失踪
中田和樹は、カフェの外に置かれたテーブルでラテを啜っていた。会社には風邪をひいたと嘘をついて休んだ。正直、会社には行きたくなかった。出社しても部長の小言が、待っているだけだ。このまま、自室にも戻りたくなかった。何もする気が起きない。
ふと、昨夜の京子の言葉が脳裏に過った。
そうだ。山村のバーにでも行ってみよう。結局六時過ぎまでコーヒー四杯とタバコ二箱で、時間を潰した。十九時になるのを待って和樹は、開店したてのレゾンデートルに滑り込んだ。
龍一は、接客業の洗練された笑顔で迎えた。
和樹はまず、ビールで喉を潤すと話し相手に飢えた子どものように話しかけた。
「前に、マスター言ってたよね?前世の話。僕も見たじゃない。催眠術であれって不思議だよね。でも、あれから何かおかしいんだ。夢で同じピラミッドみたいなの見るし。鳥の羽みたいなものをいっぱいつけた男が
和樹は興奮して喋ったためか、ビールを一気に干した後、人差し指を立て要求した。
ずいぶんリアルな夢ですねと龍一は、落ち着き払って答える。そして、新しいビアグラスを差し出した。
「それと不思議なのが左腰の痣なんだけど、夢で同じ場所を黒い石のナイフで刺されるんだよ。やられるのはたぶん、俺だと思うんだけど。一体なんだろうね?」
「バースマーク(母斑)かもしれませんね、過去世の傷が原因の。」
龍一は、複雑な表情を浮かべた。
バースマークか、和樹は呟きながら、ビールを一口流し込む。
三人組の中年の男たちが、慌ただしく店に入ってきた。龍一は男たちの前に移動し、礼儀正しい笑顔浮かべ、応対した。男たちは、店にそぐわない大声で、高いスコッチの銘柄を3種類、それぞれ注文した。龍一は手際良く、丁寧に三つのオードファッションドグラスにスコッチのロックを作っていく。
和樹は、空のグラスを振るとグリーンリベットの12年をハーフロックで注文した。
「こないだ本で読んだんだけど、古代マヤでは生贄の遺体は、セノーテと言う泉に投げ込まれていたらしいんだ。その泉は、地下でつながった大きな湖なんだ。そして、それは大昔に落下してきた巨大な隕石でできたクレーターの跡みたいなんだ。」
「一度、チチェン・イツアーのピラミッドを見てみたいな。たぶん、壮大な眺めなんだろうね。生贄の儀式とかも行われたんだろうなぁ。」
龍一は愛想笑いを浮かべ、水割りのグラスを差し出した。
男達は、株価の低迷と原料高の愚痴を零しては、グラスを煽っていた。
「オレね、あれから調べたんだ。チャックモールと言う雨を司る神がいて、その神に生贄を捧げる
らしいんだ。雨が降らないととうもろこしとかの穀物が取れずに凶作になる。そうならないように生贄が必要になるんだ。それを刃渡り三十センチ位の黒曜石でできた石のナイフで心臓をえぐり出すんだ。そのナイフが石を打ちつけ、割って作るからデコボコなんだ。あんな粗末な刃物で、殺されたらたまんないよね。実はさぁ、このペンダント、その生贄の儀式で使われたナイフから作ったモノなんだ。多くの人の命を奪った呪われた石ってこと。」
本当ですか?隆一は怪訝な表情を浮かべた。
「たぶん、偽物だろうね。」
同じヤツをと和樹は、口元を綻ばせながら、空のグラスを振った。
スーツを着た二十代後半と思われるカップルが店に入ってきた。女は酔っているのか、やけにはしゃいでいる。
「フルーツが入ったおいしいカクテルをください!」
龍一は丁寧に対応しながら、イチゴを切っている。シャンパンをグラスに注ぎ、イチゴを入れると差し出した。ジュリアロバーツになった気分だね、と女は上機嫌だ。
龍一は、和樹の前にウイスキーを静かに置いた。和樹は再び古代マヤの話を持ち出したが、ビールの泡を作るために超音波サーバーの前に移動した。龍一は申し訳なさそうな一瞥をくれただけで、カップルのほうに戻って去った。
和樹は言いかけた言葉とともに、作りたてのウイスキーのハーフ・ロックを流し込む。その後、店には立て続けに数人の客が訪れ、龍一に古代マヤの話を聞いてもらう機会を失った。数時間後、和樹はかなり酔っていた。駅の階段を覚束ない足取りで降りると、ホームで自宅への電車を待っていた。京子に何度か、電話しようと携帯電話を手にしたが発信ボタン押せなかった。
世界中でたった一人になった気分だった。このままどこかへ遠くへ行きたかった。ホームに滑り込んできた鉄の箱に電車待ちの集団と一緒に呑まれた。
数日後、河野京子、は久しぶりに会社の同僚三名と青山のイタリアンレストランで夕食を摂っていた。九階建てのビルの最上階にある店だ。有名な恋愛テレビドラマでヒロインが合コンするシーンに使われたらしい。プールに近い窓際のテーブルが用意されていた。やたらにカップルの姿が目立つ。二年後輩のチエミがパルマ産の生ハムを頬張りながら、無邪気に訊いた。
「最近、カレシ、ナカタさんでしたっけ?どうしてるんですか?うまくいってるんですか?」
他の二人の好奇の目線が遠慮がちに、京子へ注がれた。
「あまり、順調とは言えないわね。」
フォアグラのソテーを口に運びながら、溜息混じりに答えた。イタリア製のワインを、一気に喉に流し込む。
同僚の一人が気を使い、話題を変えた。
「最近、十年ぐらい会ってない叔母さんが死ぬ夢を二晩、続けて見ちゃって。気味悪いよね?」
「それって
酔いも手伝ってか、チエミは意地悪な表情を浮かべる。
「そうかな、今日叔母さんに電話してみようかな?」
後輩のチエミはそうですよ、頷いた後、恥ずかしそうに切り出した。
「ワタシなんかこの間、元カレが夢に出てきちゃってエッチしちゃった。いつもより何倍もすごくて気持ちよかった。これって欲求不満ですか?」
京子は、お化粧室に立つとメイクを直した。化粧は念入りにする方ではない。就寝前のクレンジングも簡単に済ませてしまう。よく女友達から三十過ぎたら後悔するよ、と脅かされる。ワインを飲み過ぎたのか顔が赤い。携帯電話のメールを確認したが、和樹からの受信はなかった。高校時代の同級生からの食事の誘いと先週仕方なくアドレスを教えたオタクの同僚からの二件だけだった。京子は電車の座席に座り、携帯電話から和樹へのメールを打っていた。十時過ぎた電車は、スーツ姿の酔っ払いで溢れていた。何度か、酒臭い息で話しかけられたが、携帯メールに熱中するフリをして無視した。彼女は、メールであまり絵文字を使わない。面倒臭いのと絵文字の使い方がよく解らないから。今どき、オヤジでも絵文字くらい、使うよと友達に
シャワーを浴びた後、メールをチェックしたが、和樹からの返信はなかった。
京子は週末、朝から和樹のマンションを訪ねた。インターホンを数回鳴らしたが、出ない。合鍵で玄関のオートロックを開け、部屋に上がった。和樹の姿はなかった。スーツは、ここ数日使用された形跡がなく、壁に吊るされたままになっていた。食器などもきちんと片付いており、シンクも白く乾いていた。和樹の携帯電話に連絡したが、センターの女性の声が伝言のアナウンスを伝えるだけだった。コレクションボードには、ハンティングナイフがなかった。なぜナイフがないんだろう?単純な疑問が頭を
京子は、山村龍一のバーにいた。まだ店を開けたばかりで、沈まり返っていた。
「全然、和樹さんがいなくなった手がかりが、ないんです。」
旅行じゃないかなぁと無難な言葉が、龍一の口を突いて出た。
気まずい沈黙が、店の中に流れる。
「他に変わった事はありませんでしたか?」
龍一は、気まずい雰囲気を打ち消すように口を開いた。
「最近は、前世の記憶の話ばかりして、正直気味が悪かったんです。」
京子は、何かに
前世か、龍一は、困った表情を浮かべた。
「そう言えば、山村さん前に来た時に、切り裂きジャックの話をされてましたね。ジョニー・デップが主役のそう、『フロム・ヘル』と言う映画が面白かったとか。ある画家が、実はジャックじゃないかと言うノンフィクションの本の発想が斬新だったとか…。その時は、店が忙しかったんで、あまりお相手できなかったんですよ。私も他のお客様とも話してもしたし、細かい所までは、はっきり憶えてないんです。」
「具体的に、旅行先の話題とか出ませんでしたか?」
さぁ、そんな話が出た憶えは…、隆一は氷を削りながら答えた。
「いや、待てよ。中田さんそう言えば、こないだ古代マヤの話をしていたなぁ。チチェン・イツァーに行きたいとか、ピラミッドやチャックモールとか言う雨の神の石像見たいとか、なんか熱っぽく語ってましたね。ずいぶん、詳しいですねと感心したんですが。」
「カレ、そう言えば最近、よく絵を描いてました。今まで絵なんか、ほとんど描いた事はなかったのに」
京子は、記憶の糸を手繰り寄せるように宙を見上げている。
絵ですか、と龍一は、少し驚いた表情を浮かべる。
「急に絵を描くようになられたんですね。中田さんのとは、ちょっと違うと思うんですが突然、前世の関わりから絵を描き出した点では似ているかもしれないなぁ。何年か前に来たお客さんの話なんですが、彼女三十半ばの画家なんですけどね。実は、美大に入ったのって、二十代後半なんですよ。こういう事は、世間的には珍しいけど、偶にある話だと思うけどなぁ。彼女自身、大学は文学部か何かに入って、そんなに海外に興味がなかったみたいですけど。ただ、エルグレコの絵はなんとなく好きだって言ってました。そのまま卒業して都市銀行に就職したらしいんですけど、突然二十五歳の時に美大を受験したくなったみたいなんです。強いて挙げれば、スペインに旅行したのが契機だったのかなあ、と本人は自分なりに推測してましたけど。それから、たいした受験勉強もせずに美大に受かって今は、画家になったと言うわけなんですが。それで彼女は私の退行催眠の噂を聞いて店に来たんです。前世退行の催眠では、彼女は中世のスペインにいるらしいんです。教会に毎日エル・グレコが描いた、なんとか伯爵の埋葬という絵を見に行ってるらしいんですよ。十歳くらいの少年で、その絵が好きで、そんなふうに絵を自分で描いてみたい。でも、家は何か別の商売をしていて、少年は当然、その家業を継がなきゃいけない。封建制度時代、家長の権限が絶対的で、逆らうことなんて、とんでもない。絵が描きたくて絵の具を買って欲しいんだけど、厳しい父親にとても言い出せないらしいんですね。その頃って、今みたいに自由に職業が選べる時代じゃないでしょう?生まれた家の仕事に当然の如く、就くのが当たり前じゃないですか。絵を描きたくて仕方ないけど、彼にはただ毎日、その絵を見に通ってくるしかない。その時彼女は、ぽろぽろ涙を流していました。数百年経って、やっとその少年の頃の思いが叶ったんですね。」
すみません、全然関係ない話を長々と話しちゃってと龍一は、申し訳なさそうに首をすくめた。
京子は、グラスをゆっくりと干すと新しいカクテルを注文した。
京子は前世って、と呟きながら、少し猜疑心を孕んだ視線を龍一に向けている。
龍一は、化学者のように正確にリキュールを測りり、グラスに注いでいる。
「ワタシって、マフラー巻けないし、タートルネックのセーターって息苦しい感じがして着れないし。あと喉が弱くて、扁桃腺とかすぐ腫れちゃう人だけど、何か前世と関係があるのかなぁ。」
京子は、カクテルを一口飲むと試すような言葉を投げかけた。
「半年くらい前に三十代前半の女性が来ました。髪の長い魅力的な顔立ちの女性でした。生まれつき扁桃腺が大きくて、一年に三、四回高熱を出して、ひどい時は一週間ぐらい寝込んでしまうと言ってました。仕事に度々、支障が出てしまうので、決心して手術で切ってしまったそうです。手術自体は簡単なもので、十日位で退院できたそうです。退院後には喫煙癖もない彼女は、以前のように風邪を引くこともなくなり、かなり順調だったようです。しかし、彼女また三年くらいで、喉に異和感を覚えるようになったそうです。喉の痛みと喉が詰まるような不快感を覚えるようになりました。肝臓や他の内臓疾患の可能性も案じて、大学病院で精密検査を受けたそうです。しかし、医学的には全く異常がなくなかったようです。ストレスなどの精神的な症状ではないかと疑ったそうですが、何一つ、解決策が見つからなかったみたいです。それで噂を聞いて、私の所に来られましたかユキエさんにだったかなぁ?彼女を催眠状態に導き、かなり深い部分まで落としました。やがて彼女は辺り一面、雪景色の汽車に乗っている場面を語り始めました。何か、人生の大事な岐路に立っていたのかもしれません。残念ながら、その時は僕には、何の映像も見れませんでした。彼女自身、ひどく緊張している以外、状況が把握できませんでした。ひょっとしたら、故郷を離れる処だったのかもしれません。前世の記憶は大体、印象に残った情景から思い出すらしいんです。次に、彼女自身が殺される場面を思い出しました。暗い森の中で首を絞められる場面です。最初は苦しい、息ができないということを
京子は、適当な言葉を探しているような表情浮かべていた。
「時々、今の人生も輪廻転生の中で過去の様々な経験に影響されてる気がするんです。昨日の人間関係や行動が、今日から起こることに大きく左右するみたいに、過去の人生は今の生活に大きな影響を与えている。知らず知らずの裡に人は、多くの前世に振り回されている。夫々の前世に繋がる入り口は、無数の扉のように無意識下の暗闇に並んでいる。その全ての扉の向こうには、現在の人生の習慣や苦しみの原因が隠れている。『前世療法』のワイス博士は、過去世に導く時に並んだ扉を比喩として使います。人間の脳の大部分は使われていないと言われていますが、本当は前世の記憶や失われた能力、超能力みたいなものが眠っているのかもしれませんね。」
どうやら和樹の手がかりは、ここには無いようだった。
京子はカクテルを飲みながら、様々な情報を整理していた。
京子は失踪の手がかりを探すため、軽い頭痛を曳きずりながら和樹の部屋を訪れた。合鍵で入ると机の中の書類や手紙類を丁寧に調べた。手がかりは、何も見つからない。最後に、パソコンを起動した。デスクトップの"プライベート"と言うフォルダを開ける。何度かクリックして、書きかけの日記らしい文章を見つけた。何らかの手がかりが掴めるかもしれない。五月からの日付の分だけ、開いた。
5月○日
五月は、もう終わろうとしている。僕は自分の知らない、もう一人の自分の存在に気づいた。それはたぶん、マヤ文明の石から作られたと言うペンダントを骨董屋で買った時から、始まった気がする。僕はあのホテルの一室で、催眠によってハッキリ見た。石のナイフで心臓を抉りだす、生贄の儀式を。あれはひょっとして、僕の前世なのか?前世ってあるのだろうか?くだらない。そんなことがある筈がない。最近、疲れているのかもしれない。有給でも取って旅行に行けば、あんな夢を見なくなるだろう。
5月×日
テレビでニュースを見た。若い女が殺されたそうだ。不思議だ。テレビに映った女の顔に、見覚えがある。それに女の着ていた服や血まみれの顔の映像が時々、頭に浮かぶ。初めて聞く名前なのに。まさか、ありえない。僕が人を殺すなんてたぶん、最近疲れているから、変な夢でも見たんだろう?僕は一体、どうしたんだろう?京子は、溜息を吐くと室内に視線を泳がす。本棚にビジネス書が並ぶ。1番下段には、小説や趣味の本が、ひっそりと置かれている。その中の切り裂きジャックに関する本が目についた。なんとなく気になり、手に取るとバラバラとページ捲る。女流作家が切り裂きジャックは、画家だと言う仮説を立てた書物だった。男は性器に欠陥を持っていたため、女性に激しい憎悪を抱えていたと言う内容だった。本を書棚に戻すと彼女は再び、パソコンの画面に集中し始めた。
6月△日
時々、夢で見た霧に煙るヨーロッパの古い石畳の路地は、ロンドンの裏通りだ。間違いない。ようやく、分かった。しかし僕はロンドンで一体、何者だったんだろう?丁寧にキャンパスに絵具載せているイメージが度々、浮かぶ。ひょっとしたら、画家なのかもしれない?そして、キャンバスに筆を乗せる前に必ず、儀式の様に首にかけた黒いクロスを握りしめていた。今夜の報道番組を見た。また、女が殺されたらしい。今度は、銀座のクラブのママらしい。また被害者の女の顔に、見覚えがある。どこで会ったのか分からないが…。女が苦痛に歪む顔が焼きついて離れない。やはり、間違いない!僕が二人を殺したようだ。たぶん、心の病気なんだ。なんで、こんな事になったのか、分からない。いや、殺人者の前世が蘇ったんだ!そしてまた、同じ過ちを繰り返したんだ!もうダメだ、どうしたらいいんだろう?考えがまとまらない。警察には、捕まりくない。この状況を抜け出す方法は一つしかない。そうだ、逃げるしかない。逃げれるだけ、逃げよう。
京子は、日記を全部読み終えると深呼吸をした。絶望的な気分で、日記を持参したデータスティックにコピーすると部屋を後にした。
龍一は、京子の姿を見なくなった。
蒸せ返る様なアスファルトの熱は少しずつ、少しずつ冷めていき、夜の喧騒が和樹と京子の記憶をほとんど消し去る頃、数ヶ月が経ち秋が訪れた。
暗闇の無数の扉 天元照大 @akiihash
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