第15話
事件も一段落した次の日、金曜日の夜のこと、小野寺家のリビングにある電話が鳴った。なかなか鳴らない電話だが、家の者ではない蒼人が出るわけにもいかないためキッチンにいた唯華は慌ててリビングに戻った。
唯華が電話に出たためか、蒼人はソファの上でチョコプレッツェルを食べながら見ていたテレビのボリュームを下げる。他人の家でリラックスしすぎである。
『もしもし、小野寺さんのお宅ですか』
「はい」
相手は年取った女性のようだった。かすれ声にはぴりりと背筋が伸びる厳しさを含んでいる。知っている声ではなかった。
『私、蒼人の祖母の神田白妙と申します。蒼人がそちらでお世話になっていると聞きました。電話、代わっていただけます?』
息が詰まってしまうような雰囲気。きっと蒼人が恐がっているおばあちゃんだ。
「えぇっと…」
『蒼人を庇わないで下さいね』
釘を刺されては庇いようがない。
相手の名前を出したら絶対に電話を代わろうとはしないだろうから、唯華はただ蒼人を呼んで受話器を押しつけた。
お笑い番組を見ていた、油断した様子で蒼人は受話器を耳に当てた。
「もしもし~」
次の瞬間、のけぞるように蒼人の背筋が伸びた。空いている方の手もビシっと体の脇に伸ばされた。かすかに、震えているようにも見える。
「はい、必ず。はい、いいえ、逃げたりなんて…はい、はい、絶対…絶対に」
およそ孫が祖母と話す口調ではなかった。まるで会社の上司と話している父親みたいだ。
数分後、受話器を置いた蒼人は、電話機の前に崩れ落ちた。電話をして消耗する人なんて聞いたことがない。普段は余裕綽々の彼がこうなるのは、ちょっと面白いと思ってしまった。
「大丈夫?」
「…唯華」
振り返った蒼人は恨みのこもった涙目を向けてくる。
「なんで一言おばあちゃんだって教えてくれなかったの、ねぇなんで教えてくれなかったの!」
「ん、ごめん。おばあちゃんが恐いって、冗談だと思ってた」
本当に泣きたくなるほどおばあちゃんが恐いとは、予想外だった。
「おばあさん、なんて?」
雨模様の瞳が、うるうると揺れた。
「……明日、実家に……来いって…」
☆
学校は休みだというのに、蒼人は今朝は夜明けとともに目が覚めてしまった。目覚ましが鳴るまではとベッドにしがみつき、もう一度眠ってしまいたかったが今日の予定を真っ先に思い出してしまい、蒼人は再び楽しい夢の中に舞い戻ることはできなかった。
今から心臓がドキドキしてきた。
手足が冷たい、のはいつものことか。
あのおばあちゃんと会うなんて。
もう世界は終わりだ。
毛布にくるまってため息をつき、枕に顔を押しつけてじっとしていたが、時間が過ぎるごとにベッドの上にいることが辛くなってきた。蒼人は起きているときにいつまでも寝床にいることができないたちなのだ。
仕方がないので物音を立てないように服を着替える。長考の末、控えめなコーディネイトに仕上がった。
唯華が起きるまで部屋でボリュームを下げてニュースを見ていた。唯華の兄の部屋にはけっこう大きな画面のテレビが置いてある。七時前の占いで、今日の獅子座の運勢は最高だとアナウンサーがはつらつとした声で伝えている。そんなの嘘だ。
七時半に唯華が起き出して、蒼人の目覚ましも鳴った。
八時には、唯華が作ってくれた朝食を食べた。いつも朝食はご飯と味噌汁、焼き魚が基本だ。朝からこれを作るとは、唯華は見た目クールでも家庭的だ。きっと一人で暮らすうちに上手になってしまったのだろう。高校三年生の女の子でここまで家事ができる子はそうそういない。
後片付けを積極的に手伝って今後の予定を考えないように心がけた。しかし無常にも時間は過ぎていく。祖母は時間まで指定してきたので、九時には出発しなければならない。
早く行け。
メソメソするな。
じつに男らしい言葉で唯華に送り出され、蒼人はついに唯華の家を出発した。
空は、いまにも泣き出しそうだった。
天御原市は郊外にもなると空気が澄んでいて、車もあまり通らない。閑静で、どこか田舎のような雰囲気のある場所に、神田家本宅があった。
長い生垣。河原屋根の門。
インターフォンは玄関のところにあるので、しばし躊躇してから門の戸を開けて中に入る。
広く整った日本庭園。大きな日本家屋。相変わらず玄関が遠い。
気が重い。躊躇しながらも、蒼人は玄関にたどり着いてしまった。
戸を叩こうとして、いきなり戸が内側から開かれた。ついにおばあちゃんは超能力を持ったのかとビビってしまったが、そこにいたのはなんと滝人だった。きっと廊下の硝子戸から外の様子が見えていたのだろう。
「兄ちゃん?」
「ごめん蒼人!」
滝人は顔の前で手を合わせた。
「俺が、話ちゃった。だってばあちゃん、あれは脅しているとしか言い様がないぞ!」
なんだか、滝人と喧嘩をしていたことがすっかりどうでもよくなってしまった。滝人は月に何度か実家と電話のやりとりをしているから、そのときに蒼人の様子も伝え、うっかりなにかを漏らしてしまったのだろう。いずれはばれたことだ。少し早まっただけと思えばよかろう。早い方が怒られるのも軽くて済むかもしれない。
滝人がまだまだ言い訳をしようと口を開いたとき、滝人の背後で床板が軋む音がした。
滝人が振り返り、蒼人もそちらを覗き込んで、一気に体温が下がったような気がした。
そこには着物に身を包み、きりりと背筋を伸ばした老女が立っていた。
久しぶりの実家は、よそよそしい雰囲気で蒼人を迎えてくれた。実際、二年間は盆と正月くらいしか足を踏み入れることがなかった家だ。まるで他人の家に入ってしまったような感覚がする。玄関では思わず「お邪魔します」と言いそうになってしまい、そんなことは言う必要がないのだと慌てて言葉を飲み込んだ。
蒼人が通されたのは、なんと客間だった。もうちょっと家族扱いしてくれてもいいように思う。蒼人の寂しさなどおかまいなしの涼しい顔で、祖母はお茶の準備を始めた。
「ぼぅっとしていないで、早く座りなさい」
「あ、はい」
蒼人は障子を閉めて、祖母の向かいに置いてある座布団に正座した。祖母は箱に入っているケーキをわざわざ皿に盛りつけて、緑茶と一緒に出してくれた。しかし、蛇に睨まれている状態で、食欲が湧くはずもない。
祖母が正面を向いた。来る。いったいなにを聞かれるのだろう。
「蒼人」
「はいっ」
「どうして女の子を血液提供者にしたのか、説明してもらえるかしら」
やはりそれか。
予想はしていた。でもあまりに単刀直入すぎる。もう少し、学校のこととか、友達のことに興味を持ってほしい気もする。
蒼人は正直に、唯華を血液提供者とした過程を説明した。兄と、保護協会と、これで三度目か。いや、保護協会のときは少し嘘が入っていたな。だが祖母に、嘘をつけるはずもない。
五歳のとき、初めて祖母と対面したときから、蒼人は彼女から親しみのような温かいものを感じたことがなかった。だからといって、嫌われているような気もしない。孫、というだけで責任はあるが興味はない。そんな感じだ。
祖母は蒼人の父と母の結婚には反対していた。だから蒼人をなんとも思わないのだろう。嫌われて苛められるよりはいいのだろうか。意識されない方が辛くはないか。
時間をかけても、蒼人は間違いがないように話した。祖母は淡々とそれを聞いていた。
話し終えると、やっと祖母が小さなため息をはいた。
「つまり、血を見て興奮したのね」
「いや、興奮とは…」
「違うのかしら。自分を抑えられずに、女の子の血を舐めてしまったのでしょう。庇おうとするなんて、滝人にも呆れたものです」
くっと祖母の眉根が寄る。
兄ちゃんごめんなさい。へんな誤解を生んだみたいです。
「血液強奪容疑で協会に捕まるなんて。しかもそれを血液を奪われた女の子に助けられるなんて…」
祖母の圧倒されるような視線にさらされて、ひくっと体が震えた。もうこれ以上、背筋は伸びない。
「蒼人…」
「はいっ」
声が情けなく裏返った。
「まさかあなた、その女の子が好きなのではないの」
「えぇっ!」
祖母とそんな話をするなんて予想していなかった。いきなり言い当てられては、心の準備もできない。だからつい、顔に出てしまった。
「唯華が好きかって…えぇと……」
なぜこんなことを。
たしかに唯華が好きだ。唯華は蒼人を友達としか思っていないだろうが、蒼人は唯華を女の子として見ている。
なんと伝えたらよいものか言葉を口の中で弄んでいると、祖母が静かに言った。
「許しませんよ」
「…え?」
「あなたが結婚するお嬢さんは、滝人の様に私が見つけます。普通の、なんの病気も持っていないお嬢さんとなんて、許しません」
「結婚!?」
いきなり話が飛躍しすぎだ。唯華には男として意識されてもいなのに。
しかし嫌な気持ちが胸の中でざわざわ蠢いた。
「そんなこと、おばあちゃんに制限されたくない、よ」
怒りではない。いつも自分を見てくれないくせに。そんな子どもっぽい気持ちだった。
「あなたは好きな女の子を、死なせる覚悟があるのかしら」
「…死なせる?」
祖母の表情は、恐いくらいに厳しい。
「私たちは、覚悟がないと…」
途中で言いとどまり、祖母は後悔したようにほんの少し顔をしかめた。
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