「プラトンの密室」 ―放課後の哲学探偵―
ソコニ
第1話 イデアの扉
「これは、図書館で起きている不可思議な現象について調査してほしいという依頼状です」
放課後の図書準備室。陽が傾きかけた窓際で、村松諒は一枚の紙を私に差し出した。哲学部部長である彼は、いつもの冷静さを湛えた表情で、しかし何か異質なものを秘めた眼差しで私を見つめていた。
私——城之内真は、その依頼状を手に取った。
整然とした文字で記された内容は、一見すると単純なものだった。だが、その言葉の裏に潜む謎は、私たちを想像もしなかった世界へと導くことになる。
「図書館の本が、夜になると勝手に移動する——か」
私は依頼状に目を通しながら、図書準備室の古めかしい木の机に腰掛けた。四月の柔らかな陽が差し込む室内で、埃っぽい空気が光の帯の中でゆっくりと舞っている。
「待って、その依頼状!」
突然、声が響いた。
勢いよくドアを開けて入ってきたのは、佐倉葵だった。哲学部副部長である彼女は、私のクラスメイトでもある。
「葵、聞いていたのか?」
村松が眉をひそめる。
「図書委員会の友達から聞いたわ」
佐倉は息を整えながら私たちに近づいてきた。
「本当に本が動くの?それとも誰かのイタズラ?」
「ありえない話だと思うだろう」
村松は静かに言った。
「だが、これは事実だ。私も実際に確認した」
「具体的に、どんな移動?」
私は佐倉の問いを引き継いだ。
「決まったパターンがあるんだ」
村松は机に寄りかかりながら説明を続けた。
「哲学書、特にプラトンの著作が、夜間に元の配架場所から別の場所に移動している。そして必ず、一冊だけが開かれた状態で残される」
私は眉をひそめた。確かにこの現象は不可思議だ。しかし、何か引っかかる点がある。
「なぜ、図書委員会で調査しないんだ?」
村松は僅かに表情を曇らせた。
「実は、この現象を報告したのは私なんだ。だが、図書委員会は防犯カメラの映像を確認しただけで、人為的なイタズラではないと結論づけた。そして、現象自体を無視することにした」
「防犯カメラには何も映っていなかった?」
「ああ。本が動いている瞬間は映っていない。まるで、映像が編集されたかのようにね」
「それって、変じゃない?」
佐倉が首を傾げる。
「防犯カメラの映像が編集されているなら、それこそ人為的な——」
「編集の痕跡もない」
村松が遮った。
「映像は連続しているように見える。ただ、本が移動する瞬間だけが、まるで存在しないかのように」
私は依頼状を机に置き、じっくりと考え込んだ。
移動するのはプラトンの著作だけ。
一冊が開かれた状態で残される。
防犯カメラには映らない。
「図書館の貸出記録は確認したか?」
「ああ」
村松が一冊のノートを取り出した。
「過去一ヶ月分の記録だ。特に異常は見られない」
私はノートに目を通した。確かに、通常の貸出パターンに見える。しかし——。
「これ、おかしいわ」
佐倉が私の肩越しにノートを覗き込んでいた。
「哲学書の貸出、全部違う人なのに、返却日が同じ日に集中してる」
鋭い。私も気づいていた点だ。
四月一日。新学期開始日に、十冊以上のプラトンの著作が一斉に返却されている。
「これ、全部チェックしてみましょう」
佐倉は自分のノートを取り出し、貸出記録を丁寧に書き写し始めた。
「ちょっと待って」
彼女は突然、ペンを止めた。
「この貸出日、変よ。全部が全部、休日か放課後なの」
私はノートを覗き込んだ。確かに、貸出時刻は全て16時以降か、土日祝日に集中している。図書館が最も空いている時間帯だ。
「しかも、全部10分刻みで」
佐倉が続けた。
「16時10分、16時20分、16時30分......まるで、誰かが計画的に」
「借りた人物は?」
私は貸出カードの名前を確認した。
「全員、3年生ね」
佐倉が首を傾げる。
「でも、知らない名前ばかり。村松、これって......」
村松は黙って窓の外を見つめた。その横顔に、夕陽が赤い影を落としている。
「3年生」
私は思考を整理した。
「昨年度の卒業生というわけか」
つまり、この貸出記録を現在確認することは——。
「村松、生徒名簿を見せてもらえるか」
「図書委員長としては、それは」
彼は言葉を濁した。
「個人情報は伏せてもいい。ただ、この名前が実在したかどうかだけでも」
村松は長い沈黙の後、ゆっくりと首を横に振った。
「実在しない名前だ。全て」
「やっぱり」
佐倉が息を呑む。
「村松、君は図書委員長として、この不自然さに気づいていたはずだ」
村松は黙って窓の外を見つめた。図書館の赤レンガの建物が、夕陽に照らされて深い影を落としている。
「私にも、まだ分からないことが多すぎる」
彼は静かに言った。
「だからこそ、真君の力が必要なんだ」
「調査を引き受けるよ。ただし、一つ条件がある」
「なんだ?」
「今夜、図書館に潜入させてほしい」
村松は少し考え込んだ後、頷いた。
「図書委員長として、特別に許可を出そう」
「私も行く!」
佐倉が即座に声を上げた。
「危険かもしれない」
私は彼女を見つめた。
「だからこそ」
佐倉は真剣な眼差しを返してきた。
「あなた一人にはさせない。それに——」
彼女は一瞬、村松の方をちらりと見た。
「何か、引っかかることがあるの」
私にも分かる。村松の態度には、どこか不自然なものがある。
依頼する理由。
図書委員長としての対応。
そして、その表情に浮かぶ影。
「分かった。一緒に行こう」
その夜、私たちは図書館の暗がりの中で、予想もしなかった出会いを果たすことになる。
*
夜の図書館は、昼間とは全く異なる表情を見せていた。
月明かりが高窓から差し込み、書架の影が床に長く伸びている。私と佐倉は懐中電灯の明かりを頼りに、哲学書コーナーへと足を進めた。
時刻は午後9時。村松の話では、本の移動は通常この時間帯から始まるという。
私たちは、まず図書館の見取り図を確認した。
建物は東西に長い長方形で、中央に吹き抜けのある開放的な空間が広がっている。その周囲を本棚が取り囲み、二階には回廊式の閲覧スペースがある。
「哲学書コーナーは、東側の一番奥」
私は懐中電灯で地図を照らしながら説明した。
「朝日が差し込む位置にある。村松の言葉を思い出すと......」
「光の関係か」
佐倉が呟いた。
「でも、夜に本が動くのに、朝日と何の関係が?」
私たちは静かに歩を進めた。月明かりが、高窓から差し込んでいる。
吹き抜けの空間に入ると、その光は幻想的な影を床に描き出していた。
「ねぇ」
佐倉が突然、立ち止まった。
「この影、変じゃない?」
私も気づいた。床に落ちる本棚の影が、実際の本棚の位置とずれている。
まるで......。
「少しずつ、動いてる」
佐倉の声が震えていた。
確かに、月の光が作る影は、ゆっくりとだが確実に移動している。それは月の運行による自然な移動とは明らかに異なる動きだった。
「これが、村松の言っていた現象の始まり?」
私は懐中電灯の明かりを消し、その影の動きを観察した。
私たちは書架に配架されたプラトンの著作群を確認した。『国家』『パイドン』『饗宴』——どれも背表紙の文字が月明かりに照らされ、静かに並んでいる。
「ねぇ」
佐倉が本を一冊ずつ確認しながら呟いた。
「これって、プラトンの著作の並び順も変じゃない?」
私は彼女の指摘した本を見た。確かに、通常のプラトンの著作の分類とは異なる順序で並んでいる。
『パイドロス』『パイドン』『ソフィスト』『クラチュロス』——。
「あることに気付いたんだけど」
佐倉は本を抜き出しながら説明を続けた。
「これらの対話篇、全部イデアについて議論してるものばかりよ」
私は彼女の言葉に瞬時に反応した。
そうか。これが一つの鍵なのかもしれない。プラトンの対話篇の中でも、特にイデア論に関連する著作だけが、この書架に集められている。
「でも、ちょっと待って」
私は一冊の本を手に取った。
「この『饗宴』は、直接イデア論を扱った対話篇じゃない。むしろ、愛について——」
「エロースについての対話篇ね」
佐倉が補足する。
「でも、美のイデアへの上昇について語られているから、広い意味ではイデア論に関連してると言えるわ」
私は感心して佐倉を見た。哲学部での彼女の知識が、今確実に活きている。
「他にも気になる点がある」
私は懐中電灯で本の背表紙を照らしながら説明した。
「まずは、現状を記録しておこう」
私はスマートフォンを取り出し、本の配置を撮影し始めた。
「真、これ見て」
佐倉が一冊の本を手に取っていた。
『ソクラテスの弁明』だ。
「この本、背表紙の角度が他と違う」
彼女は本を棚に戻しながら説明した。
「他の本は少し前傾してるのに、これだけが完全に垂直」
鋭い観察眼だ。私は改めてその本を確認する。
確かに、微妙な角度の違いがある。そして——。
「埃の付き方も違う」
私は懐中電灯で背表紙を照らした。
「他の本は埃が均一に付いているが、この本だけは……」
その時だった。
「その観察眼、なかなかですね」
突然声がして、私たちは驚いて振り向いた。そこには、見たことのない少女が立っていた。
銀色の髪が月明かりに輝き、紫色の瞳が幻想的な光を湛えている。制服のような装いながら、どこか異質な雰囲気を漂わせていた。
「あなたは……」
佐倉が身構えるように私の前に立った。
「私の名前は、アレーテ」
少女は淡々とした口調で告げた。
「真理を求める者たち。あなたたちなら、私からの招待を受け入れてもらえるかもしれない」
突如として、図書館内の空気が変容した。本棚の影が揺らめき、現実が歪むような感覚が私たちを包み込む。
「これは……」
佐倉が私の腕を掴んだ。
「イデア界への入り口です」
アレーテは右手を軽く掲げた。
彼女の手の動きに呼応するように、書架の影が徐々に濃くなっていく。それは単なる闇ではない。まるで、深い青の霧のような物質が、空間そのものから湧き出しているかのようだ。
「これが、プラトンの言う洞窟の比喩——」
私は思わず呟いた。
「その通りです」
アレーテの声が、どこか共鳴するように響く。
「私たちが普段目にしている世界は、イデア界の影に過ぎない。そして今、その影と本体の境界が揺らいでいる」
青い霧は、次第に私たちの周囲を取り巻いていった。図書館の現実の光景が、まるでベールの向こう側に退いていくような感覚。
「本の移動は、この境界の揺らぎによって起きている現象です」
アレーテが続けた。
「そして、あなたたちには、その真相を見極める力があると、私は判断しました」
「でも、どうして私たちが?」
佐倉が震える声で問いかけた。
アレーテは静かに微笑んだ。
「それは、あなたたちがすでに証明しています。本の配置、貸出記録、そして何より——」
彼女は一瞬止めて、私たちを見つめた。
「真理を追い求める、その純粋な意志です」
私たちの目の前で、現実が溶けていくような光景が広がっていく。書架の影が実体を持ち始め、別の世界への入り口のように見えた。
「待って」
私は混乱する思考を必死に整理しながら問いかけた。
「イデア界って、プラトンの言う……」
「ええ、その通り。永遠の真理が宿る世界」
アレーテの表情が僅かに曇る。
「そして今、その世界で起きている異変が、現実世界に影響を及ぼし始めているのです」
「村松は、知っていたの?」
佐倉が問いかけた。
「この世界のことを」
アレーテは僅かな間を置いて答えた。
「村松諒——彼の役割については、あなたたち自身の目で確かめることになるでしょう」
私は佐倉を見つめた。彼女も頷き返す。
二人とも、同じ決意を抱いていた。
「分かった。招待を受けよう」
私は答えた。
「ただし、条件がある」
アレーテが僅かに首を傾げる。
「全ての謎を、論理的に解き明かす。イデア界であっても、真実は必ず手掛かりを残しているはずだ。その痕跡を追って、私たちは真相に辿り着く」
アレーテの瞳が、月明かりの中で不思議な輝きを放った。
「理性と論理で真実を追求する——まさに、あなたたちに期待していた答えです」
その言葉を境に、私たちの周囲の現実が大きく歪み始めた。図書館の床が波打ち、壁が溶け出していく。
私は佐倉の手を握り、強く頷いた。
そして私たちは、イデア界という未知の領域へと足を踏み入れることになった。
影の図書館で、真相への長い探求が始まろうとしていた。
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