第2話 帰郷②
二週間後、大きめのリュックサックを担いで僕は早朝に家を出た。
逆居村までの道のりは長い。電車でN市からG市へ移動し、そこからローカル線に乗り換えて北へ。ローカル線の終点手前で電車を降り、無人駅の改札をくぐる。そして、バスに一時間ほど揺られた後に、徒歩で約一時間。
アパートと大学を往復する以外に、特に運動などしていない僕としては相当にきつい旅路だ。
無人駅を出る頃には太陽は真上に位置していて、容赦ない熱線を地上に送っていた。
額に浮く汗をハンドタオルで拭き取り、僕は体表のほとんどが錆びに覆われたバスの時刻表を確認する。
次のバスまで、約二十分。
少しでも熱線から逃れようと、僕は時刻表から離れ、背の低い木の下に移動する。背は低いが生い茂った葉は大きいものばかりで、木陰にしてくださいと言わんばかりの優秀な木だった。
目の前には一本の道が広がり、その向こうには無人駅。そして背後には山。
右を見ても左を見ても道は続いているものの、人も車も見えない。本当に道として利用されているのかも怪しいところだ。
もっとも、本当に道として利用されておらず、バスが来なかったら困るのだが。
木造の無人駅の茶色と、足元に広がるアスファルトの黒色と、背後一面の緑色。4時間ほど電車に揺られるだけで、こんなにも視界に入る色が減ってしまうとは。
熱が絡んだ生ぬるい風が吹き抜け、頭の上で葉の擦れる音がする。その一瞬後で、虫の声と鳥の声が青空に響いていく。
なるほど。
僕の人生の中では、このあたりで暮らしていた期間の方が長いはずなのに、忘れてしまっていた。
外とは、何もないように見えて、こんなにもいろんな音がする場所だったのか。
自動車の音ばかりが気になる環境に随分と慣れてしまっていたのかもしれない。
足元にリュックを下ろし、もう一度ハンドタオルで汗を拭き取る。そして、僕は目を閉じた。
辺りに響き渡る自然の音にしばし耳を傾けながら、静かに流れる時間へと身を委ねる。
「おい……おい! 寝てんのか兄ちゃん!」
「うわっ!」
気が付けば、目の前にバスが停まっていた。
「バス待ってる間に立って寝ちまったんか? 面白ぇ兄ちゃんだな」
「いや、寝ていたわけでは。ちょっと集中していただけで……」
「いいから、乗るんか? 乗らんのか?」
「乗ります乗ります! すいません」
足元に置いていたリュックを拾って、僕は慌ててバスに乗り込んだ。
車内は冷房がガンガンに効いていて、ひんやりとした風が流れている。汗をかいていた僕にとっては、寒いくらいだ。
景色を見ようと前方に位置する座席へ腰を下ろし、振り返って車内を確認する。僕以外に乗客はいない。夏休みと呼ばれる期間に突入してはいるが、やはり観光名所もないこんな場所には誰も来ないのだろう。
ここに来るくらいなら、ローカル線で終点まで行った方がまだ観光地が近い。まばらではあったが、ローカル線の車内にはまだ人が居た。
「兄ちゃん、旅行か? どこ行くんだ」
中年の恰幅の良い運転手は、ハンドルを握って前を向いたまま質問を投げかけた。
「逆居村です。里帰りですよ」
「さかいむら……、あぁ、逆居村か! 兄ちゃん、あのちっこい村の出身なんか」
「ええ、まぁ。親戚の家に預けられていたので、あの村で生まれたわけではないですけど」
「俺も詳しくは知らねぇが、随分と人口が減ったとは聞いたな。まぁ、仕方ねぇよな、若い子はみーんな街に出て行きたがる」
それは里帰りと言った僕に対する嫌味などではなく、彼の率直な感想なんだろう。彼には彼でこの辺りの地に対して思う所があるらしく、少し寂しげな横顔を見せた。
気の利いた言葉も思いつかず、僕は「そうですね」と小さく呟くだけで会話を打ち切ってしまった。
こんな時、気まずくならないようもっと良い言葉を選ぶことのできる人間もいるんだろうな。
沈黙が流れ、バスは逆居村に近付いて行く。
木々が生い茂る間を抜けた先は、見覚えのある道だった。この道の先に、古いバス停があるはずだ。そこで降りて来た道を少し戻り、山道に入る。山道に入れば、後は道なりに進むだけで逆居村が見えてくるはずだ。
リュックから水筒を取り出し、水を喉に流し込む。後少しで始まる運動に備えて、水分補給をしっかりしておかねばならない。バスを降りてから、一時間は歩かねばならないのだから。
結局、一時間近くバスに揺られたものの、僕以外に乗客はなかった。運転手の彼は、乗客のいないバスを毎日走らせているのだろうか。それを思うと、この辺りから人が居なくなることに特別な感情を抱いていても何ら不思議ではない。
人を乗せて目的地へと運ぶ機械を、誰も乗せることなく一日中走らせるという行為に何を思うのか。それは、とても僕が想像できるような思いではない気がした。
結局、車内には沈黙が流れたままバスは目的地へと到着した。山の中腹に、ぽつんと置かれたバスの時刻表。その傍らに停車し、僕はバスを降りる。
「じゃ、気ぃつけてな、兄ちゃん」
「はい、ありがとうございました」
僕は頭を下げ、バスは再び走り出す。
数十秒もしないうちにバスはカーブを折れ、姿を消した。
よし、と僕は気合を入れる。
逆居村への旅路は、ここからが長い。山を登る人は、九割登ったところを道のりの半分と考えるらしい。即ち、最期の一割を登り切るには今までと同じだけのエネルギーを要するということだ。
そんな考え方に、僕は概ね同意する。決して登山しているわけではないが、電車に揺られ、バスに揺られ、少なからず疲弊しているこの身体で、まだ一時間近く歩かねばならないのだ。それも、きれいに舗装された道ではなく、石や木の枝が乱雑に撒かれた山道を行く必要がある。
大きく息を吐き、そして、ゆっくりと吸う。
リュックを担ぎ直し、一歩踏み出す。
バスが通ることのできる大きな道から外れて、本当にこの先はどこかに続いているのか? と問いたくなるような獣道に入る。
僕の記憶が正しければ、この道の先が逆居村へと通じている。
記憶力には自信がある。暗記科目は得意中の得意だし、幼い頃に一度見た映画や漫画の内容だって覚えている。目を閉じれば、逆居村に居た頃、千太郎と一緒に買ってもらったおもちゃの剣のデザインだって鮮明に思い浮かぶ。
ありがたいことに、僕が今踏みしめている山道は、木々に覆われているものの脇道などはない。さっきまでの大通りへの道として使われてきたために、邪魔な木は伐採され、道であることが分かりやすいようになっている。
これならば、さっきの道を右に行くんだっけ? なんて迷い方をする心配はない。開けた方へ突き進むだけでいい。
と、言葉にすれば簡単なのだが。
僕はちょうどいいサイズ感の石に腰を下ろし、呼吸を整える。
突き進むだけ、なんて言ったものの、石を避け、落ち葉を踏んで滑らないようにしっかりと踏みしめ、坂道では特に気を使いながら歩き続ける。
山道を歩くことにどれほどの労力を使うのかを、僕は甘く見ていた。日頃の運動不足を痛感する。
「地下鉄ばっかり利用するんじゃなくて、一駅分くらい歩く生活にした方がいいのかもしれない……」
今そう思えたとしても、いざ目の前にバス停や駅があれば頼ってしまうんだろうな。そんなことを考えながら、僕は再び歩き出した。
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