静夜の訪問者
静かな火曜の夜だった。店の壁時計は、もうすぐ七時を差そうとしている。レゾン・デートル
(存在理由)という店名が書かれた金属のプレートが鈍く光っている。
山村龍一は今年、三十四歳になる。このバーのオーナーだ。と言っても、従業員はいない。アルバイトの大学生も、週末だけシフトに入っている。彼は、少しウェーブのついた長髪を後ろできっちり結んでいる。服装は、白のドレスシャツにボウタイのと黒のベルサーチのベストにパンツという格好だ。
彼は開店したての客のいない、ひっそりとした店のカウンターの奥で神経質なまでにバカラのオールドファッションドグラスを磨きたてていた。ビリー・ホリデーの歌う〈奇妙な果実〉が小さく流れている。
店の扉が開くと髪の長い二十代後半と
「あなた、マスター?」
彼は、グラスに慎重にカクテルを注ぎながら、小さくハイと答えた。女は、何かを決心したかのように、言葉を発した。
「知り合いから聞いたんだけど、あなた、何か特殊なそう、不思議な力があるんですってね。」
龍一はうんざりした表情を浮かべながら、そういうのじゃないんですけど、と答えた。そしてまたか、と思った。
「実は私、神野京子って言うんですけど、付き合って三年になる彼のことで、すごく困ってるの?もしよかったらいえ、ぜひ力になって欲しいの。」
「たいしたことはできませんよ。」
龍一は、期待を打ち消すようにきっぱりと言い放った。
「分かっています。ただ話を聞くだけでも・・。聞いてください。お願いします。
女の真剣な眼差しに龍一は、何も言えなくなった。
京子は重い口を開くと、少しずつジグソーパズルを嵌め込むみたいに慎重に語り始めた。
「実は1ヵ月位前になるんですけど、彼の部屋に遊びに行った時に、ベッドの脇のテーブルに睡眠薬が置いてあったんです。それだけなら大した事はなかったんですが。以前はきれい好きで部屋にはいつも、塵一つ落ちていなかったんです。すごく乱雑になっていて、衣類とかも脱ぎ捨ててあるし。なんだか以前のように笑わなくなったし、性格が変わってしまったような気がするんです。眠れないことが多いらしくて、お酒の量も増えてるみたいだし。」
京子は、小さくため息を吐いた。
「それは心配ですね。仕事で何か悩まれているとか部署が変わって大変だとか、家族のことで何かあったとかそんなことがあったんじゃないんですか?
龍一は、ありきたりの理由しか思いつかなかった。
「そういうことじゃないかと思って、彼に直接聞いてみたんです。そしたら馬鹿馬鹿しい話なんですけど、悪夢を見るらしいんです。それもいつも同じ夢みたいなんだけど、たぶん外国のヨーロッパとか行ったことのない見憶えのない古い町並みの場所だって言ってました。そして、その姿の見えない相手に追いかけられる。」
「病院には行かれましたか?仕事のストレスとかそういう類のものじゃないんですかね。」
京子はグラスを一気飲み干すと言った。
「私もそう思って、病院に行くことを勧めたんです。最初はすごく嫌がったんですが、何度も説得してようやく病院に行ってくれたんです。二、三回行って、いろいろ幼い頃のことを尋ねられたり、悲しかったことや辛かったことを書かされたりしたらしいんですけど。でも結局は、ストレス性の睡眠障害って診断されてしまって。精神安定剤みたいな薬をもらってお終いみたいなんです。」
京子は、深刻な表情を浮かべていた。
一つ言っておきますが、僕は霊能力者とか悪魔払い師みたいなものじゃないんです。またそんな能力もないし、単に退行催眠で原因になっている不快な記憶を取り除くことをやっているだけです。だからお役に立てるかどうか分かりませんよ。それに誰でも催眠にかかるってわけじゃないんです。
龍一は、過度な期待を跳ね退けるように言い放った。女の眼は、必死ですがる子犬のようだった。龍一は、もっともらしい理由を探し始めた。しかし、なかなか適当な言葉が見つからない。二、三年前ですが、リストカットをすると言う若い女性が店を訪ねてこられました。店の常連の方の姪かなんかで、結局断りきれなくて、仕方なく退行催眠施しました。過去に遡って、自傷行為の原因となっている親や恋人からの虐待がないか探しました。しかし無理でした。彼女には、それらしい原因が見当たらなかったんです。そこで笑わないで、真面目に聞いてください。前世に戻したんです。彼女は強い太陽の日差しを感じると答えた。その状況を徐々に理解してくると、どうやら自分は黒人の男の人らしいと答えました。身なりをさらに尋ねると茶色の布をまとっていると答えました。何をしていますか?と尋ねると苦しそうな表情を浮かべ、何も答えません。何度か、同じ質問を繰り返すと明らかに話すのを躊躇いながら語り始めました。右手に大きな刀みたいなものを握り締めて、その刀で人を次々に切り倒している。辺り一面、斬られた死体と
店内にはいつの間にか、スタイリスティックスの〈誓い〉が静かに流れていた。
「何か新しいものをお作りしましょうか?」
京子はメニューを一通り見た後、答えた。お勧めのカクテルであまり甘くないのお願いします。」
龍一は手際よくメジャーカップで計り、リキュールをシェイカーに入れると小気味よくシェイクし始めた。
山村龍一は、日曜日だと言うのに珍しく午前十一時に目を覚ました。いや、正確に言うと、よく眠れなかったのだ。あまり憶えていないのだが、嫌な夢を見て
ぼんやりした意識で歯を磨いている時に携帯電話の耳障りな着メロが鳴り響いたベートーベンの〈運命〉だ。あまり気乗りのしない相手からのコールは全部、この曲に設定している。因みにこのコールに設定してるのは、河野京子といつも借金を申し込んでくる同級生と、ストーカーまがいの店の客の3人だけだ。
「もしもし、山村さんですか?すみません。まだ寝ていらっしゃったんでしょう?早い時間なので、ご迷惑かと思ったんですが、気になってしまって。」
電話の向こうの声は.とても頼りなげだった。
「ずいぶん、心配性なんですね。約束の時間までには五時間以上ありますよ。大丈夫ですよ。きちんとお伺いしますから」
山村は、相手の不安を取り除くように静かに話した。
「それではホテルのロビーで五時にお待ちしてます。」
「あまり心配しないで。多分そんなに大した事じゃないですよ。
龍一にしては珍しく、心にもない気休めの言葉をかけていた。龍一は歯磨き粉だらけの口を濯ぎながら、漠然とした不安感を覚えていた。雄一は三時時過ぎに、ブランチのスパゲッティーカルボナーラを作り、腹ごしらえをした。ベーコンを炒めすぎたのと、少しコンソメの量を間違え、味が濃くなってしまった。そこでビールを1本、余計飲み過ぎてしまう羽目になった。食後ソファーでうたた寝してるうちに、約束の時間の三十分前になった。ゆっくりとジャケットに袖を通すと部屋を出た。
五月の初旬にしては、少し蒸し暑かった。まるで梅雨を思わせる湿度だった。待ち合わせのホテルに着く二十分位の間に、彼のジャケットの脇にはじっとりと汗が滲んでいた。
隆一は、ホテルに着くと額の汗をハンカチで拭いながら、フロントのある五階に向かった。扉が開くと床が、灰色の御影石のポストモダンの洒落たデザインのロビーについた。フロント脇のソファーに二十代後半と思しき、カップルが座っていた男は、退屈そうに壁にかかったユトリロの「コタン小路」の複製を眺めている。龍一の視線に気づくと、絵画はよく分からないんですが、と照れ臭さそうに言い訳を言った。
京子は、判決を待つ被告のように思い詰めた表情をしていた。龍一に気づくと小さくお辞儀をした。
男は、紺の三つボタンのスーツに赤のネクタイを締めていた。ゆっくりと立ち上がると消え入りそうな声で自己紹介をした。無精ヒゲのせいか、実際の年齢よりも五歳近く上に見えた。
隆一は早速、フロントでチェックインを済ませ、キーを受け取ると8階へと2人を誘った。3人ともエレベーターの中で階数表示の点滅する数字を無言で見つめていた。室内は落ち着いたベージュをベースに丸テーブルやデスクは淡いグリーンでアクセントをつけられている。ベッドカバーや椅子を花柄の明るい色調でまとめられている。部屋に入ると対面の椅子に和樹を座らせた。京子はベッドの角に不安げに腰掛けている。龍一は、落ち着きのない和樹に煙草を勧めた。そして自らも、煙草に火を点けた。緊張を解すため、趣味や家族のことを訊いた。三十分ほど経過すると、かなり打ち解けた雰囲気になってきた。彼は、訊きもしないことを自ら話し始めた。
龍一は煙草を消し、立ち上がるとカーテンを閉めた。それからベッドの脇のコントロールパネルで部屋の照明の光量を落とした。そして静かに和樹の背後に回った。彼の両肩に手を置くと肩の力を抜いて、大きく深呼吸してと指示をした。何回か深呼吸をさせた後、龍一は和樹の呼吸のリズムに自らの呼吸を同調した。時々、気づかれないように相手の動作を軽く真似る。シルバーのクロムハーツのネックレスを外すと和樹に持たせ、百合の形をしたペンダントヘッドに、彼の視線を集中させた。
「このペンダントの先を見てください。もっと腕を上げて、目の前に持ってきてください。じっとこのペンダントの先を見てください。もっと見て!揺れてきたでしょ」
「よーく見ていると、シルバーの飾りが左右に揺れてきます。ほら、揺れてきたでしょう。」
ペンダントヘッドは、和樹の意思とは裏腹に左右に小さく入れ始めた。
「ペンダントの先をもっと見て。
光っていて、眩しい。ずっと見ていることで、目が疲れてきましたね。目を開けているのが、辛くなってきましたよ。ほら、瞼が段々、重くなってきました。和樹の瞼は促されるまま、ゆっくりと閉じていった。龍一は階段を一段ずつ降りる暗示で、徐々に催眠状態へと誘導して行った。次に南の島で寛いでいるイメージを与え、深い催眠状態へと導いた。夢の源流を辿るため、高校生にまで退行させる暗示を与えたが、別に特別な成果は見られなかった。
龍一は原因を探ろうと、さらに年齢を退行させる暗示を与えた。そして小学生低学年まで戻した。
「今、何をしていますか?」龍一は、静かにゆっくりと訊ねた。
「とても暑い。でも今から初めて来たプールに入るので嬉しい。和樹は、少し
「すごい楽しい。あれ、親戚のマー兄ちゃんが呼んでる。こっちは、すごく深そうだなぁ。大丈夫かなぁ?大丈夫って言ってるなぁ。じゃあ飛び込もう。えー、足が届かない。深いよ。水を飲ん
だ。だめだ。掴まるものがない。どんどん、沈んでいく。水面の向こうに小さな太陽が揺れている。苦しい。だんだん、目の前が暗くなっていく。」
大丈夫ですか?龍一は、苦しそうな和樹に心配そうに声をかけた。
「太陽が見える。小さいけどギラギラ光っている。眩しい!床のコンクリートが暖かい。肺がちょっと痛い。風が顔に当たっている。涼しくて気持ちが良い。マー兄ちゃんが心配そうに僕の顔を覗き込んでる。」
和樹は、とても安らかな表情になっていた。龍一は、和樹が現在、水を怖がっていない様子から、もっと以前に原因があるのではと推定した。さらに年齢を戻していった。
「かずき君は今、何歳かな?」
和樹は、右手を少し上げると片手の指をゆっくりと全部広げた
「そうか、五歳かぁ。今、何をしているのかな?」
「僕はお兄ちゃんを迎えに行っています。お母さんが夕ご飯で呼んで来なさいと言ったから。でも、誰もいないよ。おかしいなぁ。みんなブロック塀の上に登ってるよ。どうしたのかな?みんながワンチャンに石を投げている。ワンチャンがすごく怒ってるよ。こっちをワンちゃんが見た。こっちに走ってきた。怖いよー!だめだ、走ってるけど逃げ切れない。早いよー。追いつかれた。噛まれた。痛いよー!」
龍一は、犬は本当は優しい動物で怖くない事と追いかけられても逃げてはいけないことを根気強く和樹に話し、過去の記憶を修正することを試みた。その後、安心感を与えるために母親の子宮の中にいるイメージを伝えた。
「今、何が見えますか?」
「真っ暗です。何も見えません。でもすごく心が落ち着く,水の中に浮かんでるみたい。」
龍一は、少しずつ実際の年齢に戻そうとした瞬間、一樹は不思議なことを語り出した。
「なんだか、すごく蒸し暑い。ジャングルにでもいるみたいだ。空は、今までに見たことないくらい澄んでいて、綺麗です。沢山の人が、上半身裸に腰布を巻いている格好で集まっています。皆、とても興奮しています。今、その人集りの中を掻き分けて、大きな石の建物に向かっています。いや、ピラミッドみたいだ。八階建てのビル位の高さはありそうだ。階段は、四方にあります。急勾配の石の階段を一段一段ゆっくり、と登っています。今にも後ろに転がり落ちそうで、怖い。前の人の汗に濡れた背中が光っています。すごく高い。ずいぶん上にまで来てしまった。沢山の人がピラミッドの周りに集まっている。近くに緑色に輝く泉みたいなものが見えます。ようやく、一番上にたどり着いた。入り口から中に入ります。少し薄暗い。中央に大きな丸い石が置かれています。そこに若い男が寝ている。藍色の染料みたいな何かを体中に塗られている。虚な目をしている。何か薬物を飲まされているのかもしれない。奥に動物の形をした赤く塗られた石の椅子があって、翡翠の宝飾品をいくつも身に付けた身分の高そうな若い男が座っている。逞しい男たちがその周りを囲んでいる年老いた男が何かわからない言葉を叫び出した。何を言ってるんだ。わからない。」
龍一は、何が起こっているのか分からず、戸惑っていた。和樹は突然、拒絶するように体を揺すり始めた。
「どうしたんです。何が起こっているんです。教えてください。」
龍一は、優しく問いかけた。
「その叫んでいた男が、黒い石の三十センチ位の刃物を俺に握らせた。頭に羽飾りをつけた。四人の男が、若い男の両手足をそれぞれ掴んで、丸い大きな石の上に押さえつけている。若い男は抵抗するわけでもなく、無表情だ。そして定まらない視線を俺に向けている。男の汗をかいた胸が大きく波打っている。俺は男に近づいている。何をしているんだ。恐ろしい。なぜだ。止めろ!」
龍一の問いかけには答えない。
しばらくして、和樹の唇から再び言葉が放たれる。
「男の血まみれの左手には赤黒い肉の塊が握られています。それは紛れもなく、たった今、抉り出した心臓です。そしてその拳ほどの塊を人が寝ている形をした足像の部分に
目を瞑った龍一には一瞬、その黒い物体は、皿上の石の上で、微かに動いてるように見えた。
龍一は、店を開ける前のちょっとした空き時間を本屋で潰していた。ベッドに入って眠りに就く前やバスの移動時間など結構、小説を読む。そんな風で暇になれば、決まって本屋をぶらつく。最近は、インターネットで好きな本を購入できるが、ほとんど利用しない。本を買うときは、必ず最初の数行を読んで、のめり込めるかどうかで判断している。かと言って最近は、小説はあまり読んでいない。当てもなく、書店内を彷徨っていると文化・歴史のコーナーで、古代マヤ文明に関する本が目に止まった。
龍一は、そこそこ忙しい金曜の夜を終えたことに満足感を覚えながら店を出た。二時半を少し回っていた。駅近くのビジネスホテルを通り過ぎたところで、ビルの物陰から突然、低い
「悪いが、占いには興味がないんだ。」
龍一は疲れも手伝ってか、吐き捨てるように言った。
「金は要らないよ。あんた近々、災難が降りかかるよ。ひょっとして命を落とすかもしれないよ。」
龍一は.そんな手には引っかからないとでも言いたげな口調で呟いた。
「悪いなぁ。急いでるんだ。」
龍一は、踵を返すと歩き始めた。
「あんた前世を信じるかい?」
龍一は、好奇心を
「あんた面白いこと言うなぁ。じゃあ、オレは前世で一体、何だったって言うんだ。」
これは、客に話したら受けるぞと密かにほくそ笑みながら答えた。
女は、黙って龍一を見ていた。
「高僧の生まれ変わりだ。しかし、修行半ばで命を落としているな。」
「コウソウ?偉い坊さんのことか?このオレが、こんないい加減な奴が?じゃあ、ダライ・ラマみたいに、そのうち誰か弟子が迎えに来るかもな。」
龍一は、可笑しくて仕方がなかった。
女は、ふざけた態度の龍一を睨みつけた。
「あんたには、特別な能力があるだろう。例えば人の気持ちが読めたり、人の心の中に入り込めたり、大きな事故にあってもかすり傷で進んだり。龍一は、幼稚園のバスが衝突事故にあった時、他の園児たちは全員骨折したり、酷い怪我をしているにも関わらず、自分だけがかすり傷程度の怪我しかなかったことを思い起こしていた。
「さぁ、手を出して 」
龍一は、言われるままに両方の掌を女の前に差し出した。女は龍一の左右の手のひらを交互に調べると、ゆっくりと喋り始めた。
「ほら、見てみなさい。頭脳線が内側に大きくカーブしているだろ。これはある程度年齢を重ねると精神的な世界に傾倒していくことを示している。珍しい線が出てるね。環状線の上に半円状の線があるだろう。これは金星帯と言って、芸術家とかによく出る線だが、あんたみたいに線がハッキリしてると感受性が強すぎて、逆に良くないんだよ。隆一は、不満げに自分の量の手を見つめた。
「あんた、何歳だい?龍一はなぜか、口籠もりながら、三十四と小さく答えた。
「この線を見てごらん。運命線。中指に向かって縦に登る線だよ。頭脳線の所で、強い線が横切っているだろう。そしてその後の線がひどく弱くて、薄い。重大な障害が起こる報せだ。しかもこの位置からすると、今年辺りだ。しかし、感情線と頭脳線の間に横切ってる線がある。神秘十字線だ。ご先祖様から、守られている証だ。
龍一は、断定的に自分の運命を語る占い師を唖然として見つめていた。
「万が一、あんたが言うのが正しいとして、どうすれば、その災難を避けられる?」
分からない、占い師は残念そうに答えた。
「ただあまり人と深く関わらんことだ。そう、ここ一年位、大人しくしてることです。特に知り合ったばかりの若い女に気をつけなさい。」
龍一はずい分無茶な答えだな、若い女と関わるななんて理不尽すぎると思った。
龍一は、ジーンズのヒップポケットから財布を出そうとしたら、占い師から止められた。
「金は要らないよ。」
女は、信念を貫く哲学者のように毅然と答えた。商売っ気のない占い師だな。龍一は、首を傾げた。
隆一は踵を返すと部屋には向かわず、知合いの店へと足を向けた。三十分前までの仕事の快い充足感は、すっかり消え失せていた。店はサパーだが、オーナーと知り合いなので、安い料金で飲ませてもらっている。店に着くと金曜の夜らしく、テーブル席は、満席だった。
店長が丁重に、四十代後半のお金持ちのおば様のグループに頼んでくれて、席を1つ空けてくれた。
「ナニ、珍しいじゃない?今日は花金なのに。ひょっとして、店ヒマだった?やだなぁ、店に貧乏神、連れてこないでくれる。悪いけど。」
店長は今にも、タガログ語を捲し立てそうな南方系の顔立ちを崩すと快活に笑った。
明け方、四時を過ぎるとおば様のグループもシャンパン酔いの千鳥足で帰っていった。帰り際、ピアジェの腕時計をした中年女性が、店長と役者志望の若い店員の頬や唇を犬みたいに執拗に舐め回していた。あれも、一種の愛情表現なのだろう?ひょっとしたら、塩分を補給しているのかもしれない?
中田和樹は、夢を見ていた。人らしき大きな影が暗い石畳の鋪道を何かを物色しているかのように早足で歩いている。霧が立ち込めていて、ぼんやりとしか周辺が見渡せない。男は靴が汚れないように、足元の馬の糞に気をつけながら歩いている。硫黄のような臭いが辺りに立ち込めている。人通りが少なく、十九世紀のスカートが広がった安っぽい仕立てのドレスを着た女が角かどに立っている。それらは一様に垢で薄汚れている。その女たちは皆、酒を飲んだような赤ら顔をしている。通り過ぎる男に次々に、卑猥な言葉を投げかけては誘っている。男たちは面倒臭そうに、女たちを遇らっている。
一杯、奢ってよ。男の顔を見るなり、けばけばしい化粧のブルネットの髪の女が、
男はぼそぼそと小声で答えると手を軽く振り、女追い払った。男は、急ぎ足で目当ての酒場へと向かった。裏通りに入った路地では、女が建物に手をつき、左手に酒瓶を持った男が背後から激しく腰を動かしている。重い木製の扉を開けると喧騒が渦巻く店内へと滑り込んだ。労働で鍛えられた逞しい腕には、一様に瀬戸物のビア・マグやスコッチの入った無骨なグラスが握られている。その後ろ姿の男は楽しそうに男達と談笑し、酒を組み交わしていた。男は楽しそうに笑いながらも落ち着きがない。何かを探しているようにも見える。太った中年女が男の黒のフロックコートに身体を密着させるとビールを奢って、と科を作っている。汚れた歯と大きく歯茎をむき出し、下卑た声を上げる。男は女にビールを奢ると乾杯した。女はビールを含みながら、卑猥な言葉を男の耳元に囁く。上目遣いで唇を何度も舐めては、何気なく男の体に触れる。男は、女の身体を幾度も触る。その度に、女の嬌声が上がった。二人は数杯のビールで喉を潤した後、店を出た。そして狭い裏通りへと男の手を掴み引き込んだ。男のパンツのボタンに手をかけた。女は下卑た表情で、汚れた乱杭歯を覗かせる。激しい嫌悪感が湧き起こり、その場面は真っ暗になった。
月明かりが、通りの石畳を冷たく照らしている。小柄な太った女が、顔と腹を切り裂かれ大きく目を剥いたまま、路上に横たわっている。石畳には、大きな血溜まりができている。男はその
和樹は全身に嫌な寝汗を掻いたまま、目を覚ました。ひどく喉が渇いている。ベッドの横の時計を見る。午前三時だった。あのインチキな男に催眠術をかけられて以来、不気味な夢ばかりを見る。今度店に乗り込んで、思いっきり苦情を並べ立てて懲らしめてやろうと思った。ベッドの中で何度も寝返りを打った後、増大する尿意に我慢できずトイレに立った。玄関脇に置かれた姿見に何気なく視線を泳がす。鏡に映った自分の後ろに一瞬、暗い表情の白人らしき男が、ぼんやりと浮かんだ。目を凝らすと、暗闇に青ざめた自分の顔だけが映っていた。
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