第14話 希望の結晶



「消えた……」


進路指導室で、佐倉葵が呟いた。彼女の手元には一枚の進路希望調査票。そこには、たった一時間前まで確かにあったはずの文字が、跡形もなく消え去っていた。


「ちょっと、これを見て」佐倉が調査票を差し出す。「消えかたが変なの」


真は注意深く用紙を観察した。確かに不自然な点がある。インクが消えた跡なら、通常はわずかな染みや凹みが残るはずだ。しかし、この用紙は完全に無傷。まるで、最初から何も書かれていなかったかのようだった。


「UV ライトで確認してみよう」


生物室から借りてきた紫外線ライトを照射してみる。しかし、インクの痕跡は一切見つからない。


「どういうことだろう」


その時、真は机の上に置かれた別の書類に気がついた。提出済み調査票の控えリストだ。そこには不思議な規則性があった。


「佐倉、気づいたことない?文字が消えているのは、全員第一志望だけなんだ。第二志望、第三志望は残ってる」


「あのさ、真」佐倉が不安げな表情で言う。「うちのクラスだけじゃないみたい。他のクラスの分も、どんどん消えていってるんだって。でも、消える速度が違うの。理系志望の組は遅くて、文系志望の組は早いみたい」


それは今月末が提出期限の二年生全員分の進路希望調査票。三年生への進級を前に、文理選択や志望大学を記入する重要な書類だった。


「イデア界の異変かもしれない」


真の背後で、銀髪の少女が静かに言った。アレーテだ。


「希望のイデアに、何かが起きている」


「どんな状態なの?」真が訊ねる。


アレーテは目を閉じ、イデア界の様子を探る。


「希望のイデアが、徐々に曇っていく。でも、完全に消失するわけではない。むしろ…封印されているような」


「封印?」


「ええ。誰かが意図的に、希望の結晶を覆い隠そうとしている。でも不思議なのは、その力が外部から加えられているのではなく、結晶の内側から作用しているということ」


真は眉をひそめた。内側からの力——それは、生徒たち自身の心が引き起こしている現象かもしれない。



放課後の図書館。真とアレーテ、そして佐倉の三人は、事態の調査を始めていた。


「消えたのは文字だけじゃない」佐倉がノートパソコンの画面を指さす。「電子データも破損してる。でも変なの。ファイルサイズは変わってないのよ」


真はデータを詳しく調べた。確かにファイルの中身は空白になっているのに、サイズは元のままだ。さらに気になる点がある。最終更新日時が、文字が消える直前で止まっている。


「まるで、時間が凍結されているみたいだ」


真は職員室でのやり取りを思い出していた。進路指導の久保田先生と、自分の父である城之内教授との会話を。


「ねぇ、アレーテ」真が訊ねる。「イデア界で、希望はどんな形をしているの?」


アレーテは瞳を閉じ、何かを思い出すように言った。


「結晶のような形です。無数の可能性が、光の結晶となって空間に浮かんでいる。人の心に芽生えた希望は、そこに新しい面を作り出す」


「結晶か……」


真は職員室での会話を思い出していた。進路指導の久保田先生が、一週間前の職員室で言っていたことを。そこには真の父である城之内教授も同席していた。


「最近、子どもたちの目が死んでるんですよ」久保田先生が溜息をつく。「特に成績上位者に顕著で」


「進学実績を重視しすぎた弊害かもしれませんね」城之内教授が応じる。「私の大学でも、『やりたいこと』を見失った学生が増えています」


「でも、現実を考えないわけにもいかない。私たち教師には、責任が…」


『最近の子たちは、現実的になりすぎているように思う。夢を見ることを、怖がっているんじゃないかな』


その時は単なる教師の愚痴だと思った言葉が、今は違う意味を帯びて響いてきた。


「図書館に来る前に、何人かの生徒に話を聞いたんだ」真は言う。「みんな、『現実的な選択』を口にしていた。『やりたいこと』じゃなくて、『できそうなこと』」


「それが、どう関係するの?」佐倉が首を傾げる。


「仮説なんだけど」真は慎重に言葉を選ぶ。「文字が消えたのは、書いた本人の『心』が、その進路を否定しているからじゃないかな」


アレーテが小さく頷いた。


「イデア界の結晶は、純粋な『願い』の形。現実的な判断や迷いは、それを曇らせる」


「でも、そんなの当たり前じゃない?」佐倉が反論する。「夢ばっかり追いかけてたら、将来困るでしょ」


その時、図書館の扉が開く音がした。


入ってきたのは、生徒会長の柏木結衣。完璧主義者として知られる彼女の表情が、珍しく乱れていた。


「あの、相談があるんですけど」


彼女が差し出したのは、真っ白な進路希望調査票。


「私、ずっと法学部志望で頑張ってきたのに。でも、本当は……」


柏木は言葉を詰まらせた。


「本当は?」真が促す。


「本当は、音楽がやりたい」


柏木の声が震えている。


「小学生の頃からピアノを習っていて、それが私の誇りだった。でも、中学に入ってからは受験勉強を優先して。高校では生徒会長として模範を示さなければならない立場で…」


彼女の瞳から、一筋の涙が落ちる。


「成績を落とすわけにはいかない。親の期待も大きいし。でも、最近ピアノの夢を見るんです。弾きたくて、弾きたくて。私、これでいいのかな…」


その瞬間、不思議な現象が起きた。真っ白だった用紙に、かすかに文字が浮かび上がり始めたのだ。


『音楽学部』という文字が、淡く、しかし確かな存在感を持って。


「そうか」真は立ち上がった。「調べるべき場所は分かった。アレーテ、イデア界に行こう」



イデア界の図書館は、現実のそれとよく似ていながら、大きく異なっていた。


天井まで届く本棚には、実在の本ではなく、無数の光の結晶が並んでいる。それぞれが、誰かの「希望」を形にしたものだった。


「あれを見て」アレーテが指差す先に、大きな結晶体があった。


表面は曇っているが、中心に強い光を湛えている。近づくと、その中に無数の文字が浮かんでいるのが見えた。消失した進路希望調査票の文字だ。


「やっぱり」真は呟いた。「希望は消えていない。ただ、隠されているんだ」


「でも、どうして?」佐倉が訊ねる。


答えは、結晶の向こう側から現れた。


「そこまでお見事」


スーツ姿の男が、ゆっくりと拍手しながら姿を現した。影山玄だ。


「君たちの先輩、去年の生徒会長の西園寺が協力してくれたんだ」影山が説明を始める。「彼は今、自分の意思で選んだはずの法学部で心を擦り減らしている。そんな彼の『後悔』が、この実験の触媒となった」


真は西園寺の名を覚えていた。常に冷静で、理知的で、周囲の評価を意識して生きてきた先輩。その人が、心の奥底に後悔を抱えていたとは。「面白い実験ができた。『現実』という名の鎖で、若者の『希望』を縛り付けることがね」


「どういうこと?」真が問う。


「単純さ」影山は薄く笑う。「進路指導という名の『洗脳』だよ。生徒たちに『現実的な選択』を促し、その呪縛で本来の希望を封じ込める。すると、イデア界の結晶は曇り、最終的に砕ける。そうして、人は『夢』を失うんだ」


「でも、失敗したわね」


佐倉が結晶を指差す。中の文字が、徐々に鮮明になっていく。


「柏木さんみたいに、本当の希望に気付く人が出てきた。そうしたら、呪縛は解けていく」


影山の表情が歪んだ。


「まさか、あの完璧主義の柏木が、最初の『解放者』になるとはね。西園寺と正反対の選択をするなんて」


その時、結晶の向こうから新たな光が漏れ始めた。


「あれは…」アレーテが目を凝らす。「昔の記憶?」


結晶に映し出されたのは、数年前の進路指導室。当時高校生だった西園寺の姿があった。


『音楽の道に進みたいんです』若き日の西園寺が言う。『でも、父が…』


『君には法曹界での活躍を期待している』厳めしい中年男性の声が響く。『家の伝統だ』


『分かりました、父』西園寺は背筋を伸ばして答えた。しかし、その瞳は既に光を失っていた。


映像が消える。影山が口を開く。


「見たかい?これが『現実』という名の暴力だ。西園寺は自分で選んだと思い込んでいる。けれど実は、周囲の期待という檻の中で、選ばされていただけなんだ」


真は結晶に手を伸ばした。触れた瞬間、まばゆい光が放たれる。


「人の心から希望を奪うことはできない」真は言う。「現実と折り合いをつけることは大切だ。でも、それは夢を殺すことじゃない。両方を見つめる勇気が必要なんだ」


光は図書館中に広がり、結晶の曇りを溶かしていく。そして、それは現実世界にも影響を及ぼしていった。




事件から一週間後。


西園寺が母校を訪れた。


「結局、大学を休学することにしました」彼は穏やかな表情で言う。「音楽の専門学校で学び直すんです。法律の知識は、いつか必ず活きる。でも、今は自分の情熱に正直に生きてみたくて」


「先輩…」柏木の目が潤む。


「君の決断が、私の背中を押してくれたよ」西園寺は柏木に微笑みかける。「人は、誰かの勇気に触発されるものなんだね」


真は、イデア界の結晶を思い出していた。希望は、独りよがりな夢でも、現実逃避でもない。誰かの心と共鳴し、新しい可能性を生み出していく。


そして今、進路指導室には生徒たちの長い列ができていた。


「志望変更です」

「やっぱり、最初の希望で!」

「新しい目標が見つかりました」


久保田先生は、にっこりと笑いながら言った。


「夢と現実のバランス、か。簡単じゃないけど、それを考えること自体が青春なのかもしれないね」


放課後、図書館で報告書を書きながら、真はアレーテに訊ねた。


「アレーテは、自分の『夢』について考えたことある?」


アレーテは少し考え込んだ。イデア界の住人である彼女にとって、「夢」とは何を意味するのか。


「私にとって『夢』とは、『真実』かもしれません」彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。「イデア界の住人は、物事の本質を知ることはできます。でも、その本質に至る人間たちの苦悩や喜び、迷いや決断。そういった『過程』の真実は、あなたたちと関わることでしか知ることができない」


アレーテは、珍しく柔らかな表情を見せた。


「だから私の夢は、あなたのような、面白い人間と出会い続けること。そして、この世界の『真実』を、もっと深く知ることです」


真は思わず赤面した。その様子を見て、佐倉が吹き出す。


「あのさ」佐倉が言う。「私の夢、聞いてく?」


三人の前に、新しい進路希望調査票が広げられた。それは、まだ白紙のまま。しかし佐倉は、迷いなく筆を走らせ始めた。


『第一志望:児童心理学科』


「子どもたちの夢を守る仕事がしたいの」佐倉は照れくさそうに言う。「この事件で、私も気づいたから。夢って、独りで見るものじゃない。誰かの夢が、また誰かの夢を呼び起こしていく。その連鎖を、私は守りたい」


真は、佐倉の決意に感じるものがあった。事件の解決は、単に異変を収束させただけではない。それは、一人一人の心の中に眠っていた「本当の声」を呼び覚ます契機となったのだ。


その時、廊下から柔らかなピアノの音色が聞こえてきた。音楽室では柏木が、久しぶりに鍵盤に向かっていた。シューベルトの即興曲。技術は少し錆びているかもしれないが、その音色には確かな希望が込められていた。


「ねぇ、真」アレーテが柔らかな声で言う。「人間の『夢』って、本当に不思議ね。挫折しても、また芽生える。否定されても、形を変えて現れる。まるで...」


「まるで?」


「まるで、生命そのものみたい。イデア界の結晶は、ある意味で完璧。でも、人間の夢は、不完璧だからこそ、より美しい」


教室の窓から、夕暮れの空が見えた。茜色の光の中、イデア界の結晶のような雲が流れていく。その雲間から、一筋の光が差し込んでくる。


この光を見上げている生徒たちは、今、どんな夢を思い描いているのだろう。それは、純粋な希望の結晶となって、空に溶けていくように思えた。


真は、机の上の進路希望調査票を見つめながら、柏木のピアノに耳を傾けていた。夢は、時として現実と衝突する。でも、その衝突さえも、私たちを前に進ませる力になる。


そう、夢とは、永遠に未完成の結晶なのかもしれない。




(終)

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