酔っ払ツイート。賞状がほしい

すだちひな

短歌2021年にはじめて1枚も賞状ない人のはなし

2023年は賞状を貰う!を掲げて短歌の賞に出した。5箇所くらいかな?お金払うやつも多かった。。。全部だめだった。賞状がほしくて、賞状に届かなくて「短歌も、わたしの方を向いてくれない」と思ってた。


最初は、小説で10回以上公募落選を経験しているので、そんなにへこたれないだろうと思っていた。ところが、違った。短歌は新陳代謝がもの凄くはやい。はやすぎる。SNSはそれを更に加速させる。それ故に短歌にまつわる悲喜交々が次々と入ってきて、わたしはその波をダイレクトにうけるようになった。


「またダメだった」「もうやめちゃおうかな」と思うことも幾度となくあった。娘が小学校に上がる段階でキャパオーバーになると見越して、やめた。でもそれは言い訳だった。「短歌でもだめだった。もうわたしは創作なんていらない。まともな人になる」と思って、半年間読みも詠みもしなかった。


創作というのは、自分のうろと向き合うことだとわたしは思っている。特に曲がりなりにもミステリーなんていう業の深いジャンルをやっていたから、「作品が完成するのが先かわたしが狂うのが先か」と常に思っていた。でも、短歌は自分でいうのもなんだけど、明るいものが多い。何故なんだろうと考えたとき、それは願いや祈りに近しい文学だからだろうなと結論付けた。小説のときはどこかで、「見たくないものをこそ書く」だったけど短歌は(あくまでわたしは)「見てみたいものをこそ書く」なのかなーと思っている。酔っ払ってるので、文脈が長期休暇だ。。読んでる人がいたらすまない。


短歌をもう一度はじめるきっかけをくれたのは、旦那だ。ある日突然、ほんとうに何の前触れもなく「もう短歌はしないの?おれ、好きだったんだけどなぁ」と言ってくれて、その夜から再開した。9月の5日。一学期にあった出来事をぼろぼろと泣きながら昇華するように編んだ。そうだ。再開は連作だった


思えば書きながら整理させていく思考が好きで、小説なんてものを長くやっているのかもしれない。閑話休題。その連作の中に、過去の思い出や「あったかもしれない未来」の歌が出てくるのだが、まさに願いの文学だからこそなのだろうな、と思う。そして、願いだからこそ落ちると痛いのだ。


話を賞レースに戻そう。短歌は新陳代謝が半端ないというのも確かだが、何よりかにより「詠まれている時点で願い」というのが、ものすごく大きいと思う。込める想いが違うのだ。たった三十一文字、されど三十一文字。だから、落ちたら悲しい悔しいつらい諦めたくなる、というのは、それだけ強い願いだからなのだと思う。わたしは…落ちたら悔しいし悲しいけれど、それでも選ばれなかったその「願い」も、わたしの一部なのだと認めて、何処か別のところに出すために虎視眈々と練り直すのだ。ちなみにさっきは、小野市のやつの落選作を練っていたぞ。ふふん。酒がつよい。

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