第2話 美のイデア殺人事件



それは、美術部の展示会前日に起きた。


「城之内くん、大変なの!」

美術部の織田明日香が、放課後の教室に駆け込んできた。

汗を浮かべた表情は、明らかな動揺を示していた。


「落ち着いて」

私——城之内真は、彼女を椅子に座らせた。

「何があった?」


「部長の絵が......消えたの」


「消えた?」

隣の席で宿題をしていた佐倉葵が顔を上げた。


「そう。文字通り、消えてしまったの」

織田は震える手で制服のスカートを握りしめた。

「キャンバスはそのまま。でも、描かれていた絵だけが、跡形もなく」


私と佐倉は顔を見合わせた。

先日の図書館での出来事以来、私たちはイデア界の存在を知っている。そして、この現象も――。


「案内してもらえるか」

私は静かに言った。


美術室に着くと、確かに異様な光景が広がっていた。

イーゼルの上に置かれた縦90センチ、横120センチほどの大きなキャンバス。

そこには何も描かれていない。

しかし――。


「これ」

佐倉が近づいて観察している。

「絵の具の痕跡すらないわ。まるで、新品のキャンバスみたい」


「ええ」

織田が頷く。

「でも、確かにここには美しい風景画が描かれていたの。部長の集大成というべき作品で、明日の展示会のメイン作品だったのに......」


私はキャンバスの周りを慎重に調べた。

床に落ちた絵の具や、拭き取った跡も見当たらない。

まさに、絵が「消失」したとしか言いようがない状況だ。


「部長は?」

私は織田に尋ねた。


「あの......部長は」

織田は言葉を詰まらせる。

「昨夜から連絡が取れないの」


その時、廊下から足音が聞こえた。

振り向くと、そこには見覚えのある銀髪の少女が立っていた。


「アレーテ」

私は思わず呟いた。


「事態は、予想以上に深刻ですね」

アレーテは静かに美術室に入ってきた。

「美のイデアが、乱れている」


「美のイデア?」

佐倉が首を傾げる。


「プラトンの言う、永遠の美そのもの」

私は説明した。

「個々の美しいものの源となる、究極の美の形相......か」


アレーテは頷いた。

「この絵にはある種の『美』が宿っていた。そして、その美が何者かによって奪われた」


「どういうこと?」

織田が混乱した様子で尋ねる。


その時、廊下から悲鳴が聞こえた。


教室を飛び出すと、別の美術部員が青ざめた顔で立っていた。

「倉庫......倉庫に......」


私たちは急いで美術倉庫へ向かった。

扉を開けると――。


「部長!」


倉庫の床に、美術部長の遺体が横たわっていた。

その傍らには、空っぽのキャンバス。

そして壁には、赤い絵の具で大きく一文字。


「美」



警察の現場検証が終わったのは、日が暮れてからだった。

その間、私たちは美術部のメンバーから話を聞いていた。


「部長は、最近様子が変だったの」

副部長の中野さやかが震える声で語る。

「例の絵を描き始めてから、まるで......憑かれたように」


「憑かれたように?」

佐倉が食い入るように尋ねた。


「ええ。朝早くから夜遅くまで制作に没頭して。でも、誰にも絵を見せようとしなかった。織田さんだけが、たまに手伝いを許されていたくらい」


私は織田を見た。彼女は俯いたまま、小さく頷いている。


「それで、最後に見たのは?」

私が尋ねると、中野は目を閉じて記憶を辿った。


「昨日の午後六時頃。部長は『ついに完成した』と言って。でも、その表情が......何だか怖かった」


その時、廊下で警察の会話が聞こえた。


「自殺として処理することになりました」

刑事が美術教師に告げている。

「遺書も見つかったので、間違いありません」


佐倉が警察の会話を小声で伝えてくれた。

その後、彼女はノートを取り出し、美術部員から聞いた情報を整理し始めた。


「ねぇ」

佐倉は不意に顔を上げた。

「部員の証言に矛盾があるわ」


「どういうこと?」

私は彼女のノートを覗き込んだ。


「中野さんは部長を午後六時に見たって言ってるけど、他の部員は午後五時には部長が帰ったって証言してる。しかも、その時には絵はまだ完成してなかったって」


「私、知ってます」

織田が小さな声で言った。

「部長は、本当は夜に戻ってきたんです。私に、手伝いに来てほしいって」


「織田さん?」

中野が驚いた様子で彼女を見つめる。


「でも、私......怖くなって断ってしまって」

織田の声が震えている。

「これが、最後の会話に......」


美術部員たちを帰宅させた後、私たちは放課後の図書準備室に集まった。

アレーテも同席している。


「中野さんと織田さん」

佐倉が言った。

「この二人、部長との関係が複雑そうね」


「ええ」

私は頷いた。

「中野は副部長として部長を支えながらも、どこか距離を置いていた。一方、織田は部長に近づきながら、何か恐れているような様子だった」


「美術部内での評価も、かなり分かれていたみたい」

佐倉がノートを見返している。

「部長の才能は認めていても、その独特な雰囲気に戸惑う部員が多かったって」


「でも、これは自殺じゃない」

私は断言した。

「少なくとも、単純な自殺では説明できない現象が起きている」


「消えた絵のこと?」

織田が小さな声で言った。


「ええ。そして、それ以外にも」

私は机に向かって指を折りながら説明した。


「一つ。遺体発見現場の壁に書かれた『美』の文字は、部長の筆跡ではない。誰かが意図的に似せて書いたものだ」


「どうしてそう分かるの?」

佐倉が食い入るように聞いてきた。


「部長の絵には、特徴的な筆の運びがある。壁の文字には、それが完全に欠けている。むしろ、意図的に避けているように見える」


「二つ目は?」


「倉庫の鍵」

私は続けた。

「美術倉庫の鍵は、通常は職員室で保管されている。にもかかわらず、発見時には倉庫に鍵が刺さったままだった」


「それって......」


「普通、自殺するために倉庫に入る人間が、わざわざ鍵を持ち出すだろうか?しかも、中から鍵をかけることは物理的に不可能だ」


アレーテが静かに頷いた。

「そして、最も重要な点が」


「ええ」

私は彼女の言葉を受けた。

「なぜ、絵が消えたのか。しかも、痕跡を残さずに」


織田が震える声で言った。

「でも、どうして部長が......」


その時、美術室から物音が聞こえた。

私たちは顔を見合わせ、静かに美術室へ向かった。


そこには、一人の男子生徒が立っていた。

「村松......」


哲学部部長の村松諒は、消失した絵のキャンバスを見つめていた。


「やはり、始まってしまったか」

彼は振り向きもせずに言った。


「何が始まったんだ?」

私は警戒しながら尋ねた。


「美のイデアを巡る戦い」

村松はゆっくりとこちらを向いた。

「真君、プラトンの『饗宴』は読んだかな?」


「ディオティマの教え......か」

私は頷いた。


「その通り。美を求めて段階的に上昇していく魂の過程。そして、究極の美との出会い」

村松の目が異様な光を帯びる。

「しかし、それは同時に、この世界の美を否定することにもなる」


「待って」

佐倉が割って入った。

「それと、部長の死が何か関係あるの?」


「部長の描いた絵には、ある種の『美』が宿っていた」

アレーテが静かに説明を始めた。

「しかし、それは現実世界の、不完全な美。その美を、イデア界の完全な美へと......」


「昇華させようとしたのか」

私は状況を理解し始めていた。

「つまり、誰かが部長の絵の『美』を、イデア界へ強制的に引き上げようとした」


村松が薄く笑った。

「さすが真君。だが、まだ核心には至っていない」


「核心?」


その時、美術室の空気が変容し始めた。

窓から差し込む夕陽が、異様な色彩を帯びていく。


「これは......」

佐倉が息を呑む。


「イデア界との境界が揺らいでいる」

アレーテが言った。

「そして、おそらくこれから——」


私たちの目の前で、消失したはずの絵が、幽かな光を放ちながら浮かび上がり始めた。


それは、紛れもなく部長の最後の作品。

しかし、何かが違う。


色彩が、形が、そして何より「美」そのものが、現実離れした輝きを放っている。


「これが、イデア界の『美』......」

村松が恍惚とした表情で呟いた。


「これは罠だ」

私は即座に状況を理解した。

「村松、君は最初から知っていたんだろう?」


「さすがだ」

村松は穏やかな笑みを浮かべたまま、ゆっくりとキャンバスに近づいていく。

「この絵には、イデア界の『美』が封印されている。部長は、それを知ってしまった」


「だから、部長は——」

織田が震える声を上げた。


「違う」

私は断固として否定した。

「部長は、『美』を守ろうとしたんだ」


イデア界からの光が強まり、私たちの周囲の現実が歪み始める。

まるで、絵の中に吸い込まれていくような感覚。


「アレーテ!」

私は彼女に呼びかけた。

「イデア界での捜査が必要だ」


アレーテは頷き、右手を掲げた。

「準備はいい?」


私と佐倉が頷くと同時に、現実世界が霧のように溶け始めた。



イデア界の美術室は、現実とは異なる様相を呈していた。


無数の絵画が宙に浮かび、それぞれが微かな光を放っている。

それらは現実世界の美術作品の「原型」——イデアそのものだ。


「これが、美のイデアが具現化された場所」

アレーテが説明する。

「全ての美しい絵画は、ここにある原型の影なのです」


「でも、どうして部長の絵が......」

佐倉が周囲を見回しながら言った。


その時、私は気づいた。

宙に浮かぶ絵画の中に、一枚だけ異質な作品がある。

それは——。


「部長の絵だ」

私は指差した。

「でも、現実世界とは違う。より......」


「純粋な『美』を帯びている」

アレーテが言葉を継いだ。

「誰かが、この絵の中に現実世界の『美』を封じ込めようとしました」


「待って」

佐倉が突然立ち止まった。

「この絵の構図、どこかで」


私も気づいた。

部長の絵は、まるで——。


「プラトンの『国家』か」

私は呟いた。

「洞窟の比喩を、絵画で表現している」


壁に向かって座る人々。

その背後の光。

そして、壁に映る影。


「部長は、プラトンの思想を研究していたの?」

佐倉が不思議そうに尋ねる。


「いいえ」

アレーテが答えた。

「部長は、知らずにこれを描いた。これこそが、『美のイデア』が彼女に与えた啓示だったのです」


「そして、それが彼女の死につながった」

私は状況を整理し始めた。

「部長は、自分の描いた絵に、イデア界の『美』が宿っていることに気づいた。そして——」


「守ろうとした」

佐倉が続けた。

「でも、誰から?」


突然、空間が揺らめいた。

そして、見覚えのある声が響く。


「イデア界の『美』は、現実世界に存在してはならない」


振り向くと、そこには村松が立っていた。

しかし、その姿は現実世界とは異なっていた。

まるで、光で作られたような透明感のある存在。


「君は、イデア界の住人だったのか」

私は警戒しながら問いかけた。


「半分は正解」

村松——いや、村松の姿をした存在が答える。

「私は、『美のイデア』の守護者。現実世界に流出した『美』を、元の場所に戻す役目を担っている」


「だから、部長の絵を」


「そう。彼女の才能は、偶然にもイデア界の『美』に触れてしまった。このまま放置すれば、現実世界とイデア界の境界が——」


「待って」

私は村松の言葉を遮った。

「それは、詭弁だ」


「何?」


「プラトンの言う『美のイデア』は、確かに永遠の美の形相かもしれない。でも、それは現実世界の美を否定するものではない」

私は一歩前に踏み出した。

「むしろ、現実の美は、イデアの『分有』によって成り立っている。部長の絵もまた、イデアの美を現実に表現しようとした証なんだ」


村松の姿が揺らめく。


「そして」

アレーテが私の言葉を継いだ。

「それこそが、イデア界と現実世界の正しい関係。守護者である貴方こそ、その本質を見失っているのでは?」


空間が大きく波打ち始めた。

村松の姿が、光の粒子となって拡散していく。


「私が......間違っていたのか」

その声が、空間に溶けていった。


徐々に、イデア界の景色が薄れていく。

私たちは現実世界へと戻されようとしていた。


「最後に一つ」

私はアレーテに問いかけた。

「部長は、本当に死んでしまったの?」


アレーテは微笑んだ。

「イデア界の『美』に触れた彼女の魂は、この世界に留まっています。きっと、新たな形で——」


現実世界に戻ると、美術室には夕陽だけが差し込んでいた。

キャンバスには、美しい風景画が描かれている。

しかし、それは消失する前とは少し異なる風景。

より純粋で、深い「美」を湛えた景色だった。


「ねぇ」

佐倉が窓際に立ち、夕焼けを見つめている。

「美って、イデア界にだけあるんじゃないのよね」


「ああ」

私も窓に近づいた。

「現実とイデアは、互いを照らし合って、初めて真の『美』になる」


アレーテも、静かに頷いていた。


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