真新しいスニーカーだけが落ち着かなくて、歩く度に爪先がつんつんと痺れを訴えてくる。

 家までは歩いてあと三分ほど。昼間の住宅街はひとけが薄い。みんな会社や学校に行ってる時間帯だもんなぁ、と百珈がほのかな背徳感に浮かれながら鼻歌混じりに道を進んでいると。

 高架下に向かって歩道を曲がった時、見覚えのある立ち姿があった。右肩に寄せて編んだ長い三つ編みは眩しいくらいの銀色で、向けられた瞳は冬の海みたいな灰色がかった青色をしていた。昨夜と異なっているのは額に二本のツノがないこと。あと、目立った銃器を身に着けていないこと。

「こ、こんにちは……っ? 昨夜はお世話?になりました?」

「あはは、元気そうで安心した。記憶はあるみたいだな」

 彼女がずらしていた丸いサングラスをかけ直すと、青い瞳が薄いグレーに覆い隠されてしまう。整った顔と相まっていっそうお忍び中の有名人みたいなオーラが漂っていた。ハイヒールのスニーカーを履いているせいで更に背が高く見えるから、モデルや俳優にも見える。

 昨夜鬼と戦っていた女性は百珈の姿を見て本当に安堵したようだった。だいぶ高い位置にある彼女の顔をぽかん、と見上げていると、

「君が奈砂 百珈さんか」

 彼女の後ろから姿を現したのは三十代くらいに見える男性だった。一転して背が低いけれど、筋肉の付き方や姿勢の良さは軍人然として見える。威圧感のある組み合わせに怯んで思わず百珈が後ずさると、男性は微かな愛想笑いを浮かべた。

「驚かせてすまないな。俺達はこういう者だ」

 黒いフライトジャケットのポケットから手帳を取り出すと、名刺を渡された。女性は芦矢あしや 佳斗けいと 三尉、男性の方は衛藤えとう きずく 二佐。階級としては衛藤の方が上官にあたるらしいが、両名の肩書きは、

「対 呪鬼じゅき、特殊、部隊……?」

 聞き慣れない言葉の並びを拙く読み上げると、衛藤が「知らなくて当たり前だ」と苦笑した。

「俺達は原則として秘匿された部隊だから、胡散臭いと思われても仕方ない。この名刺だって滅多に使わないんだ」

「たまに〝陰陽師〟を自称する隊員もいるけどな」

 佳斗の補足であ!と声が出た。

「やっぱりお姉さん、陰陽師だったんですか?! ネットで見たやつだ」

「おお……最近の若い子はすごいな……俺達の存在ももう隠しきれないぞ」

 衛藤がやれやれと短く刈った黒髪をかき混ぜた。あのいかがわしい動画もまるっきり嘘じゃなかったってことだ。

「インボーロンとか都市伝説的なものだと思ってたんで信じてはいなかったです」

「でも、昨夜の出来事で信じた?」

「そう、ですね……」

 やっぱり夢じゃなかったんだ。佳斗の言葉で痛みが蘇り、百珈は無意識のうちにお腹のあたりを撫でた。化け物に切られてたくさん血が出て、

「……あの骨の怪物みたいなのが、呪鬼ってことですか」

「そうだ。二十年ほど前から現れるようになった害獣で、人を襲って食う。あいつらには通常の兵器じゃ太刀打ち出来ないんだ。俺達は呪鬼を倒すためだけに組まれた、戦闘に特化した部隊。……なるべく隠密に動いているのは国民たちのパニックを避けるためなんだが、個体数が増えてきたら隠しきれないだろうな」

 衛藤から淡々と語られる内容に百珈は理解が追いつかず目を白黒させた。確かにそんな事実を人々が知ったら、この国は制御を失うのかもしれない。……人を襲って食う化け物がいる。それだけでも衝撃的だというのに。

「君はその呪鬼に襲撃され、昨夜の出動の担当が私だったと。体の調子は?」

「あっ……えっと、たぶんなんともない、です」

 百珈の返答に「ほらな」と言って佳斗が肩をすくめた。衛藤が渋い顔をして唸り声を漏らす。私が元気なことで何か不都合でもあるのだろうか。確かにもう虫の息だったはずだけど、何故か助かってしまった。

 百珈は舌の上によぎった甘い味と、錆びた匂いを思い出した。それから柔らかな唇の感触。佳斗に血を飲まされて、体が燃えるように痛くなって。

 ぼんやりと場面を反芻していると、ふいに佳斗に空いていた左手を取られた。後ろ手に腰のあたりからナイフを取り出したかと思うと、銀色の刃先がつ、と手の平を真っ直ぐに切り裂く。

「いっ……?!」

 数ミリ肉をえぐられて、赤い水平線が滲んだけれど、それが一瞬で消えるのが見えた。「え?」と傷口を確かめてみるが、僅かに血糊が残った程度で痛み一つない。自分の手の中でマジックを披露された気分だった。

 百珈は拳を開け閉めしてから、はて、と首をかしげた。私の体に何が起こっているのか。

「いた、くない……」

「ほらな」

 もう一度平然と言い放った佳斗の頭に衛藤がすぱん、と鋭い平手を食らわせた。

「予告もなしに突然切りつけるやつがあるか! この馬鹿者が!」

「あの、えっと、治ったので大丈夫ですよぅ……」

「そういう問題じゃないだろ!」

 通り過ぎていく電車の走行音よりもよく響く大音声が、びりりとコンクリート壁を揺らした。巻き添えで怒鳴られてひえっ、と百珈が息を呑むと、衛藤は盛大な溜め息を吐いた。

「悪かった。その様子だと芦矢の報告は正しいみたいだな……」

 衛藤はしばらく沈痛な面持ちで考え込んだかと思うと、低い声音で告げた。

「単刀直入に言おう。奈砂さん、君の身柄を俺達の部隊でひと月ほど保護したい」

身柄を保護、というワードで軽いパニックが襲ってきて、百珈はぶんぶんと両腕を振り回した。

「え?! 逮捕されるんですか私?! なんにも悪いことしてないです! アイアムただのしがない高校生!」

 大して頭も良くないし取り柄もないけれど、その分善良にコツコツ生きてきたつもりなのに! 受験を目前にして前科持ちになるのは人生お先真っ暗すぎる!

 慌てふためく百珈を落ち着かせるように衛藤はどうどうと手の平を振った。

「逮捕じゃない。君の体の変化は極めてイレギュラーなものだ。経過観察をする必要がある。このままでは君の身に何が起きるかも予測できないし、然るべき対処が出来るようにしておきたい。もちろんあくまで保護だ。君の安全を最大限考慮、尊重するつもりだ」

「ごめんな、私のせいだ」

 けろりとそう言って佳斗が笑う。いやいや笑い事なのかなこれ。

 百珈は自分の胸に手を当てて詰まっていた息を整えた。イレギュラーということは、この尋常じゃない回復力についてもあまり前例が無いのかもしれない。でも、佳斗の血を飲まされたのがきっかけだったはずだ。

 ちらりと傍らに立つ長身を見上げて百珈は思案した。昨夜はあったツノが今はない。もしかしたら彼女は人じゃないのかもしれない。ちっとも怖くない、と言ったら嘘になるけれど。

「ちなみにその提案を断る権利とかってあるんですかね……?」

「……君の安全を最大限尊重するためには、我々の領域に来てもらうしかない。単純な人手不足の問題もあるんだが、新宿にある本部には医療機関が備わっている」

「安全であって人権とは言ってないからな。急に化け物に変身する可能性だってゼロじゃない。ほぼ断れないってことだ」

 竹を割ったような佳斗の言葉に衛藤がもう一度平手ではたくのが見えた。薄々予想はついていたけど、容易く了承できるような内容じゃなかった。

「保護してもらう間、学校はどうしたら? なんて説明するんでしょうか」

「病欠で休んでもらう。長期になるだろうから、診断書はこちらで手配した」

 衛藤が懐から白い封筒を取り出す。準備は万端、保護は半ば強制ということだ。

 百珈はぎゅう、とスカートの裾を握りしめた。

 頭上を何本かの電車がガタゴトと行き過ぎるのに、耳元では人生の歯車が狂っていく音がしていた。

 受験勉強だって周りのみんながやっているから、なんとなく始めただけだった。予備校に通うのだって本当は面倒くさかったし。希望している大学も実家から電車で通いやすくて、自分でも受かりそうな文学部があるところ、といういい加減な理由で選んだのだ。唯一小学生の頃から好きで続けてきた剣道だって、まだ段位も三段までしか取れていないし、この先の昇段がスムーズに行くとは思えない。スポーツ推薦が貰えるほどの腕前でもないし。最後の夏のインターハイでも肝心な場面で上がり症が発動して、チームのみんなに迷惑をかけてしまった苦い思い出がある。

 昔からプレッシャーに弱くて、自分に自信が持てない自分があまり好きじゃなかった。将来の夢がしっかりと持てないのだって、どうせ叶わないでしょという諦めがあるからなんだろう。

 でも、可能性の芽を摘まれかけたら、忌避感が湧くのは当然のはずだ。

 〝……化け物に変身する可能性〟

 ネガティブな思考がぐるぐるとお腹の底を渦巻いて、泥のように沈んでいく。長々と黙考している百珈を二人は急かすでもなくじっと見守っていた。

「……お母さんにだけは嘘、つきたくないです」

 乾いた唇をこじ開けて、一番の懸念点を絞り出した。厳密には病欠じゃない。母はひどく心配するだろうし、場合によっては嘘を見抜くだろう。せめて母にだけは本当のことを知っておいてほしかった。

 衛藤は小さく頷くと、別の書類を取り出した。機密保持に関する契約書のようだ。

「親御さんには俺から説明するよ。たしか、お父さんは不在だったかな?」

 うちの事情も調べて把握済みなんだ、と百珈は諦めたように重たい首肯をした。

「はい、父は私が小さい頃に亡くなったみたいで。うちはずっと母と私の二人暮らしです」

「……そう、か。分かった」

 明確な意思表示は言葉に出来なかったけれど、百珈のいくつかの問いかけは肯定と捉えられたようだった。

「明日の朝七時、君の家まで迎えに行く。簡単な手荷物だけまとめておいてくれ」

 そう言い残すと、衛藤は佳斗と共に踵を返した。少し離れた場所に駐車されていた黒いSUVに乗り込むと、車両は恐らく首都高の方角に向かって去っていく。

 脚が棒になったみたいに、しばらくの間呆然と立ち尽くしていた。ふ、と忘れかけていた息を吸った瞬間に膝がかくんと折れて、百珈はふらふらと高架下の壁にもたれてしゃがみ込む。込み上げた嗚咽がぜんぜん飲み込めなくて、百珈は声をあげて幼子のように泣きじゃくった。


§


 数少ない特技の一つ。冷蔵庫にある余り食材でそこそこ美味しいご飯が作れること。料理なんて誰でもすることだから、あまり主張はしたことがないけれど。

 泣き疲れて家に帰り、日が暮れかけるまで眠ってから、百珈は取り憑かれたようにキッチンに立った。

 母は仕事が忙しいから、滅多に料理をしない。できない訳じゃないけれど、やらなくても何とかなるならやらない、というスタンスだ。昔は出来合いの惣菜や冷凍食品が食卓に並ぶことが多かったけれど、包丁を一人で使えるくらいの年齢になってから毎日の炊事は百珈の担当になった。

 十五歳の誕生日プレゼントに「切れ味の良い三徳包丁がほしい」と告げたら、母は「もっと他に欲しいものあるんじゃないの? 我慢してない?」と三回は確認してきた。「嫁入り道具みたいで淋しい」とめそめそしながらも、休みの日にかっぱ橋の道具街まで連れて行ってくれて、好きなものを選ばせてくれた。チョイスが変という自覚はあったけど、本当に欲しかったのだ。買ってもらった包丁は丁寧に手入れし、今もちゃんと現役だ。

 得意なのは家庭料理のたぐいだ。食費の縛りや部活動も忙しない中で時間のかかる料理は避けたかったし、プロの料理人が作るような凝ったレシピにも興味が湧かなかった。母の助けに少しでもなれれば、それだけでよかったから。

 残り野菜を放り込んだきんぴらと味噌汁、汐里が好む甘めの出汁巻き卵も焼いて、それから自分の好物の唐揚げを作った。先に夕飯と入浴を済ませ、多めに作ったおかずをタッパーに取り分けたところで玄関の鍵が開く音がした。

「おかえりなさい」

「ただいま~、百珈。体調は大丈夫か~?」

 昼間のスイッチが切れたように、ふにゃふにゃとした汐里の声がした。洗面所から戻ってきた汐里の冷えた手に頭を撫でくられて、百珈はくすぐったさに息を漏らした。

「よく寝たから元気だよ。……明日は学校行ける」

 よかったよかった、と笑って汐里はラップのかかった皿を電子レンジに入れた。こんな時、普段はテレビの前のソファに転がりがちだけど、今日はダイニングテーブルについて二人分の茶を淹れた。

 母はいつも楽しそうに食事を平らげてくれる。百珈が調味料の配分を間違えたり、焦がしたりした失敗作でも汐里はけらけらと笑って気にも留めなかった。「今日のご飯も美味しい」と笑いながら箸を運ぶ様子を見つめて、百珈は小さく溜め息を吐く。

「もしかして、学校休んだことで友達から何か言われた?」

 機微に聡い汐里に言われて、あー、と百珈は言葉を濁した。溜まっていたメッセージを返していて憂鬱になったのは間違いない。

莉央りおが今日の授業の内容ざっくりLINEで教えてくれたんだけど、担任が来月の実力考査の範囲で色々言ってたみたいで……一日休んだだけで追いかけるの面倒だな~って思っちゃっただけ」

 莉央はあのオカルト動画を見せてくれた友人だ。流行の最先端を手広く追いかけるのが好きな、いわゆるミーハーだけれど、マルチタスクが得意な人種でもあり成績も良かった。授業中もこっそりスマホでSNSのTLにかじりついてるクセに、何故か板書は完璧なのだ。ずるい。きっと聖徳太子の生まれ変わりなんだと思う。

 百珈がげんなりとほうじ茶をすすると、汐里は確かに、と微笑んだ。

「百珈、滅多に休まないもんね。本当偉いわ。前回休んだのは? 一年生の時の胃腸炎が最後か?」

「そうだと思う。三日間くらいマーライオンだったやつ」

 比較的頑丈なことも取り柄なのかもな、と考えながら明日のことをつい考えてしまう。一日の遅れがひと月、もしかするとそれ以上に広がるのかもしれない。学校には行きたいけれど、それも許されないなんて。憂鬱だった。

「あのさ、お母さん、」

 どう伝えたらいいのか、きちんとした言葉も見つからないまま、つい口火を切っていた。食事を終えてお茶を飲んでいた汐里がどうした? とこちらを見つめる。

「……上手く話せないかもしれないけど、聞いてくれる?」

「もちろんよ」

 本人が言っていた通り、明日の朝、身を任せていれば迎えに来た衛藤が過不足なく説明してくれるのかもしれないけれど。詳しいことは分からないなりに、自分の言葉で母に説明したかった。

 百珈は昨夜から今日の昼間にかけて起きた出来事を時系列に沿ってぽつぽつと話した。予備校の帰りに化け物に襲われたこと、大怪我をしたけど助けてくれた人がいたこと、病院で遭ったことを言おうとしたけれど言えなかったこと。呪鬼という異形についても、それを狩る特殊部隊についても、衛藤の説明を丸ごと引用するしかなかった。もどかしくて、何も知らないのだなということが改めて分かって、百珈はそっと唇を噛んだ。

 自分の身に起きた出来事をもっと理解するためにも、私はきっとあの二人について行かなくちゃいけないのかもしれない。

「明日の朝七時に、軍隊の人たちが迎えに来るんだって。……すぐに言えなくてごめんなさい」

 もらった名刺を汐里に渡して、百珈は深く俯いた。とんでもないことに巻き込まれてしまった罪悪感で、体が焦げ付いたように熱くなった。こんな形で母に迷惑をかけたくなかったし、何よりも不安が大きかった。一人でさんざん泣いたせいか、あまり涙は出てこなかったけれど、目の奥がツンと痛くなる。

 汐里は鋭い眼差しでしばらく名刺の字面に目を落としていたが、席を立ち上がると百珈の肩を抱き寄せて、いつも通りによしよしと頭を撫でた。

「私こそ気がついてあげられなくてごめんよ。謝らなくていいから。百珈はなーんにも悪くない」

 泣くつもりはなかったのに、込み上げた熱がつるりと頬を滑って落ちていく。百珈は汐里の腹部に顔をうずめて静かに嗚咽を漏らした。顔を押し付けたスウェットに涙の染みが広がっていく。一日我慢していた感情の箍がすっかり外れてしまい、小さい時に戻ったみたいな感覚に襲われた。

「明日の朝、お母さんも立ち会うから。今日は全部忘れてしっかり寝なさい」

 ひとしきり泣いて鼻をかみ、すっかり目が腫れあがったところで、百珈はこくりと頷いた。不安に苛まれて眠れない予感しかしなかったけれど、眠れなくても朝はやってきてしまうから。

「……おやすみなさい、お母さん」


§


「可愛い顔が台無しじゃないか。マムシに噛まれた犬みたいにパンパンだぞ」

「なんですかそのビミョーな例え……芦矢さん、デリカシー無いって言われたことありません?」

「敬語もいらないし、ケイトでいいよ。デリカシーか。お菓子なら好きだぞ。衛藤にたまにうだうだ言われる気がするけど、あんまり覚えてないな」

 早朝、開口一番に犬扱いされた。そのマイペースさは覚えてないからこそなんだろな、と呆れつつ、百珈は泣き腫らした目を必死に開いてスマホに文字を打ち込んだ。マムシ、犬、で画像を検索して、

「なんだこりゃ……マジで顔パンパンじゃん。肉まんみたい」

「パンパンだけど可愛いだろ」

「でも私は……犬じゃないんでぇ……」

 褒められてるのか貶されてるのかも分かんないし。ふ、と笑った佳斗がタバコの煙を吐くと、ミントガムみたいな清涼感のある匂いが鼻先をよぎった。


 朝七時ちょうどに、衛藤と佳斗は本当に家へと迎えに来た。自身でローンを組んで購入した中古の戸建ての玄関に仁王立ちをし、意気軒昂の勢いで汐里は二人を出迎える。その顔つきは運慶の彫刻さながらの険しさだった。母も一緒に起床して一時間以上は経っているから、付け入る隙も無いはずだ。

 家の対面に設置された縁石に座り込み、百珈は衛藤と汐里が話し込んでいるのを遠巻きに見ていた。最低限の荷物を詰めたリュックを落ち着きなく背負い直しては、隣に腰掛けた佳斗が吐き出す紫煙を追う。

「臭くない? 嫌だったらムリしないで」

「平気です。あ、……ほんとに、平気、だよぉ~?」

 ぎこちなく砕けた百珈の口調に、佳斗はふわりと目を細めて笑った。吸い始める前にちゃんと確認してくれたし、問題ないと返したのだ。実際メンソールタバコの香りは思っていたよりも臭くなかった。

 タール数の多いタバコのお供は佳斗の場合、ココアのようだった。甘いココアと苦そうなタバコ。イマイチ味の想像がつかなくて、好奇心が騒いでしまう。

「その組み合わせ、美味しいの……? コーヒーにお砂糖入れたようなもの?」

 百珈の問いに佳斗は一瞬思案してから、

「強いていうなら、チョコミントのアイスに似てるかも」

「え、ちょっと美味しそう」

「チョコミント、平気な人? 歯磨き粉みたいって言う人いるよね」

「私は普通に好きかな。色もパステル系で可愛いし。夏は新作がたくさん出るから、コンビニ行くとつい買っちゃう時ある」

「それはよかった。嫌いな人とは戦争になっちゃうからな」

 ふう、と吐き出したミントの煙にはココアのビターな香りが混ざっていた。紫煙を紡ぐ佳斗の唇は何も塗っていないのに天然のベイビーピンクをしていた。肌だって韓国のアイドルみたいな透明感があってゼリーみたいに瑞々しい。いわゆるブルベ夏ってやつでしょ、よく知らないけど。珍しい銀髪じゃなくたって絶対に人目を引くであろう美形だった。うらやましいな。肌のお手入れとかどうやってしてるのかな。

「タバコ、気になる?」

「……ふ、え? あ、ちょっとだけ」

 こんなに綺麗な人とキスしちゃったのか、なんて、考えてたとは言えない。

 タバコをふかしながら、今日も佳斗は朝日が眩しいようでサングラスをしていた。その気持ちはほんのちょっとだけ分かる。瞳のメラニン色素が薄いと日の光が眩しいのだ。

 吸い終わった一本を携帯灰皿にねじ込んで、彼女はすぐに新しいタバコに火を付けた。銀色のぽってりしたハート型のガスライターが火花を散らす。佳斗がフィルターに白い歯を立てると、がり、と硬い音がした。

「百珈ってさ、高校三年生だっけ?」

 ふいに名前を呼ばれてドキッとして頷くと、

「えーと、高三って何歳だ?」

「七月で十八歳になったよ」

「十八歳か。じゃあまだダメだな」

 何がダメなの? とぽかん、と口を開けて佳斗の方を伺うと、ふいに彼女が頭をかしげた。近づいてきた鼻先に反応できずに硬直していると、口の中に温かいような冷たいようなよく分からない吐息がふう、と吹き込まれる。わ、と一気に顔が熱くなって百珈が唇を引き結ぶと、ほんのり甘いミントの味が広がった。

「んん? ……あ!チョコミント、かも!」

「大人になったら自分で吸ってみればいい。あんまりオススメはしないけど」

 からりと笑って佳斗は、何事もなかったようにココアを飲んだ。

 びっくりした。またチューされるのかと思っちゃったけど、それよりもエッチなことをされた気分だった。

 百珈は口の中に残った吐息と煙の味を舌の上で転がした。

 佳斗は案外よく笑う人だな、と思った。まだ近づき難さはあるし、パーテーションやガラスで仕切られた美術品みたいな印象は拭えない。ただ勝手に氷みたいに冷酷な人なのかと思っていたけれど、彼女の場合はそうでもなさそうだった。何よりもあの夜に助けてくれた恩人だから。きっと話しづらさも次第に薄れていくのだろう。そうだといいな。


「百珈!」

 汐里と衛藤が話し始めて三十分ほど経った頃合いか。突然呼ばれ、百珈は弾かれたように立ち上がった。駆け寄ってきた汐里に強く抱きしめられて、ぐえ、と潰れた蛙のような声が漏れる。

「……百珈は衛藤さんたちについて行きたい?」

 母の声がいつもより水気を帯びているような気がした。上目に汐里の顔を伺うと、薄茶色の瞳に涙が滲んでいた。映画やドラマを見てすぐ感動する涙もろさは知っているけれど、今の母は見たことのない表情をしている。どうしてそんな顔をするのかは、怖くて素直に聞けなかった。

 百珈はかすれた喉へ生唾を飲み込んで、小さく囁く。

「私は……自分の身に何が起きているのか、ちゃんと知りたいと思った」

 身柄の保護を断る権利があまり無いとはいえ。呪鬼という化け物の存在や、傷ついてもすぐに回復してしまう体。このまま全部忘れて元の暮らしにすんなりと戻れるほど、自分は器用な人間じゃないのだ。

「そう、分かった」

 汐里は困ったように笑って、目蓋をぎゅっとつむる。

「……血は争えないってやつかもね」

 それってどういう意味なの、と聞く間も与えられず、もう一度強く抱きしめられた。肺の中の酸素が押し出されて頭がくらくらする。

「おかあさん、ぐるしい……っ」

「ひと月って意外と長いもの。疲れたり、イヤになったらいつでも帰ってきなさい」

 よし、と汐里は自分に言い聞かせるように何度も頷いてから、リュックを背負った百珈の背中をそっと押し出した。

「いってらっしゃい、百珈」

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