9 夕食
しけそれからしばらく――。
守が目を覚ましたときには、すでに部屋の窓の外が茜色に染まり始めていた。さすがに昼前から眠りっぱなしだったせいで体はずいぶん楽になったが、胸の奥にはまだ昨日今日の騒動の余韻がくすぶっている。
「……もう夕方か。よく寝たな……」
誰かが部屋にいる気配。目を凝らすと、リーリアが窓辺の椅子に座って針仕事をしていた。簡素な布を縫い合わせているようだが、その手つきは器用だ。ガーランの姿は見当たらない。
「あ、起きたのね。おはよう――じゃなくてこんばんは、かな?」
「うん、ずいぶん熟睡しちゃった。ガーランは?」
「ちょっと外へ行ってるわ。昼寝から起きてすぐ“腹が減った”とか言い出して、宿の食堂やら街の様子をひと回り見てくるって」
苦笑しながら針を休めるリーリア。気だるげな守を見て「まだ眠い?」と尋ねるが、守は首を振ってベッドから起き上がった。
「いや、もう平気。……っていうか、昨日のこと考えると眠気なんか吹っ飛ぶよ。ギルド前でのあの戦い……まるで夢みたいだ」
「ほんとよね。あんな大掛かりな襲撃、そう滅多に起きるものじゃないわ。私たちもまだ落ち着かないけど……せめて今は、しっかりご飯を食べて栄養つけよう」
リーリアはそう言って、どこかお姉さんのような柔らかな微笑みを浮かべる。守も「そうだな」と苦笑いしながら、椅子に腰掛けてタックルボックスを開いてみた。
「……ルアー類は、昨日の戦闘で使ったぶんもちゃんと補充されてる。まるで何もなかったように元通りだな」
「不思議な道具よね。守さんの世界では、こんな道具は普通に存在しないんでしょう?」
「ないない。どんな高級リールだって、勝手に仕掛けが増えるなんてあり得ないし……使えば使うほど道具が消耗していくのが当たり前だから。日本の釣具メーカーが聞いたら、びっくりして卒倒するよ」
そう言ってロッドのしなりを軽く確かめてみる。昨日の激戦でも傷ひとつなく、むしろほんの少し形状が変わった気さえする。明らかに異世界の魔力に適応してきている雰囲気があった。
「それじゃあ、ガーランが戻ったら食事に行きましょう。宿の食堂でもいいし、外の屋台で買い食いしてもいいけど……何か希望ある?」
「うーん……できれば温かいスープとか、焼きたてのパンとか、そういうのが食べたい。昨日からまともな飯食ってない気がするし」
と、言った矢先、廊下のほうでドタバタと足音がした。ガーランが帰ってきたらしい。扉を開けると、予想どおり少し息を切らせたガーランが姿を見せる。
「おう、釣りバカ。起きたか。飯でも食いに行くかと思って戻ったんだが……」
「ちょうどその話をしてたよ。外の様子はどう?」
「街の連中はまだピリピリしてるな。衛兵は増えてるし、あちこちで黒装束の噂が飛び交ってる。だが一方で、商売人も客足を止めるわけにはいかねえと店を開けてるから、そこそこ買い物もできそうだ」
そう言いながら、ガーランは腰のポーチから包みを取り出した。紙に包まれた中には、たっぷりの挽き肉が詰められている。どうやら精肉店で手に入れたらしい。
「なに、これ?」
「ここの宿の主人が“材料さえあれば何とか料理する”って言うんでな。ちょいといい肉を買ってきた。おまえらにたっぷり食わせてやるよ。オレも腹が減って仕方ないんだ」
ガーランは得意げに笑い、宿の店主に渡してくると言って部屋を出ていく。リーリアと守は顔を見合わせ、ほほ笑ましい気持ちに包まれる。
「ふふっ、ガーランらしいわね。ああ見えて面倒見がいいから」
「助かるよ。あいつ、最初はぶっきらぼうだったけど、だいぶ人懐っこいよな」
そんな会話をしつつ、守は軽く身支度を整える。せっかくなので、夕飯まで少し街を散策してみるのも悪くないと思い始めた。黒装束の連中が怖くないわけではないが、一度騒動が大きくなった後ゆえに警戒は厳重。そうそう襲ってはこないだろう。
「リーリア、外に出るなら付き合ってくれる?」
「ええ、いいわよ。どうせ夕食の準備が終わるまでしばらく時間があるだろうし、外の露店とかのぞいてみましょうか」
リーリアも同意し、部屋から出るとすでにガーランがキッチン担当の店主と談笑していた。宿の一角にはかすかにスパイスのような香りが漂い始めている。
「なあ、オレら、ちょっと外へ行ってくる。腹に余裕を空けとくから、しっかりうまいもん用意してくれよ」
「任せときな。腕によりをかけるよ。食事の頃には戻ってくるんだよね?」
店主がおどけるようにウインクして送り出す。ガーランは「じゃあオレは宿で大人しく待ってるわ」とのことで、守とリーリアだけが夕暮れの街へ足を運ぶことになった。
夕暮れの街散策
外に出ると、夕日のオレンジが石畳を照らし、どこか幻想的な雰囲気を醸し出している。人通りは今の時間帯にしては多くも少なくもなく、屋台や露店がいくつか開いていて活気を感じる。
しかし、衛兵の数が明らかに増えており、通りを警戒している姿があちらこちらに見られる。昨夜の騒動が尾を引いているのは言うまでもない。
「……結構、厳重だな。空気が張り詰めてるよ」
「そうね。きっと当局も今回の件を重く見てるんでしょうね。ギルドに襲撃があったなんて聞けば、街全体が動揺するのも当然よ」
二人は小さな通りを抜けながら、露店を覗き込む。野菜や果物、手作りのアクセサリー、簡易的な魔道具などが並び、どれも新鮮な色合いや装飾が異世界らしさを漂わせる。
リーリアが興味深そうにブレスレットを手にとって眺めていると、店の主人らしき初老の女性が声をかけてきた。
「おや、弓を持ったお嬢さんかい? そのブレスレットは“水の加護”を少しだけ高めるお守りでね、森や川を歩く冒険者に人気なんだよ。どうだい、買っていくかい?」
「へえ……水の加護……。実際どれくらい効果があるの?」
「劇的な魔力はないけどね、少し肌を潤してくれたり、傷を負っても回復が早まるとかいう噂さ。何より、今のご時世、お守り一つあったほうが安心できるだろ?」
リーリアはちらりと守のほうを見る。やはり昨日の一件もあって、何かお守り代わりに持っておきたい気分なのだろう。守も「いいんじゃない?」と首肯する。
「うん、そうだね。ちなみにおいくら?」
「銀貨1枚ってとこかな。もちろん、交渉次第でまけてやってもいいよ」
さほど高額でもなさそうだし、リーリアは手持ちの小銭袋を探る。日本から持ち込んだ金は使えないが、昨日までの依頼報酬やガーランが立て替えてくれた分などで多少の余裕はできている。
最終的に軽い値下げ交渉の末、銀貨1枚よりやや安い価格で購入が成立した。
「ありがとう。これで少し気持ちが楽になるかも」
「ふふっ、いい買い物したね」
守は微笑みながら、リーリアが手首にブレスレットを装着するのを見届ける。水色の小さな石が揺れるさまは、彼女の森と川を愛する雰囲気にぴったりだ。
「じゃあ、ちょっと俺も何か見てみようかな……。あ」
ふと目を向けた先、少し先に“釣り道具”を扱う露店があるようだ。――ただし、この世界では一般的に“釣り”はそれほどメジャーでないらしく、ほとんどが川魚を捕獲するための簡易的な網や鈎、それから釣果を保存するための桶程度しか見当たらない。
「いらっしゃい! 珍しいね、こんな時間に釣り道具を探すなんて」
店主はまだ若い男性で、愛想よく声をかけてくる。守の背中にあるロッド(注:異世界風に見ればただの長い棒にも見えるが)を見とめて笑う。
「お兄さん、もしかして釣り好き? 魔物騒ぎで最近客が減ってたんだよ。いや〜ありがたいね」
「はは……まぁ、釣り好きは釣り好きなんだけど……」
守は苦笑しながら店先を見る。ビク(捕った魚を生かしたまま入れておく網)や、安っぽい釣り糸もどき、竿というよりはただの木の枝を加工したようなものが並んでいる。
自分の“チート竿”からするとおもちゃのように見えるが、これがこの世界の釣りの現状なのだろう。
「最近は魔物化した魚とか、おかしな怪物が多いから、趣味で釣りする人も激減しちゃってね。冒険者じゃない人は正直、怖くて川に近寄れないんだ」
「そうなんだ……俺はわりと川を見るとワクワクしちゃうほうで、釣り竿持ってどこにでも行きたくなるんだけど」
さらっと言う守に、店主は半ば呆れ顔で「相当な物好きだね」と返す。リーリアが横でくすっと笑っているのが見えた。
「へえ、それでも釣り道具を売ろうとするなんて店主さんも物好きだね? 商売成り立ってるの?」
「それがきついさ。だが、俺は釣りが好きだからやめられないんだよ。昔はそこそこ客がいたんだけどなあ……」
店主が愚痴混じりに嘆く。その様子を見ながら、守はタックルボックスをちらりと見やって、何か思いついたように「あ、そうだ」と声を上げる。
「もしかしたら、こっちの世界にはない“仕掛け”とか、魚を誘う“疑似餌”みたいなのを教えてあげられるかもしれない。それを作れる人がいたら、一緒に商売になるんじゃ……」
「えっ……? この世界にない仕掛け? お兄さん、どっか違う国から来たのか?」
興味津々の店主に、守は笑顔でうなずく。ただし、異世界転移の話まではさすがに詳しくは語れない。
それでも、自分の頭の中にある“日本の釣り技術”が、もしこの世界に広まったらどうなるだろう――そんな想像に、守は内心ワクワクしていた。
(巨大魚や魔物相手だけじゃなく、普通の魚だってもっと楽しく、効率的に釣れるはずだ。俺はこっちに来ても“釣りバカ”には変わりない。いつか釣り好きが増えたら面白いかもな)
「また時間ができたら来るよ。今日はちょっと散策中だから」
「おう、待ってるぜ。なんならいつでも新しい仕掛けの話を聞かせてくれ。俺も釣り人同士ってことで歓迎するからさ!」
店主と言葉を交わし、守とリーリアはその場を後にする。足早に路地を進みながら、守は思わず弾んだ声を漏らした。
「なんか、少しだけ心が軽くなった。黒装束に狙われたり、いろいろ不安はあるけど……やっぱり“釣り”に関しては前向きな気持ちを捨てられないな」
「そうね。あなたらしいわ。ギルドでの大立ち回りを見ても、やっぱり釣り竿を手にしてるときの守さんは生き生きしてるし、これこそあなたの原点なんだなって思うの」
リーリアの柔らかな声に、守は頬をかきながら照れくさそうに笑う。
「やっぱりバカっぽいかな? こんな状況で、のんきに釣りのこと考えるなんて……」
「いいえ、そういう“好き”に支えられてる人のほうが、案外最後まで折れないものよ。私も森での狩りが大好きだし、ガーランも剣の腕を磨くのが大好きだから。私たち、似たような冒険者同士だわ」
その言葉に、守は心の中で“ああ、俺には仲間がいるんだな”としみじみ思う。やがて、二人は再び賑やかな通りへと足を進める。
宿での夕食
宿に戻る頃には、夕闇が深まり始めていた。宿の食堂からは肉を焼く香ばしい匂いと、スパイスの刺激的な香りが入り混じり、ガーランの声がどこかで聞こえる。
扉を開くと、店主がニコニコ顔で「待ってましたよ」と食事の皿をカウンターへ並べはじめるところだった。ガーランは既に席についており、ビールのような飲み物を手にしている。
「おう、帰ったか! ちょうど料理がいい感じに仕上がったところだ。さあ座れよ」
「わ、すごい匂い。お腹空いた……!」
テーブルには、挽き肉をこねて作ったハンバーグのようなものに、たっぷりのソースがかけられている。一緒に付いている野菜も鮮やかで、これぞ冒険者向けのボリュームたっぷりの夕食といった感じだ。
「どうだ、うまそうだろ? オレが買ってきた肉と、店主の腕が合わさりゃ最高の一品だ!」
「ほんとだ……めっちゃいい匂い……いただきます!」
守とリーリアは椅子に腰を下ろし、それぞれのプレートを前にワクワクしながらナイフとフォークを手に取る。ジュワッと肉汁があふれるその断面を見ただけで胃袋が刺激され、我慢できずに一気に口へ運ぶ。
「……うまっ!」
「本当! 柔らかいし、スパイスが効いてるわね。これはクセになりそう」
肉の旨味と香辛料のコクが広がる贅沢な味わい。パンやスープも一緒に口に運べば、いっそう満足感が高まる。しばし三人は言葉少なに頬張り、空腹を満たすことに集中した。
やがて落ち着いてきた頃、ガーランがマグを傾けながら話し始める。
「で、どうだった? 昼寝してスッキリはしたか?」
「うん。かなり疲れが溜まってたみたいで、ぐっすり眠れたよ。ありがとう。リーリアとちょっと外も歩いてきたし、気分転換になった」
「そりゃ良かった。オレはオレで宿の婆さんと料理談義してたが、なかなか面白かったぜ。いずれ素材が手に入れば、もっと色んな料理が作れるとか言ってた」
三人は無事に食欲を満たし、腹も心も少し落ち着いてきた。宿の店主が「おかわりはどうだい?」と声をかけるが、さすがにこれ以上食べる余地はないらしい。
ある程度満足したところで、リーリアが軽く口を拭い、周囲を見渡してから声を落とす。
「……明日以降、どう動くかを話しておきたいんだけど。黒装束の件はギルドに任せるとして、私たちは私たちでできることを進めないと」
「うん、ヴァルトさんの鑑定も途中だし、それが終わったらまた依頼を受けたりするのかな。釣りで稼ぐにしても、どこかで釣り場を開拓しなきゃいけないだろうし」
守が言葉を続けると、ガーランも真剣な面持ちでうなずく。
「そもそも、おまえがこの世界に来た理由ってのが分かってねえだろ? ただの事故で転移したのか、何か裏があるのか……いずれにせよ、いずれ“ヌシ”だの“魔物魚”だのが絡んでくる気がするんだよな」
「ヌシ……“黒龍魚”とか、そんな伝説の生き物がいるんだっけ。この国に昔から伝わる“最強の怪魚”の噂とか……」
守が少し興奮を帯びた表情で口にすると、リーリアが苦笑いする。
「あら、早くも興味津々ね。まだ見ぬ魔魚を釣り上げたいって気持ちが滲み出てるわよ」
「そりゃ……そうだよ。俺は釣りバカだからね。こんな不思議な世界に来たんだから、普通じゃできない釣りを存分に楽しみたい……多少命が危険でも、挑戦してみたい気持ちはある」
言い切ったあと、守は「でもごめん」と付け加える。
「もちろん、巻き添えにするわけにはいかない。もし俺の“やりたいこと”が二人を危険に晒すようなら止めるよ」
「はぁ? 何言ってんだ。オレらはもう“仲間”だろ? 好きにやっていいんだよ。むしろ、その方が面白そうじゃねえか」
「そうそう。あなた一人だけで行っても危険が増すだけだもの。だったら一緒に挑んだほうがいいわ」
ガーランとリーリアの言葉に、守はじんわりと胸が熱くなる。何だか恥ずかしくて、「じゃあ遠慮なく頼らせてもらうよ」と答えると、二人は「当然だ」と言わんばかりにうなずいた。
「というわけで、まずはヴァルトのところでタックルボックスの鑑定を済ませる。それから落ち着いたら、ギルドの依頼でも受けてみるか。また魔物魚絡みの仕事があるかもしれないしな」
「そうだね。それで少しずつ稼いで、生活基盤を安定させたいし……。釣りや冒険の旅も、いつかはしたいけど」
こうして、当面の方針が何となく定まり始める。宿の店主に礼を言って部屋に戻る頃には、外はすっかり夜の帷が下りていた。昼寝をしたせいか、守は今はさほど眠くはないが、リーリアとガーランは「今日はしっかり寝よう」と部屋へ直行。
ただ、守もベッドに腰掛けてしばらくロッドを眺めているうちに、また不思議な眠気がじわじわと押し寄せてきた。
「……明日はどうなるかな。でも、やっぱり楽しみだな」
“異世界でヌシを釣りたい”という熱が心の奥に灯っている。いつか必ず巨大魚を仕留め、その瞬間の手応えと達成感を味わってみたい――。守の瞳に宿る釣り人のロマンが、一日の終わりに微かにきらめく。
外の通りでは、衛兵が巡回しながらホッと息をつく音が聞こえる。黒装束の気配は感じられないが、油断は禁物だろう。
「だけど……俺は俺らしく、釣りバカを貫いてみるしかないよな……」
そんな独りごとをこぼしながら、守はロッドをそっとベッド脇に立てかけ、毛布を引き寄せる。身体を横たえれば、やがて静かな夢へと落ちていく。
どこかで流れる川のせせらぎの音を思い出しながら――いつの日か本当に、大物を釣り上げる瞬間を夢見ながら。
こうして夜が更け、新たな朝がまた訪れようとしていた。
黒装束の集団、謎の魔魚、そして未だ知れぬ“ヌシ”の存在。
数多の困難が予感される中でも、守は“釣り”への情熱を失わない。
仲間とともに歩むこの道が、いつか世界を変える大きな波を起こすことになる――そのことを、彼はまだ知らない。
だが、彼はすでに歩き出している。
この異世界を舞台に、チート釣具と釣りバカ魂を武器にした大冒険を。
“まだ見ぬ大物”が棲む、その遥か彼方へ――。
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