第13話

 血液提供者となるための細かい説明を受け、必要書類に記入を終え、支部を出た頃にはもう夜の七時を回っていた。空はまだ明るい。

 唯華は家まで送ってもらえることになって、滝人の車の後部座席に乗った。隣には蒼人が座っている。車が走り出すと、滝人と大竹は蒼人が捕まらなくてよかったなどと盛り上がり始めた。大竹に運転を任せた滝人の盛り上がりっぷりは酷かった。

 それとは対照的に、蒼人は一点を見つめて、なにも言わずにじっとしている。

 家から歩いて数分のところにある公園で、唯華は車から降ろしてもらうことにした。住宅街は一方通行や行き止まりが多いので、入ると出てくるのが大変になると考えたからだ。

 送ってくれたことに礼を言って車を降りると、なぜか蒼人まで車から降りた。

「蒼人、どうした?」

 滝人が窓を開けて、唯華のそばに立った蒼人を見上げる。

 唯華も蒼人を見上げる。すると青空色の瞳が、夕日の最後の光を受けてキラキラ輝いたのに気がついてしまった。

 蒼人が、泣きそうな顔でキッと滝人を睨む。

「兄ちゃんなんて、大っ嫌いだ!」

 子どもじみた捨て台詞を吐いて、蒼人はくるりと兄に背を向けて公園に入って行ってしまった。

 滝人も大竹も唯華も、ぽかんとしてそれを見送る。滝人はシートベルトを外し、慌てて車を降りようとしたが、大竹が服をつかんでそれを止めた。

「なんかよくわかりませんけど、今の状態じゃ蒼人君とは話できないと思います」

「なぜ! 俺そんなに悪いことしたのか!」

「だって、穏やかな子ですよ。それなのに大っ嫌いって、確実に怒りの原因は滝人さんです。それに滝人さんには仕事が待っています」

 唯華は窓から車内を覗いてみた。滝人は明らかに動揺していた。

「思い当たること、なにかあるんじゃないですか?」

 滝人と薫の言い争いを聞いていた唯華には、蒼人が怒った理由がなんとなくわかった。

「代わりに私が見てきますよ」

「そうしてくれるかな。なんか滝人さんダメそうだし、仕事もあるし。あとで連絡してくれればいいと思うから」

 言葉に詰まってしまった滝人に代わって大竹が言った。

 真っ青な顔で呆然としている蒼人の兄。弟に嫌いと言われたことが、相当ショックだったのだろう。

 ☆

 兄に対してあんなふうに怒鳴ってしまったことを、蒼人は早くも後悔していた。

 悪いのは全部自分だ。滝人はそれを助けようとしてくれただけ。余計なことをしてくれたと怒る権利は蒼人にはない。

 許せなかったのは、自分自身だ。滝人に頼ることは甘えだ。滝人が自分を甘えさせたから、それを頼る形になった自分が情けなくて八つ当たりしたのだ。

「大っ嫌いは言いすぎだと思うよ」

 顔を上げると、いつもと同じそっけない表情で唯華が目の前に立っていた。唯華は蒼人が座っているブランコの隣のブランコに腰を下ろした。

 久ぶりだなぁ、と呟いて唯華は地面を蹴って、ブランコをゆっくりとこいだ。

 錆びた金具がこすれ、キイ、キイと音を立てる。薄明のなか、視界には伸ばした唯華の足が現れては消える。蒼人は顔が上げられず、唯華の黒ソックスに包まれた細い足を見るのがやっとだった。

「…俺」

 声を出すと唯華がブランコを止めて、こちらを向くのがわかった。

「俺、唯華には自分で言わなくちゃいけないって思ったんだ。だから準備もしたし、唯華にどう説明しようかって考えたよ」

 なにも言わずに唯華は蒼人の言葉を待っていた。

「唯華を傷つけるようなこと、したのに。だから自分で説明したかった。そうして怒られて、嫌われてもよかったんだ。他の人から説明してもらって、俺はなにもしないで許してもらったなんて、そんなのずるいよ。もしかしたら唯華を死なせるようなことになったのかもしれないのに。これじゃ、逃げてるみたいだ。いや、みたいじゃなくて、逃げたんだ」

 蒼人は泣きたくなった。認めたくない事実が心の中にあった。いっそ泣いて、唯華の同情を買えるか試してみようか。でも全てを飲み込んで、正直に告白した。

「俺、ほっとしてるんだ。自分で何も話さなくていいんだって。唯華は俺の血液提供者になって俺を助けてくれて、つまりは許してくれたんだって。卑怯だ、俺、謝りもしないで」

 自分は安易に人に触れてはいけなかった。そんなことはわかっていたのに。

「唯華に触ったら死んじゃうかもしれないって、知ってたのに。俺、もう」

 唯華と一緒にいられない。

 ブランコの鎖をつかんでいた手に温かさを感じ、言葉が詰まった。唯華の手が、そこに触れていた。

 蒼人が顔をあげると、唯華のまっすぐな視線にとらえられた。

「死なないよ」

「…え?」

「ほら、私、死んでない。蒼人に触られても」

 ゆっくりと蒼人に言い聞かせるように、慎重に言葉を選んでいるようだった。

「私、薫さんや滝人さんに言ったの。友達の怪我をちょっと舐めたくらいで犯罪なんておかしい、そういうのは病気なしで考えてほしいって。私は感染していたとしても蒼人のしたことが犯罪だなんて思えないから、蒼人は犯罪者じゃない。悪いのは蒼人の病気で、蒼人じゃないって」

 ああ、やっぱり。そんなふうに言ってくれるんだ。

 唯華の手に、ぐっと力がこもる。

「だから私は、ずっとそう思っていなきゃいけないの。実際にそう思ってるわけだし。私、蒼人に触られたくらいで死んだりしないよ」

 唯華は蒼人に口を挟ませないように早口で言った。

「それに、言いづらいことを代わりに言ってもらってほっとするなんて、誰だってそうだよ。蒼人と同じ立場だったら、私だって蒼人と同じ気持ちになると思う。自分が卑怯だなんて思うことないよ」

 情けなく顔が歪むのがわかった。泣きそうだ。

「なにも知らない唯華に危ないことしたって、ずっと忘れない。でも、唯華が許してくれるなら、その気持ちに甘えちゃってもいいですか」

 淡く、誰も気づかないくらいに淡く、唯華が笑った。

「いいですよ」

「…ごめん」

「いいよ、謝らなくて」

「うん、ありがとう」

 唯華は居心地悪そうに顔をしかめる。

「いいってば。私、一週間前だったら蒼人を助けること、しなかったかもしれないし…」

 つまり、気にするなと言いたいのだろうか。そんな不器用さがほほえましい。

 蒼人はもうひとつだけ、唯華に言いたいことがあった。でもそれは唯華を動揺させるだけだとわかっていたので、言わずに胸にしまっておくことにする。


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