第25話

 日曜日、蒼人は決心して小野寺家を出た。なにがあっても大丈夫。そう思えるくらいに、昨夜は唯華にたくさんかまってもらった。唯華には激しくうざがられたが、元気は出た。

 元気を出さないと、父に会いに行くことなどできない。元気の出る歌でも歌いたい気分である。

 朝から強い雨が降っていた。天気予報では、夜まで続くらしい。ようやく梅雨という感じが出てきた。

 実家に近づくにつれ、だんだん足が重くなってくる。帰りたいなぁと思ううちに、ついに家に着いてしまった。

 帰りたいと言うのは間違っているか。蒼人の帰る家は、この家だ。それなのに、この憂鬱はどうしたことだろう。この前帰ってきた時と気持ちはほとんど変わらない。

 門をくぐり、玄関にたどり着く。傘をたたんで数回深呼吸してから、チャイムを押した。

 出迎えてくれたのは、祖母だった。祖母は孫の顔を見ると、顔をしかめた。

「あの、今日は父さんと約束が」

「わざわざベルを鳴らさなくてけっこうです」

 祖母はツンと言い放ち、部屋に引っ込んでしまった。戸は開けられたままなので、入ってよいということだろう。

蒼人はスニーカーを脱いで、家に上がった。父の部屋は廊下の奥の洋間だ。

今度は深呼吸などせずに、ドアを叩く。深呼吸などしている間に、決心が崩れてしまう気がした。

しばらくして「入りなさい」と声がかかった。久しぶりに聞く、父の声だった。蒼人はゆっくりと、取っ手を引いた。 

部屋に一歩入ると煙草の臭いが鼻をつく。部屋の中には薄く靄がかかったようになっている。ヴァンピールはただでさえ血中の酸素濃度が低いのに、煙草を吸うなんて自殺行為だ。喫煙により肺の機能が悪くなって、酸素が細胞に十分取り込めなくなってしまう。それなのに父は、いつからか煙草を吸うようになった。いくら滝人に止められても、やめるつもりはなさそうだ。

「久しぶりだな、蒼人」

 父、碧人は、開け放たれた窓のそばに立っていた。手に煙草は持っていない。外は雨が降って無風なので、窓を開けても紫煙はなかなか消えなかった。

「こんにちは、父さん」

 目が合うと、父はぎこちなく笑った。蒼人も笑顔を作るには、少し努力が必要だった。

 言葉を交わすのは、いつ以来か。小遣いさえ銀行振込だった親子の間には、そんな時でさえ言葉は必要なかったのだ。

「座りなさい」

 父は言いながら、灰皿の灰をゴミ箱に捨てた。

 言われた通りソファに座る。豪華に見えるが、古いソファは座り心地があまりよくない。

 父も蒼人の前に座って、軽く顔を俯ける。

 こんなに影のある人だっただろうか。父はもうそろそろ五十歳になるはずだが、母が亡くなった頃からまるで時を止めてしまったように老けた様子がほとんど見られない。そこに影が足されて、なんとも危ういような雰囲気が滲み出している。そのまま小さくしぼんで、消えて無くなってしまいそうだ。

「…父さん、話ってなに?」

 父がなかなか口を開かないので、ここは蒼人から話を始めるべきかと考え、言った。

「あぁ…そうだった…」

 促された父は、それでも言葉を繋げない。

「俺に話していないことって、母さんのこと? 小さい時に聞いた、こと?」

 父は頷き、ようやく言った。

「いったいなにから話そうか。手紙を書いて、心の準備をしていたはずなのに、いざお前を目の前にしたら……準備なんて役に立たないな。でも、お前が血液提供者を選んだとなれば、しかもそれが好きな女の子だと聞いたら、俺はお前に話さなくてはならないと思うんだ。葵が、お前の母さんがどうして死んだのかを」

「それなら、知ってるよ。母さんは、俺を産んだせいで死んだんでしょ。母さんの方のおばあちゃんが、そう言ってるの、聞いたから」

 そうだと肯定されるのは、恐かった。しかし蒼人は、自分が真実を口にしていると思い込んでいたから、仕方のないことだと諦めるような気持ちだった。

 だが、父はテーブルに手をついて、身を乗り出してきた。

「違う!」

 あまりの声の大きさに驚いて、思わず身を引いた。父の顔は一瞬にして血の気を失った。父は叫ぶと急に力を無くしたようにソファに座り込む。

「まさか、ずっと、そう思っていたのか。自分が、母親を死なせたと…」

 力ない、呟き。

 なにかが食い違っている。

 十年近くもの間、親子はずっと、食い違っていた。

「違う、違うんだ、蒼人。葵が死んでしまったのは、俺のせいなんだよ」

 蒼人のせいじゃない。

 いったい何から話せばよいのか。

 囁くように、父は言った。

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