第30話
朝になって唯華は佳奈子と一緒に登校した。
蒼人はすでに登校しており、教室の隅で聡一郎や他の男子と談笑していた。
唯華は教室に入ると蒼人たちのグループに近づいた。
「おはよう」
蒼人と総一郎以外の男子は驚いたような顔で振り返り口々におはよう、おはようございますっ、と言ったが、蒼人はふっと振り返るとにっこり笑って「おはよう」と挨拶をした。すぐに顔をそらし、会話に戻った。聡一郎は蒼人と唯華の顔を見比べてハラハラしていたようだが、彼も申し訳なさそうに唯華から視線をそらしてしまった。
唯華は呼吸の仕方が分からなくなった。
昨夜、目を覚ました時には蒼人はどこにもいなかった。兄の部屋にあった荷物、服やゲーム機、教科書など何一つ残さず、兄の部屋は元の通りになっていた。
何かあったのか。そう考えると気になって、昨夜は再び眠ることができなかった。
それなのに、蒼人は何事もなかったような顔で、おはようと言ってみせた。まるでただのクラスメイトに挨拶するように。
訳も話さず、蒼人は唯華のそばからいなくなったのだ。
こんなに近くにいるのに、蒼人はいなくなってしまった。
そばにいられなくなるまでそばにいると言ったのに。
なら、いられなくなった理由はなに?
蒼人は唯華の気持ちを知ってくれている。そう思っていたのは、唯華の勘違いなのだろうか。
家族の思いも分からないまま一人でいるのは嫌だと言って、彼の胸で泣いたのは、いつのことだったか。
「唯華ちゃん」
ぐいっと腕を引かれて、はっとした。佳奈子が心配そうな顔で覗き込んでくる。
「…大丈夫」
唯華は呟いて、自分の席に座った。
ちょうどチャイムが鳴って、ホームルームが始まった。
唯華は自分から行動を起こすというのが、すこぶる苦手な人間だ。
蒼人が離れてしまったことについても、自分から何も言いだすことができなかった。そんな唯華の様子を見かねた佳奈子の方が二人の気まずさに我慢が出来なかったらしい。唯華は休日になると佳奈子に連れ出された。
眩しい青空が広がり、入道雲が姿を現した。すっかり梅雨が去り、蝉が鳴き始める。
そんな気持ちのいい空に、唯華の悲鳴が響く。
「いーきーたーくーなーいー」
「ダダこねてもだめっ! 気になるんでしょ、蒼人君が出てっちゃったわけ」
「それは…」
「だからとっとと行くんだよ!」
「いーやーっ」
唯華は佳奈子に引きずられて、蒼人がいるであろうマンションまで来てしまった。思わず後ずさったが、すかさず佳奈子に背中を叩かれた。もう後ずされない。
「あのねぇ、唯華ちゃん。行きたくないなら、私だけで行っちゃうよ? 私だって蒼人君にいろいろ聞きたいことがあるんだから」
「聞きたいこと?」
「そうだよ、私の信用を裏切ったとなれば、竹刀で叩いてミンチにしてミートボールにして明日の弁当にしてくれるわ!」
「佳奈子、顔怖い」
「だいたい、なんで蒼人君が思い悩むの? 本当なら今頃ライバルが登場してひと波乱あるところなのに」
「何の話?」
「相手に相応しいかどうかで悩むのは、もっと後の展開でしょ!」
「何で私が少女マンガの主人公みたいになってるの?」
「設定的に仕方のないことかな。押しかけ女房な男の子と同居なんて、萌え系ライトノベルみたいじゃん」
「佳奈子…今まで私をそんな風に見ていたの…?」
「そろそろ推しカプの新スチルが見られると思ったのに」
「お、おし、かぷ?」
「なんで、急にヒーロー不在になっちゃうの⁉︎」
「……ひとりで行ってくる」
佳奈子には喫茶店かどこかで待ってもらうことにして、唯華はため息を吐きながらマンションの中に入った。
前に聞いて、蒼人が住んでいた階と部屋番号は知っている。唯華は重い足を引きずってエレベーターに乗った。蒼人の住んでいる部屋の番号を見つけ、躊躇しながらベルを鳴らした。
「はーい」
インターフォンに出たのは、蒼人の声によく似ていた。
「こ…こんにちは。小野寺唯華です」
「ちょっと待ってて」
ドアの向こうでなにやらバタバタした後、鍵を開ける気配がした。顔を出したのは蒼人の兄滝人だった。
「そんながっかりした顔をされると、さすがに傷つくよ? これでも顔には自信あるんだから」
「あの…」
「ああ、蒼人だね」
「いえ、あの、お兄さん、パンツ一枚で接客するのは人間的にどう思うかまず聞いてもいいですか?」
ちょっとカッコいいポーズを決めている滝人は、パンツ一枚だけしか身につけていない。髪が濡れていて、雫が床を濡らしていた。風呂から慌てて出てきて大雑把に体を拭いて玄関のドアを開けたようだ。
「あ、ごめん、今シャワーから出てきたとこだったから。唯華ちゃんこそ、きゃーっそんなカッコで出てこないでよーっ、くらい言いなよ」
「私も兄がいるので、若い男性のパンツ一丁は見慣れています」
「そうなの? なんだつまんない」
「別にお兄さんを楽しませに来たわけではないですから」
「蒼人ならいないよ」
滝人はくるりと唯華に背を向けて、奥に行ってしまう。鍵を閉められなかったということは、入ってもいいということだろうと思って、唯華は「お邪魔します」と呟いて玄関で靴を脱いだ。スリッパが用意してある。なかなか抜け目ない。
リビングに恐る恐る入ってみると、すでにジーンズをはいた滝人が呆れたように苦笑した。
「唯華ちゃんは結構怖いもの知らずなのかな? だめだよ、躊躇もしないで男がいる部屋に入っちゃ。ま、俺には最愛の妻がいるわけですから何もしませんけどね」
「どうでもいいですから、早く上を着たらどうです」
「うん、今着るよ」
これで会うのは二度目だが、どうにも滝人には緊張感を感じない。蒼人に似ているせいだろうか。
滝人は服を着ると、キッチンに行って冷たい緑茶を持って来てくれた。それをテーブルの上に置いて、滝人がソファに座るとずっと突っ立っていた唯華を斜め向かいの一人掛けソファに招いた。
「まずは、この間は出会って早々拉致してごめんね」
「もう心の傷は癒えていますから安心して下さい」
「ごめん、傷になったんだ」
滝人は顔を引きつらせた。唯華の気持ち次第で、滝人は犯罪者になるところだった。
「お兄さん、あの、蒼人はどこに?」
唯華は勇気を出して口を開いた。
「蒼人は今日、聡一郎とお出かけだよ。新しいスニーカーが欲しいんだって」
違う。
蒼人はこうして唯華が訪ねてくることが嫌だったのだ。ここ一週間近く、蒼人は唯華と目も合わせてくれなかった。完璧に唯華のただのクラスメイトとして振る舞った。弁当も一緒に食べなくなったし、登下校はもちろん別々だ。
もとに戻っただけだ。
友達になる、ずっと前の関係に。ただのクラスメイトに。
蒼人がそばにいることが日常になっていて、彼がいなくなることが、自分の心に何らかの変化をもたらすとは思っていなかった。
寂しい。
蒼人が家に来る前、家族が家にいなかったときよりも、ずっとずっと寂しかった。
与えられたものがなくなることは、辛い。
唯華はそれを知っていた。だから何も持っていなければいいと思っていた。そう言って泣いてしまったから、蒼人も分かってくれていると勘違いしていたのだ。そばにいると言ってくれた、彼の優しさに安心していた。
安心して、蒼人がいなくなることなんて考えていなかった。蒼人が唯華とただのクラスメイトに戻りたいと思うことだってあると、考えなかったようにしていたのかもしれない。
またひとりになることなんて、考えたくなかったのだ。
「…蒼人が、どうして急に家に帰ってきたか、お兄さんは聞いていませんか」
「普通のクラスメイトに戻るって、泣きながら帰って来たよ」
驚いて顔を上げると、滝人は何とも申し訳なさそうな表情で自分のお茶を飲み干した。
「蒼人にもいろんな事情があるからね。それを俺から聞いて、唯華ちゃんは満足できる? 俺は蒼人からいろいろ口止めされて嘘を言うかもしれないよ」
蒼人の事情。それは何だろう。蒼人が何を考えているか分からない。分からないのは辛い。
目の奥が熱くなった。
ぐっと歯を食いしばる。
「……会いたい」
ああ、自分の都合ばかりだ。
一緒にバスに乗って登校する。みんなでご飯を食べる。ゲームをして、勉強する。
たったそれだけのことだったのに、それだけのことがもうできない。蒼人が唯華のそばにいないからだ。
そばにいてほしかった。
この気持は、なんという名前だろう。
「ひとつ、教えてあげる。蒼人は唯華ちゃんを嫌いになったからただのクラスメイトに戻りたくなったわけじゃない。唯華ちゃんを守りたくて、離れるって決めたんだ。蒼人が病気だってことは、知っているよね。蒼人はただ、自分に絶望しているだけなんだ」
「絶望…」
「そう、自分が唯華ちゃんを危険にさらすと、思っている。唯華ちゃんが死んでしまったら、蒼人はどうなるだろうね。きっと自分を責めて、責めて、もう誰のことも愛せないだろう」
そんなのは、蒼人の勝手だ。
「蒼人は、父さんと同じ運命をたどるかもしれない」
「え…お父さん…」
「蒼人の父親、俺の父でもある神田碧人はヴァンピールだったせいで妻を亡くしたと言ってもいい。病気がうつって、母さんは死んでしまった。同じように唯華ちゃんを死なせる可能性があるのに、蒼人がそのまま君のそばにいると思う? 俺は、蒼人は考え過ぎだって、笑うことはできない。いくら薬の開発で罹患率が低くなったと言っても、ヴァンピールは感染するんだ。蒼人は、母さんが亡くなった訳を知って、自分が唯華ちゃんを危険にさらす存在だと改めて分かって、自分はどうしてヴァンピールだったのか死ぬほど悩んでる」
「そんなの、そんなのは、蒼人の勝手です」
「そう言われても、蒼人の方が辛いはずだ。唯華ちゃんも分かってあげて」
「じゃあ、私の気持ちは! …全部、どうでもいいってことですか。蒼人の方が辛いから、自分が辛いのは我慢しろって!」
滝人はぽかんとした。唯華が突然声を荒げたことに、驚いたのかもしれない。
勝手だ。蒼人は勝手だ。唯華の気持ちも知らないままで、勝手に自分に絶望している。
そんなのはずるい。
なんだろう、無性に腹立たしくなってきた。
「帰ります。ありがとうございました」
唯華は勢いよく立ち上がり、リビングを出た。
「え、もう?」
滝人は慌てたように後を追ってきた。彼に唯華は頭を下げて、玄関で靴をはいた。
「下まで送っていこうか?」
「いえ、大丈夫です。お邪魔しました」
唯華は鍵を開けて部屋を出た。
エレベーターに乗り、ふと思った。
滝人は蒼人と同じで演技は上手いが嘘が下手だ。抜け目ないが詰めが甘い。
蒼人のスニーカーが出しっぱなしだった。
唇を噛んで、唯華はマンションを出た。振り返ってマンションを睨みつけ、もう二度と振り返らずに佳奈子の待つ喫茶店に向かった。
☆
リビングでの会話は、かすかに蒼人の部屋にまで届いていた。しかし、内容までは聞き取ることができない。蒼人はなるべく唯華と兄の会話を聞かないように耳を塞いで、ベッドの上で丸くなっていた。だがどうしても、背中の方から聞こえてくる小さな声に神経が向いてしまう。
兄に接客を頼んだのは自分なのに、唯華と話す兄に蒼人は嫉妬していた。
ただの友達になろうと決めたはずだった。唯華を危険にさらすくらいなら、自分が傷ついてもいいと思った。
母のように唯華が死んでしまったら。
父のように唯華を失ってしまったら。
それが怖くて離れたのに、蒼人は兄や聡一郎にさえ嫉妬した。
お前が諦めるっていうなら、俺が唯華ちゃんにアタックしちゃおうかな。
何の危険もはらむことなく唯華と結ばれることができる聡一郎に、健康な体を持つ男に、嫉妬した。唯華を危険にさらす自分に、絶望した。それなのに唯華への思いを断ち切ることができない。
私、本当は誰でもよかったんだ。蒼人じゃなくてもよかったの。都合よく蒼人が、いてくれたっていう、それだけなの。
ふと、いつかの唯華の言葉がよみがえった。
そうだ、蒼人じゃなくてもよかったのだ。そばにいてくれるなら、誰にでもできる。唯華ならば、そばにいてくれる人なんてすぐに見つかるだろう。
なんだか、急にどっと疲れたような気がする。何も考えずに、このまま眠ってしまいたかった。目覚める頃には、唯華はもういないだろう。
目を閉じようとしたその時、リビングで唯華が何かを叫んだ。
何を叫んだかはわからなかった。
その後に廊下を歩く音がして、兄と唯華の簡単な挨拶が聞こえてきた。
蒼人は体を起こしかけて、再び丸くなった。
こんなに近くにいるのに声をかけることすら怖い。唯華にそばにいてもいいと許されるのが怖かった。そばにいることを許されれば、蒼人は唯華の孤独につけこんで、離しはしない。
そうなるのは嫌なのだ。
だから離れた。
それなのに恋心はなかなかさめる様子をみせなかった。
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