第15話 記憶の迷路



「おかしい」


城之内真は、学校史編纂室の古い写真を見つめながら眉をひそめた。一枚の集合写真。十年前の生徒会メンバーを写したものだ。


しかし、その写真には明らかな違和感があった。真は昨日、創立70周年記念誌の編纂作業を手伝う中で、この写真を何度も確認している。そして、確かな違いを見つけていた。


「この写真、昨日見たときと違う」


横で、佐倉葵が首を傾げる。


「何が違うの?」


「昨日は、前列の中央に座っていた生徒会長が、別の人物だった。それに、後列の生徒の数も、今日は一人多い」


真がパソコンを開き、昨日撮影した写真のデータを確認しようとする。しかし、保存したはずのファイルが見つからない。


「削除した覚えはないのに…」


さらに気になる点があった。写真の左端、銀杏の木の下に立つ生徒の姿。昨日まで確かにそこにいた人物が、今では別の生徒に変わっている。しかも不思議なことに、服装や立ち位置まで、まったく同じなのだ。


「他にも…」


真が棚から記念誌の原稿を取り出す。そこにも違和感があった。先週の文化祭特集で、真は確かに「1995年度 演劇部『ハムレット』上演」の記事を読んだはずだ。しかし今、そのページには「1995年度 演劇部『マクベス』上演」と書かれている。


さらに気になるのは、部員の名前だ。配役表に記載された名前が、微妙に異なっているのだ。


「アレーテ、これって…」


銀髪の少女は静かに頷いた。


「イデア界で異変が起きています。記憶のイデアが、歪み始めている」


真は古い新聞記事のスクラップに目を通す。すると、そこにも奇妙な変化が見られた。去年の体育祭の結果が、覚えているものと違う。優勝したはずの赤組が最下位になっているのだ。


「でも、おかしいわ」佐倉が言う。「私、赤組だったけど、確かに優勝したはず。メダルまで持ってるもん」


彼女がスマートフォンを取り出し、写真を見せる。そこには確かに、佐倉が金メダルを首にかけている姿があった。しかし、同じ日の体育祭記事は、赤組最下位を伝えているのだ。


「アレーテ、これって…」


銀髪の少女は静かに頷いた。


「イデア界で異変が起きています。記憶のイデアが、歪み始めている」



放課後の図書館。真たちは、急いで状況を確認し始めた。


「他にも報告が来てるわ」佐倉がノートパソコンの画面を指さす。「部活動の記録が書き換わってる。去年の文化祭の出し物が違うって言う人もいる。でも不思議なのは、みんなの記憶が少しずつ違うの」


「具体的に、どんな違いが?」真が尋ねる。


「例えば、吹奏楽部の定期演奏会。Aさんは『ベートーベンの交響曲を演奏した』って言うけど、Bさんは『モーツァルトだった』って主張してる。でも両方とも、その場にいた生徒なのよ」


アレーテが説明を加える。


「記憶のイデアは、個人の記憶と集合的記憶が複雑に絡み合っています。一つの歪みが、連鎖的に他の記憶にも影響を及ぼしていく。でも、完全な改変は難しい。だから、矛盾が生まれる」


「矛盾?」


「ええ。例えば、写真は変わっても、その時の感情や情景の記憶は残る。記録は書き換わっても、体験の痕跡は消えない。それが、現実とイデア界のバランスを崩しているんです」


その時、扉が開く音がした。


入ってきたのは、村松諒。哲学部の部長だ。その表情には、いつもの冷静さが欠けていた。


「大変です」村松が息を切らして言う。「古い学校新聞のデータが、どんどん書き換わっていく。デジタルアーカイブの内容が、勝手に変更されているんです。それに…」


村松は一瞬言葉を詰まらせ、ポケットから一枚の写真を取り出した。


「これを見てください」


村松が差し出した写真には、かつての哲学部の集合写真が写っていた。そこには、現在の部員たちの先輩にあたる面々が写っている。


「この写真の人物が、一人ずつ消えていくんです」


真たちが覗き込むと、確かに写真の一部が透明になりかけている。まるで、インクが薄れていくように。


「消えていく順番に、規則性はある?」真が訊ねる。


「はい。年代の古い記録から順番に。まるで、過去が少しずつ削られているみたいです」


アレーテが写真に触れた瞬間、彼女の表情が凍りついた。


「この感じ…姉さん」


「姉さん?」真と佐倉が同時に声を上げる。


アレーテは苦しそうに目を閉じる。


「私には双子の姉がいます。アレテイア。彼女は『絶対的真実』を司る存在。私は『相対的真実』を担当する。でも、私たちは決定的に対立してしまった」


「どういうこと?」


「姉さんは、真実は一つしかないと信じている。記憶も、歴史も、全て唯一の『正しい形』があるはずだと。でも私は…人間たちと関わる中で、真実は一つじゃないと気づいたんです」


真は考え込んだ。絶対的真実と相対的真実。それは、プラトンの言う「イデア」と、現実世界の「影」の関係に似ている。


「サーバールームを確認しよう」



地下のサーバールーム。無数のハードディスクの青いランプが点滅している。


「ログを見て」村松がモニターを指さす。「データの更新日時が、どんどん過去に遡っていく。まるで、歴史そのものが書き換わっているみたいだ」


真は画面に映る異常なログの流れを確認する。最新のファイルから順に、更新日時が過去に向かって書き換わっていく。しかも、その速度は加速している。


「これは…」真は気づいた。「更新日時が遡る順番、写真の人物が消える順番、記憶が曖昧になっていく順番。全て同じパターンだ」


「時系列に沿って、過去が書き換えられていく」村松が頷く。「でも、なぜ?」


真は端末を操作し、データベースの構造を確認する。すると、ある特徴的なパターンを発見した。


「これを見て」真が画面を指す。「データが書き換わる時、必ず特定のビット列が残る。まるで…署名のように」


アレーテが覗き込む。


「これは…姉さんの痕跡。イデア界の『絶対的真実』を示すコードです」


「でも、なぜデジタルデータに?」佐倉が首を傾げる。


「イデア界と現実世界は、思っているより密接に繋がっている」アレーテが説明する。「特に、デジタルデータは『イデア』に近い性質を持っています。物質的な実体を持たない、純粋な情報だから」


その時、突然モニターが明滅し始めた。画面には、無数のコードが流れていく。


「これは…」


アレーテの表情が変わる。


「姉さんからのメッセージ」


画面に浮かび上がる文字列。


『記憶の図書館で待っています』


アレーテの表情が曇る。


「私たちが行かなければ、記憶の改変は止まりません。でも…」


「でも?」


「人間が記憶の図書館に入るのは危険です。そこは純粋な『イデア』の領域。人間の意識では、その重みに耐えられない可能性が…」


真は静かに言った。


「行くよ。これは、単なる記憶の問題じゃない。歴史とは何か、真実とは何か。その答えが、そこにあるはずだ」



イデア界の図書館は、現実のそれとは比べものにならないほど広大だった。天井が見えないほど高く、書架が無限に続いているように見える。


しかし今、その光景は普段と違っていた。本来、整然と並んでいるはずの記憶の結晶が、所々で歪んでいる。まるで、何かに侵食されているかのようだ。


「これが、記憶の結晶」アレーテが説明する。「人々の記憶が結晶化した姿。本来なら、無数の面を持つ多面体のはず。でも今は…」


真は近づいて観察する。結晶は確かに歪んでいた。しかし、その歪み方が妙だ。まるで、何かの力で単純化されているよう。複雑な面が、一つの形に収束しようとしている。


「姉さんの仕業ね」


アレーテの声が震える。書架の向こうから、一人の人影が現れる。


それは、影山玄ではなかった。銀髪の少女。アレーテそっくりの姿をした存在。


「お久しぶり、妹よ」


少女——アレテイアが、冷たい微笑みを浮かべた。


「姉さん…」アレーテの声が震える。「なぜ、こんなことを?」


「なぜ、って?」アレテイアの瞳が鋭く光る。「あなたこそ、なぜ人間たちに惑わされているの?『真実』は一つ。それなのに、人間たちの曖昧な『記憶』なんかに価値を見出すなんて」


「違います」アレーテが反論する。「私は人間たちと交わることで、新しい『真実』を見つけようとしただけ。記憶は、時として曖昧で不正確。でも、その不完全さの中にこそ、人間の本質があるんです」


「ナンセンス」アレテイアが手を振るう。周囲の結晶が、さらに歪みを増す。「見なさい。これが『絶対的真実』。全ての曖昧さを排除した、純粋な記録」


しかし真は、違和感に気づいていた。結晶が単純化されればされるほど、その輝きが失われていく。まるで、生命力を失っていくかのように。


「アレテイアさん」真が声を上げる。「あなたは、記憶を『真実』に近づけようとしている。でも、それは本当に正しいことなんですか?」


「意味のない質問ね」アレテイアが冷笑する。「記憶とは、本来『真実』の歪んだコピーに過ぎない。私は、その歪みを正しているだけ」


その時、真は気づいた。アレテイアの背後で、ある結晶が特に強く輝いている。その中に、何か小さな影のようなものが見える。


「あれは…結晶の核?」


アレーテが頷く。


「記憶の核。全ての記憶の源となる『真実』の断片です。姉さんは、その核を直接操作することで、記憶を『単一の真実』に書き換えようとしている」


「でも、それは違う」真は言う。「僕は、記念誌の編纂作業を通じて気づいたんです。同じ出来事でも、人によって記憶は少しずつ違う。でも、その違いこそが、出来事の本質を照らし出している」


真は一歩前に進む。


「例えば、文化祭の思い出。舞台に立った人、観客席で見ていた人、裏方で支えた人。みんなの記憶は違う。でも、その違う記憶が重なり合って、初めて『文化祭』という出来事の全体が見えてくる」


アレテイアの表情が微かに揺らぐ。


「ナイーブな考えね」彼女は言う。「でも、その『違い』が、混乱を生む。歴史の改竄を許し、真実を曖昧にする」


「違います!」今度はアレーテが叫ぶ。「私も最初は、人間の記憶の曖昧さに戸惑いました。でも、その『曖昧さ』の中にこそ、新しい可能性が眠っている。記憶は、ただの記録じゃない。それは、未来への道標なんです」


その瞬間、真は結晶の核に手を伸ばしていた。


「止めて!」アレテイアが叫ぶ。


核に触れた瞬間、真の意識に無数の映像が流れ込んだ。学校の歴史、生徒たちの思い出、喜びや悲しみ、全ての記憶が、カレイドスコープのように展開する。


その中に、アレテイアの記憶も見えた。妹との別れ、人間への不信、そして…孤独。


アレーテが頷く。


「姉さんは、記憶の核を直接操作している。だから、これほど大規模な改変が可能になっているんです」


真は決意を固めた。


真の意識に、記憶が流れ込む。


そこには、幼いアレテイアとアレーテの姿があった。イデア界の住人である彼女たちは、人間界を観察することが日課だった。


「人間って、不思議ね」幼いアレテイアが言う。「同じ出来事なのに、みんな違う記憶を持っている」


「それが素敵だと思わない?」幼いアレーテが応える。「みんなの記憶が重なって、もっと大きな物語になっていくの」


「でも、それじゃあ真実が見えなくなる」


「違うよ。真実は、一つじゃないのかもしれない」


その会話が、二人の運命を分けることになった。アレテイアは「絶対的真実」を追求し、アレーテは「人間の真実」を理解しようとした。


そして今——


「姉さん」アレーテが、核に触れている真の隣に立つ。「私たちは、どちらも間違っていなかったんです」


「どういうこと?」アレテイアの声が、わずかに揺らぐ。


「『絶対的真実』は確かに存在する。でも、それは人々の記憶という『不完全な真実』の集積の中にこそ宿るんです」


真も気づいていた。結晶の中で交錯する無数の記憶。それは混沌としているようで、どこか美しい秩序を持っている。


「見てください」真は言う。「これが、僕たちの『真実』です」


結晶の中で、様々な時代の文化祭の記憶が重なり合う。喜びも、苦労も、失敗も、成功も。それらが織りなす模様は、まるで万華鏡のよう。


「確かに、個々の記憶は不正確かもしれない」真は続ける。「でも、その不正確さの中にこそ、人間らしさがある。そして、その人間らしい記憶が重なり合うことで、より深い真実が見えてくる」


アレテイアの表情が、少しずつ和らいでいく。


「私は、ただ…」彼女の声が震える。「妹と同じ真実を見たかった。でも、その方法を間違えていたのね」


結晶の中の記憶が、ゆっくりと元の形を取り戻し始める。歪みが解け、多面的な輝きを放ち始める。


「記憶は、決して完璧ではない」アレーテが静かに言う。「でも、その不完全さこそが、新しい可能性を生む。姉さんの求める『絶対的真実』も、きっとその中にある」


アレテイアは、ゆっくりと手を伸ばす。アレーテの手が、それを優しく包む。


姉妹の手が重なった瞬間、結晶全体が柔らかな光に包まれた。



気がつくと、真たちは現実世界の図書館に戻っていた。


サーバールームのログを確認すると、データの異常は収まっていた。写真や記録も、元の状態に戻っている。いや、違う。完全に元通りではない。


「これは…」


校史編纂室の写真には、かすかな変化があった。どの写真にも、微かな光の筋が写り込んでいる。まるで、イデア界の痕跡のように。


「記録と記憶の境界」アレーテが説明する。「二つの世界は、完全には分離できない。それが、私たち姉妹が気づいた真実」


アレテイアは、イデア界に戻った。しかし、彼女の存在は確かにこの世界に痕跡を残している。それは写真の中の光となって、永遠に記録されることになるだろう。


「真」アレーテが声をかける。「私、少し分かってきました。イデア界の『真実』と、人間界の『記憶』。それは、光と影のような関係なのかもしれない」


その時、佐倉が声を上げた。


「見て、これ」


彼女が指さす先には、一枚の古い写真。かつての文化祭の様子を写したものだ。その中に、銀髪の双子の少女が写っている。しかし、それは決して鮮明な像ではない。まるで、幻のような、記憶の中の一場面のように。


「不思議ね」アレーテが微笑む。「この写真、本当は存在しないはず。でも、誰かの記憶が、こうして形になることもある」


窓の外では、夕暮れの空が茜色に染まっていた。


「記憶は、時として曖昧」アレーテが言う。「でも、その曖昧さの中にこそ、真実は宿るのかもしれない。だって、完璧すぎる記憶は、新しい可能性を失ってしまうから」


真は、机の上の校史編纂資料を見つめた。そこには、無数の人々の記憶が、光となって刻まれている。


それは、永遠に未完成の真実の結晶。


過去と未来を繋ぐ、私たちの「記憶の証」なのだ。


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