第4話 帰郷④

 故岩永千太郎、享年十五歳。彼のことを、僕は忘れないだろう。

 来る途中は意図的に考えないようにしていた。していたのだが、思えば電車を降りてから此処までの道中、千太郎の姿を思い起こさない場所はなかった。

 無人駅では、千太郎と一緒に町まで買い物に出掛けた思い出が、村に続く山道では走ったり探検したりした思い出が、村の中では数え切れないほどの思い出がある。この墓地にも、本殿に入ったことで神社の神主にこっぴどく怒られ、罰として掃除を命じられたことがある。

「久しぶりだな。全然顔見せなくて、ごめん」

 僕は傍らに置かれたお椀に入っている水を捨て、先程井戸から汲んだ水に入れ替える。

「高校を卒業する頃には一度戻ってこよう、とは思ってたんだけどさ。大学入試とか、引っ越しとか、ばたばたしちゃって」

 日中には強烈な太陽光が降り注いでいたのだろう。墓石はまだ熱を帯びている。僕は桶に残った水を、墓石の頭へと流す。

「向こうでの生活もすっかり慣れきったよ。話が合うヤツも多い。……そうそう、もう二十歳だから、この前初めて酒を飲んでさ──」

 しばらくの間、僕は独りで延々と喋り続けた。

 もちろん返事などあるわけがない。それでも問題はなかった。千太郎が僕の言葉にどんなタイミングで相槌を打ち、どう口を挟み、何を言うかなど、想像に難くなかった。

 傍から見れば危ないヤツだと理解しつつも、僕と千太郎の会話は続いた。

 喋りたいことが、聞いて欲しいことが、本当にたくさんあった。千太郎のいない世界で僕が何を思い、どう生きていたのかを聞いて欲しかった。

 とうに日が暮れて月が登りだした頃、会話に夢中だった僕を現実に引き戻したのは、ぴぃ、という甲高い音だった。

 時折掠れながら奏でられる音色は、草笛によるものだ。

 僕は立ち上がり、桶を元の場所に戻して坂を下る。まるで草笛の音色に引き寄せられるように、その音の発生源を探りながら歩いた。

「この上からか」

 長い石階段の下、僕は神社を見上げた。

 草笛の演奏はまだ続いており、その発生源が境内にあることは間違いないようだ。

 既に月が登り始めている以上、叔母さんから「こんな時間までどこをぶらぶらしてたの!」と怒られることは間違いない。であれば、少しばかり寄り道したって同じことだ。

「うわ……」

 石階段とともに伸びる木製の手すりは、ところどころ腐っていた。手を置けばぼろぼろと崩れ、僕は体勢を崩しかける。

 村に住んでいた頃は、この手すりを滑り台にして遊んでいた記憶があったのに。時間の流れを感じさせる。

 僕は手すりに体重を掛けないよう、かといって、所々欠けた石階段を信頼し過ぎないよう、慎重に一歩ずつ踏みしめて行く。

 階段を登りきった僕を待ち構えていたのは、ただ広い丘に、ぽつんと建てられた飾り気のない拝殿だった。

 この景色も、僕の記憶とは齟齬がある。

 記憶の中の拝殿はもっと荘厳で、大きく見上げるほどの存在感を放っていた。これは、単に僕の身長が伸びたせいだろうか。それとも、目にしていない間に、神社の拝殿とは荘厳で存在感があるべきものとして記憶が捏造されていったのだろうか。

 どちらにせよ、目の前の拝殿を受け入れるしかない。荘厳、などと形容するには、やや誇張が過ぎる。

「お兄さんは、あのお姉さんのお連れの方?」

 ふいに、背後から声が掛けられる。

 僕は咄嗟に声とは逆方向へ飛び退いて、声の主を探す。夜の神社で背後から声を掛けられたのだ、誰だってびっくりするだろうと言い訳をしたい。

「ごめんなさい、驚かせてしまったみたいで」

「い、いや、僕の方こそ、過剰な反応で申し訳ない」

 僕に声を掛けた少女は、申し訳なさそうな笑顔をこちらに向けた。

 高校生……いや、中学生くらいか。愛嬌がある顔立ちで、敵を作るほうが難しそうな印象を受ける。切り揃えられた前髪に腰まで伸びる後ろ髪は宵の空よりも黒く、日本人形のような美しさを連想させる。

 ぱっちりと開かれた丸い双眸が、僕を下から覗き込む。

「さっきまでの草笛は、君が?」

 少女の右手に、やや大きめの葉っぱが見えた。

「うるさかったですか? 日も沈んで涼しくなったので、散歩していたんですけど、ちょうどいいサイズの葉っぱを見つけて……」

「そういうわけじゃない。むしろ、懐かしい気持ちにさせてもらったよ」

 そう言えば、と思い出す。

 千太郎は草笛を吹くことも得意だった。僕が掠れたような、不安定な音を出している横で、いつも遠くまで響く音色を響かせていた。

「どうかされました?」

「何でもない。ちょっと昔の思い出に浸ってしまっていた」

 こほん、と一つ咳払いをする。

「さっき言っていた、あのお姉さん、っていうのは?」

「先週の半ばから、逆居村の取材がしたい、という女性が訪れたんです。この村を、都会から見に来るような人は稀ですから」

 なるほど。

 外から人が来ることは少ない。となれば、別々で来たと考えるよりも、見かけない二人は実は同じグループの人間だった、と考えるほうが自然だろう。

「残念だけど、その女性のことは知らないなぁ。それに、僕は元々この村の出身だからね。夏休みを利用して里帰りしただけさ」

「そうだったんですね、すみません。早とちりを……」

 申し訳無さそうに頭を下げる少女の対応に困っていると、神社の入り口から男たちの声が聞こえてきた。

 談笑しながら現れた男たちは、それぞれ木材やシート、それに工具などを手に持っている。

 その奥に見えるのは、運動会や祭りで使われるようなテントだ。男たちは、テントの設営をしているらしい。

 気付けば、テントを組み立てている男の一人が、こちらに対して手招きをしている。

「すみません、呼ばれているみたいなので、私はこれで」

 傍らの少女はそう言い残して、手招きする男の下へ早足で向かった。

「……帰るとするか」

 今のところ、僕の存在はばれていないようだが、こちらとしては見知った顔がいくつもある。この場に留まり続けていては、そのうち設営を手伝えと言われる可能性が高い。

 僕は境内を取り囲む塀に沿って、大きく遠回りをして神社を後にした。

 月明かりだけでは頼りない。僕は道を踏み外して田んぼに落下しないよう注意を払いつつ、帰路についた。

「あ」

 遠目に叔母さんの家が見える、と同時に、予想通り玄関先に叔母さんが立っているのが確認できた。

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