第16話 均衡の揺らぎ
それは、夜明け前の学校で起きた。
「真!早く来て!」
廊下を走る足音と共に、佐倉葵の声が響く。図書館で作業をしていた城之内真は、慌てて飛び出した。
そこで目にしたものは、信じがたい光景だった。
中庭に向かう窓ガラスが、まるで水面のように波打っている。その向こうの風景が歪み、時折別の景色が透けて見える。イデア界の光景だ。
「他の場所も」佐倉が息を切らせながら言う。「化学実験室の器具が溶け始めてる。体育館の床が透明になってきてる。まるで...」
「現実世界とイデア界の境界が、溶けているみたいね」
振り返ると、アレーテが立っていた。その表情には、深い憂いが浮かんでいる。
「どうして、こんな」
「均衡が崩れ始めているんです」アレーテの声が震える。「これまでの事件、全ては、この瞬間のために仕組まれていた」
真は、これまでの事件を思い返す。
美のイデアを巡る美術展での事件。
言葉のイデアが揺らいだ文芸部の異変。
希望のイデアが侵された進路希望票の改変。
記憶のイデアが歪められた校史の混乱。
「全ては、繋がっていたんだ」
真が呟いた時、校内放送が鳴り響く。しかし、そこから流れてきたのは、通常の放送とは明らかに異なる声だった。
『お気付きのことと思います』
影山玄の声。しかし、その声は普段の落ち着いた口調ではない。より深く、より古い、何か根源的な響きを持っていた。それは人間の声というより、世界の根源から響いてくる音のようだった。
『イデアと現実の境界が溶け始めている。そう、これこそが私の目的です』
「影山さん!」真が叫ぶ。「あなたは一体…」
『私が何者か、もうお分かりでしょう?アレーテ』
アレーテの表情が凍る。彼女の銀色の髪が、まるでイデア界の光を帯びたように輝き始める。
「まさか…デミウルゴスの…」
『その通り。私は《調和》のイデア。かつて、この世界の均衡を司っていた存在。デミウルゴスから、世界の調和を託された者』
真と佐倉が息を呑む。影山の正体は、イデアそのものだったのか。しかも、単なるイデアではない。世界の創造神デミウルゴスから直接、調和を委ねられた存在。
『でも、私は気付いてしまった。この《調和》こそが、世界の進化を妨げているのだと』
窓の歪みが大きくなり、廊下の床が揺れ始める。その揺れは、単なる物理的な振動ではなかった。現実とイデア界の境界そのものが、波打っているのだ。
『人間界とイデア界。この二つの世界は、本来一つであるべきだった。分離することで、両者は不完全なものになってしまった。人間は真理から遠ざかり、イデアは生命力を失った』
影山の声に、深い悲しみが混じる。それは、数千年の時を越えて積み重なった後悔と諦念。そして、それを乗り越えようとする決意。
『だから私は…全てを一つに戻す。デミウルゴスの意図とは異なるかもしれない。でも、これこそが真の調和への道』
「でも、それは!」アレーテが叫ぶ。「両世界の崩壊を招くだけです!人間の意識は、純粋なイデアの重みに耐えられない。イデアもまた、人間の不完全さを受け入れられない」
『崩壊?違う。これは進化への過程だ。より完全な世界の誕生への、産みの苦しみに過ぎない。そのために、私は準備を重ねてきた』
その時、真は校舎の壁に走る亀裂に気付いた。しかし、それは普通の亀裂ではない。そこから漏れ出る光は、まるでイデア界の輝きのようだ。その光は、虹色に輝きながら、幾何学的な模様を描いている。まるで、世界の設計図のように。
「逃げないと!」佐倉が叫ぶ。
しかし真は、その場に立ち尽くしていた。彼の頭の中で、これまでの事件の断片が、急速に結びつき始めていた。
美術展での歪んだ絵画——《美》のイデアの不安定化。そこには歴史上の芸術作品が、突如として現代的な様式で描き直されていた。まるで、時代を超えた美の融合。
文芸部での言葉の混乱——《言葉》のイデアの揺らぎ。部員たちが書いた詩が、あらゆる言語に同時に変換され始めた。言葉の壁を超えた、純粋な意味の表出。
進路希望調査での異変——《希望》のイデアの干渉。生徒たちの夢が、現実の制約から解放されようとした瞬間。
そして校史の改変——《記憶》のイデアの操作。過去と現在の境界が溶け始めた予兆。
「全ては、世界の《調和》を崩すための準備」真は呟く。「でも、なぜ学校なんです?アレーテ」
「学校は…」アレーテの声が震える。「人間の成長と、イデアの現実化が最も活発に行われる場所。だからこそ、二つの世界の境界が最も薄い」
その時、廊下の突き当たりに人影が現れた。村松諒だ。
「真!」村松が叫ぶ。「化学室が大変なことに!」
三人で駆けつけると、そこには信じがたい光景が広がっていた。実験器具が溶け、その形を変えながら、新しい物質へと変容している。周期表が輝きを放ち、元素記号が踊るように移動を始めている。
「《物質》のイデアまでも…」アレーテの顔が青ざめる。
「どうして」村松が困惑した表情で言う。「どうして影山先輩は、こんなことを」
実は村松は、影山の後輩だった。かつて哲学部で共に学んだ仲。その影山が、なぜこのような極端な行動に——。
『理解できないかもしれませんね』影山の声が響く。『でも、これは必然なのです』
天井から漏れ出た光が、スクリーンのように壁に映像を映し出す。
そこには、若き日の影山の姿があった。
『20年前、私もこの学校の生徒でした』影山の声が静かに語り始める。『哲学に魅了され、真理を追い求めた。そして、イデア界の存在に気付いた。けれど…』
映像が変化する。図書館で必死に本を読む影山。実験室で何かの研究に没頭する影山。そして、徐々に周囲から孤立していく影山。
『人間界の限界に気付いてしまった。どれだけ学んでも、どれだけ研究を重ねても、完全な真理には到達できない。人間の認識そのものが、不完全だから』
映像の中で、影山は一人、夜の学校に残っていた。その時、彼の前に光が現れる。
『そこで私は、《調和》のイデアと出会った。そして理解したのです。この不完全さは、世界の分裂によって生まれたものだと』
「だから、一つに戻そうとしている?」真が問う。
『ええ。全ては、デミウルゴスの意図を完遂するため』
その時、校舎全体を激しい振動が襲う。
「まずい!」アレーテが叫ぶ。「イデア界の流入が、限界点に近づいています」
教室から悲鳴が聞こえ始めた。数学室では黒板の数式が立体化し、空間に浮かび上がる。生物室では標本が動き始め、物理室では重力そのものが歪み始めていた。
「このままでは、取り返しのつかないことに」村松が言う。
それは、彼らの想像をはるかに超えた危機だった。イデアが現実世界に流れ込むことで、物理法則そのものが崩壊しようとしている。
しかし真は、その混沌の中に、ある規則性を見出していた。
「光の流れ方に、パターンがある」真は壁に映る光の軌跡を追う。「これ、プラトンの『ティマイオス』に書かれていた図形の配列と同じだ」
「『ティマイオス』?」村松が目を見開く。「世界の創造について書かれた対話篇?」
『よく気付きましたね』影山の声に、わずかな驚きが混じる。『その通り。この光の軌跡は、デミウルゴスが世界を創造した時の設計図。そして今、その過程が逆向きに進んでいる』
アレーテが息を呑む。
「逆向きに…つまり、世界の分解?」
『解体して、再構築する。より完全な形で』
その時、真は気づいた。光の軌跡は、学校の特定の場所で交差している。美術室、図書館、理科室、そして——。
「放送室!」
「そうか」村松が理解を示す。「放送室は学校全体に繋がっている。まるで、神経系のように」
『正解です』影山の声が響く。『放送室は、この学校の《中枢》。そこから、新しい世界の創造が始まる』
突然、校内放送のスピーカーから、轟音が響き渡る。純粋な音の振動。それは人間の耳では捉えきれない、イデア界の根源的な音だった。
学校中の窓ガラスが共振し始める。壁の亀裂が広がり、床のタイルが浮き上がる。そして、生徒たちの悲鳴。
「どうすれば…」村松が途方に暮れた表情を見せる。
しかし真は、冷静さを失っていなかった。むしろ、この状況で重要なヒントを見出していた。
「アレーテ、聞いて」真が声を潜める。「影山さんの言う《調和》には、決定的な矛盾がある」
「矛盾?」
「ええ。彼は『完全な調和』を目指している。でも、完全な調和とは、本来あり得ないはず。なぜなら——」
その時、廊下の突き当たりで、驚くべき光景が起きていた。
『よく知っているな』影山の声が響く。『その通り。私がしようとしていることは、創造神デミウルゴスの行為の再現。無秩序から新しい秩序を作り出す』
「でも、それは間違っている!」真が叫ぶ。「調和は、破壊からは生まれない。むしろ…」
その時、真の目に、何かが映った。廊下の歪んだ空間に、無数の光の筋が走っている。よく見ると、それは人々の思いが作り出す糸のようだった。
美術室では、制作に打ち込む生徒たちの情熱が、赤い光となって。
図書館では、本を読む者たちの集中力が、青い光となって。
教室では、学ぶ者たちの好奇心が、緑の光となって。
そして、それらは全て繋がっていた。
「分かりました」アレーテが前に出る。「これが、本当の《調和》なんですね」
真は頷く。
「調和とは、全てを一つにすることじゃない。違いを認めながら、響き合うこと。それこそが…」
『馬鹿な』影山の声が揺らぐ。『それでは不完全なまま…』
「不完全でいい」真は言う。「むしろ、その不完全さこそが、新しい可能性を生む」
アレーテが手を伸ばす。その手が、空間に浮かぶ光の糸に触れる。
「影山さん。あなたは《調和》を求めすぎた。完璧な均衡を作ろうとして、かえって世界の生命力を失わせようとしている」
佐倉も、決意に満ちた表情で前に出る。
「私たちは不完全。でも、それでいい。だって…」
「その不完全さが」真が続ける。「私たちを前に進ませる」
突然、校舎全体が大きく揺れ始めた。まるで、何かの決断を迫るかのように。
「どちらを選ぶの?影山さん」アレーテが問いかける。「完璧な崩壊か、不完全な調和か」
深い沈黙。
そして——校舎が、さらに大きく揺れ始めた。
「危険です!」アレーテが叫ぶ。「イデア界のエネルギーが、制御不能になりつつある!」
壁の亀裂から漏れる光が強さを増し、まるで生き物のように蠢き始める。廊下の床が波打ち、天井からは異様な軋み音が響く。
「校舎の中にいる人たち」佐倉が叫ぶ。「まだ下校してない生徒がいるわ!」
その時、二階の美術室から悲鳴が聞こえた。
「葵、避難誘導を!」真が指示を出す。「アレーテ、影山さんの居場所は?」
「放送室…いいえ」アレーテが目を凝らす。「図書館の地下。イデア界との境界が最も薄い場所です」
真は頷いた。そこなら理にかなっている。図書館の地下には、かつて使われていた古い放送設備がある。そして何より、そこは「知」が集まる場所。イデア界との親和性が最も高いはずだ。
「行こう」
階段を駆け下りる二人。周囲の空間が歪むにつれ、まるで異次元を歩いているかのような感覚に襲われる。
『無駄な抵抗です』影山の声が、壁から染み出すように響く。『この崩壊は、もう誰にも止められない』
「違います」アレーテが叫び返す。「見てください。人々の思いが作る光を」
廊下に漂う無数の光の糸。それは今、より強く、より鮮やかに輝きを増していた。
そこには、部活動に打ち込む生徒たちの情熱。
授業で真理を追究する教師たちの探求心。
校舎の片隅で友と語らう者たちの温もり。
全ては繋がり、響き合い、しかし決して一つには溶け合わない。
「これが、本当の調和」真が言う。「強制的な融合じゃない。それぞれの個性を保ちながら、響き合う世界」
図書館に到着した二人は、地下への階段を駆け下りる。
そこで目にしたものは——。
巨大な光の渦。その中心に、影山の姿があった。しかし、それはもはや人の形ではない。純粋な光のエネルギーと化しつつある存在。《調和》のイデア、その本来の姿だ。
『分かっているはずだ』影山の声が、直接意識に響く。『この不完全な世界の限界を』
部屋の壁が溶け始め、そこにイデア界の風景が透けて見える。無限に広がる知識の海。純粋な概念だけで構成された完全な世界。
「確かに、人間界は不完全」真は一歩前に出る。「でも、その不完全さこそが、私たちの強さなんです」
アレーテが真の隣に立つ。
「影山さん。あなたは《調和》を求めすぎたんです。完璧な均衡を作ろうとして、かえって世界の生命力を失わせようとしている」
『生命力?この混沌とした世界のどこに…』
「ここにあります」
真が指さす先には、図書館の古い机。そこには、一冊の本が開かれていた。それは、真が以前イデア界で見た「記憶の本」。そこには、この学校で学んだ全ての人々の思いが刻まれている。
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