第4話 正義の影
「正義とは何か——」
放課後の図書室で、城之内真は一冊の古びた哲学書を開いていた。夕暮れ時の斜光が、黄ばんだページに落ちている。図書室特有の紙の香りと、木製の棚から漂う懐かしい匂いが、静謐な空間を満たしていた。
真は、目の前の一節を何度も読み返していた。プラトンの『国家』。古代ギリシャの哲学者が探究した「正義」の本質について書かれた章だ。そこには、個人の内なる正義と、社会全体における正義の関係が論じられていた。
「最近の学校の雰囲気と、どこか重なるものがあるんだよな......」
真は思わず独り言を漏らした。迫りくる生徒会選挙に向けて、学校全体が次第に緊迫した空気に包まれつつあったのだ。プラトンの『国家』である。数日後に迫った生徒会選挙の準備に追われる中、彼の心を離れない言葉があった。
「何かを考え込んでいるようね」
銀髪の少女、アレーテが隣に座った。イデア界からの来訪者である彼女は、真の「相棒」として不可思議な事件の解決に携わってきた。
「ああ、生徒会選挙のことを考えていたんだ」
立候補しているのは、現生徒会長の柏木結衣と、新進気鋭の改革派・高梨陽斗。二人の主張は真っ向から対立していた。
柏木結衣——完璧主義者として知られる優等生だ。真面目で規律正しく、教師からの信頼も厚い。生徒会長として一年間、確実な実績を積み重ねてきた。彼女の掲げるスローガンは「誇りある伝統と、着実な前進」。現状の学校システムを基盤としながら、必要な改革を段階的に進めていくという方針だ。
対する高梨陽斗は、学年でも一、二を争う成績を持ちながら、既存の体制に対して批判的な生徒として有名だった。新聞部での活動を通じて学校の問題点を指摘し続け、多くの支持者を集めている。「古い殻を破り、新しい学校へ」という彼のスローガンは、特に下級生たちの心を掴んでいた。
「まるで、保守とリベラルの対立のミニチュア版だな」
真は現代社会で繰り広げられる政治的な対立構造と重ね合わせて考えていた。両者とも、自分たちの主張こそが正しいと信じている。その対立は、時として感情的な応酬に発展することもあった。
柏木は伝統と秩序を重んじ、現状の制度を守りながらの漸進的な改革を唱える。一方の高梨は、古い体質を一新し、生徒の自由と権利を最大限に保障する改革案を掲げていた。
「どちらも、自分こそが正しいと信じているんだろうな」
その時、図書室のドアが勢いよく開いた。
「大変です!」
駆け込んできたのは、真のクラスメイトで哲学部の副部長を務める佐倉葵だった。
「選挙ポスターが何者かによって破られているんです!」
三人は急いで現場へと向かった。校舎の廊下には、引き裂かれた選挙ポスターの破片が散らばっていた。被害に遭っていたのは、高梨陽斗のポスターばかり。
「これは......」
真が破られたポスターの断片を拾い上げると、その裏に何かが書かれているのに気付いた。
『正義は勝つ』
不気味な文字列が、赤いペンで走り書きされていた。
「まるで、高梨君を正義に反する存在として糾弾しているかのようね」アレーテが静かに呟いた。
捜査は思わぬ方向へと展開する。破壊行為の背後には、単なる選挙妨害以上の深い闇が潜んでいた。真たちは、学校に潜む「もう一つの正義」の存在に気付き始める。
そして事態は、予想もしない方向へと急展開する。
翌日、体育館で開かれた立会演説会。会場には張り詰めた空気が漂っていた。
最初に登壇した柏木結衣は、一年間の実績を丁寧に説明していく。制服の規定改正、図書館の開館時間延長、部活動予算の適正配分——。一つ一つの施策に、確かな成果と根拠が示されていた。
「私たちの学校には、守るべき良き伝統があります。しかし同時に、時代に応じた改革も必要です。バランスを取りながら、着実に前進していく——それが、私の信じる道です」
柏木の演説は、実務能力への信頼を訴えるものだった。会場からは大きな拍手が起こる。
続いて登壇した高梨陽斗。彼は一枚のUSBメモリを掲げた。
「これから私が示すのは、現執行部が隠してきた真実です」
スクリーンに映し出されたのは、生徒会の内部資料。予算の流れを示す表には、不自然な数字の操作の跡が残されていた。高梨は具体的な証拠を示しながら、柏木執行部の不正を次々と暴露していく。
「体育祭予算の水増し、文化祭での裏金作り、そして——」
会場が騒然となる。柏木の支持者たちからは抗議の声が上がり、高梨支持者たちは更なる真相究明を求めて声を上げる。教師たちも困惑の表情を浮かべていた。
「待って!」
柏木が立ち上がる。「その資料は——」
しかし彼女の声は、会場の怒号にかき消されていった。支持者同士の言い争いは、まるで伝染するように広がっていく。秩序を重んじる生徒と改革を求める生徒が、感情的な非難の応酬を始めた。
しかし真は、その場の異様な雰囲気に違和感を覚えていた。人々の感情の高ぶりは尋常ではない。まるで誰かが意図的に、対立を煽っているかのようだ。
真は会場の隅に立ち、冷静に状況を観察する。生徒たちの瞳が異常な輝きを帯び、その声は通常以上に響きを持っている。空気そのものが、わずかに歪んで見えた。
「アレーテ、この演説会場......何か変だと思わないか?」
アレーテも周囲を注意深く見回していた。「ええ、まるで......」
「まるでイデア界の影響を受けているみたいだ」
この空間が、現実世界とイデア界の境界で揺らいでいる——。感情が必要以上に増幅され、対立が極端な形で表れている。それは単なる選挙戦の過熱ではない。「正義」という概念そのものが、現実世界を歪めているのだ。
真は体育館の天井を見上げた。そこに、かすかに別の空間が透けて見える。黄金色の天秤が、不安定に揺れ動いているような......
真は哲学部の部長である村松諒にも相談することにした。しかし、村松の反応は奇妙だった。
「正義の本質か......」村松は窓の外を見つめながら言った。「時として、正義は害悪以上の破壊をもたらすこともある」
その言葉には、どこか個人的な経験に基づく重みが感じられた。
真は村松の過去を探る必要性を感じ始める。そしてある事実にたどり着く。三年前、村松の姉が所属していた高校で、やはり同じような生徒会選挙での騒動があった。結果として、村松の姉は無実の罪を着せられ、退学に追い込まれたのだ。
「彼の言う『正義の害悪』は、実体験に基づいていたんだ」
真は事件の核心に迫りつつあった。高梨陽斗による告発、ポスター破壊事件、そして村松の過去——全てを繋ぐ糸が見えてきた。
しかし、それを証明するためには「イデア界」での調査が必要だった。
「行きましょう」アレーテの導きで、真はイデア界へと足を踏み入れる。
そこで目にしたのは、現実世界の学校を映す巨大な万華鏡のような空間。無数の「正義」の形が、光となって交錯していた。
「これが......正義のイデアか」
真は理解した。現実世界で起きている対立は、イデア界における「正義」の歪みが影響していたのだ。そして、その歪みを意図的に作り出している存在がいる。
村松の証言を得て、真相が明らかになっていく。
三年前の事件の真犯人は、当時の生徒会顧問・円城寺だった。彼は現在、影山という名でイデア界の反乱分子として活動している。円城寺は「正義」の歪みを利用して、現実世界とイデア界の境界を揺るがそうとしていたのだ。
高梨陽斗への告発材料を流したのも、ポスター破壊事件を演出したのも、全て円城寺の仕業だった。彼は村松の心の傷を利用して、この計画に巻き込もうとしていたのである。
真とアレーテは、イデア界の深部へと進んでいった。そこは「正義」という概念が具現化された空間——無数の天秤が宙に浮かび、それぞれが異なる輝きを放っている。その中心には巨大な黄金の天秤があり、それは現実世界における正義の均衡を表しているのだという。
「この天秤が傾けば、現実世界の秩序も乱れる」アレーテが説明する。「円城寺は、この均衡を意図的に崩そうとしているのよ」
その時、暗い影が空間を覆った。
「よく来たな、若き探求者たち」
円城寺の姿が、黄金の天秤の前に現れる。彼は既に人の形を半ば失い、歪んだ「正義の化身」とでも呼ぶべき姿になっていた。漆黒の体躯から無数の天秤が生え、それぞれが不規則に揺れ動いている。
「現実世界の正義など、所詮は偽物だ。本当の正義は、完璧な均衡の中にしか存在しない!」
円城寺の声が響き渡る。彼の周囲の天秤群が激しく揺れ、その影響で現実世界の対立も深まっていく。真は村松から聞いた話を思い出していた。
「あなたは、完璧な正義を求めすぎた」真は静かに、しかし力強く語りかける。「でも、正義は完璧である必要なんてない。むしろ、不完全だからこそ、人々は対話を重ね、より良い形を探していける。それこそが、本当の正義なんだ!」
真の言葉に呼応するように、アレーテの体が淡い光を放ち始めた。
「イデア界の理(ことわり)として、私からも告げます」アレーテの声が透明な力を帯びる。「正義とは、固定された概念ではありません。それは常に生成し、変化し、高まっていくもの。完璧な正義など、どこにも存在しないのです」
二人の言葉が、イデア界の空間に共鳴していく。無数の天秤が、新たなリズムを刻み始めた。
「そんな......バカな......!」
円城寺の姿が揺らぐ。彼の体から生えていた天秤群が次々と砕け落ちていく。
「完璧な正義こそが、全て......なのに......」
最後の抵抗もむなしく、円城寺の姿は光の粒子となって消えていった。黄金の天秤が、静かに安定を取り戻していく。
「これで、現実世界の歪みも......」歪められた「正義のイデア」は本来の姿を取り戻し、現実世界の対立も徐々に収束していく。
生徒会選挙は予定通り実施された。結果として柏木結衣が僅差で再選を果たし、高梨陽斗は副会長として柏木体制を支えることになった。二人の「正義」は、対立ではなく建設的な議論として昇華されていったのだ。
事件後、村松は真とアレーテに打ち明けた。
「姉は今、別の高校で教師として働いている。彼女は、あの経験を活かして生徒たちを導いているよ」
村松の表情は、長年の重荷から解放されたかのように晴れやかだった。
図書室に戻った真は、再び『国家』を手に取る。
「正義とは何か——」
その問いへの答えは、一つではないのかもしれない。しかし、それを共に探し求めることこそが、真の「正義」なのだと、真は確信していた。
アレーテが静かに微笑む。二人の前には、まだ解かれるべき多くの謎が待っているーー。
一週間後の放課後、図書室に夕陽が差し込んでいた。真は机に向かい、これまでの出来事について日誌をつけている。
窓の外では、新しい生徒会の初仕事として、「対話集会」が開かれていた。柏木と高梨が共同で企画したその集会では、生徒たちが自由に学校の未来について語り合っている。
「正義という概念一つを取っても、これほど多くの解釈と対立が生まれる」真はペンを走らせながら呟いた。「でも、それは人々が必死に理想を追い求めているからこそなんだ」
隣でアレーテが静かに頷く。「ええ。イデア界の存在意義も、そこにあるのかもしれないわね。完璧な答えを示すのではなく、人々の探求の道標となること」
村松も図書室に姿を見せた。彼は以前より晴れやかな表情を見せるようになっていた。
「姉から連絡があってね。私たちの活動を聞いて、『正義は必ず勝つ』じゃなくて、『正義は共に探すもの』だって、生徒たちに伝えているそうだ」
真は新たな発見を記録に残す。事件は解決したが、これは終わりではない。むしろ、新たな探求の始まりなのだ。
日誌の最後に、真は一つの言葉を書き加えた。
『正義とは何か——その問いこそが、正義なのかもしれない』
図書室の夕暮れに、新しい風が吹き始めていた。
(了)
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