第3話 虚像の真実



「この写真、絶対におかしいわ」


佐倉葵は、写真部の展示コーナーに貼り出された一枚の写真を指差していた。それは、校庭の桜を写したものだ。満開の花が、春の柔らかな光に包まれている。


「何がおかしい?」

私——城之内真は、その写真をじっくりと見つめた。確かに美しい一枚だが......。


「この桜、まだ咲いていない時期のはずよ」

佐倉は校庭を指差す。

「ほら、現実の桜はまだつぼみでしょう?なのに、この写真は満開」


写真には「4月8日撮影」と記されている。つまり、今日の日付だ。


「デジタル加工かもしれない」

私は写真に近づいて確認する。

「最近は高度な編集が......」


「違うの」

佐倉は首を振った。

「これ、フィルム写真なのよ。写真部の暗室で現像された生の写真」


その時、背後から声が聞こえた。


「やはり、気づいたか」


振り向くと、写真部の山下咲が立っていた。彼女は写真部の部長で、その腕前は校内でも評価が高い。


「山下さん、この写真......」


「ええ」

山下は静かに頷いた。

「朝方、暗室で現像したの。でも、私にも分からない。なぜこんな写真が撮れたのか」


「現像の過程で何か?」

私が尋ねると、山下は首を横に振る。


「通常の手順通り。でも、現像液に浸した時から、様子がおかしかった。まるで......」

彼女は言葉を探すように間を置く。

「まるで、写真が自分で姿を現すみたいに」


私と佐倉は顔を見合わせた。

これは、またしても——。


「暗室を見せてもらえないか」

私は山下に頼んだ。


「ええ、もちろん」

彼女は深刻な表情で頷く。

「実は、他にも気になることが......」



写真部の暗室は、地下一階の片隅にある。

赤い安全光の中、現像用の機材が並んでいる。


「これが問題の写真を現像した場所」

山下は作業台を指差した。


私は周囲を観察する。

一見、普通の暗室だ。しかし......。


「この現像液」

佐倉が薬品の棚を見ている。

「使用期限が切れてない?」


「ええ、先週新しく交換したばかり」

山下は説明する。

「でも、おかしなことが起きているのは、現像液だけじゃないの」


彼女は壁に貼られた何枚かの写真を指差した。

「これらは、この一週間で現像された写真。全て、現実とは異なる風景が写っている」


私は写真を一枚ずつ確認していく。

グラウンドでの体育祭の様子。

しかし、実際の体育祭はまだ先のはず。


図書館での読書風景。

だが、写っている本の配置は、現実の図書館とは違う。


そして——。


「これは」

私は一枚の写真に目を凝らした。


校舎の屋上。夕陽に照らされた空には、巨大な影のような何かが浮かんでいる。

それは、まるで——。


「イデア界の影」

声が響いた。


振り向くと、アレーテが立っていた。

いつの間に現れたのか。

銀髪が赤い安全光に照らされ、幻想的な輝きを放っている。


「イデア界の......影?」

山下が困惑した様子で尋ねる。


「写真には、現実を超えた真実が写り込むことがある」

アレーテは静かに説明を始めた。

「それは、時として未来を、時として別の可能性を映し出す」


「でも、なぜ今になって?」

佐倉が問いかける。


その時、暗室のドアが開いた。

写真部の副部長、高原拓也が慌てた様子で入ってきた。


「部長!大変です!」

彼は息を切らせている。

「展示の写真が、また......」


私たちは急いで展示コーナーに戻った。


そこには——。

先ほどまで桜が満開だった写真が、まるで別の景色に変わっていた。

枯れた桜。散り敷く花びら。そして、一人の人影。


「これは」

山下の声が震える。

「高原......くん?」


確かに、写真に写る人影は高原に似ている。

しかし、その表情は——苦悶に満ちていた。


「いや、これは私じゃない」

高原が必死に否定する。

「確かに似てますけど、でも......」


私は写真をじっくりと観察した。

不自然な点がある。

この写真、どこかおかしい。


「佐倉」

私は彼女に目配せした。


「ええ」

佐倉も気づいたようだ。

「この影の向き、変よね。人物の影だけが、他の影と違う方向を向いている」


「そう」

私は頷いた。

「この写真は合成......いや、違うな」


アレーテが一歩前に出た。

「これは、二つの現実が重なった結果です」


「二つの現実?」

山下が尋ねる。


「現実世界とイデア界」

私は理解し始めていた。

「写真という媒体を通じて、二つの世界の映像が......」


突然、展示コーナーの空気が変容し始めた。

写真から、淡い光が漏れ出している。


「また始まった」

アレーテが言う。

「イデア界との境界が揺らいでいます」


その時、高原が叫んだ。

「部長、逃げて!」


彼は山下の前に飛び出し、写真を遮るように立った。

その瞬間、写真から強い光が放たれ、私たちの視界が白く染まる。



目を開くと、そこはもう展示コーナーではなかった。


巨大な暗室のような空間。

無数の写真が宙に浮かび、それぞれが微かな光を放っている。

まるで、星座のように。


「イデア界の写真暗室......か」

私は呟いた。


「ここは、全ての映像の原型が保管される場所」

アレーテが説明する。

「現実世界で撮影される写真は、ここにある原型の『影』なのです」


「でも、どうして高原くんが?」

佐倉が不思議そうに尋ねる。

「さっきの様子は、まるで何かを知っているみたいだった」


その通りだ。

高原の行動には、明らかな意図が感じられた。

そして——。


「山下さん」

私は写真部部長に向き直った。

「高原くんと、以前から何かあったんですか?」


山下は少し躊躇った後、静かに話し始めた。


「高原くんは、去年から写真部の副部長を務めています。優秀な技術と、繊細な感性の持ち主」

彼女は宙に浮かぶ写真群を見上げながら続けた。

「でも、最近になって変化が......」


「どんな変化?」

佐倉が促す。


「現像の時に、妙な写真が混じるようになったの。未来......いえ、別の可能性を写したような写真が」


「それって、今回のような?」

私は確認した。


「ええ。でも、高原くんは『これが本当の写真だ』と主張して。現実より、写真の中の世界の方が真実に近いって」


その時、私たちの後ろで物音がした。

振り向くと、そこには高原が立っていた。

しかし、その姿は現実世界とは違っていた。

まるで、写真の中から抜け出してきたかのような、やや透明な存在。


「その通りです」

高原——いや、高原の姿をした存在が言った。

「写真は、表層的な現実を超えて、より深い真実を写し取る。それこそが、私の追い求めてきたもの」


「待って」

佐倉が一歩前に出た。

「あなたは、本物の高原くんじゃないわ」


鋭い。私も気づいていた。

この存在は、高原の形を借りた何か別のものだ。


「正解です」

その存在は薄く笑みを浮かべた。

「私は、『映像のイデア』。全ての視覚的真実を司る者です」


「だから、写真を操作していたのか」

私は理解し始めていた。

「現実世界の写真に、イデア界の影響を及ぼして」


「操作?違います」

イデアは首を横に振る。

「私は、より深い真実を顕在化させただけ。写真という媒体には、そういう力がある」


「でも、それは本当の真実とは違う」

佐倉が強い口調で言った。

「写真は確かに現実の一面を切り取る。でも、それは無数にある真実の、ほんの一つの可能性でしかない」


「そう」

私も同意した。

「プラトンの洞窟の比喩で言えば、写真もまた『影』の一つ。完全な真実ではない」


「しかし」

イデアが反論する。

「より純粋な、理想的な真実があるはずだ。それを写し取ることこそ——」


「それは独りよがりです」

突然、山下が声を上げた。

「写真は確かに真実を写す。でも、それは撮る人の心を通した真実。だから時に歪み、時に輝く。それが写真の、本当の価値じゃないですか?」


その言葉が、空間に響き渡る。

イデアの姿が、わずかに揺らめいた。


「そうか......」

イデアは静かに呟いた。

「私は、完璧な真実を求めるあまり、真実の多様性を見失っていた」


空間が波打ち始める。

イデアの姿が、光の粒子となって拡散していく。


「写真には、現実を超える力がある」

消えゆく直前、イデアは言った。

「でも、それは現実を否定するためではなく、現実の新たな一面を見せるため。そのことを、私は忘れていた」


光が収束していく。

そして私たちは、現実世界の展示コーナーに戻っていた。


「あの......何が?」

現実世界の高原が、混乱した様子で周囲を見回している。


展示コーナーの写真は、元の桜の写真に戻っていた。

しかし、よく見ると少し違う。

満開の桜と、つぼみの桜が、一枚の写真の中で不思議な調和を保っている。


「これが、本当の写真の姿」

山下が感慨深げに言った。

「現実とイデア、両方の真実が溶け合って」


「メディアの本質は、仲介者であることかもしれないわね」

佐倉が写真を見つめながら言う。

「現実とイデア、表層と深層、そういった異なる次元を繋ぐ架け橋として」


アレーテが静かに頷いた。

「そして時に、その架け橋は新しい真実を生み出す」


私は改めて写真を見た。

桜の花びらが、春の光に照らされて輝いている。

それは確かに「現実」ではない。

しかし、間違いなく「真実」の一つだった。


「ねぇ」

佐倉が不意に言った。

「写真って、ある意味で哲学的な営みかもしれない」


「どういう意味で?」


「だって、見える現実の向こうにある本質を探り、それを形にする。まさに、プラトンの言う『洞窟の外の世界』を覗こうとする試みじゃない?」


私は微笑んだ。

「確かに。でも、大切なのは」


「現実に戻ってくること」

アレーテが言葉を継いだ。

「イデアを見た後で、現実世界に光を当てること」


山下は静かに頷き、カメラを手に取った。

「じゃあ、新しい写真を撮りましょうか。今度は、現実とイデア、両方の光を集めて」


春の陽光が、写真部の展示コーナーを優しく照らしていた。


後日、写真部の部室で興味深い展開があった。


「見てください、これ」

高原が一枚の写真を差し出した。

それは先日の桜を撮影した新しい写真だった。


つぼみと満開の花が同居する不思議な風景。

しかし今回は、現像過程で異変は起きていない。


「どうやって撮ったの?」

佐倉が興味深そうに尋ねた。


「二重露光という技法です」

高原は嬉しそうに説明する。

「一枚のフィルムに二回撮影することで、異なる時間の光を重ねることができるんです」


「まさに、現実とイデアの架け橋ね」

佐倉は感心したように頷いた。


山下も部室に顔を出し、高原の新しい写真を見て目を輝かせた。

「これこそ私たちの求めていた表現かもしれない」


写真部の雰囲気は、この事件を境に大きく変わった。

部員たちは互いの個性を認め合い、それぞれの「真実の切り取り方」を尊重するようになった。


「本当の写真は、現実を写すだけじゃない」

山下は部誌の編集会議でそう語った。

「見る人の心の中に、新しい真実を生み出すもの。それが写真の持つ力」


その言葉は、写真部の新しい指針となったという。


私は時々、あの展示コーナーを訪れる。

そこには今も、あの不思議な桜の写真が飾られている。

つぼみと満開の花が混在する風景は、見る者の数だけ異なる解釈を生んでいるようだ。


「ある意味、これも哲学よね」

佐倉はある日、そう呟いた。

「一つの真実を追い求めるんじゃなく、複数の真実が共存できる可能性を探ること」


アレーテも、時折その写真を見に来ているという。

「この写真には、人間世界の面白さが写し込まれています」

彼女はそう評した。

「完璧な真実を求めながらも、不完全さの中に美を見出す。その矛盾に満ちた営み自体が、一つの真理なのかもしれません」


確かに、私たちの目の前には様々な「真実」が広がっている。

それは時に矛盾し、時に調和する。

その複雑な様相こそが、現実世界の本質なのかもしれない。


写真部の展示コーナーに立つたび、私はそんなことを考えている。


(続く)

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