第3話 帰郷③

 歩くこと数十分。ようやく山道の果てが見えてきた。

 疲労によって重くなった足を上げ、開けた丘に出る。

 山道の木々に遮られていた青空と太陽が視界いっぱいに広がり、伸びた草が風に撫でられて足首をくすぐる。

 額の汗を拭って、僕は丘の向こう側へと歩を進める。

「……懐かしいな」

 眼下に、飾り気のない民家や田畑が見える。これが、逆居村である。

 逆居村は、角の丸い三角形のような形をしている。今僕のいる丘から見て、最も北奥に位置する頂点には、神社と村の守り神とされる杉の大木が位置する。そこから南西の頂点に向かって村民の居住区が続き、逆側の南東の頂点付近には田畑が広がる。

 そして、北奥と南東の頂点の間、つまり神社と田畑の中間を川が遮っている。

 周りは山に囲まれているものの、田畑の奥には数年前の豪雨で発生した土砂崩れの跡が見えていた。木々の緑の中に、茶色の斜面が剥き出しになっている。

 さて、と。

 いつまでもノスタルジックな雰囲気に浸っているわけにはいかない。

 空を見上げると、既に太陽は傾き始めていた。

 夏が近付き、日が長くなっているものの、高い山に囲まれているせいで逆居村には早くに太陽が隠れる。

 この丘から村に繋がる道はきちんと舗装されているが、街灯なんて便利なものは存在しない。日が沈んでしまえば、暗闇の中を歩く羽目になる。

 全身が休養を欲していることは重々承知の上だが、後少しだけ頑張ってもらわねばならない。

 更に歩くこと数十分、山々の間へ太陽が半身を隠したあたりで、僕は村の入り口に辿り着いた。

 平屋が多い居住区の中で、二階建ての建物はよく目立つ。この二階建ての建物こそが、僕の母親の妹──つまり叔母さんの家である。一応は、宿として扱われるべき建物ではあるが、この村に観光で訪れる者など見たことはない。

 しかし、この建物こそが、小学校から中学校卒業までを過ごした、僕のもう一つの実家とも呼べる場所である。

 呼び鈴を鳴らすと、引き戸の向こうからばたばたと慌ただしい足音がして、すぐに引き戸が開けられた。

「尚くん、久しぶりねぇ。長旅で疲れたでしょう?」

 叔母さんは相変わらず人当たりの良い、よく通る声をしていて、僕を笑顔で出迎えてくれた。……恰幅が良いところも、相変わらずだ。

「帰ってくる、って連絡くれた時には、もうびっくりしちゃった」

 数年ぶりの再会だというのに、叔母さんの対応は年月の隔たりを感じさせない。笑いながら、僕の肩をばしばしと叩いてくる。

「さ、入って入って。夕食、尚くんの好きなもの作るわ」

 そう言って玄関へ招き入れる叔母さんの誘いを制して、僕はリュックサックを背から滑り下ろす。

「いえ、先に、神社の方へ顔を出してきます。本格的に日が暮れる前に、挨拶しておかないと」

「ああ、なるほど。そうね、行ってらっしゃい」

 叔母さんは僕のリュックサックを受け取り、快く送り出してくれた。察してくれたのか、何も詮索しないでくれることが嬉しい。

 神社の方に行く、というのは、何も村の北側に位置する神社に行くことだけを指すわけではない。神社の川を挟んで西側には墓地が広がっている。僕が挨拶すべき相手は其処に居る。

 日の暮れかけた村の中は、驚くほど静かだった。

 そう言えば、この時間帯は一番人が居ない時間帯だったな、と数年前の記憶を呼び起こす。村に住む人々は大きく分けて、村の中で農業に勤しむ人と、村の外へ働きに出る人に二分される。

 農業をするには遅すぎる時間帯であり、働きに出ている人が帰ってくるには早すぎる時間帯なのだ。

 烏の鳴き声とともに、羽ばたく音まで耳に届く。

 朱色に染まる道を、木々を、山を見ながら、僕は真っ直ぐ北に向かう。たかだか数時間移動しただけで、僕のアパートの周囲とはまるで違う。異世界に迷い込んだかのような感覚になる。

 神社へと通じる石階段の手前で左に折れ、なだらかな坂道を登ると、石や木の乱立した簡素な墓地にたどり着く。

 墓地の入り口にある井戸から水を汲み、同じく入り口に置かれた桶へ入れる。

 腰ほどまで届く、石と呼ぶべきか岩と呼ぶべきか悩むようなサイズの墓石の前で僕は腰を下ろした。と同時に、アパートに届いた封筒について思い出す。

 酩酊状態で見た幻覚などではない。その封筒には、たしかに千太郎の名前が書かれていた。

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