貴方の香り

伊咲 ヒコ

第1話(朝陽)

誰にだって、大好きな匂いってあると思う。

買ったばかりの新しい本の匂い。歩いている時に他人の家から漂ってくる夕飯の匂い。雨上がりのアスファルトの匂い。

それに、大好きな人の匂い。

一目惚れして、恋焦がれていた彼女は、いつだってコーヒーと煙草の匂いに包まれていた。高校時代、先輩だった彼女とは学校で会う機会があまりなく、話したのだって1度だけ。だけど、私は彼女の事がずっと忘れられずにいる。

高校を卒業して、東京の大学に進学してからも彼女がずっと頭の片隅にいた。だからなのだろうか。コーヒーは苦手な私が、ふとカフェに立ち寄ったのは。

まだ肌寒い4月の半ば。入学したばかりでまだ大学の同級生とうまく馴染めておらず、1人で家に帰っていたあの日。コーヒーのいい香りが鼻を誘った。顔を上げると1軒のカフェが。2階建ての建物の1階部分がカフェになっており、2階にはレコード屋さんが入っている。初恋のあの人を思い出しながら、私はそのカフェに近寄ってみた。

店は窓が無く、入口の扉以外に中を覗く術がない。入口には、『リリィ』という看板がかかっている。おそらく店名だろう。私が店内の様子を探ろうと首を伸ばした瞬間、店の扉が開いて店内から女性が出てきた。

「ごめんなさい」

私は咄嗟に謝り、出てきた女性に目をやった。リリィと書かれたエプロン姿の女性は煙草を咥えており、煙草を吸うために外に出てきたのが伺える。

「こちらこそごめんなさい。もしかして、お客さん?」

急いで煙草を片付けながら、女性は私の顔を覗き込みそう言った。女性と目が合った瞬間、私の体を電気が走ったような衝撃を受ける。金髪だった髪こそ黒色になっているものの、目の前の女性は紛れもなく私の初恋の先輩だった。昔と変わらず長くて綺麗な髪を、今はハーフアップにしている。それもよく似合っていて、それに何より相変わらず綺麗だった。

「えっと・・・大丈夫?」

固まってしまった私を心配そうに尋ねる。私は今すぐにでも、「夕月!」と抱きつきたかった衝動を何とか抑えて、平静を装って返事する。

「だ、大丈夫です! ちょっとビックリしちゃって」

「よかった。でも、せっかく来てくれたのにごめんね。17時までなんだ」

そう言って夕月は、店の扉を指差す。店名の書かれた看板がぶら下がっており、そこに営業時間も書かれている。15時〜17時らしい。

「匂いに釣られて来ただけなので」

私は両手で気にしないでとジェスチャーをする。夕月は「そうだ」と何かを思い出したように店の中に戻ると、1枚の紙切れを持って戻ってきた。

「店のポイントカード。せっかく来てくれたのに申し訳ないから。ウチ、夜はBARもしてるんですよ。ちょっと特殊だけど。もしよかったらカフェでもBARでもいいので、是非来て下さいね」

そう言って手渡してくれたカードには、3つ分の判子が押されていた。カードをひっくり返してみると、店の名刺にもなっており、店名と1文が添えられている。

『リリィ。美味しいコーヒーと新しい出会いのお店。カフェのご利用は15時〜17時。レズビアンBARは19時〜25時。』

「お客さん、可愛いからBARの利用も待ってますね」

昔と変わらない猫みたいな笑顔を残して、夕月は店内に戻った。

3年ぶりに再開した夕月は私の事なんか覚えていなかったけど、それでもよかった。私が勝手に憧れて、想い続けていただけだから。そんな事よりも、地元を離れ、東京で再開出来た事の方が嬉しかった。まるで運命のような気がしたから。

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