第19話

「…本当に、するの?」

「もちろん」

 唯華は電話機の前に座らされていた。蒼人は唯華と肩を組むようにして、押さえつけてくる。唯華がなにか言い訳をして逃げないようにだ。

「やっぱり明日にしよう。うん、それがいい」

「だーめ」

 立ち上がろうとすると、蒼人に後ろから抱き込まれるようにして押さえつけられた。頭に顎を乗せられ、ぐりぐりされる。ちょっと痛い。

 唯華は仕方なく受話器を取り上げた。

 番号を押そうとして、指が震える。恐くなって受話器を置いた。

「やっぱりだめ! やだ! 無理! できない!」

 受話器に背を向け、蒼人にしがみつく。後から考えると、とんでもなく大胆な行動だが、しがみついたのが男子というよりも、今は電話機の方が恐かった。

 なぜこんなに電話機に恐怖を感じているのかと言うと、蒼人が両親のもとに電話せよと唯華に命じたためだ。

 お父さんとお母さんは帰ってくる。俺にまかせて!

 よく言ったものだ。唯華の父母と話したこともないくせに。

「今日はやめておこう?」

「そんな可愛い顔してもダメー」

 提案をすっぱりと却下する、今日の蒼人は厳しかった。

「今やらなきゃ、唯華は永遠に自分の意志をお母さんたちに伝えられないね。ま、俺にとってはその方が都合がいいけど。誰にも邪魔されないで唯華と二人きりでいられるんだし」

「……それはちょっと…」

「じゃあ早くしようね。会いたいって、伝えなくちゃ伝わらないよ」

「簡単に言わないで。私、これでもうどれだけ悩んだか…」

「ぐだぐだ言わないの」

「ぐだぐだって言わないで…」

 唯華は息を吐いた。たしかに蒼人の言うとおり、今言わなければずっと先延ばしにして結局言えずに諦めてしまうかもしれない。

 決意して唯華は受話器を取って耳に当て、母の携帯電話の番号をプッシュした。

 コールの間は息を整えるのに使う。

 数回のコールの後、母が電話に出た。

『もしもし、唯華? どうしたの?』

 いきなり名前を呼ばれて驚いた。それから携帯電話にかければ相手が誰だかわかるのだということに思い至る。

「ええっと…こんな時間に、ごめんなさい」

『かまわないよ。どうしたの? なにか困ったこと?』

「そうじゃなくて…」

 困らせたら。嫌われたら。いくら決意したからといって、それはやっぱり恐いことだった。助けを求めるように蒼人の手を握る。蒼人の少し冷たい手は、唯華の手を包み込むようにして握り返してきた。まるで勇気をもらったように、胸に小さな光が灯る。

「あのね、昨日、お母さんとお父さんは仕事で帰って来られないって、言ってたよね。わたし、仕事なんだから仕方ない、大丈夫って…でもね、本当は全然大丈夫じゃないの。仕事と娘とどっちが大事、なんてわがまま言わないけど、そんなの比べることじゃないってわかってるけど……会いたいよ」

 情けないが、声が泣く前のように震えていた。

 とまどうような沈黙。

 祈るような気持ちで母の言葉を待っていると、手の中から受話器が消えた。

 あれ、と思って振り返ると、恐ろしいことに蒼人が唯華から取り上げた受話器を耳に当て、「もしもーし」と、わざと頭の軽そうな話し方で唯華の母に向かって話しかけている。

 一気に体温が下がった気がした。

「あ、通りすがりの唯華ちゃんのクラスメイトでぇす」

「普通こんな時間にクラスメイトが家の中を通りすがったりしないから! 返してっ!」

 受話器を取り返そうとした手は両方とも、いたって冷静な蒼人の片手に捕まって抵抗できない。

「唯華との関係ですかぁ」

 蒼人が見つめてくる。

 彼は意地悪く唇の端を吊り上げた。

「んー、ご想像にお任せしまーす」

「おかあさあぁぁん! 友達だからあぁっ!」

 母に届くように叫んだが、家に男の子を上げているという事実はそれだけで誤解を生む。唯華がなにを言おうが、言い訳にしか聞こえないだろう。

「はい、唯華」

 蒼人はさんざん誤解を生んで、それを解かないまま唯華に受話器を返してきた。

『唯華ぁっ! いったいどういうこと! あんた家に男の子連れ込んで、なにやってるの! しかも、あんな頭と尻の軽そうな!』

「ち、違う! 誤解! なにもやましいことはないんだってば」

 男子でも、尻軽って言うのかな?

 どうにか誤解が解けないか試みるが、まったく解けそうにない。いくら言い訳を繰り返しても、効果はなかった。

『わかったわ、唯華。このことについてはきっちり説明してもらうからね』

「うぅ…」

『誕生日の当日は…無理だけれど、今週末に必ず帰るから、覚悟しておきなさい! ちゃんと言い訳を考えておきなさいよ』

 怒っているはずなのに、母の声はどこか楽しそうだった。

『じゃあね、唯華。お母さんのこと、待っててね』

「うん……待ってる。それじゃあ、また」

 電話が切れる。受話器を置いて蒼人を振り返ると彼はニィ、と笑った。

 言ったとおりになったでしょ。

 唯華はとりあえず、得意げな顔をした彼を一発殴っておくことにした。 


 ☆


「一日中ずっと聞きたかったんだけどさ」

「なに?」

「お前、そのほっぺどうしたの?」

 聡一郎に誘われて、学校の帰りに寄った駅ビル内の洋服店でのことである。聡一郎は服を選んでいる時に店員に話しかけられることが苦手で、服を買う時はいつも蒼人を誘うのだ。蒼人の役目は買う気もないのに試着をしまくり、店員の気を引くことである。つくづくこの顔は役に立つ。男性店員でも、この顔に似合うようくらいのコーディネイトを考えるのに必死になってくれるのだ。

蒼人は服を選ぶふりをしながら、頬をかいた。朝起きた時にはもう赤みもほんの少ししか残っていなかったのに、申し訳なさそうな顔をした唯華が大袈裟な湿布を貼ってくれたせいで余計に目立つようになってしまったのである。

「うっかり階段から落ちたんだよ」

「ほっぺぶつけるなんて逆に器用だな。見え透いた嘘をつくんじゃないの」

「本気じゃないくらいの力で殴られただけなんだけど」

 聡一郎はびっくりしたあと、おもしろい玩具を見つけたときのように、にやあっと笑った。これだから思春期男子は。

「なんかあったの?」

「なんにもない」

「なんにもなくて、お前のほっぺが腫れるかよ。なにしようとして嫌われたんだ?」

「んー…どっちかっていうと、照れ隠しだな、これは。でも可愛かったからいいや。あと、嫌われてはいないから」

「なんだそりゃ」

 殴られたのは、唯華のお母さんに甚だしい誤解をさせた報復だった。でもその後に恥ずかしそうに「ありがとう」と言ってくれたときの表情がたまらなく可愛いかったので、蒼人としてはそれで相殺だ。

「それにしても聡一郎、最近服買いすぎじゃないか? お金大丈夫?」

 今度は蒼人が攻撃する番だ。ぐっと聡一郎の息が詰まる。蒼人はわざとため息をついてみせた。

「そんなに必死にならなくてもいいのに。たかが二週間くらいで冷めるような恋なんて、ほんとの恋じゃなかったのさ」

 近頃、聡一郎と彼女はうまくいっていないようだ。聡一郎は必死だった。

「かっこいいセリフみたいに言うな! 自分はモテるからって! 蒼人はいいよ、好きな女の子と四六時中いっしょにいられるんだから!」

「ふっ、俺がもてるのは顔のせいさ。こんなものに惹かれる女なんて」

「クソむかつく!」

 聡一郎は吼えると蒼人にヘッドロックをかましてきたが、いつものじゃれ合いである。この世の春が来たような気持ちがして、多少の痛みは大目にみてやろうと蒼人は思う。

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