第5話 言葉の迷宮
雨の音が、放課後の文芸部室に静かに響いていた。
窓際の机に向かう瀬川千夏の手が、原稿用紙の上で止まる。文芸部の部長である彼女は、ここ数日、奇妙な現象に悩まされていた。書き上げた原稿が、翌日には全く異なる内容に変わっているのだ。
「また......変わってる」
昨日書いた恋愛小説は、今や壮大なSF小説に変貌していた。しかも、それは紛れもなく自分の筆跡で書かれている。
その不可解な出来事を、城之内真は佐倉葵から聞いていた。
「文芸部の噂って、知ってる?」と葵が切り出したのは、哲学部の部室での出来事だった。「書かれた物語が、夜の間に勝手に書き変わるんだって」
真は、件の文芸部誌を手に取っていた。『詩野』という名の文芸誌には、確かに不自然な点があった。同じ作者の作品なのに、文体や世界観が極端に異なっているのだ。
「これは......イデア界の影響かもしれませんね」
隣でページをめくっていたアレーテが静かに呟いた。銀髪の少女の紫色の瞳が、何か深い思索に沈んでいるように見える。
「どういうことだ?」
「言葉には、本来あるべき『真の姿』があるのかもしれません。その『言葉のイデア』が、現実の物語に干渉しているとしたら...」
真は考え込んだ。これまでの事件でも、イデア界の影響は様々な形で現実世界に現れていた。今回は「言葉」そのものが、その本質を現そうとしているのかもしれない。
「調査してみよう」
真とアレーテは放課後、文芸部の協力を得て部室に待機することにした。その日は珍しく、村松も同行していた。
「言葉の本質か......面白いテーマだ」
村松の言葉には、どこか深い含みがあるように感じられた。
夜の帳が降り、校舎は静寂に包まれる。文芸部室の机の上には、瀬川の書きかけの原稿が置かれていた。真たちは、部室の隅で息を潜めて見守っていた。
深夜零時を回ったとき、不思議な現象が始まった。
原稿用紙が、かすかな光を放ち始める。そして文字が、まるで生き物のように蠢き始めたのだ。
「これは...!」
その瞬間、部屋全体が歪んだ。気がつくと一行は、見慣れないイデア界の空間に立っていた。
そこは巨大な図書館のような場所だった。天井まで伸びる本棚が無限に広がり、それぞれの棚には様々な色や形の本が並んでいる。幾つかの本は、まるで生き物のように淡く脈打っていた。
「これは......」真は思わず声を上げた。
本棚の間を、光の粒子が舞っている。それらは時として文字の形を取り、時として意味の断片となって空中を漂っていた。遠くからは、まだ誰にも読まれていない物語のささやきが聞こえてくる。
「ここが言葉の源流......」アレーテが静かに説明を始める。「全ての言葉は、このイデアの図書館で生まれ、人々の心の中で育っていくのです」
村松は興味深そうに本棚に近づき、一冊の本に手を伸ばした。しかしその本は、触れる直前に光となって消えてしまう。
「直接触れることはできないようだね。でも、これは興味深い」
彼は懐から取り出した手帳に、何かをメモし始めた。その文字が、かすかに光を放っている。
真は空間をよく観察した。本棚は決して直線的には並んでいない。まるで生きた樹木のように、有機的な曲線を描いて広がっている。文字の光は、その枝のように伸びた本棚を伝って流れていた。
「見て!」葵が指さす先で、一冊の本が自然に開かれた。その中から物語が光となって溢れ出し、空中に映像を結ぶ。それは瀬川が書いていた物語の一場面だった。
しかし、その映像は不安定に揺らめいている。まるで別の物語に書き換わろうとしているかのように。
「この歪みは......」
しかし、その神秘的な空間の奥から、不穏な気配が漂ってきた。闇のような黒い霧が、書架の間を這うように近づいてくる。
「言葉を......解放するのだ」
低く歪んだ声が響いた。霧は次第に人型を形作り、一人の男の姿となる。漆黒のローブに身を包んだその存在は、自らを「忘却の司書」と名乗った。その姿は半透明で、まるで古い原稿用紙のように黄ばんでいた。
「物語は、作者の意図など必要ない。言葉には本来あるべき姿があるのだ。我々はただ、それを解放しているに過ぎない」
忘却の司書の周りでは、文字が不気味な渦を巻いていた。それは意味を失った言葉の断片——暴走する「言葉のイデア」だった。
時折、その渦から物語の断片が飛び出す。愛の詩が憎しみの言葉に、希望の物語が絶望の結末に、すべてが歪んでいく。
「これが文芸部の原稿が書き換わっていた原因?」真は状況を理解し始めていた。
「ええ」アレーテが頷く。「彼は言葉のイデアを強制的に顕現させようとしている。でも、それは言葉の本質を歪めることになるのです」
「そうか......だからこそ、物語が本来の姿を失っていたんだ」
真は思い出していた。文芸部の原稿が変化していたのは、単なる内容の書き換えではない。それは言葉そのものが、その本質を強制的に表そうとした結果だったのだ。
「全ての言葉を、その本質へと還そう」忘却の司書が両腕を広げる。「人間の感情や意図など、言葉の純粋さを汚すだけだ!」
司書の宣言と共に、図書館全体が大きく揺らぎ始めた。本棚から次々と本が飛び出し、その言葉たちが渦を巻いて暴走を始める。
「これは......まずい!」
村松の警告の声が響く中、一行は次々と襲いかかる言葉の群れを避けていた。しかしその数は増える一方で、じきに逃げ場を失いそうになる。
「気をつけて!」
「でも、それは違う」
アレーテが一歩前に出る。
「言葉は、確かにイデアとしての本質を持っています。でも、それは固定された絶対的なものではない。言葉は、人々の心の中で生まれ、育ち、変化していくもの。その自由な創造性こそが、言葉の本当の姿なのです」
アレーテの声には、普段には見られない感情の揺らぎがあった。真は、彼女の言葉の持つ重みを感じていた。イデア界の住人である彼女は、言葉の本質について誰よりも深く理解しているのかもしれない。
「ナンセンスだ」
忘却の司書が腕を振り上げる。周囲の本棚から、文字の群れが蝗のように襲いかかってきた。それは意味を失った言葉の断片——暴走する「言葉のイデア」だった。
「気をつけて!」
村松が叫ぶ。彼は懐から一冊の手帳を取り出し、すばやく何かを書き記す。するとその文字が光となって放たれ、襲いかかってきた文字の群れを打ち払った。
「イデア界での言葉の力を、少しは研究させてもらったからね」
村松の表情には、珍しい高揚感が浮かんでいた。
真も負けじと、自分なりの反撃を開始する。図書館で読んだ哲学書の言葉を、大きな声で読み上げ始めたのだ。プラトンの『クラテュロス』——言葉の本質について論じた対話篇の一節。その言葉が、まるで盾のように一行を守る。
「言葉は、人と人を繋ぐ橋なんだ!」
真の言葉に呼応するように、アレーテの体が淡い光を放ち始めた。
「イデア界の理(ことわり)として、宣言します」
アレーテの声が、図書館の隅々まで響き渡る。彼女の体から放たれる光は、今までにない輝きを帯びていた。銀髪が風にたなびき、紫色の瞳には強い意志が宿っている。
「言葉は、決して固定された概念ではありません。それは人々の思いと共に在り、常に新しい意味を生み出していく——それこそが、言葉の本質なのです!」
その宣言と同時に、不思議な現象が起きた。図書館の本棚から、一冊、また一冊と本が浮かび上がる。それらは光となって空中に浮かび、物語の一節を紡ぎ始めた。
それは人々の心が生み出した言葉たち——。
愛を語る詩、勇気を描く物語、希望を歌う言葉。親から子へ、友から友へ、想いを伝えるために紡がれてきた無数の言葉たち。それらが光の糸となって空間を彩っていく。
「なんという......これが言葉の真の姿?」真は息を呑んだ。
村松も手帳を止め、その光景に見入っている。「美しい......」
その光は、忘却の司書が操る暴走した言葉たちを、優しく包み込んでいった。強制的に引き出された「言葉のイデア」は、本来の輝きを取り戻していく。
「そんな......バカな......!」
忘却の司書の姿が揺らぎ始めた。その体から漆黒のローブがはがれ落ち、中から一人の老司書の姿が現れる。彼の目には、深い悲しみが宿っていた。
「私は......ただ......言葉の純粋さを守りたかっただけなのに......」
真は一歩前に進み出た。「言葉は、人の心と共にあってこそ輝くんです。純粋さを守るのと、本質を失うことは、違うんじゃないでしょうか」
老司書の体が、光の粒子となって消えていく。最期の瞬間、彼の表情には穏やかな微笑みが浮かんでいた。
嵐のような戦いが終わり、図書館は静寂を取り戻した。本棚には再び秩序が戻り、物語たちは本来の輝きを放っている。
「アレーテ......」
声をかけようとした真の前で、彼女が小さくよろめいた。イデア界の理として宣言を行使したことで、大きな力を消耗したようだ。真は咄嗟に駆け寄り、彼女を支えた。
「大丈夫、心配いりません」
そう言いながらも、アレーテは珍しく頬を赤らめていた。普段は感情表現の少ない彼女が、こんな表情を見せるのは初めてかもしれない。真が支えようと差し出した手を、彼女は少し照れたように受け入れる。
「でも、アレーテの言葉には、強い力があったね」真は静かに語りかけた。「言葉の本質について、誰よりも深く理解していたんだ」
アレーテは小さく首を振る。「私にも、やっと分かった気がします。言葉は......人の心があってこそ、命を持つのですね」
「言葉って......不思議なものですね」
アレーテの囁くような言葉に、真は静かに頷いた。二人の間に流れる沈黙は、むしろ心地よいものだった。その瞬間、二人の心は言葉以上の何かで通じ合っているような気がした。
文芸部室に戻ると、瀬川の原稿は元通りの状態で机の上に置かれていた。しかし、その物語は微妙に——しかし確かに、以前より生き生きとした表現に満ちているように見えた。
「本当の言葉は、人の心の中にあるんだ」
真がそうつぶやくと、アレーテは静かに微笑んだ。
後日、文芸部誌『詩野』の新号が発行された。装丁は深い藍色で、表紙には銀色の活字で『言葉は、私たちの心が紡ぐ虹の架け橋』という言葉が刻まれていた。
瀬川の新作は、これまでにない深みを持っていた。登場人物たちの感情が生き生きと描かれ、言葉の一つ一つに魂が宿っているかのようだ。他の部員たちの作品も同様で、それぞれの個性が見事に表現されていた。
「不思議なことがあったのよ」と瀬川は言う。「あの夜以来、言葉がすんなりと流れ出てくるの。まるで、物語が自分で自分を語りたがっているみたい」
部室に集まった部員たちは、互いの作品を読み合い、感想を語り合っていた。そこには以前のような不安や焦りはない。むしろ、言葉を紡ぐ喜びに満ちた表情が浮かんでいる。
「私たちの言葉が、誰かの心に届きますように」
瀬川のその言葉は、まるで祈りのように静かに響いた。
図書室で『詩野』を手に取った真は、その変化を確かに感じていた。ページを繰るたびに、様々な物語が心に染み込んでくる。それは単なる文章ではない。確かな魂を持った言葉たちだった。
「皆さん、いい顔をしていましたね」とアレーテが言う。「言葉の本当の力を、理解し始めたのかもしれません」
「ああ」真は頷いた。「言葉は、心と心をつなぐ架け橋なんだ。イデアとしての純粋さも大切だけど、それは人の想いがあってこそ意味を持つ」
二人は夕暮れの図書室で、新しい文芸誌を一緒に読み続けた。窓から差し込む夕陽が、ページの上で優しく煌めいている。
その光は、まるでイデア界の図書館で見た、物語たちの輝きのようでもあった——。
(了)
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