Interlude2—— Voyager of Galactera

 白い部屋。白い廊下。白い天井。それが彼女の世界だった。

 リノリウムの壁と消毒液の匂い。

 彼女は思い出す。

 大人たちはいつも白い服を着ていた。白衣の大人たちは笑わないし、優しくもない。時々、目が合うと冷たく見下ろされるだけだった。彼らの言葉は難しくて、当時の彼女にはよく分からなかった。


「二十三番、来い」


 診察の時間だ。彼女は部屋を出され、大人の後をついていく。白い廊下を歩きながらふと隣の部屋を見た。ガラスの向こうには年上の子どもたちが並んで座っていた。みな目がどこか虚ろで、表情がない。

 診察室に入る。白衣の大人が首元に指を這わせ、小さな機械を当てる。


「問題ないわね~」


 それだけ言われ、再び部屋へと戻される。

 静かな部屋。二段ベッドに腰を下ろすと、どこかで微かな声が聞こえた。


「……セララ」


 壁の向こうからだった。


「セララ」


 彼女はゆっくりと口を開いて返事をする。まるで慣れない自転車に乗る子供のように。


「リゼン」


 言葉を話すのは苦手だった。でも、その名前だけは覚えていた。

 壁の向こうの彼が小さく笑う声が聞こえる。


「ハッハッハ! 二十三番だって。ヤツらはセララの名前を知らないらしい!」


 彼に当てられて彼女も少し笑った。もう一度「リゼン」と名前を呼ぶ。彼も「セララ」と呼び返す。

 彼らはただそうやってお互いに付けた名前を呼び合っているだけで楽しかった。





 二人は駆けた。

 土を踏む感触、草の匂い、風が肌を撫でる。全てが初めての体験だった。彼女には何もかも、楽しくて仕方なかった。

 しばらく走り続けた後、彼らは小さな丘の上にたどり着いた。夜の帳がゆっくりと降りてきている。閉じた環状の世界であっても、彼らには無限に広大な世界に見えていた。


「俺様は、宇宙を見に行きたいんだ」


 彼女は「宇宙?」と聞き返す。


「診察室の先生が教えてくれたんだ。宇宙は一番大きな海なんだ。海を越えたら新しい世界がある。空とか、雲とか、山とか、砂漠とか、また別の海とか。雨とか雪もある。知ってるか? 雲は綿菓子みたいな見た目だけど触れないんだ」

「綿菓子って……なに……?」

「俺も知らん!」彼は何故か得意げに胸を張った。彼女はやはりよく分からなかったけれど、不思議と嬉しい気分になった。





 人畜の入れ墨を見られて彼が連れていかれるのを、彼女は物陰で涙を流しながら眺めていた。そこでじっと隠れていろと彼に言われたからだった。

 彼が引きずられていく一部始終を、彼女は全て見ていた。手を食み悲鳴を殺して。

 言葉を知らないから、なんと叫べばいいのかも知らなかったけれど。


 気付けば静寂だけが広がっていた。彼女はただただずっと居尽くしていた。

 膝を抱え、しばらくの間、何も考えられなかった。心が空っぽになった。

 足元に転がったガラスの破片に自分の顔が写っていた。ふと、彼の言葉が蘇る。


『俺たちきっと兄妹だ! だってこんなに髪の色が似てるんだからな!』


 震える指で水色の髪を握る。


『いつか俺達兄妹は世界の隅っこまで冒険する! どこまでだって一緒に! 誰も見たことのない景色を見に行くんだ!』


 彼はどこかで待っているかもしれない。まだ生きているかもしれない。

 ゆっくりと立ち上がった。しっかりと踏みしめる。

 涙を拭い、夜の冷たさに目を細めた。


「リゼン、お兄ちゃん」


 彼を見つけなければ。

 自分だけの名前を胸に刻み。

 セララ・ハウローは歩き出した。

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