第18話
夕飯のあと、食器を洗っていたら急に気分が悪くなった。蛇口から水が流れるのを見ていると、無性に悲しく、胸のあたりがぐるぐるする。
苦しい。
気持ちが悪い。
水が流れてゆく。
流れたら、もうもどってこない。
もう、もどってこない?
吐き気がして口を濡れた手で押さえると、手から皿が滑り落ちてシンクの中で砕け散った。足から力が抜けて、座りたくもないのに床の上に座り込んでしまう。
水は流れたら、もどってこない。
皿は壊れたら、もとにはもどらない。
どうして自分はこんな当たり前のことに絶望しているのだろう。
ああ、だめだ。呼吸ができない。息を吐いて気を緩めたら涙がこぼれてしまいそうだ。
背中の方で、ドアが開いた気配があった。蒼人の慌ただしい足音がした。彼はお風呂の掃除をしてくれていたはずなのに。
「唯華? なんか大きい音…」
「入ってこないで!」
きっと泣きそうな顔をしているに決まっている。
誰にも会いたくなかった。こんな弱い心を誰にも見てほしくない。
蒼人はためらいがちに唯華のそばに来て、蛇口のレバーを上げた。きゅっと水の流れが止まる。
顔を見られたくなくて、唯華は膝を抱えて小さくなった。
「唯華」
蒼人がしゃがみ込んだのがわかった。
「一人にしておいて。誰も入ってこないで」
どうして蒼人をそばにいさせてしまったのだろう。いままで誰もそばにいなかったのに。家族さえそばにいてくれなかったというのに。
寂しさなんて、いくらでも我慢できた。寂しくなんてないと言い聞かせてきた。
本当は、誰かと一緒にいたい。
でも、一度手に入れたものを手放すことは、辛い。いつでもそばにいてくれるはずの家族は、いつも唯華のそばにいてはくれなかった。
なにもない。
だから、手に入りそうな瞬間に足がすくむ。
別れが来るのなら、いっそ手の中になにもなければいい。なにもなければ、なにもなくさない。
それなのにどうして、蒼人がこんなに近くにいるんだろう。
自分にそれを許してしまったことが、いまさらながら悔しかった。
蒼人がダダをこねたから。友達だから。
そんなのは建前で、本当は唯華が誰かにそばにいてほしかったのだ。そうでなければ、蒼人の血液提供者なんかにならないし、男子を家に上げるなんてことをするはずがないじゃないか。変な噂が立つかもしれないし、なにかの間違いがあるかもしれない。
それでも、いてほしかった。
急に寂しくなってしまった。
でもだめだ。そんな理由で蒼人を留めてはおけない。
歯を食いしばって、平気な表情を作って顔を上げようとすると、優しく頭を撫でられた。
思わずその手を、払った。
それなのにまた、頭に手が置かれた。
唯華はたまらなくなって、蒼人の顔を見ずに手を払った。しかし唯華の手は、蒼人の冷たい手に捕まった。
驚いて顔を上げると、蒼人はちょっと怒ったような顔で見つめてくる。
青空色の瞳に捕らえられた。
時が止まったような気がした。
なんてきれいな色だろう。
抵抗することを忘れ、強引に蒼人に抱きしめられた。
唯華は蒼人の胸を押して離れようとしたが、力でかなうはずがない。もがくほどに、放すまいと蒼人は力を込めてくる。
「放して!」
「やだ」
「お願いだから、放して」
「いやだ。いま放すのは、なんか、だめだ」
蒼人が唯華の頭を押さえた。頬に太い骨が当たる。自分より大きなものを感じて、安堵した。しかしその安堵は、唯華の心を大いに動揺させる。
「蒼人なんて、いらないの」
声が潤んでいた。蒼人の手が、怯んだように震えた。でも放してはくれない。
「誰もいらない、ほしくない。だから誰も、私が必要だなんて言わないで」
こんなふうに、抱きしめてほしくない。それを拒絶しながら、必要としている自分に気づいてしまう。
「どうして、そんな寂しいこと言うの」
「だって、こんなのずるいよ」
口では拒絶しておきながら、本当は誰かにいてほしくて、都合よくそばにいる蒼人に寄りかかっている。
「ひとりがいいのに、ひとりが嫌。だから言ってほしいの、お前なんかいらないって。お前なんて嫌いだって。だからひとりでいなくちゃいけないんだって。そうすれば私だって、いらないって言えるのに。お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも、私が嫌いなら…」
言ってしまって、ようやくわかった。
それがずっと不安だったのだ。
父も母も、娘をひとりにして、どうして平気でいられるのか。嫌いだからか。必要ないからか。それをはっきり言ってほしかった。
そうすれば、絶望しても安心できる。
安心して、ひとりでいられる。
寂しいのにも耐えられる。ひとりでも平気だ。それなのに希望があるから、そうはならない。いつまでも不安なままだ。
「でも面とむかってなんて、聞けないよ。本当に嫌われてたらって思うと、やっぱり恐くて聞けない。だって嫌われてたら、どうすればいいかわからないよ」
頬がふっと涼しくなった。蒼人がそっと体を離したのだ。腕は唯華の背中に回ったままだった。
「俺は唯華のこと、好きだよ」
「な…言わないでよ!」
蒼人が眉を寄せた。
「好きって、どうせ、蒼人だって、そのうちいなくなっちゃうんでしょ。だったらなにも言わないで、さっさとどこかに行っちゃえばいい!」
「だから、どうしてそんな寂しいこと、言うの。そんなこと言われたら、俺もかなちゃんもすごく寂しいんだよ」
蒼人の言ってる意味がよくわからなかった。
「言えばいいんだよ、唯華。聞きたいことは聞けばいい。もしそのせいで傷ついても、俺がいるよ。俺は唯華のことを、嫌いになんてならないから」
頬を赤くして、蒼人は微笑んだ。
「いつだって、俺の胸でよければ貸すよ。もうちょっとそばに来てくれたら、ちゃんと見つける。唯華が望めば、俺はいくらでも唯華の力になるから。たとえなんの役に立たなくても」
蒼人の手がそっと、唯華の髪に触れた。
そして優しく囁く。
「俺はずっと唯華の味方だ」
びっくりした。
彼はいつからそんなふうに思ってくれていたのだろう。
ああ、そうか。もうずっと、そばにいたことに気づかなかったのは唯華の方だ。ずっと、なんて長い時間ではないけれど、蒼人はそばにいてくれた。
友達だと言ってもらえて嬉しかった。彼はもう、唯華の手の中にいてくれたのだ。
涙がこみ上げる前に、唯華は蒼人の肩に額を押しつけた。背中にしがみついて体重をあずけても、蒼人は少しも揺るがなかった。
子どもみたいな泣き声が、唇から漏れた。
ぽんぽんと、子どもをあやすように大きな手が背中を優しく叩いてくれる。
涙がぼろぼろ零れて蒼人の服に染み込んでゆくが、彼はなにも言わなかった。
「…ごめん、蒼人」
「ん?」
「私、本当は誰でもよかったんだ。蒼人じゃなくてもよかったの。都合よくそこにいたのが、蒼人だった。それだけなの」
こんなことを言ったら、不快にさせてしまうかもしれなかった。もう味方でいたいなんて思わなくなるかもしれない。しかし、蒼人にだって、選ぶ権利があった。
「でも誰かと一緒にいたかった。ずっとひとりなんて、嫌。だからそばにいてほしくて、蒼人の血液提供者になったの。そのときはそんなふうに思わなかったけれど、無意識にそんなずるいことを考えてたんだ、きっと」
自分勝手だと思われてしまう。それが怖かった。
「唯華の近くにいたヴァンピールが、俺でよかった」
蒼人の顔は見えないが、声はずいぶん穏やかだった。恥ずかしそうに笑う吐息が耳をくすぐる。
「そばにいるよ。そばに、いられなくなるまで。その時まで、一緒にいるよ。約束だ」
ぎゅうっと蒼人の腕に力が入った。
涙が止まるくらい、心地いい痛みだった。
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