エピローグ

 春がくる。今年の桜は開花が遅く、気温もまだまだ寒いまま。それでも僕はぬくもりのある大地の家を出て、新しい環境で生活を始めた。

 大地の家の山を抜けた先、住宅地がぽつぽつある一角にカステラのようなアパートがある。そこが僕の家だ。

 自宅を出て、赤いロードバイクにまたがり、木々の木漏れ日を浴びながら道路を疾走する。やがてたどり着いたのはレトロなカメラ店。ほおのきカメラ店が僕の新しい職場だ。

「おはようございまーす」

 裏口から入ってパソコンがある事務所に入り、僕の作業スペースにおさまる。今はまだ試用期間だけど、すぐに社員登用を考えてくれるという安澤店長の言葉を信じ、届いたメールチェックから今日の業務をリストアップする。

 とはいえ、実はそう忙しい仕事ではない。

 九時になり、店長が二階の自宅からパジャマ姿で降りてくる。開店は十時なのに店長のこのルーズさ。まだまだ慣れない。

「あぁ、米持くん、おはよう。今日もゆっくりしていきーね」

「店長、ゆっくりしてたら仕事になりませんよ」

「そがん真面目なこと言わんでよ。ほら、今日もどうせ大ちゃん来るとやろ? その前に朝飯食わんね? 上で母ちゃんが用意してくれとるばい」

「えー……いやメールチェックとか、データ入稿きてますし。ほら、またきた! って、大地の案件かよ」

 届いたメールは大地の写真をまとめた写真集にするという、地元の出版社からの問い合わせだった。簡単に返事して送信。それが終わると暇になり、沈黙が訪れる。

 その間、安澤店長は店と事務所の間にある給湯スペースでコーヒーを淹れてホッと一息入れていた。

「ね、暇やろ。そがん張り切らんでいーと」

「う……」

 笑う安澤店長に対し、ぐうの音も出なかった。

 店長がやたら朝ご飯をすすめてくるので、奥さんが用意してくれた白米と味噌汁、サラダと目玉焼きをいただいた。実は初日からこうだったので、二日目からは僕も朝食を抜いて来るようになった。なんだか生活の変化がない気がするけど、朝から出勤しても仕事がないとどうにもならない。これで給料をもらうのが不安になってくるレベルだ。

 朝食を食べ、皿を洗ってまた一階の事務所に向かうも、ただ店長が着替えただけでなんの代わり映えもない。

 僕は仕方なく、ロッカーから箒とちりとりを持って外に出た。

「大地が来るまでまだ時間あるしなぁ……あー、せっかくデザインの仕事に戻ったのに、張り合いもやり甲斐もない」

 でも、この生活も悪くはない。


 やがて、大地が車に乗ってやってきた。僕が掃除している真ん前に車を停め、運転席の窓を開けて片手を上げる。

「よう、おつかれさん」

「全然疲れてませんけど」

 すかさず剣のある言い方をすれば、呑気な大地は片眉を上げて唇を曲げる。ため息をつき、僕の背中を叩いた。

「それじゃあ暇っちゃろ? もう撮影行くけん、用意して。はよ」

「えぇ、予定と全然違うじゃん……わかったよ、秒で支度する」

 僕は持っていた掃除用具を店の中へ仕舞い、代わりにジャンパーを着てリュックを背負い、軽装備になった。

「いってきまーす」

 声をかけると、店長ののんびりとした「いってらっしゃぁい」が聞こえる。小気味いいベルのカランとした音を背に、僕は大地の車に乗りこんだ。

「それで、今日の行き先は?」

「おう、そうやなー」

 エンジンがかかり、同時に車も発進。

 今日もゆるやかでくだらない長い旅が始まる。

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ぽんぽこ是好日 会社を辞めた僕は狸のあいつと旅に出る。 小谷杏子 @kyoko

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