第8話 時震

 コロニーを筒に見立てたときの底面。一切の容赦がない直角の壁面にて。


「こわあ……」


 鋼鉄の壁を縦横無尽に走る溝の一つ——高さ二メートル、奥行き三十センチほど——に片手片足をかけて見下ろす。既に地上は千メートル向こう。下手な電波塔より高い地点までやってきた。もはやスチールエッジの建物は米粒ほどにちっぽけに。足がすくむなんてもんじゃない。一度でも壁面から離れてしまえば落下死は免れない高度。もしも地球なら強風で吹き飛ばされてしまうところなのだけど、ここは閉じたコロニーなだけあって、風自体はあるものの活動に支障が出るほどでは無かった。


 ふと陰る。


 仰ぎ見れば、二十メートル上——の、壁面から一メートル以上離れた位置──にダルフォネさんがいる。空中でふわりと逆立ったままに弓を引き絞って、放す。

 慌てて避けようとするものの、できて身体をくねらせるくらいだ。脇腹に重い矢が霞める。


「いでっ」

「むむむ。やはり動く的は難しい」


 壁面から離れ緩やかに落ちていくはずのダルフォネさんは、次の矢──アンカーとワイヤー──を放ち、更に数メートル上方の溝に引っ掛けた。ダルフォネさんは弧を描いてピタッと壁面に張り付いて、すぐワイヤーを頼りに駆け上がる。


「自信あるんだなあ、射撃の腕に」僕はダルフォネさんの背中を見ながら苦笑した。


 壁を離れる前からアンカーを引っ掛けておけばいいものを、ダルフォネさんはああやって、壁を離れ攻撃した直後——僕が怯んだのを確認してから——ワイヤーを繋ぐようにしていた。それは多分、ワイヤーが露出する時間を極力少なくすることが目的だ。見せなければ切られる可能性もない。僕に隠し持った刃物がある可能性を警戒している。無いけど。

 結論。非常にちゃんとしている。


「ふう……」


 息を整えて、改めて壁面を見上げた。

 あそこのでっぱりに手をかける。次の足場はあの……三メートルくらいかな? 測り間違えてたらその場で訂正しよう。


「よし!」


 僕はまるで猫のような姿勢で壁を駆け上がった。一蹴りで三メートルは稼ぎ、一掴みで重心を壁面に戻す。二十メートルはすぐに到達するのだけど……。


「きゃーっ!」


 ダルフォネさんはジェットコースターみたいな悲鳴を上げながらワイヤーを頼りにターザンして横方向へ逃げてしまった。


「今のは惜しかったですわよー!」黄色い声で応援してくる。

「くっそー……そもそもそのワイヤーはなんなのお……」僕は息を切らしながら、溝にかけた左手を頼りにプラプラぶら下がっている。


「オーダーメイドですわ!」

「そういうこと聞いてるんじゃないんだよね~」


 クライミングなんてしたことないから知らなかったけど、上下よりも左右に移動する方が難しい。縦軸を合わせようと横に跳ね飛んでいるうちに、ダルフォネさんはまた上って行ってしまう。

 既に僕の身体には三本の矢が刺さっており、今も血が滲み続けている。痛みはともかく失血気絶が心配だ。もって十五分くらいだろうか。


「もう少しスピードを上げなくっちゃ」


 この星に来る前からお世話になっていたスニーカーを脱ぎ捨てて裸足に。その次に手の平に歯を突き立てて、一つ覚悟してから、内側の皮を剥ぎ取った。両手ともやれば芋虫みたいな筋肉が露出する。我ながらドン引きするくらいグロいけど、この方が壁に多少引っ付きやすくなるはずだ。感染症のリスクと電撃が走るような激痛は必要経費。

 剥ぎ皮膚は矢傷の辺りにペタっと張り付けておいた。実は僕の全身の皮膚はそのほとんどがエルネストさんお手製の人工万能皮膚に置き換わっていて、両手のこれも例外じゃない。一回剥がしても後でまた引っ付いたりするんじゃないだろうか。多分。ならないと困るのでエルネストさんの科学力に期待しておこう。


「よっし、いくぞー!」





「まさか──」


 ここまで来れば風は止む。ダルフォネさんはブーツの裏で壁の微細な凹凸を掴んで立っていた。裸足の僕も同様だ。

 二人とも、壁に向かって垂直に──地面に平行にして立っていた。前方、そして後方、更には左右の彼方に緑と鈍色の混じり合う地面が屹立している。見上げてみればなるほど、弧を描いた大地が天空に向かってそびえており、これは確かに筒である。それは当然そうなのだけど。こればかりはここでしか見られないオンリーワンな景色に違いない。

 こんなに高い壁は滅多にないだろう。僕は自分が監獄にいることを思い出した。


「──ここまで追い詰められるとは」


 ダルフォネさんの白く眩い髪の毛が結び目から拡散する。お互いに服の裾がにわかに浮かび立っている。


「はあ、はあ。聞いていいかな。毒とか塗ってる……?」


 僕は肩で息をしていた。しかし運動したからその分疲れたという感じではない。上手く息が吸えないというか、いくら息をしても酸素が入ってくる感じがしない。


「塗ってはいますけど、そちらの症状は違います、ね。まだ身体がこの高度に、順応できていないとか?」

「ああー、そっか高山病かぁー。はあ」

「高山病?」ダルフォネさんは一度ハテナを浮かべたものの、すぐに得心してフフッとお上品に笑った。「なるほど、高山病」


 はてさてここは高度2500メートル。

 このコロニーにおいて破ることのできない絶対の限界高度。

 遥か五キロに渡って続く地平の中心にして、一切の遠心力が働かない無重力の世界。

 僕とダルフォネさんはそれぞれ大地を背にして、向かい合って立っていた。距離二十歩。ダルフォネさんの手にはまだ矢が抓まれているのだけど、もうしばらく出し惜しみしていたことから、あまり本数は残っていないと推測できる。


「とはいえ……これで僕の勝ちだよ、ダルフォネさん。ここから先は上下が入れ替わる。僕が上で君が下だ」


 皮膚を張り直した手でピシリと指差すのだけど、ダルフォネさんはまだ首をかしげて返してくる。


「貴方様はまだわたくしに触れていません、けれど?」

「正直言うとさ……」細かく息をしつつ訴える。「僕、君に平和的に触れる方法が思いつかないんだよ。勢いを付けちゃうと思う。未来しか見えない」

「それは困りました、ね」


 そう言うものの、ダルフォネさんは矢を手放してはくれない。とはいえ攻撃を待ってくれてもいる。僕はしかとダルフォネさんを追い詰めた。ゆえにダルフォネさんは悩んでいる。そういう状況。

 説得の時間だ。


「どうしてそこまでしてあの兄妹を庇護しようとするの? ダルフォネさんが本当に彼らの友人だっていうなら、やりたいことを応援してあげるべきなんじゃない?」

「死ぬ危険がある作戦ならば、止めてあげるのが友人の務めでしょう?」

「それをダルフォネさんが言うの?」

「わたくしと彼らは違いますから」

「違う? 何が?」

「ノブレスオブリージュでしょう?」ダルフォネさんはきょとんして聞き返す。

「つまり……ダルフォネさんは強者として、弱者たるリゼンさんたちを庇っているということ? そのために命を賭けている?」

「そういう側面もあります」微笑んで頷く。「リゼン様はともかく、セララ様は、そう」


 纏わり付く夜霧のような。

 嫌な気配がする。


「ダルフォネさんたちとリゼンさんたちに何か違いがあるようには、少なくとも僕には見えないんだけどな」

「本当にご理解いただいていない? なるほど、神祖様なのですね」

「つまりこの星に生きる人たちならば、君の考えに多少なりとも賛同するというんだね? そしてその根拠は、誰が見たって理解できるものである」

「けれど貴方様には理解できない」


「じゃあ教えてくれるかな。ダルフォネさんとリゼンさんたちは何が違うの?」

「生まれが違います」

「ダルフォネさんの生まれは?」

「由緒正しき〝星紀のスナイパーの末裔〟の直系、アイシュア家が1221代目です」

「リゼンさんたちは?」

「人畜上がりの雑種ですわね」

「友人というのに雑種呼ばわりなんだ?」

「もちろん」ダルフォネさんは何がおかしいのかと聞き返すくらいの調子だった。「わたくしのように寛容な者でなければ、雑種と友人になどなりはしません」


 怒りをぶつけるべき相手はダルフォネさんではない。

 この星を創り上げた人間だ。いや違う。人間ですらない。

 理解した。この星の内部でこれほどの格差が生まれたのは偶然ではない。環宇宙政府の手が入っている。このやり方は──意図的に身分格差を創り出して対立を煽るこの人間管理法やり方は──。

 環宇宙政府を統べるマザーAI、〝環帯の中心リバーサルキャット〟の常套手段なのだから。


「あ、策を思いつきました」ダルフォネさんは宙を見上げる。「わたくしまだ戦えます」


 僕は熱くなった額を指で押さえた。けど、つま先で地面を叩くのは我慢できなかったと思う。


「そう、僕もちょっと機嫌悪くなっちゃったから、手加減できなかったらごめんね」


 ダルフォネさんは、トン──と、緩く飛び上がった。


「これこそがわたくしのアドバンテージ。結局のところ貴方様は、壁面を離れられない」


 見上げれば、筒形コロニーの中心に向かって吸い込まれていくダルフォネさんが、きりりと弓を引き絞っている。


「わたくしここが好きなのです。だって、矢が真っ直ぐ飛んで行くから」


 僕はダルフォネさんに向かって勢いよく跳ねた。


「その潔さや、よしですわ!」


 ダルフォネさんは興奮した様子で羽を手放した。もちろん回避はできないので、そのまま右目で受けて次には衝突の衝撃、同時に首をガシッと掴む。

 逆転した天地を貫くように等速直線運動する中で、右目に矢が突き刺さったままに、宣言する。


「僕の勝ち」


 ダルフォネさんは強く握られた首が痛む様子で、しかしまだ口角を上げている。


「お見事」


 ああこれは。

 稀有な人材だ。


「約束するよ、ダルフォネさん」

「リゼン様たちの無事を、お願いいたします、ね」

「それもそうだけど、もう一つ」


 首から手を外し、ダンスに誘うようにして手を差し伸べる。


「矢が真っ直ぐ飛ぶ世界に君を連れて行ってあげる」


 ダルフォネさんは言葉の意味を理解すると、クスクスと上品に笑ってから、僕の手を取った。


「光栄ですわ」





 壁面を離れすぎてワイヤーが届かないんじゃないかと冷や冷やしたのだけど、ダルフォネさんは平然と拳銃を取り出し、発砲の反作用で壁面に戻った。


「な、なんでここまで銃を使ってなかったの……?」


 再び足を着いた筒の底にて、ダルフォネさんは僕に小瓶を差し出しながら微笑む。


「銃はブレるので。万が一にでも外しては始祖様の名が廃りますから」

「また誇りか……それ自体は凄く良いものだと思うけどね……」

「とはいえちょっと外してしまいましたけれど、てへ」


 ダルフォネさんは舌を出して拳をコツンと頭に当てた。そんなおどけた表情もするんだ……。

 小瓶の解毒剤を飲んでから、右目に突き刺さった矢を撫でる。


「これどうしよう……邪魔だけど抜くのは怖いな……」

「えい」ダルフォネさんがおもむろに引き抜く。

「うわあああああ!?」僕はびっくらこくあまり背後に落ちそうにすらなった。


 ダルフォネさんの握った矢の先端には丸いガラス球があった。恍惚の表情で撫でる。


「まあまあ! 眼球の裏側ってこのようになっていますのね……!」


 目の前の光景は理解できないものの、まあ、まあよし、と無理やり納得することにした。どうせ役に立たない瞳なのだから、入ってようが入ってまいが関係あるまい。むしろ光を映さなくなってなお、矢が脳に届くのを防いでくれたのだ。眼球一つにこれ以上の役割を求めるのも酷だろう。

 ちょっと寂しいけど……ここでお別れなんだ……。


「ではこちらお返しします。何か眼孔に入れておかないと、病気に感染しますよ」


 えっ……お別れした二秒後……。

 僕が躊躇していたらダルフォネさんはえいやと無理やり嵌めてきた。ぷにっと骨を抜けていった感触が新体験。すごく嫌な新体験しちゃった。というかこの人はさっきから何をやってるんだろうか。無茶苦茶もいいところだ。誰がこんな人の友達をやれるというんだろう。

 結論。リゼンさんは聖人だった。


「ダルフォネさん……マイペースって言われない……?」


 ダルフォネさんは腰を着いてしまっていた僕に手を差し伸べる。


「あら、どうして分かりますの?」

「分かるよう」


 苦笑しながら手を取ろうとしたときそれは起こった。


「……? これ……」


 まず僕はその文字列を見つけたのだ。コロニー底の円盤、その中心たる円盤のさらなる中心の円盤に。僕の足元に英字で刻まれた名前を。





 ── Voyager 11──





「ボイジャー……イレブン……」


 口にして。

 意味を認識した瞬間。

 世界が境界を失った。





 全ては一瞬の出来事。しかし引き延ばされた一瞬。

 まるで薄いガラス板を何枚も重ねたかのように視界が揺らぎ、存在は輪郭を失って崩れていき、ヒトもモノも全てのものが幾重にも重なり、同時に半透明に宇宙の黒を透かし、境界を溶かし、重力を散らし、身体を覆っていた全てが拡散して、複数の影を持ち、ずれながら瞬き、どこにも属さず、広がり、縮み、回り、万華鏡のように、熱的平衡の地平線を描きだす。





 気付けば全ては終わっていた。

 まるで何事もなかったかのように、輪郭は像を結び、色は沈着している。


「あら」ダルフォネさんは遠くを見る素振りをする。「時震ですわね。少し前にあったばかりなのに。珍しい」

「え……え?」困惑する隙も無い。ただただ動悸が早まり冷たい汗が滲み出る。「今なんて?」

time時間quake震動——『時震』です。貴方様の世界では違う言い方をします?」

「いや……その。え? ちょっと待って……」酷い頭痛がする。「ダルフォネさんも体験した、の? 今のが何か分かるの……?」


 なんだか大事なことを忘れたような気がする。あるいは思い出した気がする。シナプスに変化があった実感がある。しかしそれが一体なんの記憶についての感覚なのかとんと見当が付かない。

 むずがゆい。背骨を直接撫でられているような不快感。

 変わったことは分かる。僕の人生と経験と、背負ってきた想いが無遠慮に冒涜された。しかしどこをどう書き換えられたのか気付けない。


「今のが何かと聞かれましても……時震は時震です。わたくしどもはこれを、原理的に解明しておりません。貴方様の方が詳しいのでは?」

「えっ、え?」僕は半狂乱で頭を抱えた。「そんなわけないよ!?」

「まるで」ダルフォネさんは初めから平然としている。「時震を初めて経験したかのようにおっしゃられます、ね」

「そう……言ってる……」

「まあ。衝撃の事実ですわ。宇宙共通の現象じゃないだなんて」


 僕はこれまであらゆる恐怖を体験してきた。人の死は見慣れた。仲間が拷問を受けるのを見せつけられることもあった。機械兵器に改造された仲間を弔ったこともあった。爆音の絨毯爆撃の元、ただ伏せて震えるしかないときもあった。

 その経験でもって断言できる。

 今のが最も恐ろしい体験だ。


「となるとしかし、どうしてこの星では時震が起こるのでしょう?」ダルフォネさんは腕を組んで首をひねる。


 その当然の疑問に対して、僕が返せる言葉は無かった。

 ハッと思い出してもう一度見下ろす。

 しかと、しかとその文字列は刻まれていた。

 この星の真の名前は。


 Voyager 11。

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