第16話

 耐えられない沈黙を破ったのは、祖母だった。無言で立ち上がり、部屋を出て行こうとしたのだ。

「はうっ…」

 後に続こうと思ったのに、足が完全に痺れてしまっている。慣れない正座のせいだ。 

 奇声に驚いたのか、祖母が振り返った。

「それ、食べてしまいなさい。捨てるのはもったいないわ」

 そっけなく投げかけて、祖母は出て行ってしまった。

 障子から祖母の影が消えると、やっと胸いっぱいに息が吸えるようになった。やはり祖母と二人きりでいると、緊張する。

 木目の美しいテーブルには緑茶とケーキが並んでいる。せっかく出してくれたのだから。足を崩してから蒼人はフォークを手に取って、ケーキをつついた。

 疲れた心に、ケーキの甘味が染み渡る。

 ほっと息をついたところに、障子が勢いよく開いた。

「蒼人ーっ! 久ぶりだねっ!」

「おじいちゃん!」

 そこで可愛らしくウインクを決めたのは、青の瞳、淡く金色がかった白髪で元気ハツラツの蒼人の祖父アイロスだった。

「元気だったかい、蒼人。なかなか遊びに来てくれないから、じいちゃんは寂しいぞ」

 祖父と蒼人は友達のように仲がいい。蒼人は祖父の話す外国の話が大好きだった。

「白妙に、怒られたかい?」

「…ううん、おばあちゃんは怒ってはないみたいだったけど」

 でも、なんだか変だった。祖母の表情が揺れたところなんて、初めて見た。

「滝人の話で大体わかったんだから、わざわざ呼び出してまで説明させなくてもいいと思うんだけれどね。白妙も、やっぱり孫が可愛いんだね」

「え…」

 孫が可愛い?

「意外かい? でもね、ちゃんと孫の好物だって覚えているじゃないか」

 一瞬、なにが? と思い、ちまちま食べていたケーキに目を落とした。

 冬明堂のチョコレートケーキ。クリームの上には宝石みたいに苺が飾ってある。小さい頃によく買ってきてくれたのだ。

 ついでよ。

 墓参りから帰ってきた祖母は、いつもと変わらないそっけない口調だった。蒼人が小さい頃、このケーキが一番好きだと言ったのをあの祖母が覚えていたのか。

「白妙も、きっといろいろ不安なんだろうね。可愛い孫が女の子と毎晩二人きりなんて、とっても心配だ」

「色っぽいように言わないでよ。なんにもないんだから」

「おや、残念そうな顔」

「だから…」

 蒼人はフォークを指で弄びながら、テーブルに頬をつけた。フォークの先でチョコレートケーキの側面をつつくとクリームと苺がふるふる揺れた。

 滝人の性格は祖父譲りだ。

 からかわれるのは慣れている。

 思い切って顔を上げたが、祖父はニヤニヤ笑っていて蒼人はもう一度テーブルにつっぷした。


 祖父にからかわれ倒した蒼人が門を出ようとしたところ、背中に刺すような視線を感じた。振り返ると、家屋の廊下に男性が一人たたずんでいた。背の高い、蒼人や滝人によく似たその人は神田碧人、蒼人の父だ。

庭をはさんで、目が合った。瞬間、目を逸らされた。父はそのままくるりと背を向け、立ち去ってしまう。

門から出たところでぱらぱらと小雨が降ってきた。いままでもやもやと蒸し暑かったので、雨粒が顔に当たると冷たくて気持ちいいくらいだ。

 バスに乗ろうかと思ったが、蒼人は歩いて帰ることにした。唯華の家は歩いて三十分もかからない。唯華の家は市街地の近くの便利な所、蒼人の家は市街地の遠くにあり、意外と近い所にあった。ただ、中学までは学区が違うため、唯華とは出会うことがなかったのだ。

 空を見上げると、音もなく雨粒が顔に当たる。

 ふいに唇から息が漏れた。

 蒼人は自分がひどくがっかりしていることに気がついた。がっかりというより、しょんぼりだろうか。

 なぜ。

 父に憎まれていることを、改めて実感してしまった。

 来なければよかった。祖母も、声を荒げて怒ってくれればよかったのに。そうすれば、こんなふうに父に無視されただけで落ち込むこともなかった。

 母が亡くなってすぐの頃、父はまだ蒼人に優しい父だった。ぎくしゃくし始めたのは、蒼人が子どもとしては当然の質問を父に投げつけた時からである。

 お母さんは、どうして死んじゃったの?

 父は驚いたような、泣きそうな顔でぎこちなく微笑み、なにも言わずに蒼人の頭を優しく撫でた。聞いちゃいけないことなんだ、とその時は思ったが、母の死の原因はもう知っていた。蒼人は父に自分が母を死なせてしまったことを、否定してほしかっただけだったのだ。

 母が死んだのは自分のせい。

 父はそれを許してはくれない。

 だから家に行きたくなかったのだ。考えたくないことを考えてしまう。頭の中がぐちゃぐちゃだ。いったい家になにをしに来たのだったか。

 雨に打たれ続ければ少しはすっきりするかと思ったが、優しく降る雨は心地いいばかりで、頭の中まで洗い流してはくれなかった。


 濡れて帰ると、顔を出した唯華が驚いた。蒼人が死にそうな顔で出て行ったから、気にして出迎えてくれたのだろう。出かけるときとはまったく違うことで蒼人は落ち込んでいたが、唯華はなにも聞かずにタオルを取ってきてくれた。

「なんでそんなに濡れてるの。まさか歩いて帰ってきたの?」

「いいじゃん。水も滴るいい男でしょ」

「いい男は本当に水が滴ってるわけじゃないからね。シャワーくらい浴びたほうがいいよ。風邪引く」

「外あったかかったよ。着替えすれば」

「いいから入ってくる!」

 強く言われ、蒼人は風呂場に向かった。

 すっかり唯華の家のほうが自分の家のように感じてしまっている。

 シャワーを浴びると、意外と体が冷えていることがわかった。すっかり温まってからシャワーを出て乾いた服に着替え、髪を乾かして風呂場を出ると、なにやら食欲をそそるいい匂いが鼻をくすぐった。

 リビングでは唯華が昼食の準備を終えたところのようだった。

 メインはハンバーグだった。

「うわぁ、美味そうっ」

「…また食べたいって言ってたでしょ」

 たしかに言った。でももう一週間は前のことだ。唯華が作ってくれた弁当のハンバーグは全部吐いてしまったから、また食べたかったのだ。

 しかし、なぜ今日、しかも今。

 まさか落ち込んで帰ってくるであろう蒼人のために、わざわざ?

 期待を込めて唯華の顔を覗くと、目が合った。すると唯華はプイとそっぽを向いた。

「唯華ってさ…」

「なに?」

「超ツンデレ」

 世間で言うみんなでいるときにツンで二人の時デレなツンデレではない。唯華は九割方ツンだけれど、あとの一割はもうデレデレだ。

 だが、言い方が気に食わなかったらしい。唯華は無表情で蒼人の皿を下げようとした。

「だめだめだめっ!」

 慌てて皿の縁を押さえ、唯華からハンバーグを守った。

「そういうこと言わないでさっさと食べる」

 冷たい瞳とドスの効いた声。しかしそれは唯華の場合、照れ隠しだ。多分。

 やっぱりツンデレ。唯華は可愛い。

 蒼人はフォークを持ってハンバーグを大きく切り取って、ほおばった。とりあえず、嫌なことには直面するまで考えないでおこうと思った。

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