10 タックルボックス

 すっかり体力を回復した守(まもる)は、翌朝早く目を覚ました。ふと部屋の隅に目をやると、ロッドとタックルボックスが穏やかな朝の光を受けてうっすらと輝いている。ほかの二人──リーリアとガーランはまだベッドで眠っているようだ。

 昨晩は久々にぐっすり眠れたおかげで、頭も冴えている。顔を洗いがてら宿の廊下に出ると、店主が食堂で朝食の準備をしているところだった。


「おはよう、守ちゃん。今朝は早いわね。朝食までもうちょっとかかるけど……先にコーヒーっぽい飲み物でも出してあげようか?」

「ありがとう。ぜひお願いしたいです」


 店主に礼を言い、香り高い温かい飲み物を受け取る。香ばしさとほんの少しの苦味が、眠気を吹き飛ばしてくれる。

 食堂の片隅に腰かけて一息ついていると、やがてリーリアが眠そうに目をこすりながらやってきた。


「ん……おはよう。守さん、いつから起きてたの?」

「そんなに早くはないよ。今日はわりとスッキリ目が覚めてさ。ガーランはまだ?」

「あの人はまだ爆睡してる。夜更けに宿の店主と酒盛りしてたみたいだから、起きるまで放っといてあげましょう」


 二人は少し笑い合い、店主が出してくれた軽いスープとパンを手にする。まだガーラン用の分は置いておいてもらうことにして、ひと足先に朝食を取る形だ。


「そういえば、今日はヴァルトさんにタックルボックスを見てもらう日だよね。ちゃんとした鑑定はまだ途中だったし」

「ええ、昨日は途中で大騒ぎになっちゃったから……。それに、守さんの所有権登録は済んだけど、タックルボックスの方だって“本当はどんな力を秘めてるのか”まだ解明されてないものね」


 リーリアの言葉に守も頷く。自動で仕掛けが補充される不思議なボックス――“使える”という点では文句なしだが、だからこそ黒装束の連中に狙われる大きな原因にもなりうる。


(正式な手続きを済ませて少しは安心だけど、やっぱり気になるな。そもそもどうして溺れかけた俺が異世界に来て、この道具がこんな力を持ってるんだろう……)


 スープを啜りながらぼんやり思案していると、不意にガーランがぼさぼさの頭で食堂に姿を現した。


「……うあぁ、なんか酒残ってる気がする。おい、釣りバカ、リーリア、もう食ってんのか」

「おはよう、ガーラン。先に食べてるけど、ちゃんとあんたの分も取ってあるわよ。宿の店主が用意してくれてる」

「助かる……。しかし昨日は色々ありすぎて、余計に飲んじまったな」


 ガーランはパンをかじり、スープをがぶ飲みしながら、まだ眠たそうにあくびをする。そんな姿にリーリアが呆れつつも笑っていると、店主が「朝から元気ねえ」と笑顔を向けてきた。


 朝食を終え、身支度を整えた三人は宿を出る。天気は快晴で、昨日より空気が澄んでいるように感じられる。通りを歩く人々の表情はまだ少し警戒気味だが、黒装束の賊が逃走してからは大きな混乱も起きていないようだ。


「ギルドの正面、昨日はあんなに荒れてたのに、もう片付いてるんだな」

 ガーランが感心したように言うと、リーリアが小さく肩をすくめる。

「冒険者たちの手際が良かったんでしょうね。衛兵やギルド職員も一斉に協力してくれたみたいだし」


 ギルドの扉を開け、中へ入ると見慣れた酒場風の広間が広がる。依頼を探す冒険者や情報を交換する人々の声がにぎやかに響き、どうやら通常営業に戻っているようだ。


「あ、守さんたち。おはようございます」

 カウンターに立っていたユリナが、ほっとした表情で手を振る。

「おはようユリナさん。今日はヴァルトさんにタックルボックスの鑑定をお願いしようと思って来たんだけど……」

「はい、伺ってますよ。ちょうど今、奥の部屋で準備しているはずです。少し混み合ってるかもしれませんが、こちらへどうぞ」


 三人はユリナの案内でギルドの奥へ。書庫や研究部屋が集まる区画に足を踏み入れると、前回と同じくしんとした静寂が漂っている。幾つかの部屋からは魔法的な光が漏れ、時折フラスコが触れ合う音などが聞こえてくる。


「ここよ。この前と同じ部屋みたい」


 ユリナがノックをすると、中からヴァルトの落ち着いた声が返ってきた。扉を開けると、相変わらず机の上には本や魔道具が散乱し、まるで研究に没頭していた真っ最中という様子。


「おはようございます、ヴァルトさん。ご多忙のところすみません」

「いえいえ、待っていましたよ。どうぞお入りください。ちょうど使えそうな新しい測定道具を取り寄せましてね、これでタックルボックスの内部魔力をより詳しく分析できるかもしれません」


 ヴァルトは満面の笑みを浮かべ、三人を招き入れる。部屋の奥には先日と同じく光沢のある水晶玉や怪しげなレンズの数々、そして円形の“魔法陣”が描かれたプレートなどが並んでいた。

 守がタックルボックスを机の上に置くと、ヴァルトは研究者の目つきになってさっそく観察を始める。


「おお、やはりこいつは見れば見るほど不思議な品ですね。前に少し調べた限りでは“無尽蔵に仕掛けが補充される”というよりも、“別の空間と繋がっている”ような痕跡があるのでは……と推測しています」

「別の空間……ですか?」

 守が驚いて訊き返すと、ヴァルトは小さく頷いた。


「ええ。一種の“亜空間収納”に近いものかもしれません。大容量のアイテムバッグとか、魔法使いが作るポケットディメンションなどの概念がありますが、これだけ自然に使えて、しかも道具そのものが自動で補充されるとなると……普通の収納魔法とは違う発想が必要です」


「なるほどな……。道具自体のどこかに通じる“扉”みたいのがあって、使うたびに新しい仕掛けが送られてくる、って感じか」

 ガーランが腕を組んで唸る。リーリアも興味津々にタックルボックスを見下ろしている。


「じゃあ、その“扉”の行き先はどこなんでしょう? まさか、俺の世界……?」

「それはまだ断定できません。が、もし異世界転移の際に何らかの“座標”がくっついてきたのだとすれば、あなたの世界の釣具メーカーの在庫がどこかから漏れて補充されている……なんて可能性もゼロではない、かも? いや、想像の域を出ませんが」


 冗談めかして言いながらも、ヴァルトの目つきは本気だ。守は思わず苦笑いする。もし本当に日本の在庫と繋がっているなら、メーカーさんに大変な迷惑をかけている気がしなくもない。


「さて、さらに詳しく調べてみましょう。この魔法陣プレートの上に置いてください。魔力を可視化する装置ですが、多少強い光が出るかもしれません。皆さん、少し離れていてくださいね」


 ヴァルトはタックルボックスをプレートの上に載せると、自ら短い詠唱を始める。すると、机の周囲に刻まれた紋様が淡い青い光を放ち、まるでサークル状の結界が展開されるように見えた。

 守・リーリア・ガーランの三人は壁際まで退いて、息を飲みながら様子を見守る。


「『――解放の光よ、虚空の道筋を照らし出せ』」


 呟きとともに、ヴァルトの手元の水晶玉が眩しく光った。次の瞬間、タックルボックス全体が薄いベールのような光に包まれ、ところどころに色濃い“斑(まだら)”のようなパターンが浮かび上がる。


「これは……?」

「ほほう……通常の“収納魔法”とは違う形で魔力の流れが縦横に走っている。何か複数の魔力源が組み合わさっているようですね」


 ヴァルトはそのまま数分間、目を凝らして光のパターンを観察する。やがて呪文を納めると、ふうっと深いため息をついて魔法陣を解除した。


「面白い結果が出ましたよ。要約すると、このタックルボックスには“複数の魔力回路”が同時に走っており、そのうちのひとつは“再生・補充”に特化した回路らしいのです。しかも──」


 そこで言葉を切り、ヴァルトは守のほうを振り返る。

「“持ち主自身”の魔力を吸収し、徐々にその補充性能を高めているように見えます。つまり、あなたがこのボックスを使えば使うほど、その性能が強化されていく可能性があるということです」


「俺の魔力……って、俺そんなの持ってるんですか?」

「魔力量の大小はともかく、生物は少なからず魔力を帯びています。それが異世界人のあなたにどんな特徴があるのかは謎ですが、少なくともこのチート釣具は“あなたの魔力”を取り込みながら成長しているように見える」


 成長するタックルボックス──。守は困惑しつつも興奮を感じた。確かに最初はただの“おかしい道具”だったのに、最近はルアーのバリエーションがどんどん増えているようにも感じていたのだ。


「では……このままどんどん成長していけば、どれほどの性能になるんだ……?」

 ガーランが目を丸くする。リーリアも「底知れないわね」と息を飲む。


「もちろん、際限なく伸びるかどうかは分かりません。ある程度の“キャパシティ”というものも存在するでしょうし、強い魔力が一気に流れ込めば暴走を起こす可能性だって否定できません。あまり無茶な使い方をしないように気をつけてくださいね」


 ヴァルトは真剣な眼差しで釘を刺す。守は小さく頷いた。

「了解です。確かに、あんまり無謀にぶん回すのは危ないな……。でも逆に、うまく活用すれば俺の“釣り”がもっと幅広くなるかもしれない」


 ブラックバス釣り、サーモン釣り、エリアフィッシング、さらには海釣り……と現実世界の釣法を思い出す守。もし異世界の湖や海、川などを巡り、そこに棲む魔魚を相手にするとしたら、バリエーション豊かな仕掛けは大きな武器になる。


「この世界にもまだ未知の水域や魔物魚はたくさんいるでしょうからね。あなた方のように“釣り”を武器にできる人なら、ギルドの依頼でも重宝されるはずですよ」

 ヴァルトは満足げに微笑み、紙にさらさらと結果をメモし始めた。


「鑑定結果は大体こんなところですね。もう少し調べたいことはありますが、ひとまずはこれで充分かと。あまり何度も強力な魔法陣を使うと、タックルボックス自体にも負荷がかかりそうですし」

「ありがとうございます、助かりました。本当に貴重な情報だ……」


 守は心から礼を述べる。リーリアとガーランもほっとした表情だ。


「さて、そうなると後は、あなた方がどう使うかですね。黒装束の一件も収束したわけではありませんし。油断なくお気をつけください」

「わかりました。俺たちもこれからギルドに寄って、受けられそうな依頼を確認してみるつもりです。動いているほうが気が紛れるし、何よりお金を稼がないといけませんから」


 ヴァルトが小さく頷くと、部屋の扉がノックされ、ユリナが顔を覗かせる。何やら慌ただしい顔つきだ。


「失礼します。皆さん、ちょうどよかった。ギルドの掲示板に“魔魚絡み”の依頼が新しく追加されて、リーリアさんたちとぜひ話がしたいという冒険者がいまして……」

「魔魚絡み……?」

 三人が一斉に目を見合わせる。心当たりは多いが、まさかまた巨大な依頼が舞い込んできたのだろうか。


「詳しい話はまだ分からないのですが、漁村の近くに出る魔魚の討伐依頼らしくて。海沿いの地域なので、かなり危険度が高いと聞いています。ご興味があれば、ぜひ検討いただきたいそうです」


 ユリナの言葉に、守の釣りバカ魂がはっきりとうずいた。海――。まだ一度も行ったことのない異世界の海には、どんな魚がいて、どんな大物が潜んでいるのだろう。

 ガーランは「ほう、海か……」と満更でもなさそうに呟き、リーリアも「海の魔魚って、森や川とはまた違う厄介さがありそうね」と興味津々の顔をしている。


「というわけで、もしよければすぐに受付にお越しください。相手の冒険者さんが待ってますから」

「わかりました。ありがとうございます、ユリナさん」


 こうして、タックルボックスの謎が少し明らかになったその日のうちに、三人は新たな“海の魔魚討伐依頼”へと誘われることになった。

 漁村の海岸には、どんなロマンが待っているのか。あるいは、どんな危険が潜んでいるのか。


 守は膨れ上がる期待と、不安に似た高揚感を同時に抱きながら、改めてロッドを手に取る。

 ――チートじみた釣り道具を携え、異世界の海へ挑む日が近いかもしれない。その海には、川や湖とは比べ物にならないような“大物”がきっと棲んでいるはずだ。


(海の怪魚……どんなヤツらと出会えるんだろう。怖いけど、楽しみだ)


 仲間と一緒なら、どんな困難も乗り越えてみせる――そう信じながら、守は新たな冒険の予感に胸を弾ませるのだった。


 こうして“タックルボックス”のさらなる秘密がわずかに明らかになり、またひとつ謎が深まる一方で、海を舞台にした新たな釣りのステージが開かれようとしていた。

黒装束の暗躍はまだ終わっていないが、果たして海辺で待ち受けるのは新たなる脅威か、未知のヌシの存在か――。

すべては、釣りバカ・岸井守と仲間たちの冒険次第だ。次なる一歩は、砂浜に足を踏みしめる瞬間から始まるに違いない。

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