第26話
碧人はあの頃、最初の妻滝美を亡くしたばかりで、ひどく落ち込んでいた。滝美とは親に決められた結婚で、二人の間にあったのは恋のような甘い感情ではなかった。碧人と滝美は幼い頃からの親友で、それ以上の感情などどちらも持つことができなかったのだ。
だが、隣には信頼できる友がいて、子どももいて、恋愛なんて碧人は知らなかったけれども幸せはこういうものだと思っていた。
しかし、あれは不慮の事故だった。買い物に出かけた滝美は信号無視の車にひかれて、あっけなく死んでしまった。
悲しかった。だが、後を追うことは考えなかった。碧人にとって滝美は、生涯の伴侶というよりも一番の親友だったのだ。滝人はまだ五歳で、守らなければいけなかった。
それでも碧人はしばらくの間荒れた。やはり滝美は大切な人だった。
恋ではない。だが、友情という愛情は、確かに二人の間にあったのだ。
冬のある日。碧人はその時、職場のトラブルのために呼び出されたところだった。車の調子が悪く修理に出していて、仕方なく一駅分だったが電車を使うことにした。
時間は帰宅ラッシュの頃で、電車は満員だ。久しぶりに電車に乗ったせいか、やけに混んでいるように感じる。人がぎゅうぎゅうで、息もつけない。暖房がききすぎて蒸し暑くすら感じる。隣には小柄な女性が立っていたので、痴漢に間違われでもしたら大変だと考え、ドア横の手すりにつかまって電車の揺れに耐えていた。
冬でも夏でも、すでに暗い時間だ。外は景色などまったく見えず、碧人は線路に沿って立っている外灯の明かりが規則的に流れてゆくのをぼんやり眺めていた。
電車が走り出して、二、三分も過ぎた頃だ。ふいに、隣に立っている女性が、コートの袖をつかんできた。碧人は不思議に思って、視線を下げる。女性は、真っ青な顔をして、怯えたようにかすかに震えていた。
具合でも悪いのだろうか。震える小さな手は、いっそう強く袖を握ってくる。
覗き込むと、色の薄い瞳と目が合った。女性は噛みしめていた唇をほどき、小さな声で呟いた。
「…助けて下さい」
やっと絞り出したような声だった。
だが碧人は、助けてって何を? と十数秒考えた。思考をめぐらしやっと痴漢という単語に行き着いた碧人は、ちょっと首をひねって女性の後ろを覗き込んだ。白いコートとスカートがめくり上がっている。碧人とは反対のななめ後ろに立つ男が女性のスカートに手を入れて、お尻を撫で回しているのだ。男は真面目そうなスーツに身を包み、まるでなにもしていないような澄ました顔で前を見ている。
碧人は基本、争うことが好きではない。しかし、悪を見て見ぬふりができるかといえば、そうではなかった。
痴漢行為に及ぶ人間は、女性の身体に触ることよりも女性に恐怖を与えられる己の強さに愉悦を感じるのだという。自分の価値を高めるために見ず知らずの他人を害する人間がいる。己の都合のために誰かに迷惑をかけても構わないと考える人間もいる。
そういう身勝手な人間のせいで、滝美は死んだ。
友達との映画の約束に遅れそうで、急いでいたんです。
滝美を轢き殺した犯人の証言を思い出すと怒りが込み上げてきて、碧人は男の手をつかんだ。男は碧人を見上げて驚いたような顔をした。このときの怒りは、いったい何に対しての怒りだっただろうか。女性を理不尽に恐怖に陥れている男に対してか、それとも一生をともにするに値する親友を前触れなく奪われたことに対する怒りか。
ちょうどよく、駅に着いた。すぐに下車できる位置にいた碧人はまず女性を車外に押し出して、それから男を引きずり出した。抵抗したので、思いっきり投げ飛ばしてやった。コンクリートに叩きつけられても逃げようとする素振りを見せたので、碧人は男の腹に乗りかかって顔を一発殴ってやった。後から考えれば、これはやりすぎだったかもしれない。
一発殴られただけで、男は力を無くして抵抗しなくなった。よく見ると碧人よりもずっと小柄で、真面目そうな顔つきの男だ。
顔を上げると、そばにいた女性はぽかんとした顔で碧人を見つめてくる。助けを求めた人がまさかここまでやってくれるとは、考えていなかったのだろう。
騒ぎを聞きつけたのか、すぐに鉄道警官が二人、駆けつけた。
女性が碧人と男の方を指さして、勇気を持って叫んだ。
「その人、痴漢です!」
よく言った!
女性に同意するように警官の方を見ると、警官の片方が顔色を変えて碧人の腕をつかんだ。正義感に満ちたその瞳は、なぜか碧人を睨んでいるように見えなくもない。
…もしかして、痴漢が逆ギレして女性を助けた男性に襲いかかっているように見えるのかな?
碧人はその時初めて自分の職業に対して、なぜもっと慎重に選ばなかったのだろうと後悔した。
たしかに、今の碧人はものすごく悪い奴に見える。ちょっと悪ぶっているスーツ、格好つけたコート、首にはネックレス。ネックレスは滝美と碧人の結婚指輪が下げてあったが、よく考えればネックレスなんて不良のアイテムだ。
「違う! 俺はやってない!」
おかしい。痴漢の弁解のように聞こえてしまうのはどうしてだ。警官も警官で、話は部屋で聞きますって、いやいや俺はやってないから!
「ちっ、違うんです! その人は私を助けてくれた人で!」
女性も警官の誤解に気がついて、あたふたし始める。警官は意外そうな顔をして、碧人の腕を放した。人を外見で判断するとは、なんてやつだ。しかし、判断されても仕方ない服装だったので、なにも言わずにおいた。
鉄道警察室での事情聴取が終わると、早々に追い出された。痴漢被害者を助けた割に賞賛の一言もなかったのは、碧人が警官によくも痴漢と間違えたなということを遠まわしにグチグチ言ったせいかもしれなかった。
鉄道警察室の近くに公衆電話があったので、碧人は仕事場に電話をかけ、今日は行かないと伝えた。こんな気分では仕事をしたいと思わないし、店長が不在でも十分やれる店員がそろっている。
受話器を置いてふりかえると、鉄道警察室の前で女性がうずくまっていた。その前を通り過ぎる通行人が不審な目を彼女に向けている。
女の人っていうより、女の子だな。少し遠くから彼女を見ると、小柄な彼女はまだ子どものようにしか見えないのだった。女の子と表現した方がしっくりくる。
彼女の名前は武内葵。二十二歳の看護大学生だ。碧人と歳は三つしか違わないが、子どものように思えてしまうのは碧人がすでに働く身であるためだろうか。
葵がつっと顔を上げた。日本人離れした顔立ちは、やはり幼さが残っている。
「武内さん、気分はどう?」
「あっ、はいっ、えと、私…そういえばまだお礼がっ」
まだかなり混乱しているようだ。
「お礼なんていいよ。きみが無事だっただけでよかったんだから」
碧人は葵の隣に座り込んで、目線を合わせる。目の前に立っていると、威嚇されているように感じることだろう。碧人は痩せているが背が高い。
「あの、ありがとうございます。私、なぜか電車に乗るとしょっちゅう痴漢にあってしまって…きっと臆病っていうのが顔に出ているんでしょうね」
葵は涙ぐんだ。確かに痴漢は気の弱そうな女性を狙うと言われている。だが今ここでそれを言ってしまうのは違う気がした。
「いや、武内さんがかわいいからでしょう」
「お上手ですね、神田さん。私、神田さんに助けてって言ってよかったです。他に助けてくれそうな人、近くにいなかったから」
「もっと早く言えばよかったのに。声、かけづらかった?」
自分のスーツに目を落とし、通勤に縦縞のスーツは二度と使わないことを心に決める。
「正直……はい。でも、優しい人でよかったです」
葵が小さく笑って立ち上がった。笑うととても可愛らしい。痴漢とかいう暴行犯は死後、地獄に落ちるべきだ。碧人もゆっくり立ち上がった。隣にいる葵はやや長身ではあるがショルダーバッグの紐を掴んで立つ姿はいかにも弱々しい。庇護欲を掻き立てられる見た目はそのまま気の弱さを表している。
「きみはさ、電車を待つ時なんかにもうちょっとふてぶてしい感じをかもしていた方がいいと思うよ」
「ふてぶてしく、ですか?」
「ネットかなにかで見たけど、痴漢っていうのは電車を待ってる時から標的を探してるんだって。腕を組んで仁王立ちしてる気の強そうな女の人は選ばないらしいよ」
「な、なるほど! 目立たないように影を薄くしてる、みたいなのは逆効果だったんですね。じゃあ、こんな感じでどうですか?」
急に葵が腕を組んで足を開いて立った。それでもちょっと強気なだけくらいにしかならない。
「だめ。まだ顔が可愛いから表情までふてぶてしくして」
「こ…こうですか?」
葵はわざと無表情のような不機嫌そうな表情を作った。
「…なんかこういう顔の狐がちょっと前に話題になった気がするね」
「どうですか? 私、ふてぶてしくできてます?」
「なかなか良いと思うよ。これから自分らしいふてぶてしさを探していけそうだね」
葵はついに声をあげて笑った。彼女が落ち着いたのを見計らって、碧人は家まで送ってあげる事にした。夜道はただでさえ危ない。
「あの、神田さん、助けてもらったお礼をさせて下さい!」
別れ際、葵がそんなことを言い出した。
「学生にお礼させるほど小さい人間じゃないよ。きみが今回助かったのは、運がよかったんだ。感謝は自分の運のよさにしておきなさい」
「いいえ! ぜひ!」
スマートに断ろうとしているのに、葵はけっこう頑固だった。
「お金のことなら心配いりません。アルバイトで貯めたにも関わらず使い道のないお金がたくさんありますから」
「将来のために使ってよ」
「きっとあのアルバイトの日々は神田さんにお礼をするためにあったんです」
「いや絶対に違うと思う!」
「連絡先を教えてくれなかったら泣きます!」
大きな瞳に見つめられる。
「そんな子猫のような瞳で俺を見ないで! わかったから! 電話番号くらいいくらでも教えるから!」
言うと、葵はぱっと笑って鞄から手帳とペンを取り出し、さあどうぞとペンを構える。
まいった。
なんてかわいい人だろう。
顔が、ではない。もちろん顔もかわいいのだが、それ以上に人となりを語る表情がかわいらしくてたまらない。
真面目で頑張りやさん。そんな言葉がよく似合う。
碧人は今まで容姿のおかげで気味が悪いほどモテまくりの人生を送ってきたが、こういう女の子とは関わり合いになることがなかった。
例えていうならば、クラスの学級委員長のような。でもただ真面目なだけではなく、優しく明るく誰にでも好かれるような人。
そして碧人はそんな人が、どうやら嫌いではないらしい。
余談であるが。
葵の家の近くから碧人の仕事場はそう遠くなかったため、仕事には行かないと連絡したものの碧人は結局仕事場に顔を出した。
そしてそこではなんと、碧人が痴漢で捕まったという話になっていた。
碧人と電話のやり取りをした店員が、話を取り違えたようだ。信頼している店員たちにそんなことをしでかす人間だと思われたのが、地味にショックだった。
□
数日後、碧人が待ち合わせの場所に行くと、今日の碧人の服装を見て、葵はちょっと驚いたようだった。最初に会ったときとは違う、なんてことはないどこにでもいそうな男の格好を碧人は意識して選んできたのだ。
「今日はスーツじゃないんですね」
「きみ、俺がいつもあんなスーツ着てると思ってる?」
「それが神田さんの趣味なら、私は受け入れる覚悟があります」
「仕事のためだよ! 覚悟なんて必要ないよ!」
葵が碧人を連れて行ってくれたのは、なかなかおしゃれな、女の子に好まれそうな居酒屋だった。彼女が三年生の終わりまでアルバイトをしていたところだそうだ。
案内されたテーブルについてメニューを見たが、注文は葵に任せた。せっかく奢ってくれるというのなら、オススメを教えてほしい。というのもメニューを見ているとあれもこれも食べたくなって結局自分では決められないためだ。
「ところで神田さんて、なんのお仕事しているんですか?」
料理を待っている間、葵がそんなことを聞いてきた。
「んー、秘密」
「え、何故にですか」
「実は地球侵略をたくらむ悪の組織と戦う正義の味方なんだ」
「ほんとですか!」
「冗談に決まってるでしょ」
料理と酒が運ばれてくると、酔いの勢いも手伝って碧人はついつい家族構成や妻を亡くしたこと、子どもがいることなどを正直に話してしまった。葵が墓石の訪問販売員や家庭教師の斡旋事業に従事していないかぎり、ばれても問題のない話だ。
きっと葵に寄せる思いが名前を持つ前に、彼女のほうから切ってほしかったのだ。こんな二十五歳にしてバツイチ子持ちの男は自分にふさわしくないと。
しかし葵は碧人を切って捨てることも、同情も哀れみもしなかった。
「滝人君て、どんな子なんですか?」
「んー、俺と似てる。五歳の俺を想像してもらえれば」
「あぁー、かわいいですねー」
アルコールのせいで赤くなった頬をだらんと崩し、葵はニヤニヤと笑った。
変な人。
「きみはちっとも俺に同情しないんだね」
「え? なにに対しての同情ですか?」
「妻と死に別れて二十五歳にしてすでにバツイチ子持ち」
葵はグラスを傾けながら、上目で碧人をちらりと見た。
「…私も一応人間社会の中で生きてきましたから、相手がどんな気持ちでいるか、どんな言葉をかけることが適切なのかはわかります。同情してほしいのなら、いくらでもできますが」
「同情よりもお金を下さい」
「あげません」
「いや、ごめん。同情してほしいんじゃなくて、ちょっと不思議だなぁって。今まで散々カワイソウとかタイヘンデスネなんて言われてきたから」
「亡くなった人をかわいそうだと思うのは、生きている側の勝手な憶測でしかありません。かわいそうって思うのが普通です、私だって不慮の事故で亡くなった滝美さんはかわいそうだと思います。でも、私は声にしてそれを言いませんよ。私、同情という気持ちがあまり好きではないんです。同情された側は、なんだか嫌な気持ちになりませんか? 上からものを言うな、君に私の気持ちがわかるのかって思ってしまいませんか? 私はそうです。同情されると腹が立ちます。意地っ張りなんでしょうか。それに、聞きますけど碧人さんは自分の二十五歳にしてバツイチ子持ちっていう状況がかわいそうだと思うんですか?」
一気にそこまで言われると、さすがの碧人も処理能力が追いつかなかった。
「んー…自分がかわいそうだとはあんまり思っていないよ。滝美さんだって、もしかしたら天国で俺よりもいい男を見つけて逆ハーレム作っておもしろおかしく暮らしてるかもしれないし。滝人はかわいいし」
「ならば私は碧人さんを同情する理由がありますか。碧人さんが自分はかわいそうじゃないって思うのなら、それが碧人さんの気持ちです。同情って言うのは、苦しんだり悲しんだりしている人に対してその人の気持ちになって思いやることなんですよ。だいたい、人の気持ちになってっていうのがそもそも間違いだと思うんです。相手の気持ちなんて理解できても共感できるはずがありません。私はあなたにはなれないんですから」
どうやら葵は酒が入ると饒舌になるようだった。碧人はそれがおもしろくなってきて、葵の様子を見守ることにしてグラスの中身をちびちびやった。葵はガンガン酒を煽ってゆく。
「それにっ奥さんを亡くしているとかっ、子どもがいるとか、そんなことで碧人さんの魅力は半減しません!」
葵は机を叩きはじめた。店内完全個室でよかった。
「碧人さんのおまけなんてどうでもいいです。いや、よくはないんですけれど! 大切なのは碧人さんが碧人さんであるという事実じゃないんですか?」
まずい。
葵を好きになりそうだ。
だから得意の軽口で、そんな気持ちは潰してしまおう。
「どうしたの、葵ちゃん。俺に惚れちゃった?」
大抵の女の子はここで「やだー、そんなことないよー」と言うはずだ。好意があるのかとからかって、その答えが出てくればこっちのもんだ。それを言い訳にして、恋に発展させないための口八丁は碧人の常套手段だ。
碧人は容姿のせいで女子には人気があった。それゆえに恋の始まりをいくつも潰してきた。
学生時代は病気を移さないことが目的だったが、今は違う。碧人には滝人がいる。葵に心奪われて、滝人を寂しがらせることはできない。碧人の今の優先順位一位は滝人なのだ。
しかし葵は言った。
「私が痴漢にあった時、碧人さんはただ私を助けてくれた。私、前にも痴漢にあった時、隣にいた男の人に助けてって言ったことがあるんです。その人、助けてはくれたんですけれどその後に…見返りを要求されて、断りましたけど、ちょっと男性不信気味だったんです。でも碧人さんはそんなことしなくて、危ないからって家まで送ってくれたりして、紳士でかっこよくて」
「ま、顔がかっこいいことくらい自分でも知ってるよ」
「顔もですけれど、全部です。全部かっこよかったんです。碧人さんは優しい人です、素敵な人です。あんなにかっこいいところ見せつけられたら、碧人さんを好きにならない女の子なんて、この世に存在しません」
葵はきれいな色の酒を一気に飲み干すとグラスをタン、と置いた。
「碧人さんが、好きっす」
ろれつが回らなくなった葵の体育会系な告白に、碧人は思わず笑ってしまった。葵は言い終わると同時に潰れた。あんまりぐいぐい飲むものだからイケる口なのかと思っていたが、葵はどうやら緊張していたようだった。
寝顔がまたかわいらしくて、惚れるには早すぎるだろうに、どうしようもない愛しさがこみあげてくる。
だが、一方で不安があった。葵が碧人の病気にことを知った時、彼女は果たして碧人を受け入れてくれるのだろうか。まあ、もう少し後にそんな不安はまったくもって無意味なものだったと気づくことになるのだが。
葵が潰れてしまったので、結局碧人が会計をして店を出た。彼女を負ぶって家まで送り届け、葵の母親と遭遇するというハプニングもあったが、葵の母は碧人のことを葵からきちんと説明されていたのでにこやかに対応してくれた。
できる限り滝人と一緒にいてやりたいという思いから、碧人は自分に門限を課していた。個人的な用事で出かけるときは、門限は夜十時。仕事の時はできるだけ早く帰る。
今夜もなんとか十時に間に合った。玄関を入ってすぐのところで、廊下をぺたぺた歩く滝人を見つけた。とうに寝ているはずの時間なのに。
「滝人」
呼び止めると滝人は眠そうな顔で振り返った。まだ五歳のくせに、父と母から受け継いだ美貌は群を抜いている。滝人も将来いろいろと苦労しそうだ。
「あっお父さん、おかえり」
まだ眠っていなかったのか。叱ろうと思ったが、滝人はパジャマ姿だった。
「トイレか?」
「うん。ぼく、ちゃんと八時に寝たよ」
滝人をトイレまで連れて行って、部屋までだっこして運んでやる。
「…なあ、滝人、お父さん、好きな人できちゃった」
「デートするっていってたひと?」
滝人は眠そうな声で返した。
「ぼくのお母さんになるの?」
「いや、それはまだ気が早いな」
でも、もしそうなったら。
「滝人は嫌か? お母さんが新しくなったら。滝人のお母さんは滝美さんだって、お父さんもちゃんと分ってるけど…」
滝人が父の首に下がったネックレスをいじった。そこには滝美との結婚指輪がついている。二つの指輪がこすれ合って、かすかな金属音を立てた。まるで滝美がささやいているようだった。
きみは幸せだったのかな。本当は俺ではない男を愛しながら、その人とは決して結ばれなかったきみは、本当は不幸だったのではないのかな?
滝美に彼女の本当の気持ちを聞きたかった。結婚してから、ずっと聞きたかった。しかしそれはもう叶わない。だからと言って、彼女の血を半分引き継ぐ滝人にこんなことを聞いても滝美が答えてくれるわけではない。
きみを不幸にしたかもしれない俺が、恋をしたら滝美さんは怒る?
「んー、いいよ」
滝人が小さくつぶやいた。
「でもね、お父さん、お母さんのことわすれないでね」
小さな手に、力がこもった。きゅっと滝人が首にしがみついてくる。耳のそばで、すん、と鼻をすする音がした。
「泣いてるのか?」
「なっ、なかないもん! ぼく、おとこのこだもん!」
男が泣くもんじゃねーぞ! というのが、滝美の息子への教えの一つである。
頭をなでると、滝人は肩に額を落としてきた。
「お母さんのこと、わすれないで」
「ああ、忘れるもんか」
ぽと、と肩にかすかな音。滝人が涙を落したのだ。滝美を忘れるわけがない。
人生で最高の、愛しい親友。
忘れるものか。
たとえ誰と、恋に落ちても。
□
何度かデートを重ね、碧人は何度も葵を嫌いになろうと試みたが、葵は時に真剣な、ときにバカバカしい論議によって碧人を驚かせ、やはり彼女が好きだという結論に至らせる。しかし葵が饒舌になるのは決まって酒の席で、その後は酔い潰れて結局その時のことは何も覚えていないものだから、なんだか碧人ばかりが彼女を好きになっていくようで、あまりおもしろくない。
日曜日に休みが入った。碧人の仕事は、平日働く国民が休みの日が稼ぎ時だ。ちょうど日曜日に休みが入ることは滅多にない。しかも働きだして二カ月になる葵も、その日曜日は休みだという。
ついに碧人は決心した。
葵に告白しよう。
何度かデートをしたといっても、碧人と葵は恋人でもなんでもない。手をつないだこともないし、ましてやキスなんてとんでもない。葵が痴漢撃退へのお礼として誘ってくれた時に告白はされていたが、なんと葵はその記憶を一切吹き飛ばしていた。自分が告白したことなど、まったく覚えていないようなのだ。
ここはひとつ、自分から告白して男気を見せる時なのではないか。
そう思って、碧人は準備を始めた。厄介な病気を持つ身だ。葵にそのことを話さずに恋人になろうなどと、思ってもいけないことだった。
こんなことを聞いたら、もしかすると葵は碧人を遠ざけるかもしれない。
赤血球捕食細菌による後天性赤血球欠乏性貧血。この病気を持つ患者は後天性赤血球欠乏性貧血患者と呼ばれている。誰にでも感染する病気で、おもに血液感染、性感染する。葵にはその危険がある。この病気によって遠ざけられても、仕方のないことだ。
もうすぐ梅雨に入るかという日曜日、碧人は喫茶店に葵を呼び出した。窓際の席に座って葵を待つ。窓から差し込む陽の光は温かく、告白をするにはなかなかよい日だ。告白と言っても「愛の」だけではない碧人にとって、出来るだけ明るい雰囲気で話したかった。日曜日だが、まだ開店したばかりの店内には客の姿があまり見られない。
十時半、待ち合わせの時間きっかりに、葵がやってきた。葵は碧人と目が合うと、びっくりしたように目を丸くする。碧人がデートに遅れてこないことが珍しいのだ。いつもは滝人の世話やなんやで、十分二十分遅れることが多かった。
「私が碧人さんを待たせるなんて!」
「自分で誘って遅れてくるような男じゃないよ、俺は」
「ごめんなさい」
「時間ちょうどに来て、何言ってるの」
「それもそうですね」
葵は碧人と向かいの席に座った。
「ケーキ食べていいですか? 私、冬目堂のチョコレートケーキが好きなんです」
「待って、今日は重要かつ重大な話があるんだ」
葵はメニューを取ろうとしていた手を止めた。きょとんとした葵は、ちょっと考えて、手を戻す。
「…じゃあ紅茶だけ頼みましょうか?」
紅茶が運ばれてくるまでは仕事中にあった楽しい話で盛り上がる。碧人は葵に笑顔で対応していたものの、握ったこぶしの中には汗をかいていた。
何から話そう。そればかりが頭の中をめぐっている。
「あの…碧人さん」
「ん? なに?」
「いつもは素敵な笑顔が今日は引きつってますよ?」
「う、うん」
ちょうど紅茶が運ばれてきた。冷えた紅茶を碧人は半分ほど一気に飲んだ。顔を上げると葵は珍妙な生き物を見た顔になっていた。
「碧人さん、どうしたんですか? 変ですよ?」
「うん、それはわかってるよ」
何と言って話を切り出そう。
碧人は軽い振りをしているだけで、実は告白というものをしたことがない。学生時代に恋人なんていなかったし、滝美との結婚は親どうしの決定で愛の告白など必要なかった。
慣れないことにはやはり、直球勝負しかないだろう。
「武内葵さん、よく聞いて下さい」
「なぜ急に敬語っ?」
「実は俺は、葵が…」
好きなんです?
愛してます?
愛してますは言いすぎ?
固まった碧人を見ながら、葵は不思議そうな顔をしつつストローをくわえた。
「す、す…菫の花に見えるんです」
「ぐふっ」
葵は紅茶をちょっと噴き出した。
「な、えっ? どういうことですかっ? 碧人さんは詩人か何かですか! ふふっ」
「いや、違うんだ! 照れ隠し、照れ隠し! ほんとは好きだって言いたかった!」
「ぐふっ」
葵は紅茶でむせてげほん、げほんと咳をした。おしぼりを渡すとそれを口に当て、盛大にむせ込んでようやく葵は落ちついた。
「私に二回もムセさせるなんて、碧人さんは酷い人です!」
「ごめん! ただ好きだって伝えたかっただけなんだ!」
「あっ、いえっ、私も叫んだのは照れ隠しです!」
「そうだったの? 女の人ってわからないね!」
一度そこで黙って、二人とも落ち着くために紅茶を飲んだ。氷が溶け、少々薄くなっている。
「あのさ、冗談じゃ、ないよ?」
「はい、それはもう、冗談だったら私はここで、あなたは酷い男ですと泣き叫びます。そして碧人さんは店内中の視線を浴びていたたまれなくなればいいんです」
「そう、それで…」
病気のことを話さなければ。だが葵は白い頬をほんのり染めて、視線をさ迷わせた。
「返事ですか?」
「気が早いです! いや、普通の人はこのタイミングで返事されるものなのかな? そうじゃなくて、まだ聞いてほしいことがあるんだ。それを聞いてから、よく考えて返事をしてほしい」
葵は首を傾げた。その仕草がまた可愛らしい。
碧人は足の隣に置いてあった分厚いA5封筒を手に取った。ヴァンピールに関する資料が入っている。
「実は、俺は病気なんだ」
「病気?」
「うん。普通の人にはあんまり知られていなくて…その病気を持っている患者は、ヴァンピール患者って呼ばれている」
葵は紅茶を一口飲んだ。そしてストローから口を放し、言った。
「ヴァンピール患者。赤血球捕食細菌による、後天性赤血球欠乏性貧血患者のこと。血液感染、性感染で拡大する。血液中の赤血球が細菌に捕食されればヘモグロビン値が下がり、貧血を引き起こし、血を求め人を襲うこともありうる。その行動から、昔は吸血鬼と呼ばれ、恐れられていた。しかし、一緒に日常生活を送る上では感染の危険性はなく、患者を恐れることは避けるべきである」
「…え?」
「知ってますか? ヴァンピール患者とキスをしても、感染しないんですよ。赤血球捕食細菌は㏗の急激な変化に弱いんですよね」
「なんで、そんなに…?」
驚いて碧人は頭が真っ白だ。
葵はふふっと笑った。
「碧人さん、私の職業忘れていませんか? 私、看護師ですよ」
その一言で合点がいった。すっかり葵の職業のことを忘れていた。国家試験に合格した時にお祝いだってしたのに!
「あ、あー…俺この日のために一週間くらいかけて準備したんだけど…」
支部に申請書を取りに行って、申請理由を泣きながら書いて、何度も葵にどう説明しようか心の中で繰り返した。病気の説明をしたらもう一度気持ちは本当だと言って、とそんなことをここ一週間ずっと考えていたのに。
「報われない努力だった…?」
碧人は思わずテーブルに突っ伏した。
「そんな努力が嬉しいです、碧人さん」
手に温もりを感じた。顔を上げると、葵が優しく手を握ってくれ、微笑んでいた。
「どうして嬉しいの?」
「私も、碧人さんが好きっす」
葵は頬を赤くして答えた。初めて葵に好きだと言われた、その言葉と同じ言葉で。葵はあの時のことを覚えていたのか。ずるい。
「…ほんとに?」
ゆっくりと葵が頷く。
不意に涙が零れた。冗談めかしているが、葵の本心をずっと前から知っていた碧人はそれが本気の返事だと知っていた。受け入れてくれたことが嬉しい。ただそれだけだ。葵がおしぼりで目を隠してくれた。
混み始めた店内では二人の会話に聞き耳を立てる客はおらず、つい今しがた恋人になった二人のイチャつきを咎める野暮な店員はいなかった。
ついに碧人は誰に咎められることもなく、葵と触れ合える名前を得たのだ。
□
一年ほどの交際を経て、碧人は葵と結婚した。
碧人の病気など、葵にとっては些細なことでしかなかったと、彼女自身が言った。
結婚する上で、碧人の病気のことは葵の両親にも伝えられた。葵の両親はそれはもう品行方正という言葉が似合う人で、碧人の病気をいたく心配してくれた。ただし、彼らから子どもを作ることはやめてほしいと言われた。やはり娘を失うのは避けたいことだろう。滝人はそんなひどいことを言ったのは白妙だろうと勘違いをしていることとなる。碧人は二十年以上たった今でも滝人の勘違いに気が付いていない。碧人の両親も息子の再婚には反対しなかった。しかし、やはり葵が病気ではないことを、心配はしていたようだ。
結婚する前から、滝人は葵にすっかり懐いた。葵は子どもが好きだったし、小児病棟で働いているから子どもの扱いはお手のものだ。
滝人がいるから、子供は作らない。それは二人の意思でもあった。しかし、葵は心のどこかで子供がほしいと思っていたのだろう。事あるごとに滝人に「兄弟ほしい?」と冗談めかして聞いていた。しかし葵をヴァンピールにして亡くしたくはなかった。亡くすくらいならば抱き合うことすらしなかっただろう。避妊技術が発達していることに感謝である。
ただ子供を作らないだけで、本当に幸せだった。
失うのが怖いくらいに。
だけれども、失うなんて考えもしなかった。
幸せは、ずっと続くと思っていた。
葵が碧人の病気は些細なことでしかないと言ってくれたから、碧人は安心していたのだ。安心して、病気が危険であることを意識しなくなっていた。いや、病気であることすら忘れていた。
碧人は二十九歳。葵と結婚して、三回目の秋。
葵は姿を消した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます