第3話(夕月)

「それで、何で私が貴方の惚気を聞かないといけないのよ」

「惚気てなんかないでしょ。ただ、旅行でおすすめの場所ってありますか?って聞いただけです」

「どうせ相手は朝陽ちゃんなんでしょ?」

「そうですけど」

「やっぱり惚気じゃない!」

飲みかけのチャイナブルーを一気に飲み干して、マリは空になったグラスをテーブルに叩きつけるように置いた。トロンとした目で、私を品定めするかの如く下から頭の天辺まで視線を這わせる。

「元カノにそういう話をするのって、普通は気を遣わない?」

私がまだ自分の店を出す前、修行していた店からの常連客であるマリは、最古参のお客さんと言ってもいいだろう。それだけ長い時間を共にすれば、お互いに良いなって思う事もあって。だから一時期、マリと付き合っていた事もあるけれど、お互いに真剣な恋ではなかったはずだ。マリは付き合っている時も、私の店で他の女の子をナンパして、そのままその子とホテルに行ったりしていた。それは逆も然りで、私だってワンナイトをしていた。それを互いに咎める事も無かったし、朝陽と出会って、マリに別れを告げた時も反対してこなかった。だから私の中であれは恋愛ではなく、ただのセフレの関係だったと思っている。

「真理子だから気を遣わないで済んでますよ」

「ちょっと。本名はやめてよ。マリって呼んでって、いつも言っているでしょ」

真理子って良い名前だと私は思うけど、本人は気に入っていないようで、昔からマリと呼ばないと機嫌が悪くなった。前髪が綺麗に整えられたボブの髪をかき上げながら、私を睨んでくる。眼鏡の奥に見える瞳には怒りが籠っており、本当に嫌がっているのが見て取れた。

「ごめんごめん。マリさんが試すような事を言ってくるから、ちょっと意地悪を言いたくなって」

マリは大きな溜息をこぼすと、「おかわり頂戴」と空のグラスを渡してきた。私はチャイナブルーを再度作り、マリの前に差し出す。

「朝陽ちゃんとの旅行でオススメの場所ね~。貴方たちにピッタリの場所があるわ。2人きりでゆっくり出来る所よ」

「どこですか?」

「洞窟なんてどうかしら? 2人でこっそり隠れて楽しんだら?」

その言葉には嫌味がたっぷりと含まれていた。ニヤリと笑いながら、こっちの反応を楽しんでいる。

「もういいです。マリさんに聞いた私がバカだった」

カウンター越しに大きくため息を吐き、他の客の所へ行こうとする。するとそれを見たマリも、小さなため息をこぼした。

「夕月が朝陽ちゃんと出会わなければ、私たちって続いていたのかな?」

マリは酒を1口飲むと、グラスの中の液体を回しながらそう口にした。地味な化粧に、地味な服装が多いマリだけど、いつだって自信に満ち溢れていた。マリがこんな弱音を吐く日が来るなんて。

「なんてね。冗談よ。少し悪酔いしちゃった」

「もしかして、私の事を好きなんですか?」

「まさか。特定の誰か1人を愛するなんて、私には出来ないわ。色んな人と楽しい事だけをしていたいの。夕月とも、ワンナイトなら考えてあげてもいいわよ」

そう言うと、マリはグラスの酒を飲みほした。いくら酒の強いマリとはいえ、流石にペースが速すぎる。私が止めようと口を挟もうとしたところで、マリはそれを手で制した。

「大丈夫。今日はもう帰るわ」

財布から千円札を数枚取り出すと、それをテーブルの上に置いて立ち上がった。掛けていたコートを取り、入り口に向かう。扉の前まで来たところでおもむろに振り返ると、「熱海は良いわよ。個室に露天風呂付きの旅館なんてどうかしら?」としっかりオススメを教えてから店をあとにした。何だかんだ言いながらもちゃんと教えてくれるマリに感謝しながら、私はマリの背中を見送った。

翌日、朝陽は宣言通り夕方に店へやって来た。ただ、隣には年配の女性を連れている。

「お久しぶりです。由紀恵さん」

私は朝陽の隣に立っていた女性に挨拶をする。

「夕月さんよね。久しぶり。いつも娘と仲良くしてくれて有難うね」

「何を言っているんですか。仲良くさせてもらっているのは私の方ですよ。お礼なら私が伝えないと」

「やっぱり夕月さんは面白いわね。お店も繁盛しているみたいだし、貴方の人柄のおかげかしら」

「違いますよ。コーヒーが美味しいからです」

「2人ともそこまで! ほら、お母さん。せっかくユヅちゃんが席を取っていてくれたんだから、早く行くよ」

由紀恵と冗談を言い合って笑っていると、朝陽が割って入ってきた。

朝陽は母親をリザーブの札が置かれている1番奥の席に座らせると、札を持って1人で私の所まで戻って来た。

「ごめんね。久しぶりに医療従事者と私以外の人と話せたから興奮してるみたい」

「全然大丈夫よ」

リザーブの札を朝陽から受け取りながら、笑顔で応える。

「ブレンドを1つと・・・」

「BARの時に使う用で置いている、紅茶と各種ジュースなら出せるけど?」

「さすがユヅ。分かっているね~。私はオレンジジュースで」

「はいはい。言っとくけど、本来はコーヒーしか提供していないんだからね」

「ごめんね。忙しいのに、わざわざメニューに無いの注文しちゃって」

「朝陽がコーヒー苦手なのは知ってるし、ジュースなんてパックからグラスに注ぐだけだから気にしなくていいよ。忙しいのにも、もう慣れたし」

朝陽と話しながらも、テキパキと手を動かす。元々席数が少ないとはいえ、学生や老人の客でカウンターもテーブル席も埋まっている。幸いにもその誰もが注文をすでに終え、提供も終わっている状態だ。今は朝陽と由紀恵の注文だけに集中できた。

「焙煎して、今日が3日目だから1番美味しく飲めるかもよ」

まずは、由紀恵のブレンドから準備を始めた。ネルと呼ばれる布製のフィルターとカップを、予め沸騰させておいたお湯を細口ケトルで注いで温める。温まったら、特別にブレンドしたコーヒー豆を取り出し、中挽きにする。その瞬間、コーヒー豆の良い匂いが辺りを支配した。

「うわ~。良い匂い・・・」

黙って見ていた朝陽も、この香りには思わず声を漏らした。私も、カフェを経営していて、豆を挽くこの瞬間が1番好きだった。

挽いたばかりの粉をフィルターに入れ、平らに均す。そして中心から円を描くように全体が湿る程度までお湯を注ぎ、30秒ほど蒸らす。蒸らしが終わったら、3回に分けてお湯を注いでいく。ゆっくり、丁寧に。だけど、時間をかけすぎずに。この時、落ち切る間際の抽出液は雑味がある場合もあるため、切りのいいところでサーバーから外すのがポイントだ。

「由紀恵さんって、ブラックだっけ?」

「ブラック派だけど、退院したばかりだし、ミルク入れてあげて」

「分かった。付けておく」

由紀恵のブレンドコーヒーを作り終え、次は朝陽のジュースに取り掛かった。棚からグラスを取り出し、カウンター下の冷蔵庫からオレンジジュースの紙パックを取り出して注ぐ。

「はい。完成」

「え~。なんか、私の呆気なくない?」

「しょうがないでしょ。メニューに無いのをわざわざ提供しているんですけど?」

「冗談だよ~。ありがとうね」

「せっかくだし、今日は早めに店じまいをしようと思うけど、あと30分くらい待てる?」

「全然待つ。ユヅちゃん、残りの仕事も頑張ってね」

朝陽は2人のドリンクを持って、母の待つ席に戻っていった。コーヒーの匂いを嗅いで、由紀恵は親指を立てて私に合図をくれた。どうやらお気に召してくれたみたいでよかった。

私は道具を片付け、外の札をひっくり返してクローズにする。これで新規の客は来ない。あとは、店内の客が帰れば今日の営業は終わりだ。私はカウンターに戻り、静かに店内を整えていく。食洗器からコップを取り出すと、水垢が出来ないよう綺麗に水気を拭きとりながら店内を眺める。学生らしきグループは小さな声で楽しそうにお喋りをしており、老人は文庫本を真剣な表情で読み進めていた。上の階から定期的に購入しているレコードが、店内に流れている落ち着いた雰囲気に拍車をかけている。何とも微笑ましい光景だった。2人の様子をちらりと伺うと、何か話しながら時折私の方に目をやっては微笑んでいる。声は聞こえないけれど、2人の穏やかな会話の中にこれからの旅行の話が混じっている事が感じられた。

暫くこの雰囲気を楽しんでいると、まずは学生のグループが退店し、続いて老人も帰っていった。

店内が3人だけになると、由紀恵は空になったコーヒーカップをカウンターまで持ってきた。

「本当に美味しかったわ。流石ね」

「ありがとうございます。お口に合って良かったです」

「また飲みに来させてもらうわね」

「是非。いつでもお待ちしていますよ」

「確か、夜はお酒も提供しているのよね? 今度は夜に来ようかしら」

私は突然の変化球に驚いて朝陽の方を見ると、手で大きくバツ印を作っていた。夜はレズビアンBARになるという事を由紀恵は知らないようだ。朝陽は自分がレズビアンだという事を由紀恵に明かしていない。母親にバレたくない気持ちも分かるけど、この状況で夜は来ないでください何て言える訳がなかった。朝陽もそれは察したようで、由紀恵の肩を掴み、無理やり自分の方に振り向かせた。

「お母さんは病み上がりなんだよ。規則正しい生活をしなきゃ。腎不全だって、治った訳じゃないんだし」

「分かっているわよ。冗談よ。それに、私みたいなオバちゃんが来るような所でも無いでしょうし」

私は由紀恵にバレないよう、そっと胸を撫で下ろした。

「気を付けて帰ってね。何かあったら電話ちょうだい。私も直ぐに帰るから」

「まったく。心配性な子ね。夕月さん、こんな子だけどこれからもよろしくお願いしますね。もしよかったら、良い人でも紹介してやって下さい」

「お母さん!」

「何よ、ウルさいわね。いいじゃない。夕月さんはモデルみたいに綺麗だし、良い人を沢山知っているでしょう」

「お母さんってば!」

「心配しているだけよ。朝陽ったら、全然男っ気が無いんだもの。私はいつまで生きられるか分からないのに、早く孫の顔が見たいわ」

「お母さん! 本当にやめてよ」

まだまだ何か言いたそうだったけど、朝陽に背中を押されて由紀恵は店の外へ連れていかれた。私は手を振って見送ったけれど、きちんと笑顔を作れていただろうか?

由紀恵に悪気がないのは分かっている。悪気がないからこそ、先の尖っていない言葉の針が深く私の胸に刺さった。

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