第14話
とりあえず蒼人の気持ちが落ち着いたようなので、ほっとした。まだ蒼人の手を握っていることに気がついて、唯華は慌てて手を引っ込める。
「私、そろそろ帰るよ」
辺りはすっかり暗くなっている。ガス灯に似せて作られた電灯がチカチカ光り始めた。
ブランコから立ち上がり、近くに置いておいた鞄をつかむ。
振り向くと、蒼人はまだ少し落ち込んでいるようだった。
「大丈夫、お兄さんと仲直りなんてすぐにできるよ。私にできることがあれば何でも協力するし」
きっと蒼人は、兄に酷いことを言ってしまったと思って後悔しているから落ち込んでいるのだろう。唯華はそれを励ますための一言を言ったつもりだった。
しかし、唯華の思いは少し違う形で蒼人に伝わってしまったようだ。
勢いよく、蒼人が顔を上げた。
「いま何でも協力するって言った?」
嫌な予感が。
「お願いしばらく泊めて!」
蒼人の目は切実だった。
「私は、早くお兄さんと仲直りできるといいなっていう、励ましのつもりで」
「唯華が俺の血液提供者になってくれて、いい結果になったよ。代わりに唯華に全部説明してくれた兄ちゃんには感謝してる。でも俺は自分で話すって決めてたの。話は別なの。だからしばらく仲直りなんてしてやらない」
すっかりもとの蒼人に戻っている。
「…すごく子どもっぽいよ」
「わかってる。でも感謝してるから裏切られたことについてはなんとも思うなっていうのはおかしい」
彼はたまに正論を使うからたちが悪い。
唯華は反論を試みる。
「でも、それが私の家に来るっていうのは変だよ。ほかに友達いるでしょ」
「目の前にひとり」
「いや、私が言ったのは、ほら、桑名君とか」
よく蒼人が桑名聡一郎とつるんでいることを思い出したので名前を挙げてみたのだが、とたんに彼の顔色が変わった。
「無理!」
即答っぷりは、いっそすがすがしいほどである。
「どうして? 聞いてみなきゃわからないよ」
「俺は聡一郎が死なないかぎり、桑名家の敷居は跨がないって決めたの。俺と聡一郎は従兄弟だけどね」
「親族じゃないの。助けを求めなさい」
「ぜったいヤダ!」
蒼人は頑なに口を噤んだ。つまり、踏み込んでほしくないということなのだろう。話したくないことを、無理に喋らせるわけにはいかない。
だけれども、唯華も手を打たねば負ける。
頭をひねって、彼には兄夫婦のマンションのほかに帰る場所があることを思い出した。薫から聞いたのだ。蒼人は高校入学と同時に兄夫婦と暮らし始め、それまでは実家で暮らしていたのだと。
「友達がだめなら、実家があるでしょ」
蒼人の顔が、強ばる。さっき顔色が変わったよりも、ずっと顔色が悪い。ただでさえ色白なのに、まるで石膏像のような色になっている。しかもかすかに震えだした。
「なに、どうしたの?」
「ものす…っごい、おばあちゃんが……女の子を血液提供者だなんて、ばれたら…」
「そんなに?」
蒼人の顔が蒼白になった。そんなに恐いおばあちゃんがいるものか。唯華の祖父母たちは遠いところに住んでいて、たまに顔を合わせるとベタベタに甘やかしていまだに小遣いをくれるような人たちだ。恐いおばあちゃんとういのは想像できない。
「ものすんごく厳しい人で…」
いったい自分のどんな姿を想像したのか、蒼人はがっくりとうなだれた。
逃げるなら今だ。そうすれば、蒼人もおとなしくマンションに帰るだろう。
しかし彼は、唯華が後ずさったのを見逃さなかった。スカートの裾を、逃がさないとばかりに捕まえられてしまう。
「待って! 助けて!」
「諦めて、お兄さんと仲直りしなさい。放して、シワになる」
「絶対ヤダっ!」
「頑固者!」
「お願い、助けるなら最後まで…」
「それとこれとは別でしょ」
蒼人はぐっと言葉に詰まった。自分が使った言葉を引用されては、反論できないようだ。
勝った。
だが、蒼人も意地になっていた。なおも食い下がろうとして、彼が唯華に突き出したのは最強のカードだった。
「見捨てないで唯華―――っ!」
全力で、そんなことを叫ばれた。もう手段を選ばないことに決めたらしい。
全身から血の気が引いた。ここは唯華の家の近所なのだ。いくら公園内とはいえ、誰に聞かれるかわからない。
蒼人はにぃっと笑い、ガッツポーズを決めやがった。なんて悪いカオ。
「ね、泊めて」
「……だめ」
拒否すると、蒼人がまた胸いっぱいに息を吸うので、唯華は少しも躊躇することなく彼の美貌をぶちのめすようにしてその口を塞いだ。
「…唯華、痛いよぉ」
手の中で蒼人の声がこもった。
「君ね、私の都合も考えてよ」
蒼人の眉が、しゅんと下がる。もう叫ぶつもりはなさそうなので、唯華は手を放した。
「唯華は、俺がどうなってもいいんだ。おばあちゃんにばれたら…きっと明日から学校行けないと思うから、みんなによろしく言っておいてね…」
そんなに恐いのだろうか、蒼人のおばあちゃんは。
「どうなってもよくはないけど」
「家族だっているもんね」
「いや、今はいないんだけど、友達っていっても女子の家に男子が泊まるっていうのは」
唯華は蒼人に男女の友達のあり方について考え直すように説得した。
先ほどとは打って変わって、蒼人がほがらかに笑った。
「唯華って、嘘がつけないいい子だよね」
「は?」
たしかに、嘘をつくのは得意じゃない。嘘をつくと、家族や佳奈子にはすぐにばれる。
「まったく見事な口の滑らせっぷり。家には誰もいないなんて情報は隠しとおすべきだったんじゃない?」
「はぁっ! しまった!」
思わず口を押さえたが、後の祭りか。
「だ、だめなものはダメ!」
強く言うと、蒼人はむぅと何かを考え込み、すぐになにかをひらめいたようだった。
「身の危険を感じてるなら、俺はなにもしないよ。二十歳までエッチ禁止だって言ったでしょ」
「モラルとか…」
「みんなの社会生活に支障なければ誰も文句は言わないって。子猫でも拾ったと思って」
「寝言は寝て言いなさい!」
「じゃあ布団を用意してくれ!」
「だから、だめだってば!」
また蒼人は考え込むような顔になる。
なかなか次の一手はひらめかないようだ。
不機嫌そうな顔にも見える。
そんな顔をしないでほしかった。
不安がよぎる。
「…わかった、いいよ」
弾かれたように蒼人が顔を上げた。唯華がいきなり言葉を翻したことに驚いているようだった。
急なことだから、無理もない。蒼人の手がスカートから離れる。
唯華は再びブランコに座った。
スカートの裾はすっかりシワになっている。
「いいよって言ったの?」
「そうだよ、それ以外の言葉に聞こえたなら耳鼻科に行った方がいいんじゃない」
「無理言ったから、怒った?」
「怒ってないよ」
蒼人の方を見ると、彼はびくっと体を震わせた。怯えた猫みたいだ。
「ごめん、ちょっと調子に乗りすぎちゃって。無理しなくても」
「私がいいって言ってるの。泊まればいいでしょ。一晩でも一週間でも一ヶ月でも、気の済むまでいればいいでしょ。しつこく言ったくせに、いまさら無理言ってごめんねなんて言わなくていいから」
蒼人がぽかんとしてみつめてくる。
沈黙が降りてくる。
「……うん、ありがとう唯華」
やがて、多少引きつった顔で蒼人は明るく言った。
「俺がいれば、きっと楽しいよ」
そして、わざとらしいウインク。彼がおどけているときによくする仕草だ。
唯華は彼から視線を外し、スカートのシワを見た。
「私はひとりで平気なの」
「え?」
「寂しいから蒼人にいてほしいわけじゃないよ。友情のためだからね」
チェシャ猫みたいに蒼人が笑った。ちょっとムカついた。
嫌な予感は、的中だ。
頼まれたら嫌とは言えない自分が、彼の望みを受け入れてしまうことはわかっていた。
唯華は勢いをつけて立ち上がる。
「ほら行くよ、子猫ちゃん」
「お腹が空いたから、おいしいミルクがほしいにゃん」
「気持ち悪い」
なんだか疲てしまって、もうなにも考えたくない気分だ。
無事だったら連絡すると言ったのに、うっかり佳奈子に電話をするのを忘れていた。
次の日。
佳奈子はすっかり機嫌を悪くしていて、唯華と蒼人と、巻き込まれた聡一郎は大変な思いをしたのだった。
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