第22話
六月も後半に入り、雨も降らずむしむしと暑い日々が続いていた。ようやく梅雨入り宣言がなされたものの、気象庁に挑むような天気のいい日。
蒼人が倒れたのは、陽がさんさんと照りつける、四時間目の体育の授業中であった。
唯華と佳奈子はまだ教室で着替えをしている最中で、教室の外から来たクラスメイトの女の子に「聡一郎君が保健室に来てって言ってたよ」との言伝を受けた。唯華は急いで着替えをすませ、佳奈子に弁当を頼み教室を出た。
廊下では数人の男子がひっそりと着替えをしている。文系で女子が圧倒的に多いクラスの男子たちは、鍛えられた紳士なのだ。唯華はそちらを見ないようにして、廊下を早足で渡る。
保健室に入ると、ひとつのベッドの周りにカーテンがひいてあった。先生はいないようだ。
「死んじゃう~、死んじゃう~、苦しいよ~、めまいするよ~。聡一郎、いつからお前は分身の術が使えるようになったんだぁ~」
「そういうことは本当に呼吸困難起こしてから言え、この貧血野朗」
「うわ、親友とは思えない言い草」
「具合悪くしてまでバスケに熱中したお前が悪い。この、つるつる膝小僧野郎」
「体毛薄いの気にしてんだから、そういうこと言わないで! 俺がバスケしてなにが悪いんだよ」
そんな会話がカーテンの向こうから聞こえてくる。
「聡一郎君?」
声をかけると、聡一郎が中から顔を出した。
「あぁ、良かった、唯華ちゃん来てくれたぞ」
カーテンの隙間から覗くと、ベッドに横たわっているのは蒼人のようだった。
「どうしたの?」
蒼人はずいぶん顔色が悪い。色白なのはいつものことだが、それをこえて青白くなっている。
「最近調子よかったから、病気のことを忘れて調子に乗ってしまったんだね、この馬鹿は」
選択体育の授業で、蒼人は聡一郎と同じくバスケを選択していた。運動神経のいい彼のことだ、動けることで張り切ってしまい、こんなことになったのだろう。そのうえ今日は暑い。いくら体育館の中だとはいえ、蒸し暑かったはずだ。ちなみに唯華や佳奈子は冷房が入る第二小体育館で授業をしているので、なんら問題はなかったのだが。
「まったく、たまに自分の力を過信するんだからな、この馬鹿は」
「…病人に向かってバカバカ言うな」
不満気な声が毛布の中から聞こえてきた。むっくりと蒼人が起き上がろうとする。聡一郎はそれを阻止し、彼の胸にチョップを入れた。蒼人は抵抗せずに倒れ込む。
「馬鹿は寝てろ。でね、これは唯華ちゃんにしか相談できないんだけど、あと頼んでもいい?」
「なんで私?」
急に呼びつけて看病せよとは、ちょっとずうずうしくはないか。君は蒼人の親友だろう。
「だって、唯華ちゃんが蒼人の血液提供者でしょ。俺の血はあげられないからさ。蒼人が捕まっちゃう」
「血がほしいの?」
「ちょこーっとでいいんだよ。今の蒼人に必要なのは、血じゃなくて血を飲んだから発作は起きないっていう思い込みだから」
「え?」
「一滴でいいの。頼むよ」
聡一郎は顔の前で手を合わせた。蒼人は相変わらずぐったりしている。
「……発作?」
「ヴァンピールの貧血症状は普通の貧血とはちょっと違うところがあってね、人を襲いたくなる衝動に駆られることがあるんだよ。それを発作って呼んでるだけ」
蒼人が人を襲う。
それを聞けば答えなどすぐに出た。
「少しならいいけど。どうやってあげればいいの?」
「それはお二人のお好きなように」
くすっと笑い、聡一郎は保健室から出て行ってしまった。
唯華はベッドのそばに寄って、蒼人の顔を覗き込む。
「大丈夫?」
「ちょっとダメっぽい。はしゃぎすぎちゃったよ」
「こういうことあると、蒼人が病人だって思うね」
「いつもはわからないでしょ。自分でもたまに忘れるくらいだもん」
蒼人は面倒くさそうに再び起き上がった。
「唯華、あれ取って」
彼が指さしたのは、机の上のペン立てにあるカッターナイフだ。
唯華はそれを手に取ってはみたものの、なんだか恐くて蒼人に渡すことを躊躇してしまう。
「あとアルコール綿も取って。唯華が選んでいいよ。噛みつかれるのとカッターで切られるの、どっちがいい?」
唯華は意思表示として蒼人にカッターナイフとアルコール綿を渡す。
頷いた蒼人は、アルコール綿でカッターナイフの刃を消毒した。
「どこを噛んだり切ったりするの?」
「唯華が許してくれるとこ」
「ってどこだろう?」
唯華は自分の体を抱えて、考えてみた。
肌が見えているところは避けたいが、だからといって制服の中は嫌だ。
「俺の意見としては、胸のあたりがやりやすいと思うんだけど…」
「やだよ!」
「じゃあ太ももとかにする?」
「それもやだ…」
「首は動脈がたくさんあるから、危ないと思うんだ」
唯華が迷ううちに、蒼人の具合はどんどん悪くなってゆく。ついに息が深くゆっくりになって、彼はベッドにうずくまってしまった。
「唯華がだめっていうなら聡一郎にでももらう…あ、こっちの方が犯罪なんだっけ。俺、唯華以外の血を飲んだら逮捕されちゃうんだっけ? あぁ、どうしよう…」
蒼人はどうやら混乱しているようだ。人を襲ってしまうかもしれないという恐怖に怯えている。ヴァンピールの強い貧血が加わって、正常な思考ができているとは思えなかった。
唯華は焦った。リボンを解き、ボタンも二つ外し、蒼人の前に胸をさらす。蒼人に腰を引かれ、ベッドの端に正座するような姿勢となる。
蒼人はカッターの刃を唯華の肌に押しつけた。胸に三センチほどの傷がつく。傷は浅い。痛みはあまり、感じなかった。
ぷつ、と赤い血の玉が浮かび上がる。すぐに形が崩れ、赤い水滴は胸の間に流れ込もうとする。
蒼人はそこに舌を這わせた。色の薄い唇が、傷口に吸いつく。舌先が傷をくすぐると、痛みではなく熱を感じた。
これは彼の発作を止めるための作業だ。わかっているのに、恥ずかしくてたまらない。どうして指という最も恥ずかしくない場所を選ばなかったのか。
赤ちゃんにおっぱいをあげるお母さんはどうして恥ずかしくないのだろう。ずれたことを考えながら、恥ずかしさを必死でこらえた。
傷口から血が出てこなくなると、蒼人は強く傷口を吸って、唇を離した。その唇を舐める舌の動きが、いやに艶めかしい。
ふっと息を吐いて、蒼人は唯華の肩にトンと頭を乗せてきた。
「なんかごめん。改めて唯華を巻き込んでるなって、自覚した」
「いまさらでしょう、そんなこと」
蒼人はかすかに頷いて、動かなくなった。
「大丈夫?」
「うん? 俺としては唯華がいつまでも見事な谷間を披露してくれてることの方が、大丈夫じゃないね」
「はぁっ! うっかり!」
忘れていた。急いで前を合わせたが、青い瞳はにやにや笑っている。唯華は蒼人の横っ面を張り倒してベッドを下りた。
「ちゃんと消毒してね…」
蒼人はいろいろと満足した幸せそうな表情で、ぱふんとベッドに沈んだ。
唯華はカーテンの外に出て、傷の様子を確認した。
もう血は出ていない。しかし、そこには赤い花が咲いていた。傷なんかよりも、こっちの方が問題だ。もうすぐ水泳の授業が始まるというのに。水泳は嫌いだが、水泳を休んだ生徒はマラソンをさせられる。くそ暑いなか、マラソンなんてやっていられない。マラソンも嫌いだ。
というより、もっと別な問題もありそうな気がするが。
唯華は傷を消毒する。傷はほとんど見えないのに、赤い花はもちろん消えなかった。
絆創膏は貼るまでもないが、なにか貼ろうか。少々悩んだが、なにもしないで唯華は制服を正して蒼人のそばに戻る。
「…なんか、痕になっちゃった?」
「え、いや、別に…」
唯華は胸を気にしていた手を体の横にもどした。
「ならいいんだけど。あーあ、俺がほんとの吸血鬼だったら、もっと流血の場面が多い、ちょっとエッチな物語になってたのかな。予定としては吸血鬼と人間が共生する世界の学園ラブアクションファンタジーだったのに」
「なんの話?」
「でもやっぱり法律は許してくれないもんね。気をつけなくちゃ」
「…ヴァンピールに対する法律の話だよね?」
「うん? それ以外になにかある?」
「いや…もう大丈夫そうだね。私もう行くよ」
「…知ってる? 吸血行為は、性行為なんだって」
「は?」
あまりに唐突なもの言いで、唯華はそんな声しか出せなかった。見つめた蒼人の表情は、思いがけず真剣だった。
「今は薬の開発でなかなか感染しないけど、昔は吸血によっても感染してたから。だから吸血行為はヴァンパイアが仲間を増やすための行為、つまり性行為だとされていたんだ。なるほどだよね。それに首のあたりから血を吸われるのって、快感らしいよ。脳の血流が少なくなって、頭の中がふわふわして、なにも考えられなくなってしまう。被害者は快感に身を預け、眠るように死んでしまうか、もしくは目が覚めた時にはヴァンパイアになっている」
「…つ、まり、さっきのことが私と蒼人の間にあってはならぬその類の行為だったと言いたいわけ?」
蒼人はやれやれと首を振った。
「わかってないな。俺は唯華のおっぱいに顔をうずめてしまったことに、今さら恥ずかしくなってるところだよ…」
そう言って蒼人は手で顔を覆うと唯華に背を向けてベッドに伏せた。表情は見えなかったが、普段は白い耳が真っ赤に染まっている。美青年すぎて忘れてしまうのだが、彼は意外なほど純情なところがあるのだ。ちょっと早口の長台詞は照れ隠しなのだろうか。覚えておこう。
「もう大丈夫?」
声をかけると蒼人はちょっとだけ振り返る。頬も薄く染まっていた。
「うん、唯華のおかげでもう人を襲いたい衝動は来ないだろうし。ごめんね、引き止めて」
「そんなことはいいよ」
なんとなく蒼人が唯華を引き止めたがっているのがわかったのだ。大丈夫ということならば、もうそばにいなくても良いだろう。
「俺、今日は早退して病院行ってくる。多分輸血してもらえるだろうけど…やだなぁ、輸血。時間かかって暇だし、唯華のおっぱいを思い出してなんとかしのぐことにするよ」
「もう胸の話はよして下さい」
「一週間は忘れません」
「勝手にしろ」
捨て台詞のように言って、唯華は保健室を出た。
蒼人は貧血なのに、あまり喋らせない方がよかったかもしれない。配慮が足りなかった。
唯華は反省しながら化学実験室に向かった。
☆
外来を受診すると、問答無用で赤血球製剤の点滴を打たれた。医師に「きみは激しい運動を長時間続けると死んじゃうよ」と脅された。
いや、脅しではない。もしヴァンピールがフルマラソンを完走したら、その場で死にはしなくとも気絶くらいはする。重度の貧血を患うヴァンピールは、昏睡の症状が出れば危ない状態だ。蒼人はめまいと倦怠感しかないので、まだ輸血で済んでいる。
さて、それにしても暇だ。蒼人は外来患者専用の待合室で紅色の雫が落ちるのを眺めていたが、すぐに飽きた。十五分ほど他の急病患者を受け持ちながら慌ただしくしていた看護師はもう業務に戻っていて、蒼人は放置されている。
まさかこんなところで唯華のおっぱいを想像して時間を潰すわけにはいかない。不純な妄想で唯華を汚してはいけないような気がする。それなのに、あの時の唯華の胸の感触が思い出されて―…俺の馬鹿馬鹿馬鹿。ごめん唯華ごめん。しょせん俺も男なんです。後世に自分の遺伝子を残したいと思ってしまうんですごめんなさい。蒼人は点滴が入っていないほうの手で顎をがりがりかきむしる。
じっとしているからダメなんだ。蒼人はそう思い込んで、立ち上がった。看護師に断って、売店に向かう。この巨大な病院には、コンビニがまるまる一つ売店として入っている。その隣には、なんと小さな書店まであるのだ。蒼人は少し迷って、書店に入った。なにか難しい小説でも読んで、むっつりエロスを封印するつもりだ。女の子と同じ家に寝起きしていて、こういうのはいけない。たぶんコンプライアンス的にダメだ。
小説の置いてある棚の前でしばし迷って、表紙にイラストの入った分厚い文庫本を手に取った。帯には『話題の推理小説』と書いてあった。表紙にイラストも入っていることだし、高校生でも読める内容だろう。蒼人はそれを購入し、待合室に戻った。
小説を夢中になって読んでいると、ふと隣から視線を感じた。読書どころではなくなる。しばらく無視を続けたが、どうやら隣にいる人は蒼人の顔を見ているようだった。
この顔は目立つ。他人からは美形、美貌、などと称されることを知っている。だからこそ、俺ってカッコいいでしょ、なんて冗談も言えるのだが、蒼人は決してナルシストではない。だからちらちら見られてこそこそと話題にされると、腹が立つ。
しかし隣にいる人は、蒼人をじっくりと見つめてくる。なんだかもう、不愉快を通り越していっそすがすがしい。
蒼人はそっと視線を隣の人に向けた。
「よ、蒼人」
「うおわぁっ!」
蒼人は驚いて飛び上がった。隣にいたのは、なんと兄、滝人だった。
大声を上げたせいで、待合室にいた患者がいっせいに振り向いた。蒼人はグッと唇を結んで、次は小声で兄を攻める。
「なんで声かけないのッ」
「いやー、いつ気づくかなと思って」
「なんでここにいるの」
「学校から連絡きたんだ。神田君が具合が悪いので病院に行くと言って帰りましたって。だから様子見に」
久々にこんなにびっくりした。蒼人は何度か深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。
「本当に弟が心配で、ここまで来たの?」
「それ以外になんかある? 大丈夫なのか?」
「今はもう輸血されてるし、大丈夫だよ。でも本当に弟が心配なだけでここまで来たの?」
「…まあ、別の理由、なくもないけど」
やはりなにか別の目的があるのか。やれやれな気分だ。
「お前に会ったら確かめなきゃと思ってたことがあるってだけ。こんなところで聞くのもなんだけど、お前、父さんからの手紙、読んだ?」
「え…」
それはまだ、封も破っていない。父からの手紙だということは、なにかの間違いだということにしてしまいたいと思っている。
「読んでないか。父さん、蒼人に嫌われたと思って落ち込んでるぞ」
「そんなわけ…」
ない。あの父が息子に嫌われていると思って落ち込んでいる? 蒼人を嫌っているのは父の方だ。
「相当、落ち込んでる。早く手紙、読んであげろよ」
「…うん、わかってる」
頷くと、兄にガシガシと頭を撫でられた。そんなことをされて喜ぶような歳ではない。だがその手の力強さは体調不良で少し弱った今の蒼人には心地よかった。
「帰り、冬明堂にでも寄ってくか?」
「うん」
さすがにそれは、まだ言われれば嬉しい年頃なのである。
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