第32話 瓶と思惑


ぞわっとした顔でアレンはフォトナに訊き返す。

「血…ってお前……」

「いや……」

フォトナは注意深くインク瓶を陽光にかざした。

細かくあしらわれている、どこか炎を思わせる幾何学的な模様。

インク瓶というより香水瓶のような、触れてはいけないと思わせる繊細な作りをしている。

「……なんとなくだ」

アレンには、この小さな黒い液体に籠められた魔力がわからないのだろうか。

同じ火の国の魔力には鈍感?

私の瞳が異常なのか―――あるいは、アレンが。

少なくとも、遺品に違いないこれらに対して憶測で物を言いすぎるのもよくないように思えて、フォトナはそのまま口をつぐんだ。


フォトナは机の上に置かれたもう一つの謎の遺物、題名のない歴史書を手に取った。

年季の入った茶色い背表紙、なんの変哲もない歴史が書かれているが……

ところどころ、気のせいでなければ、空白のページや不自然な改行がある。

背表紙をよく見ると、本来筆者の名前が刻まれるはずの箇所に小さな穴が開いていた。

穴というより―――指でそっとなぞると、これは……ちょうど宝石がはめ込めるような窪みだ。


「……フォトナ様」

はっとして振り向くと、モーリスがこれまでにない心配そうな面持ちでこちらを見ている。

「アレン様も。もちろん、謎を解き明かしたい気持ちはわかりますぞ。

 しかし……ここから先は、グリニスト王家お抱えの研究者に任せるのも手かと思います」

モーリスのちらちらとした目線のやりようから、アレンの方を気にしているのがわかった。

「いや……うん」

アレンはじっと考え込むようにしていたが、モーリスに告げた。

「一度、俺に持ち帰らせてくれ。渡したら最後、どうなるかくらいわかるだろ。

 俺達が二度と見せてもらえることはあるまい」

「それは……もちろん、仰せのままに、でございますが」


モーリスのこの、遠慮と躊躇いの入り混じった物言いはなんだろう。

何かを隠したいようには見えない。

老爺が危険な道を歩く子供を見守るような。

孫から手を放さずにいられないような、まるで―――


「俺は進むぞ、モーリス」

アレンは言い放った。

「知ろうとすることを、俺はやめない。

 その先に何が判ろうと、何を背負うことになろうと、だ」


どうしようもない沈黙が書斎を包んだ。

遠くのちちちと鳥が鳴く声、風のそよぎだけが動いている。

我関せずのアレックスは奇妙な主人達をよそにあくびをした。


モーリスは、心底心配している。

止めることも、背を押すこともできないままに。

フォトナにはそれがよくわかり、アレンを見つめるほかなかった。


フォトナの視線に、おお、といかにも今思い出したようにアレンがニヤリと笑った。

「そうだ。お前、今夜の予定は空いているか?」




次の刻には、二人はあの険しい峡谷と山道を走り抜けていた。

「お前、なんっ、で、今!!」

「あっははは!!遠慮されるわけにはいかないからな!」

「あのまま日が暮れていたらどうするつもりだったんだ!」

「はっはは、その時はその時だ。ほら、ペースが落ちているぞ」



二人は絶対に遅れるわけにはいかない約束に急いだ。


レオン王子からの晩餐会の招待だ。


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