第2話(夕月)

通路に面したキッチンの小窓を開け、街に漂う朝の雰囲気を感じる。既に学生たちは登校し終え、サラリーマンたちの通勤ラッシュも終わった朝はとても静かだった。小鍋の中で煮立っているお湯に味噌を溶かすと、味噌の濃厚な香りが部屋中に広がった。小窓から入ってくる空気が今朝は少し肌寒く、湯気が心地よい温もりを与えてくれた。味噌の加減を確認しながら、お玉で少しすくい取って口元へ運ぶ。塩気が口の中に広がった。深酒をした後に飲むにしては物足りないけど、朝の始まりにふさわしい味だと確信して鍋の火を落とす。

テーブルに並べた朝食は、味噌汁、ご飯、卵焼き、そして漬物。特段、豪勢な訳ではないけれど、漬物は自分で漬けたりと手間はかけているつもりだ。朝食はいつもこれくらいの献立にしている。なにせ、好きな人と一緒にご飯を食べられる時間は限られているから。

「そろそろ起こさないと」

炊きたての白米を食卓に並べると、朝陽の寝ている寝室に向かう。

寝室の扉をそっと開けると、少し乱れた布団の中から朝陽が顔を出していた。まだ夢の中にいるようで、少しのびやかな呼吸を繰り返している。起こしてしまうのは少し心が痛むけど、今日は予定があると言っていた。いつもなら朝陽の可愛い寝顔をゆっくり眺めるところだけど、今日は勢いよく布団を引き剥がした。

「やめてよ~。あと5分だけ」

名前とは対照的に、朝陽は朝が弱い。

「起きて。もうすぐ9時だよ。今日は予定があるんでしょ?」

まだまだ眠たそうに瞼を擦りながらも、朝陽はゆっくりとリビングに歩いてきた。「ん~。ユヅちゃん、おはよう」あくびを噛み殺しながら挨拶をすると、既に朝食の並べられた自分の席に腰を下ろす。

「毎朝ありがとう。今日も美味しいよ」

席に座り、眠気覚ましに味噌汁を啜りながら、子供のように屈託のない笑顔でそう言った。

「ありがとう。薄くない?」

「いつも通り美味しいよ。さすが夕月シェフだね」

冗談だとしても、褒めてくれるのは嬉しい。私も味噌汁を煽り、思わずニヤケそうになる顔を隠した。

「そういえば、今日退院するんだっけ?」

「そうだよ。今回は長かった」

朝陽の母は腎不全を患っており、入退院を繰り返している。普段は母と2人で暮らしているけど、母が入院している間は私の家で一緒に生活をしていた。幼い頃に父親を亡くした朝陽にとって、母は唯一の家族だ。朝陽の大学進学を機に2人で一緒に東京にやって来たくらいだ。お互いに大好きで、仲の良い家族。だからこそ、もどかしい。好きな人の家族には元気でいて欲しいけど、元気になれば朝陽は帰ってしまう。

「ねぇ、ユヅ」

「ん?」

「明日、お店に行ってもいい?」

「昼? 夜?」

「もちろん昼だよ〜」

「だよね。朝陽はBARの常連客がグイグイ来るから苦手だもんね」

「行っていい?」

思わず綻びそうになる顔を、歯を食いしばって我慢する。私がデレている姿なんて、朝陽に見せたくなかった。

「分かった、いいよ。1席空けとく。ただ、週末で人が多いと思うから覚悟してね」

私はリリィという店で、昼はカフェの、夜はレズビアンBARのマスターとして働いている。昼過ぎには店に行き、深夜まで働いて帰ってくるのは早朝。そんな生活だから、朝陽とは生活リズムが合わない。

「大学はどうなの? もう直ぐ卒業でしょ?」

「単位は足りてるし、内定も貰ってる。だから暇だよ〜。それこそ、毎日のようにユヅちゃんの店に遊びに行くくらい」

最近、カフェ営業の時間はほぼ毎日来ていたのは、そういう理由だったのか。少し前に、大手の玩具メーカーに就職が決まったと喜んでいたのを思い出した。私は「そうなんだ」とだけ返事をして、会話を終わらせた。

二人で静かに朝食をとる時間。味噌汁を啜る音、漬物を噛む音。時折交わす会話の合間に、またふわりと静寂が戻る。言葉は少ないけど、その静けさが心地よい。目を合わせる訳でもなく、それでもどこかで繋がっているいる感覚がある。

「ご馳走様!」

朝陽は食べ終わると、元気いっぱいの声で手を合わせた。あれほど眠たそうでテンションも低かった朝陽だけど、朝食を食べ終えるといつも元気になる。

私は朝陽が食べ終えた食器をシンクまで運び、水に浸ける。後ろで慌ただしく帰宅の準備を進める朝陽に寂しさを感じ取られないよう、何気ない口調で話した。

「大学もひと段落ついて暇なら、一緒に旅行にでも行かない?」

食器を洗いながら、だけど神経だけは背中に集中して朝陽の反応を探った。すると直ぐにスーツケースを倒した音が聞こえて、バタバタと大きな足音を立てて朝陽が顔を出した。

「本当に? 行く! 絶対に行くよ!」

そう言いながら、私の後ろから抱きついてきた。

「やめて。洗い物中だから」

「えへへ。嬉しくて、つい」

怒られたのにヘラヘラしている朝陽は、リビングの椅子を持って来て私の後ろで腰掛けた。

「行きたい所とかある?」

「あるよ。寒さから逃げるために沖縄に行きたい。でも逆に、北海道でスキーってのもアリだよね。せっかくだったら、ハワイなんてのもアリだね!」

「それは流石に厳しいよ。そんなに長期間、店を閉めておけないし。1泊2日くらいね」

「北海道に行くなら、アウターを新調しないと。水着ってまだ有ったかな?」

私の話を聞かず、1人で妄想の世界に入ってしまった。そんな朝陽に呆れつつ、私も今から楽しみで仕方がない。

「ねぇねぇ。ユヅちゃんはどこに行きたい?」

しばらく放置していると、朝陽は私にも話を振ってきた。

「考えておくね。それより、時間はいいの? お母さん待ってるよ」

「え! ヤバい!」

慌てて準備を再開する朝陽は、まるで子供のようで可愛い。

「いってきます! またね」

私のいってらっしゃいも聞かずに、朝陽は飛び出していった。

玄関の扉が閉まる音が、1人残された部屋に響いた。部屋の空気が一気に静まり返った気がする。洗い物をする気がおきなくて、途中で切り上げてベッドに向かった。さっきまで朝陽が寝ていたベッドは、無造作になっている布団がまだ朝陽を感じさせてくれる。ベッドに横になると、まだ朝陽の体温を感じられて、私の中の寂しさがより鮮明になった。

ふと時計に目をやると、昼まであと数時間しかない。今日も店は開けなくてはいけない。早く寝ないと。目を瞑ってみても、睡魔はなかなか襲ってこなかった。

私はずっと強い人間だと思っていた。何人もの女の子を誑かしては、飽きたらお別れしてきたじゃないか。朝陽とだって、今が楽しかったらそれで良いと思っていた。それなのに、今は朝陽が居ないと不安になってしまう。朝陽に依存してしまっている自分が、怖くて仕方がない。そんな弱い自分を朝陽にバレたくなくて、いつも強がってしまう。

何も考えずに眠るには、まだ時間がかかりそうだ。それでも、仕事のために寝ないといけない。頭では分かっているけど、心がどうしても落ち着かない。スマホを手に取り、朝陽とのLINEを開く。何かメッセージを送ろうかと思ったけど、普段は自分からメッセージを送る事はあまりない。寂しがっていると思われたくなくて、私はスマホの画面を消す。

ベッドの中で体を丸めながら、朝陽の匂いが残る枕に顔をうずめた。泊まりに来ている間は同じシャンプーとコンディショナーを使っているはずなのに、明確に朝陽の匂いを感じられる。

「良い匂い」

小さく呟いた言葉は誰にも届く事なく、ただ部屋の空気に溶けていった。

私は枕を抱き抱えて眠った。

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