連続殺人事件

 消え入りそうな月が、雲の隙間から覗いていた。昼間は賑やかな商店街も十一時を過ぎるとシャッターが下り、ひっそりと沈ま静まり返っていた。深い静寂の中、ハイヒールの固い靴音だけが速いテンポで鳴り響いている。長い髪を揺らしながら、紺のスーツ姿の若い女が、暗闇の中を何かに追い立てられるかのように急ぎ足を進めていた。女の顔には、うっすらと汗がにじんでいる。道路の脇の街灯は弱々しく点っている。石田ユミはこんな寂しいところ、早く引っ越したい、とぼやきながら、家路を急いだ。不意に背後に人の気配を感じたが、振り向くのは恐ろしかった。たぶんスニーカーなのだろう。微かに曇った足音が聞こえるだけだ。一定の距離をとっているらしく、小さな足音が同じ音量で、耳の奥にまとわりついてくる。

 女は肩にかけたバックに手を突っ込み、しばらく引っ掻き回すとようやく携帯電話を掴んだ。とりあえず手探りで、着信履歴の一番新しい番号に発信した。呼び出し音が数回鳴った後、恋人の寝呆けた声が、電話の向こう側から聴こえてきた。緊張感のない口調に、軽い怒りを覚えた。努めて明るく辺りに聞こえるような大声を上げた。現在地を会話の中に何度も挟んで繰り返し、見えない背後の人物に警告を与えた。故意に歩くスピードを緩めると携帯電話当てていない左耳に全神経を集中させた。

 背後の音は同じペースを保ちながら、徐々に女に近づいてきた。心臓の音はだんだん速くなり、自分の声が震えているのがはっきり感じ取れた。背後の足音は、彼女に追いつくと横に並んだ。彼女は違う方向を向きながら横目で一瞬、不安の正体を確かめた。ごく普通の三十前後の男の横顔だった。高い鼻梁のせいか、心なしか表情が乏しく思えた。彼女の横を通り過ぎると同じ歩調で、前方の薄暗闇に小さくなって行く。彼女は、安堵の震える息をゆっくりと吐き出した。来月にでも駅の近くに引っ越そうと心底、思った。呑気な恋人を何度も小声で罵りながら、歩き始めた。自分のアパートの見慣れた黒い影がぼんやりと見え始めた。その途端、肩の力がすっと抜けた。まだ、一階の奥の大学生の部屋しか明かりが灯っていない。突然、背後から羽交締めにされ、強い力で草が生い茂る空き地に引き摺られていった。声を出そうとしたが、恐怖と手で抑えられているために、叫び声は思ったより響かなかった。左の耳に熱く、短い息が絶え間なく、かかっていた。首筋にひんやりとした冷たく固い感触を覚えた後、その冷たいものが横に軽く滑った。喉は真一文字に裂け、熱い液体が首筋から溢れ出た。熱い液体は鼓動に合わせ、割れた水道管のように勢いよく噴き出す。徐々に手足の指先が冷たくなっていき、抵抗する力が抜けると次第に意識が遠退いていった。雑草の生い茂った地面に崩れるように倒れ込みながら瞬間、彼女のぼやけた視線に黒っぽいスニーカーが目に入った。そして薄れる意識の中で、左胸に硬い金属が胸骨に激しく当たる衝撃を覚えた。


 山口雄一は愛犬のゴールデンレトリバーに半ば引っ張られ、近所のいつものコースを散歩していた。身長171センチに体重85キロの堂々とした体躯を足早に歩く。しかしペースが早いためか、息も絶え絶えだ。最近、会社の健康診断で引っかかりメタボと高脂血症を医師に指摘され、運動を勧められた。それまでは妻が嫌々、日課にしていた犬の散歩を健康のためと体よく押し付けられた。強制的に始めた散歩だが、最近では季節の変わりゆく様や軽く汗を掻くことにむしろ、心地よさを感じるまでになっていた。自分が今までいかに自堕落に過ごしてきたか思い知らされた。以前は深夜12時まで、会社の同僚と飲み歩いていたが、今では翌日の犬の散歩を考え、夜十時には酒の席を切り上げるようになった。

数ヶ月前に空き地になった土地の前を通りかかった。約1時間の散歩コースの半分を終えたことになる。日本の相続税は厳しすぎると独りごちながら、自らが三十年ローンで建てた家とその空き地の姿が重なった。立ち止まり、しみじみと雑草の伸びた空き地を眺める。いずれ自分の家も、子供たちが相続税を払うために、空き地になってしまうかもしれない。飼い主の視線の先に気づくと、ものすごい勢いでゴールデンレトリバーは空き地に走り出した。何度も静止しようとリードを力任せに引っ張ったが、全くの徒労に終わった。歳は取りたくないものだ。腰の辺りまで伸びた草をレトリバーは容赦なく分け入っていく。犬は立ち止まると何かを知らせるように数回、吠えた。犬の吠える方向に視線を移すと、草の隙間から人形の白い指のようなものが覗いていた。


 パトカーが数台、朝の住宅街に集まっている。周りにはニ、三十人ほどの人集りが出来ていた。グレーのスエットの上下の山口雄一が困り果てた顔で、刑事の事情聴取を受けている。刑事は柔道でもしていた様ながっちりした体格をしている。大きく後退した額に、うっすらと汗を滲ませている。刑事の年齢は、よく判別できない。意外と三十代前半かもしれないし、四十代のベテランにも見える。犬は腹が減っているのか、その大きな体で雄一の背中に覆い被さり、朝食をおねだりしていた。


 中田和樹は、土曜の午前九時に目を覚ました。奇妙な夢のせいで深い眠りを得られなかった。重い疲労感を引きずりながらバスルームへ向かい、シャワー浴びた。夢の中で中年の女の脂肪のたっぷりついた白い腹を鋭いナイフで真一文字に割いた。刃先から伝わる柔らかな肉の裂ける感触が、今も右手にはっきり残っている。思い出すと今でも掌に汗を掻くほどだ。不思議な夢だった。昨夜は入浴せずに寝てしまったので、汗で肌がべとついていた。熱湯を浴びているうちに、徐々に意識がはっきりとしてきた。先刻までの疲労感は、少し軽くなった気がした。バスタオルで身体を拭くと藤製のチェストから黒のボクサーパンツを取り出した。心なしかパンツが一、ニ枚足らないような気がした。まさか男の物の下着を盗む物好きはいないだろう、と一笑に伏した。何気なく洗濯機を覗くと湿ったブラックジーンズと黒のTシャツがれて内側のドラムに張り付いていた。夜中に洗濯機を回した記憶がなかったので、軽い戸惑いを覚えた。最近、仕事が忙しすぎると1人こぼしながらベランダに出た。ジーンズの皺を丁寧に伸ばしてから片足を物干しに通した。天気は、とても良かった。また今日も、暑くなりそうだった。

和樹は大きく伸びをした後、煙草に火を着けた。下の通りを自動車が行き交っていた。休日のせいか、心なしか自動車の動きもゆったりに見える。煙草を一本、吸い終えると部屋に戻った。コレクションボードを開けるとドイツ製の折り畳み式の刃渡り10センチほどのハンティングナイフを取り出した。インターネットで買い求めたものだ。専用の柔布で丁寧に磨き始めた。理由はわからないが、なんだか心が落ち着く。この作業が、ここ最近の彼の日課になりつつあった。小学生の頃、父親にほとんど毎日のように帰宅すると自転車を磨かされた。最初は嫌だったが、タイヤのスポークやリムを磨くうちに泥まみれの金属が光沢を放つのが密かな楽しみになっていった。なんだか、その時の静かな満足感に似ている気がした。


京子は、和樹のマンションの郵便受けから新聞を取ると合鍵で、オートロックのドアを開けた。和樹は、生気のない疲れた顔でソファーにもたれている。テレビでは若い女性が殺された通り魔の犯人像について司会者やコメンテーターが自分勝手な推論を述べていた。

「それ怖いんだけど、やめてくれない?」

京子は、ナイフを執拗に磨く和樹の横顔にきつく言い放った。和樹は何も答えず、ひたすらナイフを磨いている。京子は、和樹の肩を掴むと力任せに数回、揺すった。突然のことで、左手を離れたナイフの刃は和樹の右の親指を軽く撫でた後、床に落ちた。瞬く間に親指の傷口から真っ赤な血が溢れだす。

ごめんなさい、京子は震える声で謝った。

和樹は無言のまま、親指の根元を圧迫しながら立ち上がるとティッシュを乱暴に数枚掴んで傷口を抑えた。叱られた理由がわからない子どものような表情で京子を睨んだ。

「本当にごめんなさい。でも、ナイフの手入ればっかりしてるから、気味が悪いの。それに最近、物騒な殺人事件も多いから。」

和樹は黙ったまま、ナイフを慎重に柄に収めるとコレクションボードに戻した。

 京子は、その後一時間ほど重苦しい時間を過ごした。何度かテレビで流れる芸能人のゴシップを振ってみたが、和樹はテレビを見ながら意固地に口を閉ざしている。まるで駄々っ子だ。京子は、息の詰まりそうな雰囲気に耐えきれず帰る、と短く言い残して部屋を後にした。和樹は、彼女の後ろ姿に振り向きもしなかった。まるで意思のない置物のように。

 その夜、和樹はなかなか眠りに就くことができなかった。

若い女が、首筋から血を噴き出し、真っ白なブラウスを赤く染めていくリアルな映像が浮かんでいた。女は自分に何事が起こったのか、理解できない表情を見せている。まるで、ハンティングで撃たれた動物みたいに目を大きく見開いている。なぜ、そんな映像が生々しく頭にこびり付いているのか分からない。


 川島美佐は手櫛で軽く髪を整えた後、化粧室の鏡に映った三十八になった自分の顔をまじまじと見つめた。映し出された顔にまだまだ、イケるんじゃないと揺らぐ女としての自信を取り戻す。

微笑んでみる。目尻にはっきりとした皺が三本刻まれる。そういえば人相学では、目尻の皺の数は男の数だと街角の占い師に告げられたことがある。思わずため息が漏れると歳は取りたくないものだとつくづく思う。目尻を中指で数回マッサージしたが、深く刻まれた皺は消えない。頑固に目尻に張り付いている。壁には、店員がコスプレの格好したイベントの写真が十数枚、無造作に貼られている。

「化粧長いなぁ、ミサちゃん。皆さん待ちくたびれてましたよー。」

南風系の顔をした男は、微笑んで冷たいおしぼりを差し出す。薄暗い店内で、日焼けした顔に白い歯が際立っている。

「午前ニ時を過ぎたら、顔もひび割れ起こしちゃうの。だから、念入り塗り直してたのよ。三十過ぎたら、時間がかかるの。絵画でも、年代物の名作は修復に手間がかかるでしょう。」

美佐は冗談っぽく言って、上得意の客のタナカに微笑んだ。タナカは、週に二度は店に顔出す常連だ。仕事は、IT関係の会社の役員をしているらしく、金払いも良い。酔っ払ってもあまり乱れない。店ではスコッチかボルドーの赤しか飲まない。特にお気に入りなワインは、シャトー・ムートン・ロートシルト。ピカソやシャガール等の著名な画家がラベルをデザインしているシャトーだ。

「ママ、何してたんですか?乾杯しましょう」

三ヶ月前に入ったユキは、呂律の回らない口調でグラスを手渡した。目は完全に泳いでいる。

美佐は連れてきたのを少し、後悔しながら早めに帰す口実を探し始めた。

 タナカは乾杯の後、カラオケのリモコンを触るとビートルズやビリー・ジョエルのナンバーを数曲、予約を入れた。それなりの英語の発音で熱唱した。彼は絶対に演歌を歌わない。邦楽でも七十年代のニューミュージックのいくつかがレパートリーに入ってるくらいだ。美佐は、二十代半ばの店員と話しながらも、気配りの笑顔と拍手を頻繁にステージ上のタナカへ送る。

 ユキは南方系の顔立ちの店長と旅行の話に夢中になり、大げさに相槌を打っては笑っている。時折、美佐に促されて、面倒臭そうにタナカの歌に拍手をした。美佐は愛想笑いを浮かべながらも、ユキの態度にグラスへ手が伸びる回数が増えていく。

田中はカラオケで酔いが冷めたのか、会話に溶け込めない。店長は場の雰囲気を察して、話題をタナカが最近、購入したばかりのメルセデスの2シーターのスポーツカーに話を向けた。タナカは、身を乗り出すとフロントマスクのスポーティーなデザインの素晴らしさを力説した。また、内装をある有名俳優と同じ仕様で発注した事で納車に時間がかかった事などを熱く語った。店長は、女性の興味のない態度を見て、会話をグルメの話にすり替えた。それから暫くの間、パスタや寿司にそばの話題で話が弾んだ。

 

 美佐は、方向が同じ田中とタクシーに同乗した。六本木の交差点を抜けるとクルマはスムーズに流れだした。少し居心地の悪さを感じながら、窓の外を眺めている。東京タワーを右手に見ながら、タクシーは明け方の街を流れるように走り抜ける。車内では時々、ぎこちない会話が交わされるだけ。

タクシーは15分ぐらい走った後、タナカの指示でゆっくり停車した。タナカは、美佐の肩を強く引き寄せると激しく唇を重ねる。彼女は体を固くしたまま、身を任せている。彼の左手がゆっくりと這い上がり彼女の豊かな胸で止まった。その途端、彼女は両手で軽く押しのけた。タナカは唇を離すとバツが悪そうに彼女を見た。

「神谷町で目の前に東京タワーが見える。洒落たイタリアンレストランを見つけたんだ。今度お店に入る前に行きましょう。銀座も近いし。」

そう言うとタナカは、一万円札を運転手に渡し、タクシーを降りた。


タクシーは再び、走り出した。運転手は言葉が見つからないのか沈黙を守っている。

 美佐は、エルメスのバーキンから細いメンソールの煙草を取り出すと火を着けた。車内に籠らないないよう窓を細めに開け、紫煙を吐き出した。タナカは仕事もできるし、見かけも悪くない。金持ちで、育ちもよく服のセンスも良い。しかし、男としての何かが足らない。オスの匂いがしないのだ。自宅のマンションが近づいてきたとこで、ブルガリの腕時計に目線をくれた。以前二年ほど付き合っていた男が誕生日にプレゼントしてくれたものだ。最近は、誕生日に貴金属のプレゼントは少なくなった。

世の男たちは、ハッキリしている。ここニ、三年誕生日プレゼントは、せいぜい花束とイタリアンレストランでの食事が関の山だ。

四時を少し回っていた。1ヵ月ほど前ゴミを捨てるときに1階の六十過ぎの住人に早朝の帰宅のことで皮肉を言われた。その時の老人の好奇に満ちた顔が脳裏を過った。タクシーを自宅の百メートルほど手前で停め、降りるとマンションまで歩くことにした。マンションに近づくにつれ、ヒールの音を気にして歩幅を縮めた。オートロックのドアの開く音を気にかけながら、エレベーターに飛び込んだ。美佐は、自分の住んでいる部屋の八階のボタン押した。以前、客の誰かが、十一階まで火事の時、梯子車が届くということ言っていたような気がしていた。高い場所は眺めが良いので、本当は十一階が良かったのだが残念ながら、角部屋は空いていなかった。基本的に、窓が少ない住居が彼女には耐えられなかった。引っ越しを考えていた当時、店がオープンしたてで将来の不安でいっぱいだった。そこで商売が末広りで繁盛するようにとほとんど、こじつけのような理由で八階に決めたのだった。あまり細かいところに拘らないように見えて結構、げん担ぐ質なのだ。

エレベーターに乗ると安堵感から睡魔が押し寄せてきた。八階で降りると廊下を忍足で歩き、ドアを開けた。鍵はニヶ月前、管理人の勧めでイスラエル製のピッキングができないマルチロックと言う特殊な鍵に変えてもらった。最近は、ピッキング盗も多いらしい。玄関には微かな異和感が漂っていた。誰かがいる?ゆったりとした疲労感は消え、脳内にアドレナリンが溢れ出す。スリッパも履かず、トイレ、リビング、キッチン、ベッドルーム、ドレッシングルームと矢継ぎ早に灯を着け、全体を見渡す。家具が動いているとか、部屋が荒らされた様子はない。

 酔いと疲れが一気に美佐の全身にのし掛かる。冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出す。大きめのグラスに注ぐと酔いを洗い落とすよに一気に喉に流し込んだ。上着をリビングのステンレス製のハンガースタンドに掛け、受け皿にピアスと時計を投げ出した。

ソファーに腰掛けるとリモコンでオーディオのCDをかけた途端、今年の初めにハワイのハレクラニホテルの部屋で流れていたコハラの〈ハイウェイ・アンダー・ザ・サン〉のアコースティックサウンドがリビング全体を満たす。

バッグから携帯電話を取り出すと受信メールをチェックし、今夜店に来てくれた常連客や数人の友人への返信メールを打ち始めた。全てのメールを送信するとしょぼつく目頭を押さえながら、ソファーに深く身を沈めた。

美佐はその時、不意に違和感の正体に気づいた。夕方出勤する際に、慌ててジョギング用のニューバランスに足を引っ掛けて、バラバラに散らかしたまま、出かけてしまったのだ。それが今、帰宅した際には、きちんと揃えて置かれていた。次第に、心の中に不安が広がる。研ぎ澄まされた美佐の耳に、誰もいないはずのバスルームのドアを開く音が、微かに響いた。


 和樹は、十時過ぎに目を覚ました。重い疲労感がまとわりついたまま、キッチンまでたどり着くとケトルを火にかけた。慎重に分量を計り、ドリップへコーヒー粉を入れる。前夜は早めに仕事を切り上げ、近所の居酒屋で七時位に夕食を取ったのは、憶えている。前夜十時位から後の記憶が、すっかり抜け落ちていた。憶えているのはニ軒目に行ったバーで、ブッシュミルズをロックでニ杯ほど飲んだくらいまでだ。記憶がなくなるほどアルコールを飲んだとは思えない。よほど、体調が悪かったのかもしれない。和樹はコーヒーを啜りながら、コレクションボードからナイフを取り出した。柄から抜くと動物の脂みたいなもので、白く曇っている。違和感を覚えつつ、専用の柔布で丁寧に脂を拭う。すぐに、元来の金属の鋭い光を取り戻す。


 タナカシンジは、自宅のパソコンの前で大きな欠伸を漏らした。シルバー世代向けの通販の企画書を作成していたが、睡眠不足のためか、なかなか集中できない。書棚の置き時計見ると午後一時近い。月曜の朝までに、社長に提出しなければならない。社長は田中より五歳ほど若いが創業者なので、仕事にはかなり厳しい。特に仕事の期限には煩い。時間は金と同じ、いやそれ以上の価値がある、と言うのは口癖だ。絶対に月曜までには納得させる書類を提出しなければならない。銀行からの融資の下準備は、出来ている。資料の数字を凝視するが、上手く考えがまとまらない。あと1日半しかなかった。気持ちばかりが焦る。今朝までの夜遊びを後悔しながら資料を握り締め、リビングのソファーに身を沈めた。濃いめのコーヒーを啜りながら、テレビの旅行番組をぼんやりと眺めていた。途中、画面の上端に品川区のマンションの自室で女性が死亡していたというテロップが流れる。

 川島美佐?聞き覚えのある名前だな。

ママ?さっきまで一緒だったんだ。ありえない。ぼやけた頭に小さな疑いが芽生え、次第に大きな不安へと変わっていく。タナカは、携帯電話に飛びつくと川島美佐の番号を検索する。呼び出しのコールはなるが、電話はつながらない。店の女の子に片っ端から電話をかけまくる。誰も出ない。タナカは、誰に連絡すればいいのか考えてた。携帯電話が青色の光を点滅し、ジョン・レノンの〈イマジン〉が響く。『キリング・ザ・フィールド』と言う戦下のカンボジアが舞台の映画でアメリカ人のカメラマンと生き残った通訳の男が再会し、抱き合うラストシーンで流れる曲だ。タナカは、見覚えのない番号から電話に緊張した声で対応した。

「もしもしこちら警察のものですが、失礼ですが川島美佐さんとは、どんなご関係ですか?」

電話の向こう側からが威圧的で低い声が響く。

「今ニュースを見て、びっくりして彼女に電話したんです。亡くなったなんて嘘ですよね?だって、朝まで一緒に六本木で飲んでたんですよ。信じられない!」

「詳しく事情を聞きたいので、お宅にお伺いしてよろしいですか?」

電話の声は丁寧だが、相手を従わせる強さが籠っている。

 タナカは、テーブルの上の資料を一瞥した。月曜までに企画書は、とても間に合いそうにない。社長の怒り狂った顔が脳裏に浮かんだ。


2003年製の夜の闇に溶け込みそうな紺色のBMW 530iがパーキングランプを点滅させ、停車している。風俗店オーナーが、闇金融の焦げ付いた債券のカタに押さえた車だ。時期を見て転売するので、丁寧に乗るよう口酸っぱく言われている。

一人の若い女が、小走りで車に駆け寄ると後部ドアを開け、乱暴に乗り込んだ。クルマは、ゆっくりと走り始めた。

「次、どこ?」

五反田です。運転手は、女の感情を探りながら、静かに答えた。

 ミユキは、革の後部座席に身を沈め、ヴィトンのダミエから、メンソールの煙草を取り出すと、百円ライターで火を着けた。組んだ右足のヒールの先で、運転席を小刻みに蹴る。さっきまでの客のことを思い出していた。変態オヤジめ、散々身体中を舐め回して挙句、後ろの穴に無理矢理、電動ローターを入れかけられた。おかげでお尻が痛い。冗談じゃない。そんな趣味は、ない。全くツイてない。朝、テレビで蠍座の今日の運勢を確認しなかったを、ちょっと後悔した。

最悪の気分だよ、ミユキは吐き捨てるように、口を開いた。

男はルームミラーで、後部座席の不機嫌そうな女の顔を一瞥した。

「大丈夫でした?怪我とかないですか?」

「何とかね。それよりあんた、スキューバダイビングのインストラクターやってんだってね。よりによって、なんでこんな仕事やってんの?コレ、そんなに時給、良くないでしょう?まぁ、人それぞれ事情があるからね。アタシも同じようなもんだけどね。ところで、モルジブとか行ったことある?」

いえ、残念ながら、男は静かな口調で答えた。

「二年前に行ったんだけど、楽園よ。スゴーく、海も空もキレイ。のんびりできるわ。何もないから。できたらまた、年末くらいにに行きたいなぁ。今度はスキューバに挑戦してみようかなぁ。でも、あれって楽しいの?」

この女は、一体何十人の男の欲棒に奉仕し、白い悦楽を吐き出させれば、モルジブのチケットが手に入るのだろう。男は、ぼんやりと考えた

「ええ、やってみる価値はあると思いますよ。ましてや、モルジブなら。僕も行ってみたいけど、とてもそんなお金ありませんから。もし機会があれば一度、潜ってみたいですね。」

この仕事を上手くこなすコツは、女の感情を逆撫でしないことだ。無駄口は叩かず時々、肯定することが肝心だ。否定的な意見は、禁句だ。軽々しく同情したり、調子に乗って一緒に客の悪口を口にするも禁物だ。ただし、人間関係の潤滑油のために、くだらない駄洒落は言うことにしている。

ミユキは、少し機嫌が直ったのか饒舌に話し始めた。

「昨日は新宿のホストに行ったんだけど、ピンドンかけて飲み比べしたの。そしたら結局、新人のコ潰れちゃって、青い顔してゲーゲー、吐いてるの。ありえなくない!笑えるでしょう。このアタシに挑戦しようなんて、十年早いって。私の肝臓は特別なのよ。だって、どんなにお酒飲んでも今まで二日酔いになったことがないんだもん。」

男はすごいですねと軽く褒めた後、指定されたファッションホテルの前にBMWをゆっくりと滑り込ませた。

 女は、上機嫌で手を振るとホテルの中に消えた。

 男は女がホテルの中に入るのを見届けた後、BMWを発進させた。他の女を近くのホテルで拾って、別の場所へ送り届けなければならなかった。

 ミユキは、指定された部屋の扉の前に着くとチャイムを押した。この瞬間必ず、心拍数が上がる。どんな相手なのか、いつも不安を覚える。ドアが開くと、三十過ぎの男が紺のスーツ姿で立っていた。ネクタイは、していない。本当はもっと若いのかもしれない。優しそうな笑顔は、ミユキ好みだった。男はベッドに腰を下ろすと緊張を解すよう、自らの趣味の話を面白可笑しく、披歴した。高圧的な態度は一切なく、とても話し易かった。

 ミユキが好きな食べ物や海外旅行の話題に夢中になり、店への連絡が遅れてしまった。客に指摘され、慌てて店にプレイ時間と部屋に到着した確認の電話を入れた。店長は、子どもを諭すように優しく戒めた。その際、危険な雰囲気がなかったので、緊急事態を意味する隠語は使わなかった。時々、危ない趣味の客がいるので、相手に悟られないようにSOSの暗号が決められている。男は財布から一万円札を数枚、取り出すと女に支払った。ミユキは渡された金額を確認すると、ダミエの財布に仕舞った。ミユキは、ラスベガスのトレジャーアイランドの前で行われる海賊ショーやベラージオのゴンドラに乗った話を早口で捲し立てた。ベッドの横の時計を見て、慌てて会話を中断するとバスルームに飛んでいった。素早く脱ぐと几帳面に服を畳んだ。シャワーの湯を微妙に調節すると戸を少しだけ開け、一緒に入るよう声をかけた。しばらくして、客は裸のまま、後手に隠すような不自然な姿勢で浴室へ入ってきた。ミユキは、隠された右手を凝視した。男の首元には、黒石のクロスが揺れている。男の強張った顔には残刃な笑みが浮かんでいた。ミユキは背筋に冷たいものを感じた。


 デリヘルの運転手はエンジンを止め、運転席のサンバイザーに挟んだ石垣島の川平湾の写真を眺めていた。海は見たことがない位の鮮やかな青だ。左手首のダイバーズウォッチを見る。そろそろ店から迎えの指示の連絡が入る頃だ。BEGINの〈島人の唄〉の着メロが流れる。店からの電話だった。15分前の確認の電話に、ミユキが出ないらしい。ホテルの部屋に行って、確認するよう指示された。面倒な事件に巻き込まれないよう、心の中で祈りながらBMWを降りた。あと一ヵ月もすれば、石垣島のスキューバーダイビングのインストラクターの仕事が待っている。そしたら、こんなゴミ溜めみたいな仕事ともおさらばできる。 

男は、威嚇のためのサングラスをかけ、ホテルの中に入る階段を駆け足で登ると、ニ階の指示された部屋の前に着いた。息を整え、ポケットの中のスタンガンの電源をオンにする。手のひらには、じんわり汗が滲む。ドアに顔を寄せ、聞き耳を立てる。中からは、何も音がしない。念のためゆっくりチャイムを鳴らすが返事は無い。すぐさま一階へ降りるとフロントへ行き、事情を話して部屋の合鍵をもらった。

面倒は困りますよ、六十絡みのフロントの女が呟いた。このホテルは店と提携してるので、ある程度融通が利く。足音をひそめて、部屋の前に戻ると音を立てないようにゆっくりと鍵を回した。部屋の中に恐る恐る、入ると目を凝らした。エアコンが寒いくらい、効いている。間接照明の光量を絞っているせいか、薄暗い。誰もいない!バスルームへ踵を返すとすりガラスの戸をゆっくり、開けた。ミユキは、バスタブの脇で血塗れで仰向けにに横たわっていた。目は恐怖のためか、大きく見開いている。心臓の辺りは数カ所刺され、贅肉のついていない薄い下腹部は、横一文字に大きく裂かれている。血は、既に固まっている。男は、すぐさま手のひらを口元にかざしたが、息はなかった。血の匂いで胃が少し、ムカついた。ダイビングで何度か、酷い水死体を見ていたお陰で、嘔吐だけは免れた。最悪の事態だった。

 男は、石垣島の美しい海が遠ざかるのを感じながら、携帯電話を取り出すと店へのリダイヤルボタンを押した。


広い石畳の上に、数十人の男や女が煌びやかな装飾品を身につけ、無数の星が溢れる夜空を見上げている。真ん中には、若い高貴そうな若者が何かを叫んでいる。何かの儀式が行われているようだった。神経質に1人の男を指差すと怒鳴っている。黒色の石刃を鞘から素早く抜くと、その男の左腕に力任せに突き刺した。返り血を浴びた顔に歪んだ笑みを浮かべると全員を睨んだ。床に転がる男を屈強な男たちに運ばせると、直径六十メートル位の緑色の泉に投げ込んだ。泉は大きな波紋を広げ、やがて鏡のように静かになった。思ったより深い泉に男は、手足を揺らしながら沈んでいく。糸の切れた凧のように。


和樹は、毛布からはい出すとサイドテーブルの時計を見た。九時を過ぎていた。完全に遅刻だ。今日が、重要な契約の日だったことに気づいた。商談は、十時からだ。二日酔いような疲労感が、身体に張り付いている。強引に疲れた身体をベッドから引きずり出すと洗面所で何度も顔を洗った。携帯を充電器から外すと会社へコールする。契約書を確認しながら、顧客の会社へ直行すると、部下の平石真奈美に伝えた。倦怠感を抱えながら、汗まみれのシャツを着替えようと洗面所に向かった。籐製のタンスから洗いたてのシャツを取り出すと、着替えた。汗だくのシャツを洗濯機に放り込むとき、洗濯機の中の丸まった紺色のズボンが見えた。広げると染みが所々にこびりついている。何の染みだろう?燃えるゴミ袋の中には、血のついたシャツがくるまっていた。断片的に、見知らぬ若い女性の苦痛に歪む顔がフラッシュバックする。和樹はシャツとスーツを羽織り、急いでマンションの廊下を走り出した。

和樹は夕方、部長に呼ばれていた。

四十代後半の部長は、黒革の肘掛け椅子に座ったまま、縁なしのメガネの奥から冷たい視線を向けている。

「何を考えてるんだ。向こうの社長を三十分以上待たせて、相手はカンカンだぞ!今日契約できないばかりか、向こうの部長は自社うちとの契約を白紙に戻したいと言ってきている。大事な商談に無断で遅れる会社は信用できないとえらい剣幕だ。他社とのフランチャイズ契約を検討したいとまで仄めかしている。一体、どれほどの損失を被るのかわかっているのか?一億からの金がフイになるんだぞ!プラス月々入ってくるロイヤリティーだぞ。いくら自社は、損すると思ってるんだ。取り敢えず、担当は替われ。いいな?」

和樹は黙ったまま、部長の机上に挟まれた部長の家族の写真を見つめている。


和樹は自宅に戻ると缶ビールを開け、一気に煽った。行き場のない憤りと不甲斐なさに缶ビールが次々と空になっていく。このまま契約ができなければ、多分降格は免れない。その上、下手をすれば福岡か北海道へ左遷だった。

 玄関のチャイムが鳴った。

和樹はビールを喉に流し込むと無視した。数分後、錠が倒れる音と共にドアが開いた。

「なんだ、いるんじゃない?どうしたの?何度も鳴らしたのに」

和樹は答えずに、ビール缶を握り締めている。

「なんか会社であったの?お腹空いてない?何か作るから」

要らないと和樹が小さく、答えた。

京子は心配そうに、和樹の横顔を覗き込む。

血塗れのシャツや女の苦痛に歪んだ顔が脳裏から離れない。

和樹は無言のまま、冷蔵庫の中は全ての缶ビールをリビングに運んだ。次々にビールを流し込んでも、不安は消えない。

和樹は何かに怯えるように、部屋の中を歩き回った。

「ねぇ、山村さんに相談してみたら?」

京子は、腫れ物を扱うように問いかける。

「あんなインチキな奴に、何も解決できるはずがない!」

和樹は、激しい口調で一蹴した。



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