第3話 現れた過去

 現れた過去

 ななみが七年ぶりに隼人と接点を持ったのは、ファンレターだった。

 ななみは高校時代に負った心の傷から人間不信になり、大学時代はもっぱら一人で過ごして好きな読書に没頭し、やがて自分で物語を執筆しては投稿するようになった。

大学卒業後は人とあまり接しなくても済むような小さな会社の経理事務に就いたが、投稿を続けたかいがあり、ついに出版社に認められ川瀬みなみというペンネームでデビュー。たった二年務めただけの会社を退職して、本格的な執筆活動に入り、エンターテインメント作家として着実に名前を売るようになった。

 そんなななみのもとに、ある日出版社からファンの手紙やプレゼントをまとめた宅配便が届いた。

ファンの応援や作品への感想は、ななみにとってやる気の源になる。有難いと思いつつ目を通していくと、美しさやかわいさが目立つ封筒の中に、シンプルなブルーの封筒があるのに気が付いた。

差出人は無いが男性からだろうかと開いてみると、中身は熱烈なファンレターで、ななみは思わず赤面してしまった。ところが、文面の語尾に書かれた名前を見て、ななみの顔色がサッと青ざめる。

「大木……隼人?」

 思わずぐしゃっと握った便箋は、しわくちゃになってしまい、ななみは恐る恐るしわを伸ばして、再び差出人の名前を見る。

「うそ。なんで今頃……」

 自尊心も自信も、クラスメイトの前でぐしゃぐしゃに踏みつぶされたななみが、再び人の中に入るのにどれだけの苦痛を強いられたか。

 今だって人の目が怖い。いくら作家になったからと言って、明日が保証されているわけでもなく、自分の作品が本当に面白いのかもわからない。

 ただ、こんな豪快で生命力にあふれた主人公だったら、楽しい人生が送れるだろうなと思い、頭の中に描いたストーリーを文章にしているだけ。

 隼人が熱烈に褒めるのは、相手をいい気持ちにさせて、後から突き落とすためだ。

ペンネームがあるとはいえ、「瀬川ななみ」を少し変えただけの「川瀬みなみ」では、隠れ蓑にもならないのかも。この手紙もまた相手を翻弄するための目的で書かれたのだとしたら、いったいなぜ七年も経った今、私をターゲットにしたのだろう?  ななみは不安に駆られた。

隼人からのファンレターは二か月にわたり、何通も届いた。

住所は隼人の親が経営する大木コーポレーションの本社になっていて、文面には作品の称賛と、主人公が高校時代の同級生に似ていてとても懐かしく思い出されたと綴られている。

まるで正体を知っているぞと脅されているようで、誰かに相談した方がいいのだろうかと悩むうちに、ファンレターは届かなくなり、ひと月ほどが経過した。

 そんなある日、ななみが買い物に出た時に、通りを挟んだ向かいのデザイナーズマンションに引っ越しトラックが止まっているのが目に入った。

 トラックから運び出している家具類は、色が落ち着いていて結構しゃれていて、小説を書くときに参考にした高級家具のサイトに載っていたものと似ている。もし同じものなら、住人は結構お金持ちの人だろう。

開いたエントランスドアの中に目を向けると、ちょうど中から男性が出てくるところだった。

 大木隼人!? 

 高校のころは流行を追ったヘアースタイルで決め、結構派手目な服装を好んだ隼人は、七年経った今、顔も身体も大人になり、黒髪をナチュラルに流し、品のいいコーディネートに身を包んだ別人に化している。

 なぜ、こんな目の前のマンションに彼が引っ越し? 偶然なのだろうか?

ななみの頭にストーカーという言葉が閃き、背筋が凍った。

先日のファンレターといい、引っ越しと言い、偶然が重なりすぎている。

けれど今まで隼人とは接点もないし、あんな高級マンションに住めるようなら、しがない物書きの私に固執する理由など見当たらない。

きっと偶然だ。驚きで足を止めてしまったが、見つからないうちに立ち去らないと、どんな厄介ごとに巻き込まれるか分からない。

ななみはトラックの横を通り過ぎようとしたが、隼人がななみを見つける方が早く、追ってきた声に縫い留められた。

「瀬川さん? 瀬川ななみさんですよね?」 

 なぜ、敬語? と不審に思い、思わず振り向いてしまう。

「ああ、やっぱり瀬川ななみさんだ。すごい偶然ですね。この近くに住んでいらっしゃるのですか」

 わざとらしい敬語とさわやかすぎる笑顔に、ななみは自然に後退りする。

「あっ、待ってななみさん」

 待つものですか。捕まったら最後、猫に摑まったねずみのように弄ばれてボロボロにされる。ななみは建物の角を何度も曲がり、スーパーへ辿り着いた。

 ここまで来てしまったけれど、今買い物をして帰ったら、まだ引っ越しの最中の隼人とばったり顔を合わせることにならないだろうか。

 ななみは、普段は行きもしないような駅の反対側まで足を伸ばしたが、いつも部屋に閉じこもって小説を書いているせいで体力が続かない。スーパーに辿り着くころにはくたくただった。

 一人暮らしの食事は一つ鍋で調理することが多い。たいていは煮物だが、野菜も肉も摂れるし、時間もかからず洗い物も少なくて済む。一人暮らしで身に就いた有難くない独り言が口をつく。

「でも、鍋ばかりだと飽きるのよね」

「そうですね。一人鍋だと野菜も肉も種類を入れられないから飽きますね。たまにはステーキと付け合わせとスープとサラダはどうですか? 二人なら材料を半端に残さなくて済みますし」

 ななみは背後からかかった声に、びくりと身体を震わせた。

 振り向きたくない。なんでまたここにいるの? 隼人って背後霊? ぶつけたい疑問と文句は多々あるが、ななみのいる場所の商品を気にする女性が隣に来たので場所を譲り、ついでに仕方なく振り向いた。

「あの、私に構うのは、やめていただけませんか? ひょっとして足蹴にする人間が周囲にいなくなったから、また振りだしに戻って私をターゲットにするつもり?」

 斜め後ろにいた女性客が驚いた顔でななみと隼人を見比べながら、その場から逃げるように去っていく。少しまずいなと思ったけれど、変な噂でも立って隼人がどこか遠くへ行ってくれるなら、その方がいいかもしれない。

「俺はななみさんに、酷いことをしたようですね」

「はぁ? あなた何を言って……」

「すみません。実は一か月前に事故にあって、最近のことは覚えているのですが、それ以外は思い出せないのです。ななみさんの罵倒を聞いて、自分は最低の人間だったと知りました。何があったのか詳しく教えていただけませんか」

「忘れたですって!? ウソばっかり! そういうフリをして私に辛いことを話させて、私が苦しむのを楽しむつもりでしょう?」

ななみはキッと隼人を睨み、まだ空の買い物かごを振って隼人の腕にぶつけた。怒りでどうにかなりそうだ。

 もう一度買い物かごをぶつけようとしたが、後ろから店員にかごを引っ張られて不発に終わった。店員が怖い顔でななみを見て、店の備品を粗末に扱わないように注意する。我に返ったななみは、申し訳なさでいっぱいになり、店員に頭を下げた。

 きっと隼人は目論見通り、ななみが無様に謝る姿を楽しんでいることだろう。悔しさに唇を噛み、ななみがその場を去ろうとすると、隼人が腕を捉えて止めた。

「この女性は悪くないんです。俺が過去に彼女をひどく傷つけたのに、無神経にもその話題を蒸し返そうとしたから、彼女が怒るのは当然です。買い物かごが破損していたら、俺が支払います。お騒がせしてすみませんでした」

 頭を深々とさげる隼人に、店員がいえいえと手を振り、恐縮しながら持ち場に戻っていった。ななみの持っていたかごと一緒に。

 人々が注目する中、また入り口まで戻って買い物かごを取ってくる気力が湧かない。

みんな隼人のせいだ。まだ摑まれたままの腕を振って、隼人の手から逃げようとしたが、思いのほか力が強くてうまいかない。

「放してください。もうこれ以上私を追い詰めないで」

「ごめん。手を放すから逃げないで。ななみさんは買い物に来たのでしょう? 要るものを言ってくれれば俺が買います。このまま立ち去れば、このスーパーに来にくくなると思う。さっきのはただの喧嘩と思わせるために、仲直りしたフリをして一緒に店を出ましょう」

 確かに、いつも買うスーパーで顔を知っている店員もいるから、隼人ともめて帰れば悪印象が残るだろう。ななみは隼人の提案を受け入れた。

 思えば、それがいけなかったのかもしれない。

「鍋は飽きたと言っていたから、焼肉がいいですね」

隼人は国産の高級牛肉から始まって、野菜や果物もどんどんかごに放り込んでいき、ななみが制するのを聞かずにすべて支払ってしまった。

「君の気持ちがこれで治まるとは思っていないけれど、さっきのお詫びとして受け取ってほしい。車で来ているから荷物は運びます。助手席が嫌なら後ろに乗ってくれればいい」

 駐車場には車に詳しくないななみでもわかるドイツ車が止めてあり、隼人が斜め後ろのドアを開く。あのころのような威圧感もなく、押し付けがましくもない隼人のスムーズなエスコートには目を見張るばかりだ。

 ドアを開いたまま待つ隼人を無視できず、ムスッとした顔のまま革張りのソファーに腰を下ろす。さすが高級車。クッションが違うと思っていたら、バムと重厚な音を立てて扉が閉まった。

 住所は言いたくなかったけれど、目の前の建物に住んでいたらいつかは顔を合わせてしまう。仕方なく事実を告げて、アパートの前で車を降り、食材を運ぶと言う隼人に要らないと断る。いくらなんでも部屋まで教える気にはならない。とっとと行こうとすると、隼人が車から降りて追いかけてきた。

「俺一人であれだけの食料を片付けるのは無理です。部屋を知られたくないなら、俺の部屋で食事だけでもしませんか? 焼肉なら俺でも焼けるから」

「どうしてあなたなんかと一緒に……」

 隼人の必死な顔を見て、言葉が継げなくなる。一度惚れた弱みを、いつになったら克服できるのだろう。

 あの頃は、手が届かなくて見ないふりをしていた。見ているだけでよかったのに。差し伸べられた手は蜃気楼でしかなく、縋りつこうと足を踏み出した途端に、足元がガラガラと崩れ落ちた。落ちたのではなく、突き落とされたのだと気づいても、隼人を思う気持ちが止められず、苦しくて、愛しくて、悲しくて、諦めようとしても大好きで……。ほんと、泣ける。

 目の前にいる隼人が何を企んでいるのかもわからないのに、あの頃の自分が、震えながらもまだ手を伸ばそうとするのだ。

 自分でも信じられないことに、ななみは隼人の招待に応じた。

スタイリッシュで美しい部屋に、いきなり焼肉の匂いを充満させてもいいのかと心配しつつ、こんな部屋で何かあったら心の傷だけでは済まないのにと警戒心を漲らせながら。

 ただ、何かを相手が仕掛けてくるのを待つのは心臓に悪い。こちらから魂胆を探ってやればいい。それには怒らせて早々に本音を引き出すのが有効かも。

 ななみはつけタレを二種類作り、隼人の分には大量の唐辛子を入れてやった。スープをつけ分けた時も、隼人の分に塩を足すのを忘れない。

 さすが高級肉だけあって、焼肉はすごくおいしかった。目の前でむせる隼人を見られたから、余計に胸がすかっとして、美味しく感じたのかもしれない。

「ひょっとして、ものすごく辛いのが好きなんですか?」と聞かれて、ななみは噴き出してしまった。こんな男の前で笑うなんて信じられないと思いながら、隼人と付き合った当初は、楽しいこともあったのをちらりと思い出す。

 だめだめ。気を許しては! ななみは、これが隼人の手だったと、首を振って感傷を振り払った。

 たった一度の食事のはずが、それから何度もタイミングよく現れては、ななみが断れないように持っていく隼人のせいで、何度か食事を共にするようになってしまった。

 外食した帰り道、隼人が立ち止まり、どう伝えればいいんだろうとななみを見つめながら辛そうに言った。

「過去のことならもういいと言いたいけれど、あなたは記憶を失っていて、過去を心から詫びることはできないのだから、許すことはできないわ」

 ああ、絶望したように俯いた隼人が、違うんだ、本当は……と言いかける。

「だんだん思い出していた。でもあまりにも自分の仕打ちが酷すぎて、どうやって謝っていいかわからずにいた。言い訳になるかもしれないが、後継者争いでポイントを稼ぐために、愚かな俺はやり方を間違えたんだ。ななみさんが振り向かなかったから腹がたったんじゃなくて、本当はずっと心の中で気にかかっていたのに、自分が始めたパワーゲームから降りられなくなってしまったんだ」

 本当に申し訳なかった。そう言いながら、隼人が深々と頭を下げる。

 会社云々を持ち出されても、ななみには関係ないことで、そんなことに巻き込んだのかと気持ちが冷ややかになる。その反面まだ17歳だった少年が、跡取りとして認められようと足掻いていたのかと同情も湧く。ななみを気にかけていたというのは、許しを請うための嘘かもしれないけれど、少しだけ傷ついていた心が報われたような気がした。

「もういいわ。お互いに大人になったのだから、過去は忘れることにしましょう」

 安堵した隼人が、懐から何かを取り出そうとするのを、ななみは冷ややかに制した。

「お金で片をつけようとするなら、前言を撤回するわ。一生恨んでやる」

「違う。これはこの間旅行に行ったときに買った土産で、願掛け人形なんだ。結構効果があるらしい。なりたい姿、叶えたい夢をなんでもいいから願うというよ」

 手のひら大の小さな木像の人形は、額に緑の石がはめ込んである。中世的な顔をしていて、長い襞のある服装からも、性別は判断できない。

「本当に願いを叶える人形? 願いを言ったらその反対になったりしない?」

「俺は、どうやっても信用はしてもらえないんだね」

 隼人が寂しそうに笑った。

「ただ、これだけは信じてほしい。昔も今も君が好きだ。今の俺は特に君に惹かれている」

 じゃあ、おやすみと言い残し、隼人はすぐ先に見えるマンションへ足早に歩き去った。

 信じたいけれど、もし同じことが起きたら、もう二度と立ち直れない気がする。ななみは小さくしゃくりあげながら、アパートへ帰っていった。

 

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